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阪田体育館との出会い

 北園町を歩いていると、、木造の「坂田体育研究所」の体育館があった。
 これは、柏崎市の体育振興に貢献し「柏崎体育の父」とされる坂田四郎吉氏(1887〜1967)によって昭和35年(1960)に建てられたものである。

 坂田氏は「柏崎に大運動場を」と主張し、孤軍奮闘して賛同を得ることで、期成同盟会を結成して大口寄付も集めたり、また、多数の青年達のボランティア活動を主軸にするなどして、大正12年(1923)県内二番目となる1周400mの陸上競技場が、民間の手で建設し、完成させた。

 その後も競技場は民間の手で管理されていたが、1950年3月、市に移管され、全天候型改修などを重ね、現在の柏崎市陸上競技場となったが、これは国内で今ある公認(こうにん)競技場としては一番古いものである。

 坂田氏はその後も競技場管理に携わる一方で、体操による健康な心身養成を目指して朝起き体操会を発足し普及活動を多様化させ、昭和35年に体育館を、昭和36年(1961)には(財)坂田体育研究所を立ち上げた。



柏崎市陸上競技場の一角に建立されている坂田四郎吉氏の胸像。
阪田体育研究史 第1編
 阪田体育については、右の写真の小冊子『阪田体育研究史・第1編』(発行者:財団法人 阪田体育研究所、編集者:石黒武夫、発行:昭和41年8月10日)に以下のように記載されてある。因みに、この表紙の題字は坂田四郎吉氏の自筆である。

第一部 体育館建設の動機

第一章 体育館完成のよろこび
 
 昭和36年(1961)5月4日完成になった阪田体育研究所体育館落成祝賀式が、新装の体育館で盛大に挙行され、阪田氏は感涙と共に次の如き祝辞を述べた。

 「長い間憧れていた阪田体育館が・・・、そして体育館が今現実となって私のこの目の前に厳然と浮かび上がって居ります。
 慶びで寝ても眠れぬこれが昨今の私の心境であります。この無能凡愚の私に、再びあのグランド建設のような、寧ろそれにも勝る歓びの月日が恵まれようとは、これが果たして現実化と恰も夢のような心地で毎日感謝で明け暮れて居ります。
 『体育の都建設』などという柄にもない空想をこの貧弱な胸に抱いて茲に50年、ただ遮二無二やって来ただけの私を、神がいや皆様が可憐に思い召されての賜り物に他ならないのであります。
 この皆様の温かい愛情には御礼の言葉もありません。かかる有り難い恩義に酬います道は、ひたすら研究所の経営に至誠を尽しその機能を高揚し、もって体育文化の向上進展に貢献致します他はないのであります。
 然るところ元より浅学無能の私であり、況や75歳という老境に達しましては、徒に希望のみ多くして、その成すところは知るべきのみ。誠にお恥ずかしい至りでありますが・・・・後略」

第二章 柏崎体育の先覚性と体育館の存在価値

一、柏崎体育と阪田四郎吉氏
 ここで阪田体育館研究所を語るには、氏が寝ても覚めても呪文のように口にする『体育の都建設』の解説なくしては理解できないのである。

 大正5年4月柏ア小学校に赴任された氏は荒漠たる浦浜の砂丘地に佇み、秀峰米山に応えて清澄に輝く日本海の彼方、夢のように浮かぶ佐渡ケ島を望見する勝れた自然環境に刮目し「この地をして体育の聖地たらしめん」との悲願を堅く決意され、爾来(じらい)終生を挙げてこの目的達成を文字通り心魂を打込まれたのである。

 明治末期の世界の先進国では既に国際オリンピック大会など開催されていた程で、我が国もその頃から漸(ようや)くスポーツ発展の機運を迎え大正中期には全国的に澎湃(ほうはい)たるものがあった。

 その中にあって吾が柏アは阪田四郎吉氏の熱烈なる提唱により、大阪陸上競技場に次いで大正12年に1周400米トラックを備えた近代陸上競技場が建設されスポーツ進展の先駆をなしたのである。

 殊にその建設が柏ア小学校の一教員阪田四郎吉氏を中心に全くの民間人の手により為し遂げられたという事実は、柏ア体育史の上に残した足跡は後世に高く評価されるべきであろう。

 昭和39年開催された東京オリンピック大会の陸上競技場の母体となった明治神宮競技場が、建設されたのは大正12年であったことを思えば、阪田氏の抱ける体育の都柏ア建設の悲願が如何に先覚者的なものであったかが知れよう。

 北信の辺地とは言え、当時いまだに全国に正規の陸上競技場の少なかった関係と、勝れる自然環境に恵まれた柏ア陸上競技場はスポーツによる青少年人間形成の殿堂として、グランドキーパー阪田氏の情熱的管理と指導により幾多名選手を輩出したばかりではなく、見られるところの柏崎体育的社会環境と伝統は正しくこの陸上競技場によって培われたものと言っても過言はない。

二、阪田四郎吉氏の信念

1、『体育の都』の]提唱と全構想
 陸上競技場建設は阪田氏によれば体育の都柏崎実現の第一歩でしかなかったのである。
 昭和5年1月元旦市内の各新聞紙上に『体育の都建設』の全貌と構想を明らかにし、下記にその概要を紹介する。

「誰か今から十数年前に一人浦浜の砂丘茱萸(グミ)山に立ってスポーツの都建設へと志した一青年の胸中に燃えた空想が将に現実の可能性となって展開されつつあることを思ったものがあったであろうか。
 誠に隔世の感無しとせずではないか・・・・中略・・・・私は先ずもってグランド大改革を行わんとするものである。

 曰くU字型トラックの一端より入口に至る300mの間に高さ15尺の砂防堤を築き内側は15階段の大スタンドをなし、そこに2万余の大観衆を収め、トラックはシンダーを入れ、フィールドはローンとなし、クリケットを始め成し得る全ての運動に備うるのである。
 次にトラックの西側若しくは柏中(現柏ア高校)グランドとの中間の地にプールを穿(うが)ち、諏訪の神苑(現柏崎神社)には相撲場を築くのだ。

 而(しか)して柏崎市最高地眺望可なる招魂場(柏崎小学校東?)には体育館を建て、茲(ここ)に武徳殿を兼ね室内運動の整備を整うべしである。・・・中略・・・・恵まれたる吾こそ新潟に対し上中越の都とし文化の都とし、且(か)つは西に甲子園、東に明治神宮(現神宮競技)、北に柏陽の3大スポーツの都たらしめ得るのではないか」

2、『体育の都柏崎』の実現
 昭和39年(1964)に繰り広げられた新潟国体には待望の陸上競技場は新潟で行われ、水球とハンドボール及び軟式野球等の各種目が柏崎会場で実施された。
 そのため陸上競技場の西側にプール、西北から東北一帯は市民球場とハンドボール専用グランド等が建設され、浦浜の砂丘地は一連の体育施設が整いつつある現在、阪田氏の夢は余すところ陸上競技場の改造と相撲場及び体育館の建設だけとなったのである。

 然るところ茲にまた永年の懸案であった体育館が財団法人阪田体育館研究所誕生と共に実現を見るに及んで阪田氏の欣喜雀躍するのもまた肯(がえん)ずるなるかなである。
 
 以上により阪田体育館研究所が単なる時代の所産として実現されたものではなく阪田氏が画く体育の都建設の一環をなすものであったことが理解できると思うのであるが、それではどのようんして阪田体育館が生まれ出たかその沿革を述べることにする。

第二部 阪田体育館創設までの沿革

第一章 庶民体育の実線とその反省としての場の必要性

一、朝起会、朝の体操会の創始

 陸上競技場が着工した大正12年(1923)の春から阪田氏は、本町7丁目(現在の閻魔通り)の閻魔堂(えんまどう)境内広場で朝起体操会を始めた。

 これは当時としては全く奇想天外の事柄であったが、この小さな社会運動が将来体育館建設に重要な役割と素因であった。

 以後毎年、春から秋にかけて5時になると、上州屋(閻魔堂の斜め前にあった魚屋で後にスーパーとなる)のおっちゃんの起床ラッパを合図に阪田氏の指導で朝起体操を行われ、巷に大きな話題と問題を投げかけたのである。

 昭和5年8月には朝の体操会が、第一回国民保健体操講習会を新潟県体育協会、及び国民保健体操普及会共済の下に開くまでになった。

 当時の坂田氏が、どの様な意図でこれらの運動を通して体育館実現に進もうとしていたかの資料を以下に記す。
☆ 期日:    自8月17日 至21日
☆ 集合時刻: 毎日午前6時 鉄砲合図午前5時30分
☆ 会場:    柏崎神社境内 雨天の場合は柏ア小学校
☆ 会員:    老若男女を問わず(小中学生及び子供を除く)
☆ 会費:    不要
☆ 趣旨:    昨今の物質文明は一面吾々の生活に多くの利益をもたらすと同時に他面その健康を減衰せしめた事も事実である。・・・中略・・・そこで吾々には何を描いても生活の資本である健康恢複(かいふく)の道を講じなければならない。・・・中略・・・ここに理想的な健康法として生まれたのは皆様に紹介する国民保健体操である。・・・中略・・・この体操は家庭はもとより官庁、商店、会社、工場、寄宿舎等の団体生活者の間に充分利用されることがぢきる。・・・後略)

二、柏崎体操クラブの創設
 昭和6年(1931年)1月には柏崎体操倶楽部が阪田氏主導の下に設立された。

 これは体操の社会的進出が見られるに至り、あらゆるスポーツの基本的体力の養成と一般社会人の健康づくりのための体操を行ずる中に、人間育成への文化的役割と使命を果たそうとしたからである。

 また、発足以来修練の場は阪田体育研究所体育館が建設されるまでの30余年間、主に柏崎小学校の運動場で行われた。
 これは阪田氏がかって同校に奉職していた関係と他に適当な会場がなかったからである。

 その後、昭和9(1934年)年に阪田氏が長岡の四郎丸校に転出などの色々な事情があったが、これらの不便を乗り越えて活動は継続された。
 しかし、これにより倶楽部員が何時でも自由に使用できる独立した体育館の必要性を痛感した。

三、社会体育館建設運動の提言
 昭和14年(1938年)5月、柏崎体操倶楽部は体育館建設運動を社会に呼びかける運動を開始した。
 それは柏盛座(映画館)と提携して入場券販売に協力し、その手数料を体育館建設基金に充当する事業が、その一歩だった。
 次にこれと併行して倶楽部員も建設資金の設立を実施したが、何れも直ちに建設実現に連なる程の成果を収めることが出来ないうちに第二次世界大戦(1939〜1945年)となり、一時この種の運動や事業は中断せざるを得なくなった。

第二章 社会体育の振興と場の必要性

一、レクリエーション活動の普及とその理念
 戦争は我が国のすべてをその渦中に投入しつつも遂に敗戦となり、戦勝国アメリカ占領軍の下に戦前の日本の姿は完全と言ってよい程にあらゆる分野に亘り抹殺され国民は虚脱状態となり、当面の急務は如何にして飢餓をまぬかれ生存を確保すべきかにあった。

 かかる混乱と虚無の中にあって阪田氏は、逸はやく柏ア体操倶楽部再建に着手し同志・月橋タカシ(「大」に「云」)氏等と共に昭和20年(1945年)11月4日敗戦後第一回の練養会が柏ア国民学校で開かれ、集まるもの30余名、以降毎週土曜日午前5時から約1時間の習練が続けられ、それが現在の7万市民皆体操運動にまで発展することとなったのである。

 阪田氏には体育を愛することはそのまま自己を愛し郷土を愛し祖国を愛することであった。
 下記に同氏の体育的諦観(ていかん)の一部を紹介して参考に資したい。

「抑抑(そもそも)民衆の体育的自覚、そこにこそ堅実なる生活があり、組織的生活があり、豊かな明るき生活のある事を私は深く信じています。

 而(しこう)して体育の体系は数多あるであろうが、吾人の四肢五体、五臓六腑の凡ゆる官能機能を最も調和的に訓練する体操、そして最も大衆の生活に即したる体操の一日も早く社会に進出されんことを祈り、且ついささか之れに努力しつつあったのであります。・・・中略・・・例え同志が幾人であろうと私は決して力を落としますまい。
 この小さな集まりから湧き出ずる泉がやがて大きな流れとなって我が郷土の凡べての人を潤し、遂には大会となって祖国の果てから果てまで流れ亘る日なしと誰か言え得るでありましょう・・・攻略・・・」(越後タイムス掲載記事より抜萃)

 阪田氏の戦後における社会体育活動は実に括目すべきものがあった。

 即ち戦後全国的に台頭してきたスクエアダンス・フォークダンス・民踊等のいわゆるレクリエーションが、ともすれば敗戦に連なる虚無感的ムードから不健全な娯楽として生活に社会に軽視するべかざる影響をもたらす不安と、レクリエーションの本質を誤るかの如き情勢があったので、これを体育的環境下において健全なる発展に導くことに着眼した阪田氏は、体操の大衆化を柏ア体操倶楽部活動に企図した如く民踊には比角体育民踊を母体として、市内および刈羽郡内各町村に体育民踊団体を設立せしめ、スクエアダンス・フォークダンスは八星会を母体に、これまた各地域各事業場等の設立助長に推進すると共に自ら指導に奔命(ほんめい)したのである。

 この運動は当地方のみならず全県的に大なる影響を与えたのである。柏崎が長岡や高田等各都市と交換パーティーを盛んに行ったのも一つの現れである。特に都市における体育の問題が重要視され熱心に研究討議されるようになり、柏崎には昭和26年(1951年)7月に北陸社会体育研究発表会、並びに北陸レクリエーション大会が開かれ、越えて昭和28年には全国都市体育研究協議会が開催されているのをみても戦後における社会体育が如何に社会問題としての関心事であったかがうかがわれるのである。