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(米山講) |
桑山 省吾先生からの寄稿 |
柏崎近在の米山講 | 北前船と江差港の繁栄 |
北前船と江差港の繁栄 | ||||||
左の写真は江差追分会館前での桑山 省吾 先生。 先生は元 柏崎ふるさと人物博物館館長であられ、私の中学校の恩師でもある。 |
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1.松前藩の成立と荷所船 |
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2. 漁場請負制度の改革 |
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元禄時代(1688〜)以降、幕府は綿花を中心に作物の生産を奨励する。 江差では鰊(ニシン)粕や干イワシの肥料生産が急増してくる。 それにともない次第に貨幣経済が都市や農漁村に流通し、江差は人口の増加と共に海産物問屋や商店が立ち並ぶようになる。 そして魚場請負制度に変化が生じる。 江差一帯の魚場権の場所請負制度は武士から経済能力に優れた近江商人に移り、宝暦年間(1751〜63)最盛期を迎える。 |
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3.買積船、北前船の活躍 |
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4、北前船の鰊の買付 |
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春3月彼岸を過ぎると、鰊の群れが海流に乗りさざ波をたててやって来る。これを江差では群来(こき)という。 大阪、西国、北陸(越前、能登、越中、越後)、佐渡、津軽の北前船(弁財船)が我先にと春鰊を買いに入港する。 500石以上の船は大阪方面、200〜400石は北陸方面、津軽は100石前後の船が押し寄す。 海岸から600メートル離れて弁天島(現鴎島)が浮かんでいる。その島に弁財天を祀る漆塗りの弁材社(現厳島神社)が祀られており、海の守護神として信仰が篤い。 諸国から北上してくる船は、時化(しけ)避けるため投錨しロープで杭石に縛りつける。 今も幕末の杭石が波に洗われていた。 文化年間以降、江差廻船業者数は10余を数え西国、北陸方面の船頭から得意先の廻船業者へ注文が殺到する。供給が間に合わず10日間も待つことも珍しくない。 一行目に戻る |
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5.柏崎との交易は |
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江差郷土資料室を訪ね、間尺帳、入船帳から北前船の規模や交易を調べてみた。 柏崎の海岸4港(柏崎、荒浜、宮川、椎谷)と江差との交易は、幕末の天保年間〜明治初年が最盛期である。 5-1、柏崎の交易 柏崎(旧納屋町・港町)〜江差間の北前船の往来は、天保10年〜明治3年までの31年で18艘(そう)中、最高積載石高の慶寿丸は438石積で船主は豪商山田甚次郎、船頭直吉の5人乗りである。最小石高は112石積で船主岩下善六の3人乗りである。平均200石前後の船である。 柏崎町は荒浜、宮川に比べ船の活動は極めて低調である。理由の一つに当時柏崎商人は、町を上げて縮関係の仕事で財をなしていたからであろうか。 「柏崎史誌」によると、幕末の慶応3年諸国の入港船は100〜600石積で、出羽(山形)より麻縮の原料となるカラムシ、芋、真綿。陸奥より木材、松前塩鮭、鰊、昆布、、上方から塩、茶、木綿、砂糖。その他越中能登、佐渡からである。 「刈羽郡案内」には下記の通り記載されてあった。 金引煤i原料の麻)の産地は、南蒲原郡中条、長岡など信濃川に近在。栃木県鹿沼、信州方面から購入。 冬期の副業で主に荒浜を中心に近村の女衆も来て製網に励む。 幕末製網業:慶応2年9月11日 金引煤i原料の麻)7つ入20個、、鍋や又字右エ門より荒浜牧口様 慶応2年8月22日 金引4ヶ村百個、(宮川、荒浜、他2ヶ村、 尼瀬(出雲崎)熊木屋寿助より荒浜牧口様)
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6.石刻銘からの偲んで |
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