2019年12月26日(木) |
年賀状 |
やっと年賀状が書き終わったが、毎年この時期は年賀状書きで頭がいっぱいになる。
以前は、お世話になった一人でも多くのお客様に年賀状を出したいと考えていたが、これだとどんどん枚数が増え、年賀状が二千枚近くに膨れ上がってしまった。
また、度重なる年賀状の値上げによる経費の増大等もあり、やむなく数年前から縮小することにした。
そこで11月頃から、お客様名簿の新旧入れ替え作業を行っている。
この作業をするとき、年数の浅いお客様は近年ご愛顧がないと削除し、長年ご愛顧いただいたお客様は近年ご愛顧がなくても数年おいてから削除するが、それでもお客様の顔が思い出され心苦しさを感じる。
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2019年12月24日(火) |
忘れ物 |
一昨日、お客様帰られた後に、忘れ物があったのに気付いた。
お客様が帰られる際には、お客様の忘れ物がないように、いつも椅子やテーブルの上を見渡して確認しているが、今回はショウケースの上に置かれていたので気付かなかった。
忘れ物は思い出して取りに来られる方もおられるので、今日まで待っていたが取りには来られなかった。
弊店で忘れたのが分からないで困っていることと思い、お返しする方法はないか、お客様の言動を思い出しながら考えてみた。
忘れ物は赤紫色の毛糸の帽子で、お客様の名前も分からないが、これをかぶっていたのは小柄な眼鏡をかけたおばあちゃんで、確か、、、「近くの美容院に行ってきた」とか言っていた。
そこで、近くの美容院に電話をして「一昨日の午前10時ころ、帽子をかぶった小柄で眼鏡をかけたおばあちゃんは行かなかったか?」と尋ねてみると、「忘れ物の客様の担当者が誰か分からないが、調べてみる」と答えてくれた。
暫くすると、担当した人が来店し、「心当たりがあり、その人の名前と電話番号も分かるので、その帽子を貸してもらって聞いてみる」と言い帽子を取りに来たので渡した。
それから1時間くらい経過したとき、忘れ物の帽子をかぶった小柄な眼鏡をかけたおばあちゃんが来店し、ニコニコしながら「この帽子を忘れて困っていたんです。有難うございました」とお礼を言われた。
私も無事に忘れ物が戻って一安心した。
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2019年12月22日(日) |
キャシュレス還元事業No2 |
本日から弊店で右記の対象決済でお買い上げ頂いたお客様は5%還元される。
「キャシュレス・消費者還元事業」は10月にJCB・アメックス・ダイナースクラブ。・などが対象となっていた。
その後に申請していたVISA・マスターカードのクレジットカードの他に、オリガミペイなどが追加され、右図の6種類のクレジットカードと、1種類のQRコードが認可された。
今回申請されたカード等は、10月に「消費者還元事業」の申請をしていたものだが、対象店に認可されるまでに2か月かかってしまった。
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2019年12月15日(日) |
おたくら(方言) |
「あいつはさぁ、おたくらばっかり喋るんだ」
『 おたくら』とは方言で、「無駄話」や「デタラメな話」などの意味である。
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2019年12月10日(火) |
借金(笑) |
お得意様であるご夫婦が来店された。
御主人が「この店に借金がなかったかな?」と仰った。
私が「何もありません」と答えると
「そうか、何処かで借金していたように思ったんだけど何処だったかな?」
と言っていると、脇に居た奥様が
「それは、貴方が私に借りたものよ。なが~い年月をかけて精神的、肉体的に沢山の借金があるんだから」
と言われ、ご主人はぐうの音も出なかった(笑)
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2019年11月22日(金) |
カマキリ VS カメムシ |
一昨年に続き、カマキリやカメムシによる今冬の予報は、カマキリは巣が低くて少雪だが、カメムシは発生数が多く大雪と正反対になった。
このように、カマキリとカメムシの予報が正反対となったのは一昨年と同様であり、その結果は昨年が少雪だったのでカマキリの勝ちとなった。
となると、今冬は少雪のようであるは、果たして結果は如何に!
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2019年11月21日(木) |
五姓田芳柳作による荒浜の牧口の男性像 |
2014年の地元紙「越後タイムス」の新年号に、柏崎市荒濱の『男性像』と仮題された五姓田 芳柳の作品について記載されてあった。
この『男性像』の作品は、2008年「五姓田のすべて-近代絵画へに架け橋」展(神奈川県立歴史博物館)に出品され、2009年「五姓田-明治新潟の人々を描いた絵画展」(新潟市歴史博物館)に出展。
新潟歴博の図録のキャプションには〔102初代五姓田芳柳、男性像(部分) 紀元貮千五百四十六年(1886年/明治19年) 於北越刈羽郡荒濱 五姓田芳柳翁敬冩 印書〕とある。
また「於荒濱芳柳冩」の展覧会には他の2点が出品され、一点の藍沢佐知肖像画には「明治19年7月11日 於北陸荒濱牧口家 五姓田芳柳翁冩 朱文方印」、もう一点の藍沢朴斎肖像画には「紀元貮千五百四十年10月9日 芳柳五姓田甫冩 朱文方印 白文方印」と落款がある。
佐知像の制作年は、荒濱の『男性像』と同年なので、芳柳は明治19年5月から7月にかけて牧口家に逗留し、少なくても二点の肖像画を制作したという推測が成り立つ。
そして、この『男性像』は、郷土史家と市立図書館司書によると「後の衆議院議員・五代・牧口義方ではないか」と結論付けてあった。
この記事を読み以下の疑問点があった。
1、五姓田派肖像画はみな画一的な紋付羽織袴の正装で描かれているが、義方の祖父の三代・牧口庄三郎の肖像画に描かれた羽織の家紋は牧口家の正紋と言われる「光琳の蝶」であり、『男性像』の羽織の家紋は「違い鷹の羽」なので、異なる家紋となっている。
2、柏崎銀行頭取、県会議員、衆議院議員であった名家の牧口家ならば、『男性像』ではなく題名は実名となるはずである。
3、、平成30年まであった「柏崎ふるさと人物館」には牧口庄三郎家一族の写真や絵が展示されてあったが、そこには『男性像』は飾られていなかった。
そこで、この荒濱牧口家の『男性像』は、以下の理由で牧口庄三郎家一族とは異なる牧口政三郎と推測してみた。
1、荒濱村史には、「荒浜の牧口政三郎家は、順徳帝の神霊、佐渡より御還遷の際(明治7年年5月13日)と、明治天皇、北越御巡幸(明治11年9月14日)の際とに於いて、御駐輦の栄を賜った」とある。
2、五姓田芳柳の次男・義松は明治天皇、北越御巡幸時に随行し、義松は牧口政三郎家に明治天皇と共に休憩していたので、芳柳は義松から牧口政三郎家を聞いていたと推測できる。
3、明治19年までの荒濱の名家は牧口政三郎家であった。
4、荒濱牧口家の『男性像』と名前が消されたのは、主の牧口政三郎が明治19年8月に逝去し、その後、放火と火事場泥棒により牧口政三郎家は凋落した。
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☆五姓田 芳柳(ごせだ ほうりゅう、文政10年(1827)生~明治25年(1892)没)
江戸時代末期から明治初期にかけて活躍した洋画家、浮世絵師で、明治6年には宮内省からの注文で明治天皇の御影を描いた
その後明治17年(1884年)4月から7月にかけて文部省図画御用掛として新潟学校師範学教場に赴き、小学校教師に図画の講習を行い、明治18年(1885年)には号を養子に譲って、みずからは柳翁と称した。その後再び新潟など東北諸国を遊歴した。
☆五姓田 義松(ごせだ よしまつ、安政2年(1855)生~- 大正4年(1915年)没)、
明治期に活躍した画家で、23歳であった明治11年(1878年)より、明治天皇の御付画家として北陸・東海地方の御巡幸に随行した。
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2019年11月16日(土) |
閃輝暗点 |
10年ほど前、稲妻のようなギザギザの光(上下50cm位)が走って見えた。
このチカチカとした光は、眼を左右交互に閉じて片目ずつで見て(片眼視)も、両目を閉じても見えた。
素人判断で、これは中年以上によくある脳の障害、例えば頭痛が伴わない脳梗塞などがあるのでは、と思い直ぐに血圧を測ったが、幸いにも血圧は正常だったので一安心した。
その後も、大事を取って安静にして寝ていたら、30分くらいでチカチカとした光は無くなった。
翌日、それでも心配だったので脳神経外科に行き、脳血管造影検査やMRI検査などをしてもらった。その結果、病名は閃輝暗点と診断された。
その後も数年おきに何度も発病し、症状は図の①の稲妻、②の組市松紋、③のギザギザに光った鬼の歯、④の組市松紋の一部、⑤の光った丸ノコギリの刃などのように異なる形になって見えたりしたが、いずれも黄色の部分が点滅灯フラッシュのように0.5秒位の間隔で光り続けて見えた。(時には黄色の部分が銀色に光って見えたこともあった)
また、この症状が出始めると、まず血圧を測るがいつも正常だった。次に安静にして寝ていると30分か1時間ほどで治っていたが、時には症状がなくなるまで数時間もかかったこともあった。
2日前の夜、上記の症状がまた出始めた。
しかし今回は病院に行き医師の診断を仰いだわけではないので、閃輝暗点と断定はできず、あくまでも閃輝暗点と似た症状ではあるが、違っているかもしれない、ということで話を進めていきたい。
話を戻すが、テレビを見ているといきなり図5のような小さな15cm位の点滅灯フラッシュ現象が現れ始めた。
いつもは長時間パソコンを見詰めているとなるのに、今回は何でなのかなと思いながら、肩も凝っていたので妻から肩を揉んでもらった。
すると、光の輪がどんどん大きくなり、次に下半分だけしか見えなくなったかと思うと、光が薄くなり、最後は消えてなくなってしまった。
つまり閃輝暗点と似た症状がなくなったのである。
これは今夜も同様の症状となったが、肩を揉んで貰うことで閃輝暗点と似た症状がなくなったのである。
これらにより、因果関係は証明できず、あくまでも素人考えだが、閃輝暗点と肩こりが関連性があるのかもしれない、と思った。
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2019年11月14日(木) |
てっちょ(方言72) |
「山の『てっちょ』が色づいてきたな」と仰った。
『てっちょ』とは方言で、「頂上」や「てっぺん」のことであるが、『てっちょこ』とも言い、「電信柱の『てっちょこ』にカラスがとまっている」などという。
これらは同意語であるとの説があるが、その他に『てっちょ』は「山の頂上の辺り一帯」という「面」を指し、『てっちょこ』は「電信柱のてっぺんの狭い一点」などの「点」を指すというように、使い分けられているとの説もある。
また、群馬県でも『てっちょこ』という方言があり、意味は「頂上」や「てっぺん」のことであると聞く。
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2019年11月11日(月) |
紅葉を撮る |
妻と二人で湯沢に紅葉狩り行ったついでに写真を撮ってきた。
車の運転中にススキの群生、次に紅葉が目に入ったので、紅葉をバックにしたススキの群生という構図を思い描いて写真を撮ろうとしたが、自然はそんなに甘くなかった。(笑)
この二つがバランスよく入るビューポイントはなく 仕方なくそれに近い場所に妥協したのに、撮ろうとすると逆光だったり、電線が入っていたりしてなかなか思う写真は撮れなかった。
右の写真はススキの群生とは程遠いが、紅葉が綺麗だったのと遠くの山の紅葉との遠近の対比が良かったのでこれに決めた。
しかし、少しずつ場所を変えて撮っているうちに澄み切った青空がなくなり、曇り空になってしまったのが残念だった。
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2019年10月30日(水) |
道路の冬支度 |
22日、富士山に平年より22日遅い初冠雪が観測された。
昨今は柏崎も朝晩の冷え込みが増し、本格的な降雪に備えた冬支度がそろそろ始まってきた。
そんな中、今日は店前の車道では敷設された消雪パイプの点検・調整作業が行われた。
この消雪パイプは温かい地下水をくみ上げ、道路の中央に敷設されたパイプのノズルから、地下水が均一に散水することにより、道路上の積雪を融かして消すためのものである。
しかし、消雪パイプは車道にあり、パイプの上を1年中車が通るので、パイプのノズルに砂などのゴミが詰まったり、ノズルの穴が潰れたりしてノズルから水が出なくなったりして効率が悪くなる。
そこで消雪パイプの効率化を図るため、降雪前に点検・調整作業が行われるのである。
写真は、消雪パイプの点検・調整作業をしている様子で、左下は調整によりノズルから水が出るようになったものである。
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2019年10月18日(金) |
牧口善太夫と善太郎 |
牧口常三郎は「善太夫」の養子となった。
だが、荒浜での「善太夫」については、文献には殆ど残されておらず謎とされていたので、架空の人物説も出ていたほどであった。
そんな中、私は荒浜の法華寺の前にあった甲子塔に「善太夫」の名が刻まれていたのを数年前に発見した。
そして今回は「善太夫」と「善太郎」の関係について記述することにした。
それは、「にいがた歴史散歩 柏崎・刈羽(新潟日報事業社、1984年発行)」に、従来の牧口常三郎の養子先が「善太夫」ではなく、「善太郎」と記述されてあったからである。
そこで、新潟日報社に「何故、善太郎か」と問い合わせてみると、「この記事は当時、柏崎支局の記者であった川崎久一氏が地元の人の話を取材して書いたもので間違いはないと思うが、彼は1998年に逝去されたので詳細は分からない」とのことだった。
また、柏崎郷土史研究家の小栗俊郎氏も「『常三郎は善太郎の養子』と聞いている」と仰っていた。
その後、調べてみると善太郎は天保14(1843)生まれで明治32年、56歳で亡くなっている。一方、善太郎は荒浜・米屋善太郎として、天保15年(1844)に牧口家の永得丸に乗船していたと【出雲崎町史・海運資料集(1)】に記載されてあった。
これらから、善太郎は善太郎の父親(或は祖父)であり、初代が善太郎だったので、この名が屋号となったのではないかと想定できる。つまり新潟日報社や小栗氏の「常三郎は善太郎の養子」説は、「常三郎の養子先は屋号が善太郎の家(の善太夫)」とすると、「善太郎」や「善太夫」の説が共に正しく、整合性が取れるのではないだろうか。
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2019年10月10日(木) |
古い柱時計修理 |
古い手巻きの1週間巻振り子柱時計の修理を依頼された。
これはアメリカのセス・トーマス(SEN THOMAS)社製のボンボン時計で、文字盤を開けて見ると、まず機械の中央には同社の商標「ST」が、次にその下には「S THOMASTON CT. U.S.A.」と刻まれ、それから時計の振り子の裏に貼ってあった黒い紙のラベルには「SETH
THOMAS, THOMASTON CONN. U.S.A.」と社名が印刷されてあった。
この会社は年代により社名やロゴマークを以下のように変えているので、これらにより時計の作成された年代を知ることができる。
1、ラベルに記載された社名は、「SETH THOMAS THOMASTON CONN. U.S.A.」と記されてあるので、年代は「1866~1930」頃に作成されたと考えられる。
2、次にセストーマス社が商標登録した「SD」のロゴマークは2種類あり、一方はマークがデザイン文字で1879~1885年に、もう一方はゴシック文字で1892~1893のカタログに使用されてあるがんも時計の内部の機械にはデザイン文字(右下の写真の中央上部にあるマーク)が刻まれていたので1879~1885年頃作成となる。
3、上記の社名とロゴマークにより、この時計は1879年~1892年頃に作成された約130年前の時計であることが分かった。
因みに、コネチカット州プリムスハロー(Plymouth Hollow)は、セストーマスの功績をたたえて街の名前を1865年にトーマストン(Thomaston)と変えている。
(後日、地元紙の柏崎日報からこの時計について取材を受け、記事として掲載された)
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2019年10月6日(日) |
6年前作成した補聴器破損 |
「補聴器を、踏みつてしまった」
と仰ってお客様が来店された。
補聴器を預かってみると、これは6年ほど前に弊店で購入した耳型のリオネット補聴器であった。
写真のように外部の型は粉々に破損していたが、内部は汚れも少なく錆びも生じていなかったので修理した方がよいと判断した。
そこでメーカーに問い合わせてみると修理が可能とのことだったので、直すことにした。
ただ、耳穴の型は6年経過し、変化していると考えられるので、修理の際には再度耳型を取り、現在の耳型にして作り直すことにした。
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2019年10月1日(火) |
キャシュレス5%還元対象店 |
今日から消費税が8%から10%に増税された。
これに伴い経済産業省では「キャシュレス・消費者還元事業」を行っている。
これは商品購入時において、上記の事業の対象店舗にてキャシュレス(クレジットカード、スマートフォン、電子マネー、プリペイドカード、デビットカード等)で支払うと、2%又は5%を還元する制度で、対象店舗は、店頭に還元率2%か5%の記載されたチラシを提示することになっている。
弊店は5%還元の対象店舗なので、右上のチラシを提示している。
但し、弊店での対象決算手段が、JCB、アメックス、ダイナーズ・クラブのクレジットカードでの支払いにのみ、5%還元が有効となる。(今後はその他のクレジットカードやオリガミペイも有効になるように申請中である)
また、弊店は「SHOP LOCAL2019」参加店でもあるので、キャンペーン期間中(2019年10月31日迄)は、1,000円(税込)以上のお買物をJCB、又はアメックスのクレジットカードでお支払頂いたお客様には下記の素敵なプレゼントをお渡ししている。
1、オリジナルデザインのSHOP LOCAL特製トートバック(右の写真)を先着40名様にプレゼント
2、抽選で合計2,000名様に日本全国の名産品が当たる抽選カード進呈
(1,000円(税込)以上お買物いただくと、各店舗先着100名様に抽選カード1枚をお渡し。カード1枚につき1回、「Made in Japan
with日本のおいしい食べ物」*が当たるオンライン抽選に応募できる)
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2019年9月25日(水) |
カナチョロ(方言72) |
開店と同時に何処からともなく全長10cm位のカナチョロが店に侵入してきた。
弊店は1世紀近く営業しているが、庭に出没していたカナチョロが店に侵入してきたのは、父からも聞いたことがなく初めてあった。
いずれにしても開店早々の珍客?であったので、これは吉か凶か様子をみることにした。
このカナチョロとは方言で、トカゲのことである。
ウィキペディアによると、日本にいるトカゲは、尾の短いニホントカゲと、尾の長いニホンカナヘビの2種類のようだが、我が家のカナチョロは、尾の短いのでニホントカゲのようである。
ところで閉店後の売り上げであったが、平均売上よりやや少なかったので、カナチョロの侵入はやや凶であった。
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2019年9月20日(金) |
柏崎プレミアム商品券取扱店 |
柏崎市では、消費税増税に伴う消費に与える影響を緩和するとともに地域における消費を喚起・下支えすることを目的として、子育て世帯および住民税非課税者を対象に「プレミアム付商品券」を10月から販売する。
尚、商品券使用可能期間は2019年10月1日から2020年3月31日までで、使用できる店舗は右のステッカーが店頭に貼付されてあるプレミアム付商品券取扱店のみであり、弊店も取扱店となっている。
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2019年9月18日(水) |
牧口政三郎家 |
前述の通り、『明治大帝聖跡巡礼記』には、
「荒濱の牧口氏は、この地方切っての名族にて、當時、總本家は徳太郎氏、分家は庄三郎氏。
庄三郎氏といふが今の義矩氏の祖父に當らるゝとのことであるが、建物のぐあひで御小休は總本家でもなく、義矩氏方でもなく、政三郎氏方が選ばれたのである。
しかし御小休所にあてられた、その牧口政三郎の建物は明治22年、他に売却され、後取崩されて、今では痕跡だも存しない。」
とあり、北越新報社の記者の目からの何かしら奇異を感じ、隠された謎がある様に書かれている。
因みに右の地図は、若井絹夫氏による「牧口常三郎の生家に関する考察」の冊子に掲載されたものである。
徳太郎宅(牧口徳左エ門)は薄茶色に塗られた中裏202番地に、庄三郎宅は青色に塗られた中裏206番地に、政三郎宅は黄色に塗られた中199番地にあり、政三郎宅の敷地面積がひときわ大きいのが分かる。
これを見ても政三郎宅が明治天皇御小休所に選ばれたのが頷ける。
また、柏崎市伝説集には
『荒浜の牧口政三郎家は、順徳帝の神霊が佐渡から京都に御還遷の際(明治7年年5月13日)と、明治天皇、北越御巡幸(明治11年9月14日)の際とに於いて、御駐輦の栄を賜った。
しかし、 主は他に移り、建物はことごとく取り壊され、いづこに玉座を設けられたものか、跡形もなく、今は柴野喜藤治の居をみるばかりである』
とあり、同様に隠された何かがある様に書かれているように感じられる。
この隠された謎について語ってくれたご老人がいた。
その人物は、上記の柴野喜藤治の親戚で、屋号が「乙松」という柴野翁であり、その内容は以下の通りであった
1、牧口政三郎家は大きな船を持ち、北海道との海運業で財を成し、順徳帝の神霊と、明治天皇が北越御巡幸の際に御小休所となり、家の前にはこれらが刻まれた大きな石柱があった。
2、北海道での商いの帰りに牧口政三郎は、弥彦村の温泉旅館であったみょうがや(冥加屋?)旅館で宿泊し、そこで怪死した。 その時北海道で商いした多くの大福帳(納品書や請求書等)がすっかり盗まれた。(牧口政三郎明治19年8月15日逝去 )
3、主を亡くした牧口政三郎家は、大福帳を失いお客からの集金ができなくなっただけではなく、家には仕入れ先から請求が届き、手元資金が枯渇する状態になった。
4、それでも牧口政三郎家は親戚の援助で、苦境を耐え抜き乗り越えようとしていた。
5、そんな矢先に牧口政三郎家は、それから1~2年後、放火される。
6、それは「ダイハチ」なる人物が、政三郎家に客人として訪問し、その後、風呂に入るふりをして放火した。
7、「ダイハチ」は、ある人物に唆(そそのか)されて放火したが、それを仕向けた人物は分からない。
8、放火と同時に大勢の火事場泥棒が押し寄せ、財産の殆どが盗まれ、残ったのは直径が約30cmの真鍮の洗面器だけだったという。(貴重品だけは親戚等が持ち出してくれた)
9、財力を失った政三郎家の家族は、広い敷地を売り、村の中心から離れた北の方向に小さな家を建て移転した。
10、その結果、明治22年には、牧口政三郎家の建物がことごとく取り壊され、跡形もなくった。
(牧口政三郎の末裔) (政三郎と思われる肖像画)
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上記に関するその他の証言
順徳帝の神霊と、明治天皇の御小休所となったことを示す石柱があった。
①、刈羽の庄屋で、荒浜の総本家・牧口徳右エ門の本家である巻口徳左エ門の末裔によると、「祖母からその石柱の話を聞いている。また我が家の親戚であり牧口政三郎跡地に開業していた近藤医院には、その写真が残されていると思われるので聞いてみると仰った。
②、牧口政三郎家の末裔の家には、北越御巡幸時に明治天皇より戴いた赤い(漆塗り?)の盃が家宝として残されてある、と聞く。
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2019年9月15日(日) |
ガンもどき(笑) |
先日の飲み会での小話。
「先月、変な男にガンを付けられ、暫くして医者に行ったらガンだと言われた」
「それは心配だな。何のガンになったっんだ?」
「ウン。それはロウガン(老眼)だ(笑)」
「なんだ。心配して損をした。そう言うのは食べ物の鴈擬き(がんもどき)(☆:注)と同様のガン擬き(がんもどき)と言うんだ(笑)」
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☆:注 【がんもどき】
かんもどきの「がん」は鳥の「鴈(ガン)」で、「擬き(もどき)」は「似て非なるもの」である。
つまり、鴈の味に似て美味ではあるが似て非なるもので、精進料理(肉類を使用していない野菜中心の料理)で鳥肉の鴈の代わりとして作らてたものである。
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2019年9月9日(月) |
ジュエリーフェア開催 |
今月の6日(金)・7日(土)・8(日)の3日間、ジュエリーフェアを開催し、お陰様で、今年も大盛況のうちに幕を閉じることができた。
今年からは新規の女性スタッフが加わったが、彼女はお客様からのご用命を的確に理解して対処するなど、安心して業務を任せることができたので、混雑時も大きな停滞もなく行うことができた。
また、開催されるのを楽しみにしていると仰って下さるお客様などもおられ、フェアを重ねる毎にリピーターのお客様が増加している。
来店されたあるご夫婦が
「これは形が古くなり、数十年もタンスの肥やしにしていたが、記念の指輪なのでリフォームして使いたい」
と仰ってダイヤの入った婚約指輪を持参された。
早速、400個以上の空枠の中からご希望の枠を選び、次に職人が見ているうちに枠替えを行った。
ご夫婦は出来上がった品を見て、新しい価値観が見出され、そして付加価値をも高められたことで、笑みがこぼれていた。
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2019年8月19日(月) |
柏崎のツツガムシ |
「越後の風土病『ツツガムシ病』」について前述したことがあったが、柏崎市内においても「ツツガムシに刺されツツガムシ病に感染した」という人の話である。
「数十年ほど前の初夏、鵜川の上流付近の川辺で釣りをしていた時に川辺に刺され(刺されたという自覚症状はなかった)、10日後、発熱や発疹が出現した。
そこで病院に行ったが病名が分からず、日ごとに病状が悪化したので新潟病院を紹介されて行ったら、ツツガムシ病だと診断され病状はよくなった。
しかし、傷口が数十年経てもそのままである。
よく分からないが、ツツガムシは水辺に多く生息しているようで、数年ほど前、柏崎の夢の森公園にある池の水辺にいたという報告があった(市では直ぐに付近の草を除草、消毒を行った)」
と語ってくれた。
但し、長岡市の地域振興局健康福祉環境部のサイトでは、近年は新型ツツガムシの発生により水辺以外でも生息するようになったので注意が必要と掲載されてあった。
(新潟県長岡市の「ツツガムシに注意しましょう」)
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2019年8月17日(土) |
鈴虫の捕獲方法 |
以前、森氏から「鈴虫の飼い方」などを聞いたが、今日はお客様から鈴虫の捕獲方法を聞いた。
Ⅰは一般的であるが、Ⅱの古典的捕獲方法は先人の知恵を学ばせて貰った感がある。
Ⅰ 鈴虫の捕獲方法
1、ペットボトルの上部を切り取る
2、下部に鰹節、ナス、キュウリなどのエサを入れる
3、下部を1~2cm位出し土の中に埋めることで、落とし穴ができる
4、鈴虫はエサに匂いにひかれて落とし穴に落ちる
5、落とし穴に落ちた鈴虫は、ペットボトルが滑るので外に逃げられない
6、昼間、鈴虫に居る所に仕掛け、翌朝仕掛けに入った鈴虫を捕獲する
Ⅱ その他の簡単な古典的鈴虫捕獲方法
1、鈴虫の鳴いていると場所に行く
2、鈴虫のいる方向に向かって、団扇(ウチワ)を仰ぐ
3、団扇で仰がれた鈴虫は草むらが出てくる
4、出てきた鈴虫を虫取り網で捕獲する
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2019年8月15日(木) |
柏崎の水道水 |
台風10号により、台風の周囲を吹く南寄りの風がフェーン現象を引き起こし、日本海側は気温が上昇した。
この影響で、昨日は新潟県上越市高田で40.3℃、同市大潟で39.7℃、今日も同県胎内市中条で40.7℃、同県長岡市寺泊で40.6℃となり、二日連続で全国最高気温ランキングの1位と2位が新潟県となり、気象庁は高温注意情報を発表して熱中症を防ぐよう呼び掛けた。
熱中症対策としては水分補給が大切であるが、柏崎の水道から出る水は冷たくて美味しい。
しかし、先日この好評と思われていた冷たい水道水は苦言を呈され、水道水の温度を上げたと聞いて驚いた。
その苦言とは以下の通りであった・
・食器洗いなどをしていると水が冷たすぎて手がしびれるようになる
・水が冷たいので湯や風呂を沸かすのに時間がかかり、ガス代が髙くなる
・トイレの水槽や配管に結露が発生し、その結露が水滴となって下に流れ落ち、水が溜まってしまう
などであるが、特にトイレの水槽や配管の結露による水溜まりは、全柏﨑市の住民が体験しているので、苦情が多かったようである。
このようにして柏崎の冷たい水道水は、冷評を浴びてしまったのである(笑) |
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2019年8月9日(金) |
日本の言語 |
オーストリアから来て、働きながら日本語を学んでいる青年と話をした。
英語の文字はアルファベットの一種類なのに、日本語の文字は、漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字と4種類もある。
このように文字が4種類もあるのは世界で日本だけだで不思議な国だと思いつつ、日本人はこれらを覚えて活用しているのだからすごいと感じた。
ただ、日本語の勉強ではこの4種類の文字を使い分けて、覚えなければならないのが大変だった。
しかし、漢字は難しいが、ひらがな、カタカナ、ローマ字は読み方が一つしかなく無駄な文字がないので、これを理解すると発音し易く、覚えやすかった。
例えば英語で書いた『man』の発音は「マン」なのに、『make』の発音は「メイク」となり、同じ『ma』が「マ」や「メ」と発音される。
一方、日本語の「万」をローマ字で書いた『man』の発音は「マン」で、「負け」をローマ字で書いた『make』の発音は「マケ」となり、『ma』はどちらも「マ」と発音され、「マ」以外の「メ」などと発音されることはない。
次に、英語で書いた『eight』の発音は「エイト」だが、この発音の「エイト」を日本語のローマ字で書くと『eito』となり、発音に無駄な文字『gh』が省かれる。
このように日本語は読み方が統一され、『gh』などのような発音に無駄な文字がなく、また、母音、子音で形成された理論的な言語である。
但し、ローマ字と英語は同じスペルなのに、発音や意味が異なることが多いので混同することが多かった。
例えば、日本語をローマ字で書くた『make』の発音は「マケ」で意味は「負け」になるが、英語で書いた『make』の発音は「メイク」で意味は「作る」になり、同じ『make』のスペルなのに発音や意味が異なるからである。
このように刻苦勉励して日本語を学んでいるが、日本の新聞を読んでもまだ70%くらいしか理解できないとぼやいていた。
これを聞いて思わず、「それだけ解れば十分だよ。日本人だって100%解る人は5%もいないんじゃないかな」と答えた。
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2019年8月5日(月) |
長岡聾(ろう)学校 |
新潟県立長岡聾学校へ行き、西山正樹校長先生と面談させて戴いた。
その目的は、ヘレンケラーが来日時に長岡へ来た際の写真のコピーを学校がご希望とのことで、贈呈することになったからである。
この学校は、「障害に基づく困難を改善・克服して、自立し、主体的に社会参加するために必要な資質や能力を育成す」ことを目的とし、明治38年、私立長岡盲唖学校として創立された。
その後、大正11年、県に移管され「県立長岡聾唖学校」と称し、更に昭和28年、義務制実施、学制改革により、小学部、中学部、高等部となって、校名を「県立長岡聾学校」と称することになった。
面談後に校内を見学させて戴いた時、創立約120年の歴史を示す由緒ある品々がケースの中に展示されていたが、その中にヘレンケラーの写真もあった。
その写真にあった、ヘレンケラーが着ていた洋服の柄は、私が持参した写真の服の柄と一致し、私の写真が間違いなくヘレンケラーであったことが証明され安堵した。
また、帰りには生徒さんが手間暇かけて作ったという、一つ一つが味わいのある手作りの品を2組も戴き恐縮してしまった。
帰宅後、妻に見せたら「フクロウは不苦労(ふ・くろう)で縁起がいいんだって。良かったね」と言ってくれた。
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2019年7月18日(木) |
衣紋掛け |
「ハンガー」と「衣紋掛け(エモンガケ)」は同意語だと思っていた。
しかし、2年ほど前のアンケートで「衣紋掛け」とい言葉の意味を知っているか?との質問に、約8割の大学生が知らないと答えたという。
年を重ねる毎に、世代(時代)による文化、価値観、思想などの乖離が増えるものだが、 前述した「アベック道路」や「天眼鏡」のように、今回もこれを聞きジェネレーションギャップを感じてしまった。
「衣紋(エモン)」とは、『衣服を形よく、着崩れしないように着ること』であり、このように着崩れしないように掛ける為に、『短い棒の中央にひもをつけ、衣服の肩・袖を通してつるしておくもの』が「衣文掛け」であった。
このように本来、「衣文掛け」は着物(和服)を掛けるものであったが、明治初期の文明開化により洋服を着る文化が入ってきたことで、洋服を掛ける物(ハンガー)も「衣文掛け」と呼称するようになった。
つまり「ハンガー」は『洋服を掛けるもの』だけではなく、『洋風のえもん掛け』でもあったので、上記のように「衣紋掛け」と「ハンガー」が同意語になったのである。
しかしその後、『着物を掛けるもの』は「衣文掛け」、『洋服を掛けるもの』は「ハンガー」との意味合いが増したことで、着物より洋服が主流になった現代は「衣文掛け」という言葉が使われなくなったようである。
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2019年7月9日(火) |
山本五十六の写真 |
右は山本五十六が帰省した時、母校である旧制新潟県立長岡中学校の同級生と共に撮った写真であると聞き、コピーさせて貰ったものである。
写真を撮った年代は、勲章?が1個しかなく、また両袖には3本の太い横線があるので、これからを割り出せそうにも思われる。
山本五十六は、現・長岡市坂之上の生まれで、昭和14年(1939)連合艦隊司令長官、昭和15年(1940)元帥海軍大将であった。
山本はわが身の危険を省みず、アメリカとの第二次世界大戦の開戦に対しはあくまでも反対し、日独伊三国同盟にも断固反対していた。
しかし、皮肉にもその意に反し、連合連合艦隊司令長官として、昭和16年(1941)ハワイ真珠湾攻撃を敢行し未曾有の大戦の指揮をとる羽目になった。 (長岡の花火)
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2019年7月8日(月) |
ヘレンケラー来日の写真 |
右はヘレンケレラー女史が、長岡聾学校へ行くため、長岡駅に降りた時のホームでの写真であり、中央が女史で、右側のネクタイ姿の二人は新聞記者だと聞いた。
そこで、それをコピーさせてもらったが、アメリカのヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller)女史からは、ふっくらとした優雅な顔立ちの中に、苦難を乗り越え人生を達観した様子が読み取れる。
また、右側で腕を組んで女史を支えている凛々しい顔の女性は、女史のよき教師、そしてよき友人であるアン・サリヴァンと思われる。
一歳半の時から三重苦(視覚、聴覚、言語)を背負うようになった女史は、戦争前後3回に渡って来日していた。
昭和12年(1937)の第1回の来日時、56歳のヘレンケレラー女史は各地を巡り地方公演を行ったが、その際、同年6月11日には、新潟県長岡市の新潟県立長岡聾学校にも来校していた。
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2019年7月4日(木) |
補聴器相談会 |
7月7日、補聴器相談会が弊店に開催される。
尚、開催時間は午前10寺~午後3時まで。
当日はメ-カーから専門員も来店し、耳の「きこえ」や各種相談に応じるほか、聴力測定や補聴器新機種の試聴なども出来る。
これまでの補聴器相談会は例年、11月の秋に行われいていたが、今年は7月の夏に開催することにした。(但し、昔の暦、いわゆる旧暦では、11月は冬、7月は秋となる)
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