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(米山講)

桑山 省吾先生からの寄稿
柏崎近在の米山講 北前船と江差港の繁栄

北前船と江差港の繁栄
 左の写真は江差追分会館前での桑山 省吾 先生。

 先生は元 柏崎ふるさと人物博物館館長であられ、私の中学校の恩師でもある。

1.松前藩の成立と荷所船
 松前藩は慶長9年(1604)徳川家康より蝦夷(エゾ)の統括を命じられる。
しかし寒冷のため無石高となり、所領の収入はヒノキ材や海産物、毛皮が交易の中心であった。
 1630年、松前・江差・函館の3港は出入船から関税をとる沖の口役所を設け、港の体制が整っていくが、在郷地は未だ寒村である。
 当時蝦夷へ向かう海上交通の船は、近江商人が経営の実権を握り、荷所船による運賃稼ぎが主である。
 大阪から米・衣類・酒・塩・家具などを京都へ運び、若狭街道を経て小浜や敦賀湊から船で江差へ向かう。
 帰り荷は海産物を大阪に届ける稼ぎであった。

2. 漁場請負制度の改革
 元禄時代(1688〜)以降、幕府は綿花を中心に作物の生産を奨励する。
 江差では鰊(ニシン)粕や干イワシの肥料生産が急増してくる。
 それにともない次第に貨幣経済が都市や農漁村に流通し、江差は人口の増加と共に海産物問屋や商店が立ち並ぶようになる。
 そして魚場請負制度に変化が生じる。
 江差一帯の魚場権の場所請負制度は武士から経済能力に優れた近江商人に移り、宝暦年間(1751〜63)最盛期を迎える。
                                       

3.買積船、北前船の活躍

                                       
 1680年頃、松前で醸造商をしていた頚城郡関川村(現在の妙高市)出身の初代関川与左衛門は、ほどなく江差に移る。
 2代目平四朗は1720年頃廻船業を営み、厳しい自由競争の渦中で藩の御用商人・沖の口役所の代行者となり、江差での買積船の主導権を握る。買積荷の北前船の船頭は、出航途中得意先の廻船問屋に寄港し、積荷買荷の交渉を船主から委譲されるが、買い値売り値のかけ引きが難しいという。
 また、一般の船頭は船主から船や積荷、水夫の管理責任の外、中荷扱いの優れた才能発揮が要求される。
 余得は買積荷の1割りを余分に購入し、売却との差額は船頭の収入となる。
 写真は、船が入港する時に「沖の口役所」へ届けるための「間尺帳」で、中には「入港年月日・乗員数・船頭名・船の石数・船名」などが下記のように記載されてある。

 ※ 越後柏崎 酉七月六日
   弁財船六人衆  船頭忠吉
   旦那 山田為四郎 様
   四尺八寸五分 深
   一丈八尺一寸五分 腹
   一四丈九尺八分 長
   打詰四百三拾八石
      一二斗七升六合
   正石三百五拾石七斗一合

4、北前船の鰊の買付
 春3月彼岸を過ぎると、鰊の群れが海流に乗りさざ波をたててやって来る。これを江差では群来(こき)という。
 大阪、西国、北陸(越前、能登、越中、越後)、佐渡、津軽の北前船(弁財船)が我先にと春鰊を買いに入港する。
 500石以上の船は大阪方面、200〜400石は北陸方面、津軽は100石前後の船が押し寄す。
 海岸から600メートル離れて弁天島(現鴎島)が浮かんでいる。その島に弁財天を祀る漆塗りの弁材社(現厳島神社)が祀られており、海の守護神として信仰が篤い。
 諸国から北上してくる船は、時化(しけ)避けるため投錨しロープで杭石に縛りつける。
 今も幕末の杭石が波に洗われていた。
 文化年間以降、江差廻船業者数は10余を数え西国、北陸方面の船頭から得意先の廻船業者へ注文が殺到する。供給が間に合わず10日間も待つことも珍しくない。
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5.柏崎との交易は
   
 江差郷土資料室を訪ね、間尺帳、入船帳から北前船の規模や交易を調べてみた。
 柏崎の海岸4港(柏崎、荒浜、宮川、椎谷)と江差との交易は、幕末の天保年間〜明治初年が最盛期である。

 5-1、柏崎の交易
 柏崎(旧納屋町・港町)〜江差間の北前船の往来は、天保10年〜明治3年までの31年で18艘(そう)中、最高積載石高の慶寿丸は438石積で船主は豪商山田甚次郎、船頭直吉の5人乗りである。最小石高は112石積で船主岩下善六の3人乗りである。平均200石前後の船である。
 柏崎町は荒浜、宮川に比べ船の活動は極めて低調である。理由の一つに当時柏崎商人は、町を上げて縮関係の仕事で財をなしていたからであろうか。
 「柏崎史誌」によると、幕末の慶応3年諸国の入港船は100〜600石積で、出羽(山形)より麻縮の原料となるカラムシ、芋、真綿。陸奥より木材、松前塩鮭、鰊、昆布、、上方から塩、茶、木綿、砂糖。その他越中能登、佐渡からである。

 「刈羽郡案内」には下記の通り記載されてあった。
 金引煤i原料の麻)の産地は、南蒲原郡中条、長岡など信濃川に近在。栃木県鹿沼、信州方面から購入。
 冬期の副業で主に荒浜を中心に近村の女衆も来て製網に励む。
  幕末製網業:慶応2年9月11日 金引煤i原料の麻)7つ入20個、、鍋や又字右エ門より荒浜牧口様
          慶応2年8月22日 金引4ヶ村百個、(宮川、荒浜、他2ヶ村、
                     尼瀬(出雲崎)熊木屋寿助より荒浜牧口様)
船絵馬

明治15(1882)年
荒浜・諏訪神社
縦46cm×横64cm

船名は明市丸とあるが、荒浜牧口家の明悦丸が正しい。

奉納者は船頭の「渡邉氏」である。
画面右端の「絵馬藤筆」は大阪の絵馬師
 5-2、荒浜の交易
 荒浜港では、文化11年〜明治3年までの47年間で34艘を数えるが移出は米と鰊網が中心。買人は海産物で途中、新潟、出雲崎で積荷の商いが多い。最高石高は708石、最小石高は92石。平均石高は200〜300石である。

5-3、宮川、椎谷の交易
 宮川港では、文化11年〜明治3年までの56年間で10艘とは少ない。最高石高は328石、最小石高は148石、平均200〜300石であろう。
 「越後松前行」の労作を調べると松前廻船問屋との取引が多いようだ。
 椎谷港では、文化14年〜寛永5年までの35年で15艘。最高石高は290石、最小石高106石である。松前廻船問屋との関係があると思う。移出は宮川を含め米と鰊網である。

 5-4、江差に土着した柏崎交易関係者
 柏崎との交易関係者の中で江差で長年商いをし、土着した人は荒浜の大島重太郎、宮川の吉田一郎、椎谷の梅屋山崎五右衛門、同武田庄兵衛の諸氏で手広く活躍した。

6.石刻銘からの偲んで
 荒浜諏訪神社境内には、明治15年頃活躍した船名6艘と船頭名等が刻まれ、西本町2丁目石井神社にも狛犬一対、燈籠などに銘が見られる。
 しかしこの神社に時には砂に埋もれたりするが、銘を見る事ができ、漁業関係者の信仰の篤さがうかがえる。危険と背中合わせが信仰と結び付かせた。

 平成20年9月に、北海道を訪れた。江差鴎島を散歩中、安全航海の守護神である厳島神社が眼に止まる。神社に詣でた後、鳥居と燈籠に寄付者30余名の、風雪のために消えかかった刻字に越後荒浜の「大島重太郎」の銘が記されており、「あった」と驚き、心を高潮させた。
 町民は「鰊は鯡(にしん)であらず、米である」という信念のもと、海の幸を根源とし、前浜一帯の鰊漁を刺し網のみで資源を長年守り続けた。 この姿勢には学ぶものがある。

 荒浜諏訪神社境内に刻まれた、明治15年頃活躍した船名と船頭名

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