〒945-0063 新潟県柏崎市諏訪町11-41
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2016年7月 2016年8月 2016年9月
・時計の乾電池
・ばくろう
・怪談No,2
・三階節
・祇園柏﨑祭り
・人体熱発電
・青山稲荷社
・怪談No3
・案山子
・新米
・ジャーナル届く
・秋宿る
・鈴虫の孵化
・ジェリーフェア開催
・なしたぁ(方言55)
2016年10月 2016年11月 2016年12月
・時計店密集地
・干し柿
・とうごと(方言56)
・荒浜に移住
・黒姫山
・実験器具
・てっぱずれ(方言57)
・胃痛の民間療法
・弟の旅立ち
・ハッカー攻撃
・年賀欠礼
・忘れ物(笑)
・糸魚川大火
・柏日に掲載
2016年12月29日(木)
柏日に掲載

地元紙である柏﨑日報の新春特別号が早々と今日配布された。

毎年、この新春特別号には人シリーズの欄が掲載される。
今年はこの人シリーズに、私が昨春今春に発表した論文のことが、『眼鏡作りから学会論文へ』という題で掲載された。

実は先月、柏﨑日報社から掲載の要望があり取材にきていたのであるが、出来上がったものをしみじみと見ると、さすがにプロだけあって上手に纏められてあり感謝している。

尚、昨春発表した論文は今年の日本眼鏡学会の学会誌であるジャーナル2月号と8月号に分載されたが、この2冊は柏﨑の柏崎市立図書館(ソフィアセンター).に寄贈してあるので、ここへ行けば自由に見ることが出来る。
といっても、そんな奇特な人はいないかもしれないが。。。

2016年12月27日(火)
糸魚川と明治の柏崎の大火
今月の22日に出火の糸魚川の大火は『糸魚川市駅北大火』と名付けられたようだ。
木造家屋の密集地域で強風により火が短時間で広範囲に広がったが、避難が早く、人的被害がごく少なかったのが救いだった。
住民の皆様に心よりのお見舞いを申し上げるとともに、一日も早い復旧・復興を心よりお祈り申し上げます 。

実は柏﨑も中越沖地震だけではなく、大火も明治時代に4回も遭遇している。
特に明治30年(1897)日野屋火事は糸魚川と同様に強風にあおられ、1500戸が延焼して11時間後に鎮火した。
この中には、警察・郡役所の他13の寺も被害を被った。

尚、繰り返された大火の殆どの出火場所は、遊郭のあった現在の西本町であった。
また、復興は地元の業者によって行われ、その影響でそれらの業者は、西本町の海側に位置する現在の東西港町に立ち並んで集中した。
例えば、大工は
西港町の桑山、相沢、田辺、服部、佐藤、山川、
東港町の米山、山川、近藤、片山、
この近くの市川、沢田、服部など、

瓦屋
柴野、もたい、根立、赤沢、滝沢

建具屋
三宅、関屋

左官
長浜、濱

このように業者が東西港町に位置した理由は、資材の供給を北前船による海路を利用したと考えられる。

例えば、この時代の瓦は、能登半島からきた黒い能登瓦が殆どであった。
お年寄りから聞くと、沖に停泊した北前船からの物資は小舟で陸まで乗せ、その後は人の力で砂浜を浜下駄を履いて納屋町や東西港町の業者の倉庫まで運んだ運んだ。

※浜下駄とは、重い荷物を運ぶ時、足が砂に潜らないようにする為に、下駄の裏面に切れ込みはあるものの普通の下駄のような歯がない。浜の上を擦るように歩くのがコツだそうだ。
2016年12月13日(火)
忘れ物(笑)
保健婦さんが 三か月検診に立ち会った時のことを話してくれた。

多くの母子を診ていると、母親三か月のお母さんの番になった。
その新米ホヤホヤのお母さんは、母子手帳を始めとした準備するもの全部書き出したメモを持参し、用意万端で来ていた。

しかし、たった一つ大事な忘れ物があった。
それは・・・・・赤ちゃんであった(笑)
2016年12月10日(土)
年賀欠礼

来年の正月は喪中となるので、年賀欠礼の葉書を出すことにした。
しかし、年賀葉書は11月初旬に買ったので沢山残ってしまった。。

そこで、年賀葉書と胡蝶蘭の切手が印刷された葉書と交換しようと郵便局に行った。
このように交換する時には、普段は手数料を支払わなければならない。

しかし、喪中による年賀葉書の交換は無料で良いとのことで、とても助かった。

2016年12月5日(月)
ハッカー攻撃?
今日の午後、山口県長門市にてロシアのプーチン大統領を迎えを迎え、安倍晋三首相との会談が開かれる。

各局のテレビ局はこのニュースを取り扱ったが、その中で「プーチン大統領が、ハッカー攻撃を仕掛け米大統領選に干渉したという噂があった」と言っていた人がいた。

これは、今年の10月初旬、米政府はロシアが「米大統領選のプロセスに干渉する」ため、ハッカー攻撃を仕掛け渉していると非難し、
その後の10月12日に、ロシアのプーチン大統領は、米大統領選挙に干渉していないと言明した、ことを表している。

11月8日に2016年アメリカ合衆国大統領選挙の一般有権者による投票および開票が行われ、その結果、多くの世論調査を覆し、共和党のドナルド・トランプの当選が確実になった。

これと関係するか分からないが、弊店のホームページをアクセス分析をしていたら、
言語のコンテンツには以下のようになっていた。
1,「ja-jp」、
2,「ja」、
3, 「Secret.ɢoogle.com You are invited! Enter only with this ticket URL. Copy it. Vote for Trump!」
4,(not set)
5,
「de」、

上記の3を翻訳すると
「Secret(秘密).ɢoogle.comあなたは招待されています!このチケットのURLのみを入力してください。それをコピーします。トランプに投票する」
となる。

また、このコンテンツのセッション数は100回以上あり、そのセッションの国名は殆どがロシアで、その他はオーストリア、ルーマニア、ウクライナが各々1回づつだった。

どのようにして行ったのか定かではないが、ハッカー攻撃をされたようである。
2016年11月22日(火)
弟の旅立ち
弟が京都・嵐山の旅先で永眠した。

昨年、弟は自叙伝を自費出版し、冒頭には次の様な詞を掲載していた。

 ***- -***- -***- -***- -***-  -***- -***- 

 『母に捧げる詞』

貴女はいつも私を守ってくれた
 まるでこの世の中は外敵ばかりだとでもいうように

貴女はいつも私の傍に私を置いた
 その外敵は貴女が眼を放すと襲いかかるかのように

貴女は私を独りきりにするのを許さなかった
 まるで私の唯一の救済者かのように

貴女は私の前でだけ弱さをみせた
 そう貴女が心許した私と貴女だけの世界

貴女は成長していく私を恐れた
 貴女の前では私はまるで永遠の幼子であるかのように

貴女はいつも傷付いた
 失敗ばかり繰り返す私を貴女は悲しみ続けた

貴女はいつも私の強い支持者だった
 私が苦しみもがく姿を貴女はいつも温かい視線で接してくれた

貴女が任を降りた時貴女は幼子に還っていった
 私が独りで立ち上がる隙を見て貴女はそっと年老いた

            (『逆風に生きる』より)

 ***- -***- -***- -***- -***-  -***- -***- 

弟は5人兄弟の3人が亡くなった後に生まれた末っ子だったので、母は溺愛した
 母からの寵愛によりピュアな心で成長した弟は、大学卒業後の就活に失敗した

焦った弟はその後も必至で数々の就活に挑んだが、歯車が狂ったかのように失敗ばかり
  ピュアな心が災いし、社会に馴染まなかったのかもしれない

弟は私より聡明で誰からも好かれる人間で、きちんと就業さえすれば、大成できたことだろう
 しかし、悶絶躄地の末に、とうとう心の病に侵されてしまった

心の病とは過酷で、その後も完治せず、病との闘いに最後まで終結はなかった
 家族は病に対してなすすべもなく、ただただ見守る事しかできなかった

何故、弟はこんなにも辛酸を嘗め続けなければならなかったのだろうか
 家族は人生の悲哀が漂った弟の背中を見ながら、人の世の不条理さを嘆いた

時には、弟は病気が治まり、平常心で物を考えられることもあった
 そんな時の弟は私達家族を助けたり、家族と談笑を楽しんだ事もあった。

弟が50代の時、自分の買った車の番号は「8251」とした
 「8251」とは「は・つ・こ・い」だと照れくさそうに言っていた弟の顔が眼に浮かぶ

結婚に憧れていた弟だったが、それを果たすこともできずに天国に旅立った
 天国では優しい奥さんと可愛い子供たちに囲まれた楽しい生活が待っていることだろう
2016年11月16日(水)
胃痛の我が家の民間療法

昨夜、胃痛で目が覚めた。

こんな場合私は、我が家の民間療法である腹式呼吸により痛みを和らげる。

この方法は、
1、まず、お腹の痛みがどこかを調べ、その痛みのあるお腹の上に軽く手を置く。
2、次に、ゆっくり息を吸って、手が少しずつ上がるように痛みにある場所のお腹を膨らます。
3、息を吸い続け、お腹がこれ以上膨らまないほどになったら、3秒ほど息を止める。
4、それから、手が少しずつ下がるように、ゆっくり息を吐きながらお腹を凹ます。
5、これを繰り返すだけである。

今回の胃痛の場所は鳩尾(みぞおち)の少し左側だった(おへその辺りが痛くなることもある)ので、そこのお腹の部分を膨らましたり凹ましたりしながら腹式呼吸を行った。

この腹式呼吸を7、8回すると、縮んでいた胃が弛緩し、縮んでいた所からガスが出始め(こんな感じがする)、ガスでお腹がゴロゴロと鳴って動き出した。

暫くすると、ガスは腸に下り、おならが2,3発出て楽になり、その後は楽になりいつの間にやら眠りについていた。

但し、これはあくまで我が家の民間療法で医学的に根拠がある訳でもなく、これ以上具合が悪くなった場合は速やかに病院に行っているし、全ての人がこのように楽になるとは補償できないので注意して頂きたい。

2016年11月8日(火)
てっぱずれ(方言57)
「壁掛け時計を掛けようとして、てっぱずれして時計を落としてしまった」
と来店しされたお客様が仰った。

この「てっぱずれ」とは方言で、手元が狂う、或いは手元が外れるなどという意味である。
この他に「てっぱずれして階段から落ちた」などのように、手元でなく足元が狂った場合にも使う。
2016年11月2日(水)
実権器具(プルフリッヒ効果)
昨春、今春と眼鏡学会において研究発表を行い、来年も発表する予定である。

来年の研究の暫定的テーマは、「ホロプターとプルフリッヒ効果(Pulfrich effect)に生じる複視」で、今日はその研究の実験器具が出来上がった。

プルフリッヒ効果とは錯視の一種である。
これを見るには、
まず、一点から吊るした紐に錘を吊るし、振り子の様に左右に錘を動かす。
次に、片眼に濃いフイルターを掛けてこの錘を見る。
すると、左右に横方向に揺れている重りが、立体的な楕円軌道を描いて動いて見える。

この原理は、濃いフイルターを通すことにより光が遅れて網膜に到達する。
そこで他眼のフイルターのない眼と比べると、片眼の濃いフイルターを掛けた眼は網膜に遅れて投影される。これにより、左右の網膜には時差のある像が生じ、立体的な楕円軌道を描いて動いて見えるのである。

そこで、まず片眼に濃いフィルターを掛け、次に時計の振り子にライトを付け、それからこの振り子を左右に動すことでプルフリッヒ効果が体験できるとした。

これまでの実験器具は何度も改良を加えてきたが、今回の実験器具もこれで完了した訳ではなく、今後も改良が必用だと思う。
2016年10月30日(金)
黒姫山
刈羽三山の一つに黒姫山がある。

先日、長岡に行き 蔵王橋をタクシーに乗って渡っていると、運転手さんが
「お客さんは柏﨑の方ですから黒姫山を知っていますよね。黒姫山は越後33観音の一つであり、越後富士と言われる綺麗な山ですが、御存じですか?」
と言われた。

柏﨑から見た黒姫山は、越後富士と言われる綺麗な山ではない。
そこで黒姫山が良く見える信濃川沿いにある道に車を止めて、越後富士と言われる黒姫山を教えてもらい見ることにした。

すると、黒姫山は柏﨑から見たボコッとした山ではなく綺麗な三角形に形をしていて、越後富士と言われることに納得した。

そういえば米山も、柏﨑から見ると越後富士と言われるほど綺麗な形だが、柿崎から見たその面影はなかった。

長岡市民から黒姫山が、越後富士と言われ親しまれていたと聞き思わず口元に笑みがこぼれた。
2016年10月27日(木)
荒浜に移住(石山合戦と能登の一向宗(浄土真宗)門徒)
 荒浜のお客様から面白いことを聞いた。それは以下の事である。

 中越沖地震後、能登半島の住民が救援物資を持参して柏崎市荒浜に慰問に訪れた。
 その慰問者は「数百年前に能登半島の一部の住民が荒浜に集団移住したので、我々はその血縁者が被災されたので慰問に来た」と言った、ということである。
 
 そういえば、数十年前に能登半島の電車に乗った時、車中で年配の地元住民が会話をしていた。
 この会話の内容は長野県の友人は全く理解できなかったが、私には理解でき、その話し方は荒浜村民の話し方に似ていた。
 この時に私は能登の住民と荒浜には何かの繋がりあると思ったが、上述の能登半島からの集団移住の話しで長年の疑問が氷解した。

 しかし直ぐに、それでは何故、能登の住民が荒浜に集団移住しなければならなかったのか、という疑問が芽生えた。
 そこで、調べてみると、石山本願寺の顕如が織田信長との「石山合戦」で敗れ、一向宗(浄土真宗)門徒が能登半島(七尾?)から逃れたからではないか?という推測が成り立った。
 これらは今から約400年前にあった以下の出来事である。

 永享3年(1431)、室町中期の僧で、浄土真宗中興の祖である蓮如は天台宗門跡寺院の青蓮院において得度し、近江・北陸での教化を助け、東国の親鸞聖人の御旧跡へも歴訪し、長禄元年(1457)、8代目法主(ほっす)となって本願寺を継いだ。
 この蓮如の弟子に、近江堅田に法住(ほうじゅう)という人物がいた。
 法住率いる本福寺門徒の舟木(ふなき)(滋賀県安曇川町)の教念(きょうねん)は、やがて能登府中に定住し、教念は、日本海海運に乗って商業活動をする一方、能登に蓮如の教えを伝えた。

 文明3年(1471)、 本願寺の蓮如は、加賀と越前の境界にある吉崎に布教の為の根拠地として、「吉崎御坊」という寺を建立し、吉崎は一大佛教都市になった。
 その後、北陸の本願寺派の真宗教団は繁栄の一路を辿り、加賀の光徳寺(のち七尾に移転)、専光寺、弘願寺などの有力寺院が本願寺の支配下になった。

 文明6年(1474)、北陸争乱状態が激しくなる。加越国境地帯で、朝倉・甲斐勢の衝突、また富樫政親が弟の富樫幸千代と合戦を始める。富樫幸千代の加賀に於ける本願寺門徒弾圧に対抗して一向一揆を起こす。

 長享2年(1488)加賀長享の一向一揆が起こる。以後およそ1世紀にわたって、本願寺門徒が加賀一国を支配する

この移住した安土桃山時代 天文15年1546年 空堀や柵などを備える城造りの寺院であった尾山御坊(金沢御堂)が建立され、加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点となった 天正8年(1580年) - 佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称して用いた。 天正11年(1583年) - 賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が4月28日(新暦6月14日)に入城し、尾山城と改称した

 長禄元年(1457)本願寺を継いだ蓮如の弟子に、近江堅田に法住(ほうじゅう)という人物がいた。法住率いる本福寺門徒の舟木(ふなき)(滋賀県安曇川町)の教念(きょうねん)は、やがて能登府中に定住することになる。教念は、日本海海運に乗って商業活動をする一方、能登に蓮如の教えを伝えた人である。

 16世紀になると鹿島郡では、上町(中島町)正誓・鉤(まがり)(現能登島町字曲)宗教などが、加賀一向一揆の影響を受け、能登でも真宗門徒が拡大していった。戦国大名畠山氏は、他の大名と同じく警戒しました。
 能登で最初の浄土真宗寺院は、能登守護代・遊佐秀盛から多額の寄進を受けていた、教念に連なる人物と推定される教恩坊の道場が、明応9年(1500)に寺号を受けた長福寺である。

 永正(1504~21)末年、畠山氏は真宗門徒の存在を認め、教恩坊(きょうおんぼう)に対して被官の遊佐秀盛(ゆさひでもり)が道場の経営費用を負担することを約束。この道場は、鹿島郡のみならず、能登における初めての本格的なものである。

 天文元(1532)年、一向宗(浄土真宗)門徒が京都市中に入るという噂が立ったため、日蓮宗(法華宗)門徒は細川晴元らの軍勢と協力し、一向宗寺院を焼き討ちした。特に一向宗本山であった山科本願寺は全焼し、一向宗法主証如は石山へ逃れた。その後5年間にわたり一向宗は石山に籠って法華宗等の軍勢と戦い続けた。これを一向宗では「天文の錯乱」、又は「天文の一揆」と呼ぶ。
 この「天文の一揆」で加賀を追われた加賀の3山は義総を頼り、能登に逃れた。能美郡の松岡寺は、後に珠洲の松波に再建され、また、河北郡木越にあった光徳寺は、天正8年(1580)に佐久間盛政に寺を焼かれ、鳳至郡黒島に逃れ、次いで七尾城下に移り、さらに府中に移り、天保12年(1841)に現在の位置(小丸山下)に移っている。

 永禄年間(1558~70)、鹿島郡(当時の鹿島郡は勿論、七尾を含んだ)門徒は1つの講を結んだ。この講を通して門徒衆は結束を強め、さらに多くの門徒衆を獲得していった。
 門徒の教団は郡ごとに代表者を定め、鹿島郡では教念・教恩に続くと思われる長福寺教円(きょうえん)であった。教円は加賀一向一揆とも連携をもち、自身と鹿島郡門徒の政治的地位を向上させていった。
 能登の守護3代目畠山義統(よしむね)は、禅宗の教えを信仰していたので、七尾には当時真宗寺院は1ヶ寺もなかった。
 7代目畠山義総(よしふさ)の時代には、一向宗が加賀の国を治めていので、義総は加賀の3ヶ寺とつながりをもち、3ヶ寺に随う一向宗を保護した。

 永禄11年(1569年)。織田信長は、足利義昭を奉じて京都に入り、足利義昭が室町幕府の第15代将軍となるのはほぼ確実。そして、織田信長は将軍家の名目で石山本願寺には5000貫の軍資金や京都御所再建のお金と、本願寺の場所を移して、石山を引き渡せと要求した。
 この石山本願寺とは、親鸞を開祖とする一向宗(浄土真宗)の本山で、8代蓮如によって開かれ、現在の大阪城本丸の場所にあった。

 元亀元年(1570年)、本願寺第11世の顕如は全国の門徒に全面対決を訴え織田信長軍に攻撃を仕掛け、信長の優勢で終わるが、その後も10年に渡り、石山本願寺と織田信長は争った。
 信長は、これに手こずりながらも長島、近江、越前、加賀の一向一揆など地方における本願寺勢力を次々に潰していった。
 1576年、信長は石山本願寺への本格的な攻撃を開始し、1580年ついに顕如は和議を受け入れ、石山を引き渡せという織田信長の要求に答え、顕如は石山本願寺を開城しました。
 本願寺と織田信長が大坂で戦った石山合戦には、七尾の講から、戦の為にお金を寄進した文書が多く各寺に残されている。
 また、一揆軍も能登から出かけ、能登島の専正寺、輪島の通敬寺には石山合戦の時の旗と伝えられるものが残っている。

 このようにして、逃げ場を失った七尾の一向宗(浄土真宗)の信者は、新地を求め船に乗って辿り着いたのが荒浜ではなかったのではないだろうか。
 しかし、当時の荒浜は、砂地で米もとれず、港もないので僅かな漁業しかできず、冬は日本海の強風により砂浜からの飛砂が酷い荒地で、居住するには厳しい土地であった。
2016年10月25日(火)
とうごと(方言56)
 全国でも珍しく新潟県でも柏﨑しか使われない方言に『とうごと』がある。
 この『とうごと』とは『戯言(たわごと)』の意味であり、「とうごとを言っているんじゃない」とどという。
2016年10月19日(水)
干し柿

 このところ朝夕めっきり冷え込み、日増しに秋の深まりを感じるようになった。

 我が家にある柿の木の実も先週頃からすっかり色付き、収穫の秋を迎えた。
 収穫した柿は4年ほど前から干し柿に挑戦するようになった。
 しかしこれまでは、カラスに食べられたり、強風で飛ばされたり、雨が当たり青かびが出たり,
渋みが残っていたりして、なかなか思うような干し柿ができなかった。
 
 だが、今年は近隣の松の木が伐採されカラスが見かけなくなった。それはその松の木の上にカラスの巣があったからである。
 そこで、カラスの被害がなくなったので、その他の風と雨の対策として、干し柿は外に出しっぱなしにせずに強風や雨の日は家の中に入れ、渋みをなくすために干す日数を増やす事にした。

 この対策が効して、今年は渋みのない濃厚な甘味のある干し柿ができた。
 但し、干し柿は小さいので一度に2、3個ずつ食べて消費が早く、保存食にはならないようだ。(笑)

2016年10月2日(日)
時計店の密集地

 「何故、諏訪町には時計店が密集しているのか?」との質問があった。

 現在、諏訪町通りの中の僅か200m間には4店の時計店がある。これは全国的に珍しいと聞く。
 しかし、過去30~50年ほど前の諏訪町通り1~3丁目の全長約600m間には時計店などが10店もあった。
 それは、1丁目に眼鏡スーパー、田中時計店、ミイダ時計店、岸本伸栄堂、2丁目に吉田時計店、徳間時計店、今井時計店、3丁目に箕輪時計店、平沢時計店が競合し、それ以前には桑原時計店(後のベルセイコー)もあった。

 この様に時計店が乱立した理由には、次のそれぞれの時代背景があったようだ。

1、 日本における時計の普及は以下の様に明治後期であり、これに伴い、大正、昭和初期にかけて、全国に時計店が開業した。
 日本の近代時計製造の草分けは明治8年(1875)、東京の金元社から始まり、明治20年(1887)、頃、時盛社(のちの林時計製造所)で「柱時計」が生産され、名古屋地方を中心に発達し、その後、明治12年には大野徳三郎が「懐中時計」を手工で製作したと言われている。
 しかし、工場生産として大阪時計製造がアメリカ企業からの設備導入・技師指導のもと「懐中時計」製造を始めたのは明治27年の事で、月に数百個ほどを製造したとされている。
  明治後期には、時計工場数は20ほどに増え、数々の「懐中時計」「掛時計」「置時計」が作られていた。全国の「置時計」生産数は年間380万個ほどもあった。
 明治25年(1892)水野伊兵衛が水野時計製造所(現在の愛知時計電機の前身)を創業 。
 明治25年(1892)服部金太郎が 精工舎(現在のセイコーホールディング社)を設立

2、明治45年(1913)、越後鉄道(現在の越後線)の柏崎、白山間が開通し、比角駅(現在の東柏崎駅)より乗降者があった。
2-1、この越後線が開通したのは石油産業の影響が大きい。それは明治23年、当時の刈羽郡石地町の素封家内藤久寛氏は、アメリカにより綱式さく井機を輸入して深層の掘削に成功し、近代石油産業の基礎を築いたからである。以来、西山油田は空前の石油ブームに沸き返り、この盛況は大正末期まで続いた。(西山町からの富裕層が比角駅より乗降した)
2-2、昭和7年(1932)、理化学興業が北斗町に柏崎工場を建設(現在のリケン)し、多くの従業員が比角駅より乗降した。

3、柏崎は明治時代に四大大火(出火場所は何れも西本町)に遭遇し、西本町から新花町に移転 (明治13年(1880)酢屋(スヤ)火事で当時柏崎の戸数1860のうち842戸が延焼、明治20年(1887)大久保屋火事で564戸が延焼、明治30年(1897)日野屋火事で1500戸が延焼、明治44年(1911)桐油屋(とうゆや)火事で653戸が延焼)
3-1、300年の伝統のあった西本町の遊郭は、明治44年桐油屋火事後に諏訪町通りの裏側にある新花町に移転。これにより新花町近隣には遊郭の関係業(旅館や芸者置屋等)、それに伴う飲食業等の業種が増加した。
 特に諏訪町には登久満、山梅、大沼屋などの旅館が、新花町には昭和荘、まりも旅館などがあった。

 以上により明治後期から昭和初期にかけて、多くの時計店が開業し、その場所は急激に消費人口が増加した新興商店街の諏訪町に集中したと思われる。
 

2016年9月28日(水)
なした~ぁ(方言55)
ご高齢のお客様に、商品の説明をした時に「なした~ぁ?」と仰った。
 「なした~ぁ」とは方言で「なんだって?」の意味であり、話しの意味が分からない時や、良く聞こえないのでもう一回言って欲しいときに使う。

 このような時には、最初の「な」にアクセントを置き、最期の「ぁ」は小さく優しく言う。

 また、「なしたぁ?」は、「なにをしたの?」、「どうしたの?」などの意味でもあり、親がバツの悪そうな子供の顔を見て「何か悪いことでもしたの?」という時に、或いは親が怪我をした子供を見て「大丈夫か?」心配していう時使う。
 この時に使用する「なしたぁ」は、「た」にアクセントを置き優しく言う。

 しかし喧嘩などして怒る時に使う「なしたぁ~あ」は、最後の「あ」にアクセントを置き大声で強く言う、意味は「なんだとぉ」となる。

 これらは主に目下の人に使うことが多い。
2016年9月25日(火)
ジュエリーフェア開催
 一昨日の23日から24日まで「ジュエリーリフォームフェア」を昨年に続いて開催し、多くのお客様からご来店いただいた。

 今回も東京から宝飾の職人さんを迎え、宝石のリフォームだけではなく、ネックレスや指輪の修理などをその場で行い好評だった。

 ご夫婦で来店されてダイヤの入った婚約指輪をペンダントに作り替えたり、お母様と娘様が来店されてお母様がご使用されていたペンダントネックレスをリニューアルして娘様に渡す姿などがあった。

 また、「想像以上の出来上がりで良かったので、来年もして欲しい」というご来店したお客様が声が多くあり、嬉しい限りであった。

 しかし、当日に修理が間に合わなくなり、後日引き渡しとなったお客様も多く、ご迷惑をおかけしたことは大変申し訳なく思う。
(昨年度のフェアの様子)
2016年9月6日(火)
鈴虫の孵化

 残暑厳しい日が続いているが、今日は親戚から鈴虫を頂いた。

 真夏日が続いていても虫は秋を迎えており、リーン、リーンと心地よい音色を聞かせてくれている。

 そんな鈴虫を眺めていたら、鈴虫の先生の森氏が珍しい鈴虫の写真を持参して来店した。

 鈴虫は黒色だが、孵化(ふか)したばかりは白色で、数時間後には黒色になるという。

 それを撮影した写真を見せて頂き、スキャナーでコピーしたのが右の写真である。

 鈴虫は聞くものと思っていたのに、毎日、鈴虫を眺めて生態を観察している森氏には敬服した。

2016年9月2日(金)
秋宿る

 今月のポスターが出来上がった。
 今年はお盆の16日を過ぎてから今日までにの18日間で、猛暑日が2日間、真夏日が8日間、夏日が残りの8日間となり、残暑が厳しく、とても秋など感じられそうもない。

 しかし、暦では5日後に二十四節気の一つである「白露」となり、草木に置いて、白く光る露が見られ、このころから秋の気配が感じられはじめる、という。

 また、新米などの収穫の秋は日を増す毎に感じられ、食欲の秋を象徴することわざ 「天高く馬肥ゆる秋」に気をもむ人も多いようである。

 そこで、今月のポスターのキャッチコピーは「身体(からだ)に秋宿る」とした。

 但し、決して 「天高く妻肥ゆる秋」を連想したわけではないことを追記しておく。

2016年9月1日(木)
ジャーナル届く

 昨年5月に眼鏡学会で研究発表した論文は、「眼鏡学ジャーナル・Vol 19-2」(2016年3月発刊)に掲載されたが、これは前編だけであった。
 この後編は「眼鏡学ジャーナル・Vol 20-1」(2016年8月発刊)に掲載され、これは本日届いた。

 前回の論文はカラー印刷で作図が分かり易かったが、諸事情により今回からは白黒印刷になり分かり難くなった。

 眼鏡学ジャーナル編集員の話しでは、まだ決定ではないが、今後は「眼鏡学ジャーナル」の原稿は眼鏡学会のホームペ-ジよりカラーで閲覧できるようにする、とのことらしい。

 尚、今年5月に眼鏡学会で研究発表した論文は、誌面の都合で上記との同時掲載が出来ず、来年3月発行予定の「眼鏡学ジャーナル・Vol 20-2」に掲載される予定である。

2016年8月28日(日)
新米

 8月16日、県内で一番早い新米の早期栽培越路早生(わせ)の稲刈りが柏崎市刈羽村で行われた。
 今年の新米は春からの好天に恵まれ、品質と収量に期待され、27日頃には県内外の店頭に新米が並ぶという。
 
 そこで、今日はスーパーに行き探してみたら新米が出ていたので早速買ってきた。
 右の写真は柏﨑農協の越後柏﨑の越路早生であり、米袋の右下のには「28年度米/精米年月日/28・8・25」と記載されてあった。

 今夜は早速新米かと期待したら、料理長の妻が少し古米が残っているので新米は4,5日後にすると言われ、新米を食う前に”おあずけ”を食ってしまった。(笑)
 

2016年8月16日(火)
案山子

 今日は盆休みをとり高柳まで車を走らせたが、新潟市の最高気温が36°となるなど今夏一番の暑さとなり、こよみでは立秋も過ぎたのに残暑が厳しかった。

 しかし、確かに暑さは夏だが、車窓からの景観は秋を感じさせ、沿道にある田んぼは「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざのように稲穂が黄色く垂れかかっていた。

 そんな田舎道を走っていたら、高柳町漆山では珍しい案山子(かかし)に出会った。

 明治時代の唱歌であった「案山子」の歌詞は

 山田の中の 一本足の案山子~♪
 天氣のよいのに 蓑笠着けて~♪
 朝から晩まで ただ立ちどほし~♪
 歩けないのか 山田の案山子~♪

とあり、一般的な案山子は①一本足、②蓑笠を被り、③朝から晩まで立ち通し、④歩けない(倒れない様に一本足が土の中に深く突き刺さっている)ものである。

 しかし、この珍しい案山子は①二本足、②おしゃれな夏帽子を被り、③朝から晩まで座り通し、④ぬかるんだ田んぼを歩けるように長靴を履いているのであった。


 また、はにかみながら右手を僅かに上げた仕草を見ていると思わず笑みがこぼれる案山子だった。

 地元の人に聞いたところによると、今年は案山子はあまり似ていなかったが、昨年の案山子は田んぼの地主の奥さんにそっくりだったそうだ。

 案山子の衣装は、奥さんの古着などを利用しているので体形は奥さんと同じくなり、これを作るご主人も奥さんをモデルにしているので必然的に似てくるようである。

 この案山子には、おしどり夫婦が垣間見られる。

2016年8月12日(金)
怪談No3

曽地峠から長岡に向かう国道8号線の沿道に、廃墟になってから5年以上経過している旧ラブホテルがある。
 何故壊さないでいるのか疑問を抱いていたが、それには壊されない訳があったという。
 
 今から10年ほど前、このラブホテルの一部屋で一人の女性が、その数年後にはラブホテルの支配人がそれぞれ別の理由で自殺した。

 すると、それ以降このラブホテルには時折幽霊が出没するようになった。
 暫くしてこの噂が広がり、客も来なくなり、とうとうラブホテルは廃業した。

 ところが、その後ラブホテルを解体しようとした業者の監督が、急に体調を悪化させて入院、現場の作業員のレッカー車が転倒、解体の機械が急に動かなくなったりしたので、解体業者はこのホテルには祟りがあるといって、工事中途で解体契約を破棄し、帰って行った。

 その後、幾つかの解体業者が解体しようと試みたが、同様の病気や事故等が続出し、解体契約を取りやめ帰って行った。
 その為、とうとう解体する業者もいなくなり、何年間も廃墟を放置したまままになっているという。

 怪談No1怪談No2 

2016年8月11日(木)
青山稲荷神社

 来店のA氏が、柏﨑市荒浜の北部で刈羽村と旧西山町の境界に鎮座する青山稲荷神社について語ってくれた。

 青山稲荷神社の「神社明細帳・明治16年(1883)」には、「刈羽郡荒濱村字青山 無格社・稲荷社」、文禄四年(1595)の創立で(神社庁柏崎支部編集の資料には享和元年(1801)の創立とあり異なっている),祭神は宇迦之御魂命とあり、総本宮は京都市伏見区にある伏見稲荷大社である。

 A氏は、旧青山稲荷神社は旧荒浜町の海運業・牧口庄三郎が明治16年頃に立て替え、伏見稲荷大社に大きな石の灯篭を寄進したが、「神社明細帳」はこの時に作成した考えられるという。

 これはAが京都市の伏見稲荷大社に行き、荒浜・牧口庄三郎と刻まれた石灯篭を確認し、伏見稲荷大社の宮司より、青山稲荷神社が伏見稲荷大社の分家(摂社?)であると台帳に記載があり確認して貰ったという。

 尚、この旧社地は発電所の敷地にあったので、昭和51年(1976)、原子力発電所建設にともなって現在の社殿の位置に遷座改築した。

2016年8月5日(金)
人体熱発電

 人間は人間は、36.5℃~37.0℃が平熱の恒温動物で、常に熱エネルギーを発生させている。
この人間の体温を利用して 電気エネルギーを作り出す 熱発電装置を搭載した腕時計がある。

 それは、1998年、セイコーが実用化レベルでは世界最小の熱電変換素子を搭載した世界初の熱発電時計を限定販売した「THERMIC(サーミック)」と、1999年、シチズンが同機能の熱発電時計を限定販売した「エコ・ドライブ サーモ」であろ。

 この熱発電は、「ゼーベック効果」を応用したものである。
 これは1821年、エストニアの物理学者、トーマス・ゼーベックが、金属材料や半導体材料の2種類の物質の両端に温度差を与えると、その両端間に電圧が発生して電流が流れることを発見した熱電効果の一種である。
 この熱発電は宇宙開発の分野では早くから利用され、1977年に打ち上げられた「ボイジャー1号」にもこの原理を応用した熱発電装置が搭載されている。

  腕時計においては、それほど大きな起電力は必要としないものの、宇宙で生じるような温度差に比べ体温と外気という極微量の温度差をできるだけ活用するための断熱構造等が必要となる。
 また、腕時計として成立するサイズに封じ込めなければならず、熱発電素子として大幅な小型化と高度な微細加工技術が必要とされる。

 両社がそれぞれが研究・開発したのは、腕時計の装着者の体温と外気温との差で電圧を確保する熱電装置だ。当時、シチズンの開発部が発表した論文では、この熱電装置の平均的な発電電力は毎時約12マイクロワットで、腕時計を動かすに足る電圧が約1マイクロワットであることを考えると、体温の個人差を考えても十分なエネルギーが得られる、とある。

 人間の体温はエネルギーとなり、消費電力以上のエネルギーを2次電源に充電することで、非携帯時も常時駆動可能になり、もし、熱エネルギーを100%電気エネルギーに変換できたとするならば、60Wの電球を点灯することも可能になるとの説もある。

 熱発電時計は発売されてから20年近くなり、その後の開発は中断しているようだが、今後も開発に期待したい。

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 右上の写真は、1999年、シチズンが限定販売した「エコ・ドライブ サーモ」で、弊店のお客様が今でも愛用されている。

2016年7月26日(火)
ぎおん柏﨑祭り

 今日は「ぎおん柏﨑祭り」のフィナーレを飾る「海の大花火大会」がある。

 この「ぎおん柏﨑祭り」の礎は長い間、地区的な信仰の中心に運営されていた伝統の八坂神社祇園祭りである。

 この柏崎市西本町の八坂神社は京都市東区祇園町の八坂神社を本社とし、祇園祭りは疫病や災難を除くために、7月7日から14日に御輿(みこし)と奉納花火が打ち上げられていた祭礼であった。
 その後

昭和21年: 
 戦争で中断していた煙火大会が復活。

昭和25年:
 三井田柏﨑市長が柏﨑の市制施行10周年を記念し、八坂神社祇園祭りと柏﨑の商工祭が一緒になり、全市的体制による商工祭の性格を強めたぎおん柏﨑祭りと改称し、開催日を7月12、13日とした。 昼は料理業・芸者組合・中心商店街などの山車約10台が練り回り、夜の花火は2日間に分けて約360発程度が揚げられるだけであった。また、煙火大会では仕掛け花火やナイヤガラ瀑布(花火)などが打ち上げられた。

昭和27年: 
 ぎおん柏﨑祭りの開催日を7月12~13日から7月25~26日に日程を繰り下げ変更した。これは7月12~13日が梅雨末期、降雨に見舞われがちだったので、天候安定期にずらして奉納花火打ち上げをいっそう規模拡大し、観光柏﨑のハイライト・海水浴客の誘致による外貨獲得も計算に入れて、市民が作り上げる祭りへと方向転換を意図した

昭和28年:
 ぎおん柏﨑祭りが正式名称と決定

昭和40年頃、
 7月24日に前夜祭として民謡流し、25日山車、花火打ち上げを2日から1日にして一晩集中花火とし、海中に投げ込む海上スターマイン開発、全市民的な豪壮の仁和賀などの工夫が凝らされた。

平成10年: 
 花火打ち上げ業者が変わり、ワイドスターマインや尺玉300発など新趣向も取り入れ、中でも評判なのが「10号玉(尺玉)ワイド100発打ち」で、1500メートルの幅に尺玉100発が同時に打ち上げられる壮麗な花火は、圧巻。

2016年7月24日(日)
三階節

 先日、東京からホームページの件で伺いたいと電話があった仮称Sさんが来店された。

 Sさんは 民謡に興味があり、昨日は佐渡、今日は柏崎、明日は新潟の民謡を調べると言う。
 
 柏﨑では今日から「ぎおん柏﨑まつり」が開幕し、今夜は民謡街頭流しがあるというので、弊店のホームペジに掲載されてある三階節を印刷した用紙を持参されて立ち寄られた。

 弊店では、三階節が記載された本などを写真に撮ったりして、「これから民謡流しを見に行く」と言われ帰られた。

2016年7月20日(水)
曽地峠怪談No2
 柏﨑から長岡に向かう国号8号線の途中に曽地峠があるが、 昭和40年頃、その曽地峠にお化けが出たという話を聞いた。

 ある日 1台のタクシーが深夜走っていると、曽地峠あたりに一人の白い服を着た若い女性が手を挙げて物寂しそうに立っていた。

 タクシーの運転手は、『ここには人家もなく、若い女性が一人でいるような場所でもないのに不思議だなぁ』と思いつつ車を止めた。
 
 その女性は車に乗り込み、か細い声で『柏﨑の方へ行っていただけますか?』と言ったので、運転手は『了解しました』と答えて車を発進させた。

 女性を乗せた運転手は、暫くして急に背筋に悪寒が走り気味悪くなったので、バックミラーで後ろの眺めたら、車に乗ったはずの女性がいなくなっていた。

 運転手は急停車をして車を降り、後部座席のドアを開けて女性が座っていた席を見たら、その座席は水で濡れた跡が残されていた。

 「お化けが出た~~~!」

 その後、この運転手はショックで精神的病に侵されたという。

 これは、俺が17歳頃に曽地峠を下った所にある曽地の部落から来ていた友人から聞いた話しだ、と語ってくれた。

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 その他の怪談   、No1、 No3,
2016年7月14日(木)
ばくろう

 若いころ馬喰(ばくろう)をしていたお客様A氏が来店し、色々と話してくれた。

 元総理大臣であった田中角栄の父親の角次はこの馬喰であり、同じ馬喰仲間であった。

 A氏は主に、赤毛の朝鮮牛や、佐渡の黒毛和牛の売買・仲介を行っていたが、主に性質が温厚で農耕に適している朝鮮牛が多かった。
 
 牛の仕入れ先は 北前船の寄港地であり、佐渡島からの金銀荷揚げの地として栄えた 出雲崎であった。

 佐渡から仕入れた牛は 凪の日を見計らって 手漕ぎの小さな船に乗せて来たが 暴れる事もなかった。
 また、牛は陸地に近付くと、牛の尻を少し押すだけで素直に海へ入り 陸に向かって泳いで行った。

 無事に陸に着いた牛は 二日かかりで歩いて牛を連れてきたが、途中で草などを食べるなら良いが、稲の収穫時期には 田んぼに入り稲まで食べ、農家の人に怒られた事も度々であった。

 牛は常に無事に家に連れて来られる訳でもなく、時には崖から落ち足を骨折する牛もいた。
 そんな時は可愛そうだが、そこで殺して土に埋めて帰り、その後、大八車を持って埋めた牛を掘り返して家に持ち帰り、村の人に分けたりして食べた。

などと話してくれた。

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【馬喰】
 馬喰は伯楽(はくらく)や博労(ばくろう)ともいわれ。伯楽は古代中国では馬相(ばそう)をみる者をさしていたが、日本では馬薬師(うまくすし)(馬医)もこうよんだ。
 13世紀には馬医のほか牛の牛医(くすし)も現れた。16世紀に入ると、馬喰とは馬・牛の売買・仲介をする商人をいうこととなった。

2016年7月3日(日)
時計の乾電池

 電池式の置時計や壁掛時計は乾電池で動いているが、この乾電池には単一、単二、単三、近年はリチューム電池などがある。

 しかし、同じ単一でも種類があり、それぞれ機能別に分かれていることは分からない方が多い。
 例えばマンガン電池、アルカリ電池である。

 マンガン電池は微弱電流が得意であり、クオーツ(水晶)の置時計や壁掛時計などに使われ、アルカリ電池とのパワー差は関係ない。

 また、マンガンとアルカリ電池を比較した場合、小電力機器では電池がどれだけ長持ちするかが問われるが、マンガン電池は小電力機器では長持ちするので、これも差がなくなる。

 つまり、マンガン以外は無駄になるだけではなく、アルカリ電池は、長期使用で液漏れしやすいという性質があるため、その点でも不利である。

 但し、これらはクオーツ式の置時計や壁掛時計についてであり、近年多くなってきた電波時計はパワーがあるアルカリ電池が必要となり使用されているが、長期使用で液漏れしやすいので注意が必要である。

 ただ、不確ではあるが、電波時計には同じあるアルカリ電池でもエボルタ電池は故障が多くあるとの情報があった。

 そこで早速、時計メーカーであるシチズンに問い合わせてみたら
「使用説明書にアルカリ電池と記載されていたらアルカリ電池を、エボルタ電池と記載されていたらエボルタ電池を使用してください」
とのことだった。

 つまり「アルカリ電池使用の時計には、エボルタ電池を使用しないように」と言っているようであっった。


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