がんば716ショップ
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米山 黒姫山 八石山 三階節 柏崎の民話 阪田四郎吉 牧口庄三郎 鈴虫の心
(米山講) 北前船 柏崎とコウモリ 藤井堰


虹の米山
平成26年6月6日早朝5時37分撮影
写真を荒浜の渡辺氏より戴いた
米山の写真
    

 刈羽三山の一つである米山は、標高993mであまり高くないものの 山容は越後富士とも呼ばれるきれいな円錐状でよく目立ち、古くから信仰、農作業等の気象予測、海上交通の目印などをして親しまれ、日本三百名山の一つでもある。

 場所は北緯37度17分22秒、東経138度29分03秒、新潟県の柏崎市米山町(鉢崎)と上越市柿崎区(旧中頸城郡柿崎町)の境に位置する。

 日本三大薬師(越後の米山薬師、三河(愛知県)の鳳来寺薬師、日向(宮崎県)の法華岳薬師)とも言われ、山頂には薬師堂が祀(まつ)られ、五穀豊穣、海上の安全、雨乞いなどを祈願する米山講(米山講中、米山講仲とも言われていた)の人たちによって古くから登られてきた。

 米山の麓に点在する大清水の大泉寺観音堂、密蔵院はじめ、現在はないが15世紀まで隆盛を誇った米山寺など、それぞれ霊場として人々の信仰を集めてきた。

 「米山さんから〜雲が〜出た〜ぁ♪」という三階(さんがい)や 「行こか参らんしょうか米山薬師♪」という米山甚句(じんく) などは全国的に有名である。

 島根県隠岐の民謡を代表する『しげさ節』(しげさぶし)は、柏崎の『三階節』が源流である。

 鹿児島県姶良市に米山薬師と呼ばれる米山神社があります。これは島津季久の四男、守興が室町中期の文明年中(1469〜1487年)柏崎の米山薬師を参詣した時に、仏像を持ち帰りお堂を建て安置したものである。


 米山は、奈良時代の和銅5年(712年)に泰澄大師が開山したと伝えられ、頂上付近には泰澄供養塔があり、米山が昔「五輪山」と呼ばれていたなどの民話もある。

 米山の山頂には原三角点が埋標されている。この 原三角点は1882年(明治15年)に内務省地理局が日本国内に50点程度を埋標したと言われ、現存が確認されているのはわずかに3点しかない。 

 海底にあった米山は、海面に島(米山古陸)となって出現し、また海底に沈んだ後に隆起して今の高さになった。
 
 登山コーズは、大平、大平林道、吉尾、谷根、野田(以上が柏崎市)、水野、柿崎(以上が柿崎)などがある。

 米山は地元では米山さんと「さん」付けで呼んで親しまれ、また神仏を祭った神聖な山でしたので、昔は女人禁制の山であった。


 毎年6月の第一日曜日には、柏崎市米山駅前で米山登山安全祈願祭が開催される。

 男の子は「かぞえ年齢」で12歳(現在は「満年齢」が世界的な標準、「満年齢」では11歳)になると、初登りと称して米山に登る。 これを無事に登りきると一人前の男児として認められたそうである。
 では何故12歳か?というと、米山には薬師如来が祀られており、その如来には12体の菩薩がついていると言われ、この12の菩薩が手を引いて初登りを手助けしてくれるので、12歳に登るのだとも言われている。
 それから、翌年(数え年齢の13歳)には無事に初登りができ一人前になれたとのことで、お礼参りと称して、また登ったそうだ。
 
 数年前まで、私は米山登頂時には頂上で売られたいた「トウキ」(セリ科)という野草を買って帰ったが、これが「当帰」と呼ばれる漢方薬であることを近年になり初めて知った。
 
 日本三百名山の一つである。


白銀の米山が1番美しく感じられる

柏崎市の反対側にある上越市柿崎区から見た米山だが、形状が異なり綺麗な三角形には見えない。

海上からの米山は漁師の指標にもなった。
それにより漁師による「米山講」も広まった。

この写真はSimonDinne氏より「Sobre er beau, j'aime beaucoupj」(地味な美しさ、私はとても好きです(フランス語))とのコメントを戴いた。
その他の約80枚の「四季の米山の写真」はここをクリック
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刈羽三山
(米山、黒姫山、八石山)

 柏崎は3つの山に囲まれていますが、地元ではこれを刈羽三山と呼び、里人の信仰の山でもある。
 刈羽三山は、米山(993m)、黒姫山(891m)、八石山(518m)の3つの山である。
 柏崎から見ると、まず目を引くのが三角形の山容をした南西にある米山。
 次にその米山より左に目を転ずると南側にぼこっと盛り上がった山が南に見える。それが黒姫山。
 それから更に左に目を転ずると、日本海の反対の東側にぼこぼこと幾つかの山々で 大仏さまが寝ているように見えるのが八石である。

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原三角点
 (原三角点は日本国内でわずか3点しかない)

 米山の山頂には薬師堂の前の雑草の中に四角錐柱標石の原三角点がひっそりと埋標されてある。

 この原三角点は一等三角点の原型で、日本国内でわずかに3点しか現存しない。

 正面に「原三角測點」、側面には「明治15年8月」と刻まれてあり。この「明治15年8月」は現存する最も古い原三角点でもあるようだ。
 
 1882年(明治15年)に内務省が埋標した三角点が『原三角測點』。陸軍参謀本部陸地測量部が引き継いだときすでに50点ほど埋標されていたという。
 その選点(設置場所の選定)は約100点ほど終了していて、陸地測量部の三角点もほぼその選点を利用したと思われますが、新しい三角点標石を埋設するときに、そこにあった『原三角測點』は殆ど処分されてしまったようである。
 その為に現存が確認されているのは日本国内でわずかに3点しか現存しない。

 それも、2001年までは日本で米山と雲取山の2点しかありませんでしたが、同年5月に群馬県の地元の登山家・天野氏が白髪岩で原三角点を存在を確認され3点になった。

原三角点が現存する山

1、山の名: 米山(よねやま)(標高993m)
  場所:  新潟県柏崎市と上越市(旧、中頸城郡柿崎町)の境に位置する
  刻印:  「原三角測點」、「明治15年8月」、「内務省地理局」、上部に「×」印なし
  その他: 一等三角点そばに補助点らしき小柄な標石あり

2、山の名: 雲取山(くもとりやま)(標高2017m)
  場所:  東京都・埼玉県・山梨県の境に位置する
       東京都では最高峰
  刻印:  「原三角測點」、「明治15年12月」、「内務省地理局」
  その他: 補助点と思われる同型の小柄な標石あり
                

3、山の名: 白髪岩(しらがいわ、白髪山:しらがやま)(標高1521m)
  場所:  白髪岩甘楽郡下仁田町
  刻印:  北面:「明治15年10月」、東面「原三角測點」、南面「内務省地理局」、上面:「×」印
        刻印は米山の標石とは南北の表記が逆
  その他: 雲取山や米山と異なり設置当時のままの状態で発見された貴重なもの


 原三角点の形状は四角錐台で、高さ40cm、上部は15cm角と一等三角点に比べかなり大柄です
 
 (2010年6月6日撮影)
原三角点













 「選点 明治25年11月10日、埋設 明治27年11月11日」とあります。

 (2010年6月6日撮影)




一等三角点












 原三角点と三角点の歴史

1875年(明治8年):
 内務省地理寮が関八州大三角測量を実施。

1877年(明治10年):
 地理寮から「地理局」へ改称し、地籍調査のための測量開始。このころ標石の規格が決まる。

1878年(明治11年):
 地理局が那須野基線測量(日本初の本格的基線測量)実施。全国の三角測量に着手

1878年(明治11年):
 地理局が陸軍参謀本部へ。組織改編により測量部地図課・測量課設置。測量課長小菅智淵が全国測量計画を参謀本部・山県有朋に具申、「迅速地図」による伊能図以来の本格地図作成と三角測量の遠大な計画が実行に移される

1881年(明治14年):
 陸軍が東京湾で実験・検算のため三角測量を実施 千葉県鹿野山の緯度、方位角を決定。 地理局設置の三角点を生かし、陸軍では主に2等以下の三角点を設置する方針に。

1882年(明治15年):
 地理局が江戸城旧本丸天守台に独自の経緯度原点を設定。
 陸軍が相模野基線測量 ドイツの測量技法、図式を取り入れる。


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米山古陸
  

 海底にあった米山は、550〜500年前に忽然と隆起し島となって出現した。 
 この島を「米山古陸」という。
 その後、また海底に沈んだ後に、再隆起して今の米山になった。
 その昔、米山はずっと海底にあったが中新世末期(約550万〜500万年前)、北西-南東方向に延びる、長さ15Km程の島となって海面に出現した、この島を米山古陸という。
 米山古陸は米山地域の火山活動と密接に結びついており、火山活動を予測するかのように忽然と出現し、鮮新世にあった火山活動の始まる直前に海底にその姿を消したと考えられる。

 その後、米山が現在のように高くなったのは、第四世紀以降の島弧(とうこ)変動と呼ばれる地殻変動による急激な隆起によるもの と思われる。



新        生         代
第     四     記 新    第    三   記
完新世 更  新  世 鮮新世 中  新  世
    1万年前       50万年前   170万年前    510年前       2,400年前

地質年代
古 生 代 古 生 代 新  生  代
カンブリア紀 オルドビス紀 シルル紀 デポン紀 石炭紀 ペルム紀 三畳紀 ジュラ紀 白亜紀 古第三世紀 新第三世紀 第四世紀
英国ウェーズ(旧名カンブリア)地方が由来

三葉虫の化石
英国ウェーズ地方のオルドビスが由来 英国ウェーズ地方のシルルが由来 コッコステウスの化石 ペルムとはロシアのペルム市が由来

アカントーデスの化石
ドイツでは地層が3色の層から構成されているのが由来 フランス・スイスの国境をなすジュラ山脈が由来

アンモナイトの化石
白亜紀の地層には石灰岩が多いのでチョーク(白亜)が由来
5億年前 4億年前 3億年前 2億年前 1億年前 五千万年前 2千万年前
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泰澄大師

「泰澄大師と刻印があります。
(2010年6月6日撮影)

 米山は、奈良時代の和銅5年(712年)に泰澄大師によって開山されたと伝えられ、米山の頂上から水野コースで少し下った所に、泰澄大師の供養塔がある。

 この供養塔は2007年の中越沖地震では崖下に転落してしまったが、1年後に上越市と柏崎市の有志によって元の位置に戻された。

 泰澄大師が、それまで五輪山と呼ばれていた米山で修業を積んでいたという民話が残されている。

 泰澄大師(682年-767年)は奈良時代の修験道の僧 で越前国麻生津(福井市南部)の出身。加賀国(当時越前国)白山を開山したと伝えられ、越の大徳と称された。

 また泰澄大師は柏崎市米山町(旧米山村)にある大清水観音堂をはじめ柏崎の黒姫山なども開山した。
大清水の山頂には泰澄が創立したと伝えられる真言宗の名刹、国指定重要無形文化財の大清水観音堂などがある。
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米山開山の泰澄大師と大清水観音堂
 柏崎市青海川地区にある米山大橋は、日本海と米山を背景にすると絶景である。
 その橋の下にある信越線の青海川駅から南西には、笠島、米山(鉢崎)駅がある。
 かってこの三地区は中頸城郡米山村であったが。昭和31年に柏崎市に合併し、以来市の西端に位置してるのが米山である。
 ここは依然鉢崎と言われ北陸街道筋に当たり鉢崎関所があった所である。
 奥野細道で北陸路を旅した松尾芭蕉が一夜の宿を借りたという「たわらや跡」、カラフト発見の松田伝十郎の生家等、沢山の史跡のある米山町である。

 高速道の米山インターチェンジから、信越線に並行する国道8号線を日本海に沿って南西に柿崎方向に走ると、この米山町を過ぎる所左側(山側)に“重要文化財、大清水観音堂参道”と刻まれた石の道標とその脇に「越後柏崎七街道、国重文、大清水観音堂」と書かれた青い小さな標識がある。

国道8号線にある石碑と標識
 ここから入って山の下の駐車場から歩くこと15分、ちょっと汗ばむ頃、海抜200mの頂上に出ます。
 大きな欅(ケヤキ)、老杉に囲まれた中に幾つかの堂が目に入ります。中でも中央にある茅葺(カヤブキ)屋根のお堂が室町時代に建てられた“国指定重要文化財の大清水観音堂”である。

 このお堂に向かって右の小高い所には、“新潟県文化財の飯綱神社”がある。
そして柏崎市の文化財としては“仁王門である山門と木喰上人(モクジキ ショウニン)の刻んだ歌の木額”がある。

 このように境内には国・県・市の文化財がまとまってあることになる。
 これらを管理しているのは、大泉寺という真言宗のお寺であり、今でもその山頂には四季涸れることなく湧き出る清水があるが、この清水が沢山出ることから大清水という地名、そしてそこにある寺の名を泉の寺、大泉寺と名付けられた、と言われている。

大清水観音堂(国指定重要文化財)

 観音堂は明治39年に特別保護建造物として、後に国宝として指定を受け、昭和25年の文化財保護法制定によって国指定重要文化財となり現在にいたっている。
 朱鳥元年(686年)に持統天皇の勅願として創建されたもので古い歴史をもっている。開山は米山薬師と同じように泰澄禅師の力によるもので、本尊は、千手千眼観世音菩薩である。
 この泰澄と大清水観音堂との「荻の大木」、観音堂の境内にある「龍燈杉」などが民話に残っている。

 お堂は前後4回の雷火によって焼失したが、昭和25〜26年にわたって国費361万円で大修理を行った際、柱と屋根の間で支えている組物の中から次の墨書が見つかっている。
 『永六仁年5月廿一日榊原与左衛門コレヲツクル』
 現代のお堂は、和唐両様式を取り入れた室町建築で、均整のとれた格調あるたたずまいは印象的、後世に残さなければならない貴重な文化財である。
 
飯綱神社新潟県文化財

 本殿は一間社(イッケン ヤシロ)流れづくりで正面に階段のない見世棚づくり(昔のお見せ風)の社殿で、もとはそのまま露出していたものを後世になってから、おおいの屋根を造って保護したと言われている。
 創立については資料がなく分りませんが、観音堂の特徴とよく似ていて、室町時代の建築様式をそのまま伝えており昭和27年新潟県の文化財に指定された。

大泉寺仁王門(柏崎市文化財)

 かってはこの仁王門をくぐって寺に入ったものだが、今は道路が変わりともすると気付かない事がある。
 寺伝によれば天正7年(1579年)上杉景勝の寄進と言われていて、室町時代の特徴を示す三間(ミイマ)一戸の八脚門で」ある。
 昭和61年柏崎市の文化財に指定された。
 尚、「稲刈り仁王」の伝説で知られた二体の仁王が安置されている。
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米山登山安全祈願祭

 毎年6月の第一日曜日午前7時には、柏崎市のJR米山駅前広場で米山山開きと安全祈願祭が開催されている。

 今年(2010年)は6日にあったたが、天候にも恵まれ多くの老若男女が米山登山を楽しんだ。

 50年ほど前までは一般家庭には自家用車などはなかったので、柏崎の多くの人々はこの米山駅まで電車に乗って大平コースで米山登山をするのが一般的であった。

 と言っても、大正生まれも父の時代には、電車さえ乗らずに家からこの米山駅前まで30〜40Kmを徒歩で、それから小休止して登山をしたのが一般的だったと聞いている。

(2010年6月6日撮影)
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米山登山コース

 登山コーズは、柏崎市からは米山駅から出発する大平、大平林道、笠島駅から出発する吉尾、新猿飛橋から出発する谷根、払川から出発する野田、上越市柿崎区からは米山寺から柿崎、そして泰澄大師の供養塔がある水野などがあり、およそ3時間半の行程である。

 柏崎からの一般的なコースは、電車で米山駅迄行き、そこから比較的なだらかな大平コースから登り、帰りは急勾配だけど距離が短い吉尾や谷根から降りてくる。
 この大平コースは、山頂まであと200mの地点に「←水場」の道標があり、コースから少し外れた所に天然の水飲み場がある。

 最近は大平(米山)林道まで車で行き、そこから登るとより楽なのでこのコースが多くなっている。
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鹿児島県の米山薬師

 鹿児島県姶良市鍋倉の小高い山の上に 米山薬師(よねやまやくし)と呼ばれる米山神社がある。

 室町中期の文明年中(1469〜1487年)、帖佐を支配していた豊州(ほうしゅう)家初代島津季久(1413〜1477年)の四男、守興(起宗和尚)は、薬師如来を信仰して諸国を巡礼した末に、遠方の地、越後国柏崎の米山薬師に百日間参籠(さんろう)した。その参籠時に巡礼の僧から木彫りの薬師如来像を貰い受け帖佐に持ち帰った。
 帰郷後、守興は起宗(きそう)和尚と名を改め、米山薬師に地形がよく似ている平安城南方の山の上に お堂を建立して 薬師如来像を祀った。その後、この山を米山薬師と称し、またこの一帯の地名も米山と呼ぶようにした。これが帖佐の米山薬師の始まりである。

 明治元年(1868)神仏分離令発布とともに、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、米山薬師の薬師堂は破壊されてしまった。
 この時、本尊はひそかに隠されたとする文献もあるが、現存していない。
 その後、(寺ではなく)米山神社(よねやまじんじゃ)として再興され、今もなお地域の人には米山薬師の名で通っている。
 この米山神社付近の住所は現在は鍋倉だが、通称の地名としては米山薬師に由来して米山が用いられており、米山バス停もある。

 米山薬師は古くから疱瘡(ほうそう、天然痘のこと)の神様として知られ、鹿児島弁でホソンカンサァ(疱瘡の神様)と呼ばれていた。中腹にある井戸から湧く水を飲んだり体に塗ったりすることで天然痘を防げるとされて、天然痘が流行ると参拝客が絶えなかった。
 1926年(大正15年)に、鹿児島県で天然痘が流行した際には、毎日1000人以上の参拝客が訪れたといわれている。

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☆ 鹿児島県の米山薬師と柏崎の米山薬師
 鹿児島県の米山薬師は上記のように米山寺から米山神社になったが、柏崎の米山薬師は現在、山頂にあるお堂のお札などを上越市柿崎区にある米山寺(べいさんじ)が管理している。

☆ 鹿児島県の「用心子」と新潟県の「若(も)しかあんにゃ」
 広辞苑を見ると、鹿児島県では長男亡き後を継ぐ次男、3男を「用心子」と呼び、新潟県では次男のことを「若(も)しかあんにゃ」と呼び、若しかしたら(長男が亡くなり)次男、3男が長男になるという意味で使用されている と記載されてある。
 次男、3男などをこのように呼ぶのは、全国で鹿児島と新潟だけである。
 ひょっとしたら四男である守興の米山薬師参詣時に伝えた「用心子」が、越後新潟で「若しかあんにゃ」と言い換えられて広まったのかもしれない。

☆ 薩摩の大山巌は次男に「柏」と名付けた。
 大山巌は、柏崎滞陣中に次男が誕生したので、その子に「柏」と名付けた。この次男が民俗学あるいは人類学に貢献した大山柏である。

※ 大山巌(天保13年(1842年)-大正5年(1916年)
 薩摩藩士、元帥陸軍大将(日露戦争時には同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた)、貴族院議員として大警視(第2代)、陸軍大臣(初,2,3,4,6,7代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第5代)、元老などを歴任。

※ 大山柏(1889年-1969年)
 日本の華族、陸軍軍人、考古学者、公爵、貴族院議員、文学博士。

※ 明治時代の柏崎、新潟訪問者
 明治11年、明治天皇の北越行幸で柏崎。
 明治34年、伯爵大隈重信訪問、「日本石油百年史」に歓迎会(牧口義矩も同席)の写真ある。
 明治39年、東郷平八郎の新潟訪問
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 昔の米山登山
 80歳のお年寄りから、昭和25年頃の昔の米山登山について聞いた。
 おれが初めて米山に登ったのは、20歳の頃で山開きが始まった6月であった。
 青年団の活動の一つで男も女も参加し、総勢20人くらいだった。

 地元では「かぞえ年齢」で12歳に登るのが一般的で、それは厄落としの一つになっていた。
 だから、参加者の殆どが子供の頃に米山初登山を体験していた。
 俺だけが何故遅かったのかはよく分らない。

 登山の醍醐味は、なんといっても頂上でご来光を見ることである。
 また、6月になると日中は蒸し暑くなることもあり、夜に登山するのが一般的であった。
 そのような理由で、出発は前日の午後7時頃であった。

 米山登山は今でこそ山麓まで車で行き数時間で楽しめるが、昔の地元松波(柏崎市)からの登山は荒行に近いものであった。
 
 当時は米山の山麓にあった『鉢崎駅』(現在の米山駅)まで電車に乗っても行けるのだが、殆どの人は登山する前の足慣らしだと言って松波から米山の麓までの片道約20Kmを徒歩で6時間ほどかけて行った。

 途中にある米山峠などの山坂を越え、やっと米山の麓に着いた時には相当の疲労度もあったが、小休憩しただけで直ぐに登山の仕度をした。

 この頃は懐中電灯を持っている人は少なく、各自が松明や提灯を持ち、足には藁草履(ワラゾウリ)を履いての登山だった。

 先頭には登山経験が豊富で健脚な人が松明を持って登り、その後に初心者などが提灯を持って登る。
 しばらく登り始めると、遠方に先に登っている登山者による松明や提灯の明かりが、1つの線になって頂上に向かってユラユラと揺れながら動いていた。
 提灯を持っての夜の登山は視界がそれほど良くなく、ヌルヌルした木の根を掴んだのでよく見るとそれは蛇だったりした。
 
 そんなことをしながらどうにか頂上についた。下界を見ると、柏崎中心部の街明かりや、海辺での松明の明かりがきれいだった。
 (6月の柏崎の海辺は、松明の明かりでのモクガニ捕りが盛んだった。川に住んでるモクガニは6月頃になると海に出てくる。 モクガニは昼間は岩陰に隠れいるが夜になると岩陰から出てくるので、人々は松明の明かりでこのモクガニを捕っていた)

 出発してから僅かな休憩だけで寝ずに歩き続け、やっと頂上に付き横になって寝ることができた。

 数時間の仮眠で起こされ、東の山間から神秘的な輝きのご来光を見たがさすがにきれいであった。
 また、西の夜明けで明るくなってうく日本海の水平線を見下ろせたのも格別であった。

 その後下山、また20kmの帰路を歩き、全員無事に自宅に辿り着いたが、もうヘトヘトになっていた。
 
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米山講
 (山岳信仰)
 米山講は農村生活を支えている一つの機能としてあった。
 一般的に講は宗教団体であり、教団拡張のため、社会の表面に表れている報恩講(浄土真宗)、身延講(日蓮宗)などの講は各地にあって珍らしくない。

 ところがこの米山講は宗教との直接的結合は少なく、宗派を問わず各部落ごとで仲間が作っている地縁性の深いものであった。 このような講はその他に庚申講や二十三夜講などがある。

 米山を信仰する人、五穀豊穣を願う人、諸病の治療を祈願する人、家内安全を願う人、海上安全を願う人などの集まりを米山講と言う。
 米山講は毎月決まった日に順番に宿を決め部落の常会を兼ねて集まり、宿に決まった家の床の間に薬師如来や明神などの掛け軸を掛け、念仏を唱える。それが済むと飲食を共にしながら歓談して解散する。
 また、毎年1回、順番に数人が代表して都合の良い日に米山に参拝(これを代参という)し、米山薬師のお札とトウキ草などを受けて持ち帰り、各家に配り、それらを神棚と田に祀る。

 米山を信仰する講中によって建てられた石塔は多くある。
 その石塔は中越(長岡、柏崎、三条市など)を中心として下越(新潟市など)にも及んいるが、米山を境に南西に位置する上越(上越市など)には殆ど見られない。

 薬師講、米山講は江戸初期に始まっていたと言われ、中期の明和・寛政年間には講の実例が散見できる。
                       柏崎近在の米山講
 
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米山薬師と虫送り

 稲に害を及ぼす害虫が大量に発生したとき、害虫を村外に追い払う為に、村全体で行う行事が虫送りである。新潟県内では各地で行われていた。
柏崎では7月13、14日に夜に米山薬師の虫除け札を持ち、わらや麻幹(オガラ)の松明(タイマツ)をつくり、笛・太鼓・ホラ貝・鉦(カネ)などを打ち鳴らし、「稲虫オクレヤ、稲虫オクレヤ」と叫びながら、村端まで進み松明を川に流したり、積み上げて燃やしたりした。
(柏崎市市史より)
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米山の雪型


 米山の 鯉型の雪 いつしか 霞にとけて 夏は来にけり 
 (中村葉月)
 米山の雪型とは、柏崎で古くから行われている米山の自然現象を見ての気象予測をした一つであり、三階節の「米山さんから雲が出た」などが有名である。
 春にあり雪消え時になると、米山の種子蒔(スジマ)き男や鯉の雪型があらわれ、そろそろ春他の始まりを告げる。
 農民たちは、春田にいそしみながら鯉型を眺め、鯉の尾の大きさを見て今年の豊凶を占う などと古人は米山さんを見ては気象予測していたのである。
(柏崎市市史より)
右は米山に筋蒔(すじま)き爺の雪形である。まだ爺さんの体は痩せているが、もう少し経つと雪が解けて爺さんの体も太ってくる(笑)

この雪形は、右図のように頭に蓑(みの)を被った人が両手を広げて種を播いているように見えることから地元では「筋蒔き爺さん」と呼称されている。
尚、「筋蒔き」とは畑に平行な筋状のうね(土を盛り上げたところ)
を作り、そこに一定間隔で種をまくことである。
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五倫とは

 米山が昔五倫山と言われていた五倫とは仏語で、古代インドにて宇宙(あらゆる世界)を構成しているとする地(ち)・水(すい)・火(か)・風(ふう)・空(くう)の五つの要素を五大とする思想が現れ、これが東アジア一帯に広まり、その後、仏教の一派である密教では五大を五輪(ごりん)と呼び日本に伝来、この思想に基づく塔婆として五輪塔の造立がある。
 また、同じく仏語で人間の五体のこと、とも言われているようだ。
 中国の五行思想(木・火・土・金・水)と数が同じなどで近似していますが、両者は全く別個に成立したものである。
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米山の薬草“当帰”(とうき)


 数年前(2008年?)まで、米山登頂時には頂上で売られたいた「当帰(とうき)」(セリ科)という野草を買って帰った。
  これを柏崎地方では、玄関の上に飾るとその家は 無病息災になるなどの魔除けとして扱われ、下山後に親戚や知人にも配ったりした。

 昔から、この「トウキ」を売っていたのは吉尾とその隣の小杉集落のおばあちゃん達だったが、今はその集落も廃村になり「トウキ」を売る人もいなくなってしまった。


 この「トウキ」は山地の岩間に野生しているセリ科の多年草で、7月上旬には上の方に拡がって細い白い花を無数に咲かせ楚々とした風情があるが、根の部分は薬用になる。全草に特異な甘い芳香を持つ漢方の世界で知られる中国の薬草で、漢薬名は“当帰”と言われ「神農本草経」にも記載されている。(「神農本草経」とは中国に現存する最古(後漢の頃で紀元25〜220年と推定)の薬物書)

 「当帰」の根の効用は、婦人諸病、産前産後諸病、あるいは流産癖、補血強壮、血の道病、生理障碍、浄血等々、女性にはなくてはならないものだったようである。

 柏崎の米山周辺の「当帰」
は有名で、江戸時代の幕府の侍医になった十日町出身の尾台榕堂先生が、「良質とされる奈良産より優れている」と評価したそうだ。

 また、江戸末期の華岡青州先生が、この根から創製した紫雲膏は、現在でも、火傷、凍傷、外傷など膿や滲出液の少ない皮膚症状に使用されている。 
 
 紫雲膏は、中国の明の時代に陳実功が「外科正宗」に記載した潤肌膏に、華岡青州先生が豚脂を加えてつくったのが紫雲膏だと言われている。

 現在でも漢方の当帰は、サンスターの「薬用ハミガキ 生薬当帰の力」、ツムラの漢方「当帰芍薬散料」などが販売されている。
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米山大橋落成日(昭和42年)の写真

 右記の写真は、米山橋が落成した当日のものである。
 渡り初めの式典後に一般公開されると聞き、父はバイク、私は自転車に乗り柏崎市の中心部から上越方面へ向かって約5kmの山坂を越えて見に行った。

 まだ一般庶民の家には自家用車がなく、殆どの人は自転車やバイクで来ていた。
 翌日の地元紙である柏崎日報の新聞には、新花町の赤堀親子の記事が写真入りで記載されていた。
 年老いた両親に晴れの米山橋の落成を見せたいと、リヤカーに布団を載せその上にご両親を乗せ膝には毛布をかけて、米山大橋までの約5kmを人力で引っ張ってきたという美談であった。

 この橋の落成の陰には、昭和40年(1965)自民民主党幹事長、昭和47年(1972) 内閣総理大臣に就任した田中角栄氏の尽力が大きかったと推論できる。


 アルバムを整理していたら、45年前の昭和42(1967)年に米山大橋が落成した日のモノクロ写真が出てきた。

 当時は、赤く曲線を描いた米山大橋は斬新で、高さが53mの橋は日本一だったとか聞いたが、現在でも国道8号を代表する橋梁の一つとなっている。
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