〒945-0063 新潟県柏崎市諏訪町11-41
 TEL 0257-22-4553 営業時間10時~18時
定休日
月曜日
お買物ガイド K18愛ペンダント ネックレス
シチズン腕時計
補聴器 駄文 視軸記 トップ

2010年1~3 ・4~6 ・7~9 ・10~12月
 11年1~3 ・4~6 ・7~9 ・10~12月
 12年1~3 ・4~6 ・7~9 ・10~12月
 13年1~3 ・4~6 ・7~9 ・10~12月
 14年1~3 ・4~6 ・7~9 ・10~12月
 15年1~6 ~12 16年1~6 ・~12月
 17年1~6 ~12 18年1~6~12月
 19年1~6 ~12 20年1~6~12月
 21年1~6 7~12月
2014年7月 2014年8月 2014年9月
・虹と米山
・潮焼けの賑い
・毒蛾大量発生
・今日は初伏
・火葬場跡繁栄
・一兵卒人影
・柏﨑花火大会
・大輪カサブランカ
・柏﨑の七夕
・牽牛花
・柏崎七夕の馬簾
・昔・今・将来(笑)
・くぅ~ろぉ《方言41》
・電話交換手
・松波と三浦氏
・今日は社日
・商店街防犯カメラ


2014年9月28日(日)
商店街に防犯カメラ設置
 諏訪町商店街に防犯カメラを数台設置された。
 これまで諏訪町商店街には、郵便局前にある掲示板のガラスが割られたり、花壇の花が盗まれたり、自販機や看板などが壊されたり、ず~と昔には連続放火 もあった。
 これで少しは安心できるかも。。。
2014年9月24日(水)
今日は社日(しゃにち)

 カレンダーを見ると昨日が秋分の日だったのに、翌日の今日はあまり見かけない社日と書かれてあった。

 社日(しゃにち)とは雑節の一つで、生まれた土地の守護神「産土神(うぶすながみ)」を祀る日とされ、春と秋にあり、春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日である。
 春のものは春社(しゅんしゃ、はるしゃ)といい豊作を祈願し、秋のものは秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)といい収獲を感謝する。

 社日が「戊の日」に行われる理由は、十干の戊が五行説では土の徳を備えたものとされること(つちのえ:土の兄)から、土の霊力を祭る日として選ばれたものと考えられる。

 日本の暦にある年中行事は中国から伝来したものが多いがこれもその一つで、多くが古代中国で成立した五行説によるものである。

2014年9月11日(木)
松波と三浦氏

 市内の松波在住のお客様が来店され,
「当家の先祖は鎌倉幕府の有力御家人であった三浦氏を祖とする品田善四郎(宗派は真言宗)で、越後荒浜に来て、領土を守る為に荒浜新田(現在の松波)で活躍したと聞いている」
と仰った。

 昔、領地争いで困っていた荒浜村の住民が、武門の誉れ高き家柄の三浦氏の後裔がいると聞き助けを求めたのではないか。

 当時の荒浜村の境界は鯖石川から北とされていたが、この鯖石川は氾濫を繰り返し、これにより川口も南北に移動していたので、村の境界もその度に移動し、この境界の変動による争いが絶えなかった。
 そこで荒浜村は、境界が農地だけではなく、海の漁業圏の確保でもあったので、鯖石川の北の川口に見張り小屋を建てて、村の勇者がそこに居て守ったが、この時に長として依頼されたのが三浦氏の後裔だったと推測できる。

 その後、見張り小屋の周りには、一般の人々が住む家も出来て荒浜新田となり、現在の松波となった、と本で読んだことがある。
 この見張り小屋の位置は、昔の鯖石川の川口はもっと沖の南側だったので、現在の鯖石川の川口の先になるが、これは「鯖石川と鵜川」で前述してある。

 *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
 三浦氏は源頼朝の挙兵に参加して大功を挙げた経緯から、相模国や河内国に広大な所領を持ち、鎌倉初期からの有力御家人のうち、最後まで残った一族だった。
 しかし、宝治元年(1247年)、党首三浦泰村は宝治合戦で大敗し、一族郎党と共に鎌倉の法華堂で500人が自害して果てた。
 ところが江戸時代の『寛政重修諸家譜』では、「三浦泰村は、ひそかに弟の家村に『後裔を保つべし』と命じて逃がした」となっている。
 その後、新井白石の『藩翰譜』(はんかんふ)に」よると、志摩守平正次は駿府式部太夫家村の末裔」とあり、これが元和9年(1623年)再び三浦性に復し、下野国壬生藩で2万石の大名に、明和元年(1764年)以降から明治維新まで美作(みまさか)国勝山藩の藩主となり、明治に子爵を与えられている。
 一方、宝治合戦で三浦党に参戦せずに残った三浦義澄(よしずみ)の弟の十郎義連(よしつら)を祖とする佐原氏は、三浦党滅亡後に三浦介となり主導権を握った。
 その後裔が三浦義同(よしあつ)、義意(よしおき)父子で、三浦半島の衣笠城で、関東一円の制覇を狙う北条早雲に敗北し自害し、一族の一部は各地に離散した。
 このどちらかの三浦氏の後裔が品田善四郎と推測できる。

2014年9月5日(金)
電話交換手のストップウオッチ

 電電公社の時代、市外や県外に電話するには電話交換手を介して通話が行われ、電話が終わった後には通話料金が伝えてくれていた。

 通話料金は、通話する地区までの距離による異なるので、まずこの基本料金を調べ、次に、これに秒単位で計った通話時間を掛けて料金が決められていた。
 この通話時間は、電話交換手がストップウオッチを手に持って計っていた。

 右の写真は、その当時に使用されていた手巻きのストップウオッチと同等のもので、長針が1回転すると1分になり、12時の下にある短針が1目盛動くようになっている。

 ※、今の日本電信電話株式会社は、日本の通信事業最大手であるNTTグループの持株会社であるが、前身は国営公社の日本電信電話公社(略称は「電電公社(でんでんこうしゃ)」又は「電々公社」)で、これが1985年に民営化したものである。

 ※、現在の日本の通信会社は電話が自動化されているため、電話交換手を介する必要はないが、現在でも「100番通話」という方法で、電話交換手経由で電話を掛けることが可能である。
 100番通話とは、電話が終わった後に通話料を伝えてくれるというサービスだが、これを選択すると割高になるので殆ど使用されていない。

2014年9月2日(火)
くぅ~ろぉ《方言41》
某会で「語り部」会の方が柏崎昔話を語られた。
その話しの中に「くぅ~ろぉなってさ」の文言があった。
「く~ろぉ」とは方言で、「暗い」「暗く」の意味である。
2014年8月29日(金)
昔、今、将来(笑)
ユーモアに富んだ会話をするお客様が、体の検査器具の電池交換をする為に来店された。
「昔は酒、女、博打とお遊びに浪費していたが、今は医療費で金を使うようになり、もう少しするとお寺にお金を使わなければならない」
と仰ったので私は
「過去・現在・未来の表現が上手い」
と言って笑ってしまったが、ここは笑ってはいけなかった。
2014年8月17日(日)
馬簾(ばれん)

 柏崎の「七夕送り」で使われていた「馬簾(ばれん)」とはどんなものか?気になり調べてみた。
 辞書では、纏(まとい)の周囲に房のように垂れ下げた、細長いラシャや厚紙、革などで作った飾り。 また、着物用語大全によると「馬簾(ばれん)とは、歌舞伎の衣装で、四天の裾や、伊達下りの裾の部分についている装飾的な房のことで、金、銀、色糸のものがある、と記載されていた。

 次に先日のラジオで、四百年の伝統を誇る新潟県の「片貝まつり」(毎年9月9・10日開催)では、それぞれの町内で纏(まとい)を披露するが、この纏は、纏から垂れ下がる飾りから「馬簾(ばれん)」と呼ばれている。この「片貝まつり」は世界最大とされる四尺玉の打ち上げ花火で有名だが、これは浅原神社秋季例大祭奉納大煙火である、と聞いた。

 それから、愛知県豊川市の牛久保八幡社で行われている「うなごうじ祭(若葉祭)」(毎年4月7・8日に近い土・日曜日)では、氏子の方々が豪華な「ダシ」を先頭に八幡社へ集まり、神輿渡御の行列が町を回る。ちなみにこのお祭りのダシは、いわゆる山車ではなく、時代劇でお馴染みの町火消の「まとい」のようなもの。氏子各組のシンボルである。この「まとい」のような上部をダシ、下の吹流し部分を馬簾(ばれん)と呼ぶ、とあった。
 
 そこで、上記の二つの神社祭りで馬簾が使用されているように、柏崎の「七夕送り」も神社の祭りの一環で馬簾が使用されていたのではなだろうか? 

 柏崎の「七夕送り」が棚機女信仰に由来するならば、「棚造りの小屋」は穢れを払う川などの清らかな水辺で俗世から離れた場所になる。
 『柏崎日記』には御預り所の大橋(鵜川橋)から見下ろした、大橋の前の広場、と記載があるが、この広場とは鵜川の川口ではないだろうか?

 もし、柏崎の「七夕送り」が神社の祭りで、場所が鵜川の川口だとすると、神社は八坂神社か御嶽神社ではないかと推測してみた。

2014年8月7日(木)
牽牛(けんぎゅう)花 (朝顔)
 今日は立秋だが、天の川の両岸にある牽牛(けんぎゅう)星と織女(おりひめ)星が年に一度会うという陰暦の七月七日の「七夕」でもある。

 この牽牛の花である牽牛花は、七夕のころ咲く花として長く親しまれてきた朝顔の別名でもある。よって夏の花と思われる朝顔の季語は夏ではなく、秋の季語になる。

 弊店のテーブルには季節ごとの切り絵が置かれている
、今月は、この朝顔の切り絵で、俳句は加賀千代女(かがのちよじょ)の『朝顔に つるべとられて もらい水』 と書かれてある。

他の切絵: /初春 /初夏 /秋
  加賀千代女は、朝顔を二十八句(『加賀の千代全集』)など生涯に千七百句を詠んだ、江戸時代(元禄16年(1703)~安永4年(1775))の最も有名な女性俳人で、この俳句の意味は、

「朝起きて、井戸で水を汲もうとしたら、朝顔が釣瓶 (つるべ)の所につるを巻きつけていた(釣瓶 とは、井戸水をくむために、縄や竿(さお)などの先につけておろす桶(おけ))
 そこで、朝顔をつるを千切って水を汲んでも良いのだが、それでは可哀相と思って、隣の家の人に水を貰いにいった」 と解釈されているが、
 明け方に開き、昼近くには閉じてしまう朝顔の花に、人生の無常を感じていた からとも言われている。

 その他に、この作品の裏には、次のようなの素晴らしい所があると解説した人がいた。

 1、朝顔が、実際に釣瓶 に巻きつくほど生長するには数日間が必要で、毎日何回も使用するであろう井戸を、数日間もまったく使わないということは考えられない。
 2、毎日使う大切な生活用水の井戸の周りは、常に清潔を保つ為にも雑草とかは取り除いているはずである。
 3、毎日何回も使用する水を、その度に隣からもらって運ぶ事は大変な作業で、これを継続するには新しい井戸を作るしかないが、そんなことは考えられない。

 以上のことから、この作品は実体験を詠んだものではなく、繊細な感性で機知と諧謔(かいぎゃく)を駆使して発想した句だという。

 う~ん、俳句も行間を読むと違った見方ができるのか。
 いずれにしても、凡夫にはとても真似のできない素晴らしい句である。

  *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** 
 「機知」:、その場に応じて、とっさに適切な応対や発言ができるような鋭い才知
「諧謔」:、こっけいみのある気のきいた言葉。しゃれや冗談
2014年8月5日(火)
柏﨑の七夕送り
 明日から8日まで「仙台七夕まつり」があるが、『柏崎日記』に柏崎にも「七夕」の行事があった事が記載されいた、と梶谷氏からメールが届いたので調べてみた。

 『柏崎陣屋』主催の柏崎の「七夕送り」は例年8月1~7日まで(旧暦7月1日)より開催されるが、その数日前より子供たちが 数日間家々を回って五文・十文の小銭ばかりづつを集めて「七夕の船」の材料費にするようだ。

 「七夕の船」は、開催期間中は御預り所(鵜川)の大橋から見ている人もいるというので、この(場所は鵜川の川口か?)の前の広場に飾り付けてるが、これは麦わらで出来ていて、帆は紙、半紙二十枚ほどの大きさだ。
 船の中にはお宮が設けられていて、赤く塗って幕を張り、その周囲をそれぞれの子どもの名を書いた吹き流し、馬れんを立てて飾ってある。
 (このお宮は「七夕さまの御宮」と、また、 馬れんについては「船の頭へ槍の馬簾(ばれん)と申すもの銘々子どもの分持ち寄り飾り立て申し候。なかなか立派也」との記述もある)

 船の回りには提灯が点ってなかなか美しく、人々はこの周りにむしろを敷き、太鼓、笛、鉦などにて囃し立てて賑やかだが、毎夜8時には終了となる。

 *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** 
 
 七夕は五節句の一つで、7月7日の行事だが、これには以下のような伝説が合わさった。

1、この夜、天の川の両側にある牽牛(けんぎゅう)星・織女(おりひめ)星が、年に一度会うという中国からの「乞巧奠(きこうでん)」が基になった伝説で、庭先に供え物をし、葉竹に五色の短冊をつけ、子女の学問・技芸の上達を願う。

2、「古事記」に登場する日本固有の棚機女(棚機津女)(たなばたつめ)を信仰する伝説があった。
 棚機津女とは、天から降りてくる水神に捧げるために、盆に入る前、穢れを払う川などの清らかな水辺で俗世から離れた「棚造りの小屋」で穢れを知らない乙女(おとめ)が、神聖な棚機(たなばた)(織物を織る手動の機械)で織るながら待ち,神とともに一夜を過ごす聖なる乙女が神格化した伝説で、この信仰もあった。
 そこで、この日の行事は7月7日の夜に行われ棚機(たなばた)といった。

3、、又は、同じく日本固有の習俗では、七日盆(盆初め)に当たり、、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であった。 この時に水浴などの禊(みそぎ)などもした。

 しかし 柏﨑の「七夕送り」は、中国の伝説と以下ような違いがある。
1、「七夕さまの御宮」は中国の伝説にある織女星のものではなく棚機女の「棚造りの小屋」
2、子どもの名を書いた吹き流しは、中国の伝説にある五色の短冊のように五色ではなく、小正月の行事である「どんと焼き」に書き初めの紙を飾り付けて字の上達を願って燃やす白い紙と同じようなもの
3、「七夕の船」が麦わらで出来ているのは、わらを燃やして無病息災を祈る「どんと焼き」信仰の一つ
4、麦わらで出来ていて「七夕の船」は、中国の天の川を渡る船でななく、水神が天から降りてくる時の船
4、行事の場所も、中国の伝説は空にある星に祈るが、棚機女の「棚造りの小屋」があった清らかな川などの水辺」を想定した鵜川の水辺で、空の星ではなく「棚造りの小屋」に祈った。

 以上から、現在の日本の七夕は中国と日本固有の伝説が合わさったものが主流であるが、柏﨑の「七夕送り」は、中国の伝説が合わさらない日本固有の棚機(たなばた)ではなかったのではないだろうか。
 *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** 
『柏崎日記』
 『柏崎日記』とは、柏崎が桑名藩の支配を受けていた江戸時代の終わり頃の天保10年(1839)から約10年間、桑名藩の下級武士の親子が桑名と柏崎の間で交わした日記で、桑名藩の渡部平太夫政通とその養子で桑名藩領柏崎陣屋(現新潟県柏崎市)へ赴任した勝之助が執筆者である。

 平太夫が書いたのが『桑名日記』で、勝之助の書いたものが『柏崎日記』と呼ばれ、『柏崎日記』には当時の柏崎の人々の暮らしぶりとともに、下級武士である勝之助の経済的に苦しい生活など綴られている。

 *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
『柏崎陣屋』
 柏崎陣屋(現在の柏崎市大久保二丁目5-1)は鵜川の左岸の小高い岡にあり、陣屋内には、越後領を支配する御役所、天領を預かる預役所、各郡代官の詰める刈羽会所などの諸役所、郡代を筆頭にした役人とその家族の住む長屋などがあった。

 *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
『柏﨑県』
 明治2年(1869)越後国は明治政府によって西部に柏﨑県、東部に新潟県を設置したが、この柏崎県庁は柏崎陣屋に置かれ、管轄地域は現在の新潟県上越地方、中越地方に及んだ。
 しかし、この柏崎県は明治6年6月、新潟県に統合された。
2014年8月1日(金)
カサブランカ咲く
 店頭には、「ユリの女王」といわれるカサブランカが純白の大輪の花を咲かせている。

 茎の高さは1m50cmくらいあり、その上部に現在12個の花が咲き、甘い芳香を放っている。

 今朝は通行人から
「いつも、この店の前を通り、百合の香りを楽しませて頂いています。実家にもこの百合があったので、この香りが懐かしかったです。有難うございます」
と言われた。
 美しい女性の容姿や立ち居振る舞いを花にたとえて形容する”ことわざ”に
「立てば芍薬(シャクヤク) 座れば牡丹(ボタン) 歩く姿は百合(ユリ)の花」がある。

 芍薬も牡丹も共に美しい花であるが、百合は清楚な花であることから、美人の姿や振る舞いを花に見立てて形容したといわれる。 その他に、百合は大輪をうつむき加減に咲かせ、風を受けて揺れる可憐さが美しいとも言われている。
2014年7月29日(火)
柏﨑花火大会
 26日、「柏崎ぎおん祭り」のフィナーレを飾る海の花火大会があり、土曜日で天候にも恵まれ22万人の人出があった。 

 その花火を見られた二人のお客様の話しで、最初の方は、
「人混みの多い花火には 足の悪い母を連れては行けないと諦めていたが、身障者用の桟敷(さじき)席があると聞き、家族で椅子の桟敷席を購入した。
 当日は侵入禁止となっている道路も、身障者用車は桟敷席の近くまで行くことができ、身障者用のトイレも近くにあり、柏﨑の花火は身障者に優しかった。
 また、近くで見た花火の尺玉300発は爆風や地響きと共に 光が三次元で迫って来るように見え迫力があったし、海中空スターマインなどはとても綺麗で、母はこんな素晴らしい花火を見ることが出来て良かったと感激していた。」

 もう一人の方は
「毎年桟敷席で見ていたが、今年は暇でもあったので 2日前から並んで 無料席の場所取りに挑戦した。
 場所取りに着いたら、早い人は3日前から並んでいて、もう6番目だったが、その後も次から次に人が来て 後ろに多くの人々が並んできた。
 場所取りとは 空虚な時間の浪費と思っていたが、その場は、同志という親近感からの会話が一連に広がり、あっと言う間に花火愛好研究会のサーックルと化した。
 祭り関係者はこの場に参加して、花火に対する情報収集をした方がいいのではないか」
などと語っていた。
2014年7月24日(木)
一兵卒の人影(笑)

 今日から26日までの3日間、柏崎祭りだ。ただ今日の民謡流しは開催されるが、マーチングバンドは朝に雨が降り中止になった。

 来店したお客様と会話で、このマーチングバンドが話題になった。

 「今のマーチングバンドは衣装もカラフルでかっこいいが、我々の頃はマーチングバンドでなく鼓笛隊で衣装も白の半袖、白の半ズボンだった。
 マーチングメロフォン、マーチングベル、ドラム、シンバルなども使用していたようだが、俺はリズム感がないので、一兵卒のリコーダーだった」

など言っていたら、隣の人が
「一兵卒ならまだ良いさ。俺なんか、先生に『お前がリコーダーで音を出すと皆の迷惑になるから、リコーダーを持つだけで音は出すな』と言われた。今の『口パク』ってやつだ。だから俺は一兵卒の人影だった(笑)」

2014年7月20日(日)
火葬場跡は繁栄

 来店されたお客様の家が10年ほど前に移転されたが、その地価が20年前の購入時からすると相当高騰しているので、何故あの土地を選んだのですか?と尋ねてみると

「あの土地を購入した時は、近くにあった火葬場が移転したばかりで、周りは人家もなく寂しい場所だった。
 しかし、存命中だった明治生まれの祖母が『”火葬場跡地は栄える
”と言う”ことわざ”があるので、あそこに決めろ』と言ったので、父は多くの候補地の中であの土地を選択した」

 と仰ったので、柏﨑での江戸末期からの火葬場跡地について調べてみた。
 すると、火葬場は現在まで4回移転したが、どの土地も繁栄していたので驚愕した。

 少子化問題を抱えるようになった現代では、この”ことわざ”が通用しなくなったかもしれないが、ローカルな”ことわざ”でも侮れないものだ思った。

2014年7月18日(金)
今日は「三伏」の一つである「初伏」の日

 昨日に発表された予報では、向こう1か月の全国の平均気温は平年並または高い確率ともに40%で、今年の夏は暑くなりそうだ。

 この時期はお中元の時季でもあり、葉書や手紙を出す機会も多くなるが、その書き出しの時候に頭を悩ますことが多い。

 「暑中見舞い」は暑中と呼ばれている小暑(新暦でいうと2014年7月7日、および同7月23日の大暑迄)と大暑(同7月23日、および同8月7日立秋の迄)の期間に送るのが正式だが、一般的に「暑中見舞い」は、梅雨明けから立秋(同8月7日)までに、それ以降の「残暑見舞い」は、処暑(同8月23日)までに送る、などとも言われ、頭を悩ますことがある。

 このような時には「暑中見舞い」「残暑見舞い」ではなく、これらの全ての時期を網羅できる言葉、「三伏の候(さんぷくのこう)」を使うと便利である。

 「三伏」とは、「初伏(しょふく)」(夏至後の三度目の庚の日で新暦でいうと2014年は7月18日)・「中伏(ちゅうふく)」(四度目の庚の日で同7月28日)・「末伏(まっぷく)」(立秋後初めての庚の日で同8月7日)の総称で、夏の勢いがとても盛んで秋の気を伏する、というところから三伏という。

 今日(7月18日)は、この三伏の一つ「初伏」の日である。
 三伏をもう少し詳しく調べてみると、三伏とは中国の陰陽五行説に基づく選日のひとつであるが、その他に、最も盛んな夏の時期で「季節と日の相性の悪い日」でもあるので、占いで言えば「凶日」の一つでもあった。

 昔の人々は、三伏の日を仏滅の日と同じように祝い事、法事、移転、開店など全ての催事は凶とされ、男女の和合まで慎むべき日とされていた。

 古暦では,日付など暦の本体の下に、さまざまな日の吉凶に関する事項が書かれていたが、現在は殆ど見られない暦注である。
 しかし、「六曜」(大安、仏滅)などと違って平安時代の「具注暦」 などにも登場している由緒正しい暦注である。

 まずは、今日買おうと思っていたサマージャンボ宝くじは、明日にしよう(笑)

2014年7月6日(日)
毒蛾大量発生

 4日の地元紙に荒浜やその周辺で淡黄褐色の毒蛾(チャドクガ)が大量発生し、その被害が広がっているとあった。
 触らなくても、飛散した蛾の体毛が皮膚に接触するだけで発病するというから困ったものだ。

 今日、荒浜から来店された二人の方に聞くと、二人とも半袖で畑に行き両腕が毒蛾にやれて赤い斑点が出て痒みが酷く病院に行って来たと言う。
 この毒蛾は昨年もいたようで、一人は昨年この毒蛾で発症し病院に行ったが原因不明と言われていた。

 そういえば、我が家にも小さな淡黄褐色の蛾が網戸にいたが、その後小さな斑点が数個できて痒みがあったが、これが原因かもしれない。

 大量発生の原因は不明だが、つい温暖化が原因ではと勘繰ってしまう。

2014年7月2日(水)
潮焼けの賑い

 今月のポスターが出来た。

 海水浴場では、喧騒の中で子供たちの笑顔が溢れている。
 そんな情景を描写したくポスター作りを始めた。

 しかし、キャッチコピーでは「海辺での子供たちの楽しそうな声」か、「笑顔」かで迷想した。

 やはり「潮焼(け)顔の笑顔」が良かったかな。
 どちらも稚拙なので、どうでもいいかな(笑)

2014年7月1日(火)
虹と米山

 荒浜の渡辺氏より虹がかかった米山の写真を戴いた。
 今年の6月6日早朝5時37分の撮影である。
 起床後にご主人が虹の米山見付け、パジャマ姿で海岸で出かけて撮った。
 奥様もビューポイントまで車に乗って撮ろうとしたが、そこまでの僅かな時間差で虹が霞んで上手く撮れなかった。
 シャッターチャンスは寸時の猶予もないものである。

前へ21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1

お買物ガイド K18愛ペンダント ネックレス
腕時計
補聴 駄文 視軸記 トップ 1行目へ

e-mail:jtoku@be.wakwak.com
 〒945-0063 新潟県柏崎市諏訪町11-41
 TEL 0257-22-4553 営業時間 10時~18時
定休日:月曜日