がんば716ショップ
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米山 黒姫山 八石山 三階節 柏崎の民話 藤井堰の治水

♪ 「三 階 節」 ♪  あ れ こ れ 
三階節の
源流
三階節の
歌詞
三階節
原歌の歌詞
小冊子
「三階節」
島根県隠岐の
『しげさ節』
三階節しげさの
民話


 三階節の原流

 全国的に有名な「三階節」は柏崎地方の民謡で、歌詞はたくさんありますが大別すると三味線伴奏の座敷歌と、「野良三階節」ともいわれる盆踊歌があります。
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 また、「三階節」の源流については下記のような4説があります。
(1)「しげさ」、
(2)御勧化(三界)
(3)「ヤラシャレ」の囃子詞、
(4)同じ文言を三回繰り返す
(5)散会に歌う散会節
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(1)「しげさ」説には下記の(1)-1〜3までの3説があります。

(1)―1、「専福寺のしげさ」説
 承応の頃(1652年頃)柏崎の専福寺三代目に法話の上手なお坊さんが、人々に説教の有難さを称えていました。
 このお坊さんは「しげさ」、「出家さ(出家様)」、または「シュゲサ」などと呼ばれ、「しげさのごかんげ」という民話が出来たり、「しげさ、しげさと恋をする・・・」と歌われて出来たのが「三階節」の始まりと言われています。(『柏崎文庫』参照)
 その後の江戸時代中期、10代将軍徳川家冶(1760〜1786年)の時代に盆踊り唄として「三階節」は流行しました。
 この時代の天明2年(1782年)から天明8年(1788年)には、日本の近世史上では最大の飢饉であった天明の大飢饉が発生。更に疫病も流行。しかし幕府は腐敗し、全国各地では米屋への打ちこわしが広がり治安が悪化していました。人々は苦しさから逃れようと「三階節」唄い踊りながら「しげさ」に救いを求めたのかもしれません。

(1)―2、「高野の本竜寺の繁丸のしげさ」説
 中頚城郡新井在、高野の本竜寺第七世光暁院釈恵亮(昭和5年正月18日亡、行年55歳)が通称  繁丸と慕われ、三階節の「しげさ」だとも伝えられています。
 しかし、これだと繁丸は明治生まれになりますが、「三階節」はもっと古くから歌われているので違うように思われます。

(1)―3、繁樹のしげさ」説
 どこから出てきたのか定かではないが「しげさ」は「繁樹」だとも伝えられています。 
 専福寺の僧侶が通称「繁樹」と呼ばれていたのかもしれません。
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(2)御勧化
 「三階節」は、この唄が「しげさ」という坊さんの勧化(かんげ)を歌っているので仏教語の「三界」からきているという説もあります。
 「三界」とは、仏語で、 心をもつものの存在する欲界・色界・無色界の三つの世界。仏以外の全世界。三有(さんう)ともいいいます。
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(3)「ヤラシャレ」の囃子詞、
 文政(ぶんせい)年間(1818〜30)の頃、京都、大坂、江戸などで流行した「ヤッショメ節」(囃子詞(はやしことば)に「ヤラシャレ」と入るので「ヤリャシャレ節」)が江戸吉原から柏崎へ移入され、郷土化して三階節になったと伝えられています。
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(4)同じ文言を三回繰り返す
 下記の歌詞には「ドンカラリン」、「無きゃよかろ」などが、下の原歌の歌詞には「明けた」と「忘れた」などと同じ文言が三回繰り返されているところがあるように、一つの文句を三度繰り返して自由自在に歌うのでそのように名付けられた とも伝えらています。
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(5)散会
 宴の終わりに歌われていたので、散会の歌、散会節と言われ、それが三階節になった とも伝えらています。
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 三階節
    「ぎおん柏崎祭り」や盆踊りなどで歌われている「野良三階節」の歌詞です。

 米山さんから雲が出た いまに夕立が来るやら
   ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする
  ドンカラリンと 音がする いまに夕立ちがくるやら
    ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする

  柏崎から椎谷(しいや)まで 会いに荒浜荒砂
    悪田(あくだ)の渡しが (な)きゃよかろ
   渡しが 無きゃよかろ 会いに荒浜 荒砂
     悪田の渡しが 無きゃよかろ

  可愛がられた竹の子が 今じゃ切られて割られて
    桶のたがに掛けられて 締められた
   掛けられて 締められた 今じゃ切られて割られて
     桶のたがに掛けられて 締められた

  蝶々トンボや キリギリス お山お山でさえずる
    まつ虫 鈴虫 くつわ虫
   鈴虫くつわ虫 お山お山でさえずる
     まつ虫 鈴虫 くつわ虫

  明けたよ夜が明けた 寺の鐘打つ坊主や
    お前のおかげで 夜が明けた
   おかげで 夜が明けた 寺の鐘打つ坊主や 
     お前のおかげで 夜が明けた

 本 歌 ・・・・ ハー明けたよ夜が明けた 寺の
 返し歌 ・・・・ 鐘打つ坊主や お前のおかげで 夜が明けた
 
 本 歌 ・・・・ ハー柏崎から椎谷までの間に
 返し歌 ・・・・ 荒浜荒rすな悪田の渡しが なきゃよかろ

 本 歌 ・・・・ ハー米山さんから雲が出た今に
 返し歌 ・・・・ 夕立が来るやらピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする

 本 歌 ・・・・ ハー可愛がられた竹の子が今じゃ
 返し歌 ・・・・ 切られて割られて桶のたがに掛けられて 締められた
   
 本 歌 ・・・・ ハー蝶々トンボや キリギリス お山
 返し歌 ・・・・ お山でさえずるまつ虫 鈴虫 くつわ虫
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「三階節」の原歌?
 三階節の源流と言われる(1)〜(4)の4説が、歌詞の中にあります。

 柏崎から 椎谷まで 間(あい)に 荒浜荒砂 
 芥(あくた)の渡しが (な)かよかろ ハアー 無かよかろ
   間(あい)に 荒浜荒砂 芥(あくた)の渡しが 無かよかろ
   ハア ヤラシャレ ヤラシャレ

 しげさしげさと こえにしやる しげさ しげさの
 御勧化(ごかんけ)山坂越えても 参りたや
   山坂越えても 参りたや  しげさ しげさの
   御勧化 山坂越えても 参りたや


 米山さんから 雲が出た 今に 夕立が来るやら
 ピッカラチャッカラ ドンガラリンと音がする
    ドンカラリンと 音がする いまに夕立ちがくるやら
   ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする

 可愛がられた 筍(たけのこ)が 今じゃ 切られて割られて
 桶のたがに掛けられて 締められた
   掛けられて 締められた 今じゃ切られて割られて
   桶のたがに 掛けられて 締められた 

 閻魔前(えんままえ)なる 茶屋の嬶(かか) 
 あれを 地獄へうあらぬは さりとは閻魔の よてをひく
   さりとは閻魔の よてをひく 茶屋の嬶(かか)
   あれを 地獄へうあらぬは さりとは閻魔の よてをひく

 ねまり地蔵や 立(たち)地蔵 ほとけ ほとけに似合わぬ
 魚の売り買い なされます
   売り買い なされます ほとけ ほとけに似合わぬ
   魚の売り買い なされます

 高い山から 谷見れば おまん お方が可愛(かわ)いや 
 染め分け襷(たすき)で 布さらす

 桃や桜に 梅の花 あいに 海棠(かいどう)や山吹 
 すももに杏(あんずン) 梨の花

 蝶々とんぼや きりぎりす お山 お山でさえずる 
 松虫鈴虫 くつわ虫
   鈴虫 くつわ虫  お山 お山でさえずる
   松虫鈴虫 くつわ虫

 明けたや 夜が明けた 寺の 鐘打つ坊主や 
 お前のお蔭で 夜が明けた
   お蔭で 夜が明けた 寺の 鐘打つ坊主や
   お前のおかげで 夜が明けた

 忘れた 寝(ね)忘れた まくら 枕の小屏風に 
 明日のさすまで 寝忘れた
   さすまで 寝忘れた まくら 枕の小屏風に
   明日のさすまで 寝忘れた 
 左記の三階節には
「柏崎から 椎谷まで間(あい)に荒浜 荒砂 芥(あくた)の渡しが無(な)かよかろ]とあるが、この一節の中にある“間(あい)”は、左上記の三階節には“会い”になっている。

 どちらが正しくか疑問に思っていたがそれを解く説があった。
それは「“間(あい)”は“会い”とかけ言葉になっている」との説である。
 恋しい人が椎谷にいて柏崎に会いに行くが、その間には、荒浜、荒砂、そして厄介な悪田の渡しがある。
 そこでこの“間(あいだ)”を“間(あい)”と読ませ“会い”とをかけ言葉したのだろう、が正解のようである。

 また、同様に以下のように“荒砂(あらすな)”と“荒すな”もかけ言葉になっていた。
 荒浜から悪田に行くには、砂浜の中にある道を通らなければならない。
 ところがこの道路は、冬になると強風による飛砂が酷くなり、道は砂に埋もれて無くなってしまう。
 そこで、強風で荒れ狂う”荒砂”が起きない様に、この道を通る人々は砂を“荒すな”と念じながら渡ったという。

 このようにしてやっと鯖石川に辿り着いても、今度は悪田の渡しで又通せんぼさせられる。
 そこで、荒浜の荒砂や悪田の渡しが無ければと恨んでいる様子を歌った。

 次に、荒浜(あらはま)、荒砂(あらすな)、芥(あくた)と頭韻を踏んでいる。
 ア音のつく地名を三つ続けて調子を整えているのである。


 このように、三階節のこの一節はたった三行の中に「かけ言葉」と「頭韻」が巧みに示されていて見事な詩歌的文芸の修辞法である。


 近年の三階節の歌詞は左上記のように「柏崎から・・」が第二節になっているが、この秀逸の一節を前面に出す事により三階節が雅趣に富むものになるのではなかろうか。
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小冊子「三階節」
より  小冊子「三階節」、柏崎市中央公民館図書刊行会 
 柏崎では番神さん、下じや、椎谷の観音 
  さてまた土合のくろそ仏
 「くろそ仏」は西中通り村土合の不動院(真言宗)に祀られている「拘留尊仏」で、 「くるそん仏」の民話もあります。
 上記の小冊子『三階節』は、この不動院様のご住職よりお借りしました。
 米山さんから雲が出た、いまに、夕立が来るやら
  ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする
 類歌の多い三階節の中でこの歌が最も有名である。
  「米山さんから雲が出た」とは、「米山に雲が懸かると夕立が来る」という意味である。  
 これは柏崎で古くから行われている米山の自然現象を見ての気象予測であり、この他に米山の雪形などがある。
  また、その他に古人は「旦那さんがご機嫌斜めで一荒れしそうだ」との意味も含むと解していて面白い。
 柏崎から 椎谷まで、あいに 荒浜荒砂 
 悪田の渡しが なかよかろ 



悪田の渡しは現在の安政橋の少し上流にあったが、昔は鯖石川の地形は現在と違っていた。
 類歌の多い三階節の中でこの歌が「上記の米山さんから雲が」の次に有名である。

 昔、佐渡の金を江戸に運ぶ北国街道には、鯖石川を渡る悪田(地名)の渡しがあり、民話もある。
 鯖石川にかかる今の安政橋付近には、昔は橋が無く、、鯖石川を渡るには その上流にあった悪田の渡しだけしか無かった。
 川を渡るには舟番を置いた船頭に渡し賃を払っていた。
 天正14年の奉行の掟書に「当渡し、船賃5文づついたみきれんの外きらいなくこれをとるべし云々」とある。この渡しは通行人には厄介な存在だった。
 又冬期には渡れぬ日も往々あり、昔の位置はもう少し川上へ登った馬頭観音のある所だったという。
 やっと川を渡っても、荒浜街道も又歩きにくかったに違いない。それは例えば冬期の荒浜街道は日本海の荒海の飛砂によって道が埋まり見えなくなってしまうからなどである。

 ところで、三階節の中では悪田が芥(あくた)とも書かれてある。芥は辞書に「ごみ。くず。かす。転じて、つまらないもの」とあり、悪い田とほぼ同義語になる。
 この悪田の地形は鯖石川の川口にあり、川が定期的に氾濫を繰り返したので悪い土地、芥などと解釈されるが、実際は上流から運ばれた土が蓄積した肥沃な土壌でもあった。このような地は世界の四大文明発祥の地にも類似している。
 創価学会創設者の牧口常三郎氏と柳田国男の対談に悪田が取り上げられ、柳田氏は「越後刈羽郡比角村悪田は、柏崎の町より半里、鯖石川の左岸にある。この辺一帯の砂丘の中に介在する一角の沃土で、水田の耕作地に適する」と説明したという。
 
 松波の人から、「60年程前、安政橋は木で作られていた。
 その木の橋は、時々真ん中辺りに30センチ位の穴が開いていて、穴から下に流れている川がよく見えた。
 親から、その穴から落ちると川に流され命がなくなるので、気を付けて橋を渡る様に言われていた。
 その橋には時々バスも通るが、交互通行出来るほどの幅はなく バスが通るのがやっとの幅しかなかったので、真ん中に空いているその穴にバスのタイヤが入る事はなかった。

 また、強風の時に、自転車で橋を渡ろうと橋の真ん中辺りまで来たら強風で橋から落ちそうになって動けなくなり助けを求めた人がいた。
 橋を渡るには命がけになることが多々あった」などと聞いた
 しげさ しげさとこえにしやる、 しげさ、 しげさの御勧化 
 山坂越えても 参りたや
 隠岐のしげさ節の元歌にもこれと似たものが伝えられている。
 三階節の原歌と言われているが、しげさは「出家さ」の転化説と、「繁樹」「繁丸」の愛称説との三説があり、「こえにしやる」も柏崎人は『い』と『え』が曖昧なので「恋」か「声」か詳かではない。

 蔵の戸前で ちょいと出遇うた、話せ、話せや語れや
  胸うちあること みな話せ
 隠岐のしげさ節の元歌にもこれと似たものが伝えられている。
 歌詞は老舗の奉公中の小僧と下女の恋であろう。
 忘れしやんすな 番神の、みなと、港の灯かげが
  主さん 恋しと 泣いている
 隠岐のしげさ節の元歌にもこれと似たものが伝えられている。
 猫じゃ猫じゃとおしやれども 猫が、下駄はき杖つき
  絞りの浴衣で来るものか
 隠岐のしげさ節の元歌にもこれと似たものが伝えられている。

 寛政元年刊の「醴上戸」には三毛猫が手拭被って「猫だ猫だと仰いますが猫が手拭被って来るものか」と流行歌を唄って踊ることが出ているが、醴上戸ののは女だが、三階節では杖をついているので男であろう。
 俗語に「誰が来たやら流しの外でしらみ絞りの影がさす」
 蝶々とんぼや きりぎりす お山 お山でさえずる 
  松虫鈴虫 くつわ虫
 隠岐のしげさ節の元歌にもこれと似たものが伝えられている。

 隠岐では「蝶や蜻蛉や」と記され、辞書では、「蜻蛉」は「あきつ」と読みトンボの別名と記されている。

 柏崎の元歌も「蝶々とんぼや」ではなく「蝶々蜻蛉(あきつ)や」だったかも知れない。
 可愛がられた竹の子が 今じゃ切られて割られて
  桶のたがに掛けられて 締められた
 文政11年に出た「小歌のちまた」にはこの歌と殆ど同じものがある。

 又島根県の民謡「おつちよこまかのけ」にも、この歌の他「高い山から」及び「蝶々蜻蛉や」の歌と大同小異のものがある。

 一首の意には裏の意味がほの見えてくる。
 閻魔(えんま)前なる 茶屋の嬶(かか)  あれを 
 地獄へうあらぬは さりとは閻魔の よてをひく
 昔は閻魔堂前の下町側に、桃茶屋、儀右衛門茶屋、はずれ茶屋、甘酒屋等があって、女房達の手練手官も相当のものだったと見える。
 
 現在の閻魔堂(市文化財)は再三の大火(明治7年失火炎上、同20年下町大久保屋火事の大火で焼失)に凝り、市内の名工・4代目篠田宗吉(1826-1903年)が明治29年に土蔵形式のお堂を建てた。
 しかし、閻魔堂は2007年の中越沖地震では土台がずれ、土壁が落下、篠田宗吉作の彫刻がほどこされていた向拝も倒壊した。
 幸い閻魔大王を始め、10体の閻魔王には被害がなかった。
 2010年8月より土台、壁、彫刻の修復工事が行われ復元された。
 毎年6月14〜16日には閻魔市が開催される。 
 閻魔市でお参りする閻魔堂の現在地は、町の東にあった「木戸」の門外で、旅人や浮浪者の宿に利用されたと言われている。

 江戸中期には馬市がたったが、天保期頃から馬市に変わって旅商人、見世物、博徒の集う節季市が開かれるようになった。

 ねまり地蔵や 立地蔵、ほとけ、ほとけに似合わぬ
  魚の売り買い なされます
 昔は地蔵の名称が今とは反対で、街の中央に二仏とも南面して立ち、このあたりで魚、野菜の市が立った。

 「売り買い」は又「ばんぞう」とも歌われ、柏崎地方では売買の仲介を昔は「ばんぞう」と言った。
 長唄常磐津の「角兵衛」には「ねまり地蔵への色の願、はだし参りの土ふまず」とある。
 高い山から 谷見れば おまん、お万(まん)が可愛(かわ)いや 
 染め分け襷(たすき)で 布さらす
  「お万」は谷根に住んでいた娘の事で、高い山の米山から谷根の谷に流れる谷根川の渕で亡くなった、という民話「お万が渕」がある。
 この歌が、三階節の最初に唄われていた村もあると聞いた。

 大庭良美の「水まき雲」の「おつちよこまかのけ」には「高い山から谷みれば、小谷にやおさんが染分けたすきで布さらす」であって「お万」ではない。
 恐らく、どちらかが真似た替え歌であろう。

 このお万が柏崎ではなく谷根に居たと知らずに、「柏崎のさらし場は八坂下、エンマ裏、西光寺下等にあって、谷でない所を見ると、この歌は伝来のものらしい」などと言った説もあった。

 桃や桜に梅の花、あいに、海裳や山吹すももに
  あんずん梨の花
 雪が消えると、春を待っていた花という花は一時に咲き競う。
 「あんずん」は杏子のことである。
 明けたや夜が明けた 寺の鐘打つ坊主や
  お前のおかげで 夜が明けた
 最近「明けたよ」というものもあるが、古くは「明けたや」である。
 しげさと酒のめば、しげさ、しげさが一升飲んで
  私が五合飲んで酔うた酔うた
 しげさの民話の中に出てくる歌である。
 しげさは名説教者であるばかりでなく、人間味が溢れて居って、町人達に親しまれていた酒豪であったとみえる。
 高野本竜寺の左松、ごはい、向拝の棟梁新町宗吉
  よう出来た
 中頚城郡新井在、高野の本竜寺第七世光暁院釈恵亮。
 昭和5年正月18日亡、行年55歳。
 通称繁丸が、
三階節の「しげさ」だとも伝えられている。

 この「棟梁新町宗吉」は名工の四代目篠田宗吉である。
 明治時代、越後が生んだ柏崎の誇る名棟梁、四代目篠田宗吉は柏崎市新町(現在の西本町3丁目)の出身で、社寺建築に優れた業績を残している。代々棟梁であった篠田家は初代の享保年間(1716〜36)から五代目の明治末年までの200年間続いた。初代宗吉(1680〜1768)の見事な腕前を示す証は、実に230年間風雪に耐え抜いた妙行寺の本堂で、その他番神堂などがある。
 四代目篠田宗吉(1826〜1902)は柿崎町で風呂屋をしていた。相沢彦作の三男で、25歳のとき新町の篠田家に入り婿する。
 頭脳明晰で、修業熱心で大工の腕前も上達した。
 宗吉が残した社寺は、柏崎の番神堂(焼失により初代と四代目宗吉が番神堂を2度建てる)、閻魔堂、光円寺、八坂神社、宮川神社、刈羽村の東福院、高田の浄光寺、他に親鸞の本廟をはじめ北海道の高竜寺、厳島神社、京都東本願寺(棟札には「棟梁名古屋伊東平右衛門、脇棟梁篠田宗吉」とある)などがある。
 碑は八坂神社、墓は浄興寺にある。
 下宿(シモジュク)番神堂がよくできた 向拝の仕掛けは
  新町宗吉大手柄
 下の写真は、番神堂の本殿にある 貴重な蝶々の彫刻を撮ったものである。
 本殿の外側にある三方の屋根下付近の壁面には素晴らしい彫刻があるが、特に本殿の左奥にある一羽の蝶々の彫刻は、「見つけると幸せになる」と言われ人気がある。
 しかし現在は、彫刻の保存のために 三方の壁面はガラスで覆われている。
 その為に下から見上げても ガラスに景色が映り 屋根下付近の高い位置にある小さな蝶々の彫刻は、見つける事が困難になっている。

 この写真はそのガラスが覆われていなかった、今から約20数年前の昭和末期に撮影したものである。
 番神堂にある 荒波と蝶々の彫刻

 高い壁面には、日本海の荒波の上を一羽の蝶々が飛んでいる姿が彫り刻まれているが、この一羽の蝶々は「見つけると幸せになる」と言われている。
 忘れた 寝(ね)忘れた まくら、 枕の小屏風に 
 明日のさすまで 寝忘れた
 遊治郎の青楼の夜明けででもあろうか、枕屏風に朝日かげ、描写は実に鮮明である。
 つきぬ泉と茶の池の、清水、みのりの功徳や
  弘法大師の御手のあと
 中浜の坂を番神へ向かって少々下ると左手の一寸入った所に名水がある。

 弘法の杖のあとと伝えられ、昔は「甘茶の池」と言われていた。
 コンコンとして夏なお氷の如く、茶をたてて妙。
 米山腰から雲が出た、今宵、今宵の夕立ち
  思いがますやら まだ晴れぬ
 今宵のお立ちの貴方であれば胸の思いのなおつのる。
 「夕立」はかけ言葉である。
 妊んだが おら なじょしょ、そばや、蕎麦屋の亭主が
  からみにするとて おろさせた
 「からみ」も「おろす」も掛言葉となっている。
 上句は又「俺ら嬶(かか)妊んだがおらなじょしょ」とも歌われていた。
 音頭渡します、誰か、お情けある人とりわけ
  いゆうて くれよがさ
 「いゆうて」の「い」は語呂上の必要から生まれた接頭語で、「くれよがさ」は「くれてもよいじゃないか」で、願望の意を含めている。

 この音頭の出る頃はさすがの音頭取りも少々疲れたのであろう。
 ちょいとご意見申そなら、髪を、島田に結うより
  心を島田にしやんともて
 十返舎一九の「金の草鞋」に、彼が柏崎の飄宅で遊女と遊んだくだりにこの歌は出て来る。
 谷根河内の若い衆が、いもを、いもを掘らずに
  米山参りのそそをほる。
 米山参りに夜道をかける娘達を、一寸失敬する若い衆が昔はいたものか。
 二一天作そろばんの、桁を、一けたはねれば
  角川半蔵白鼠
 この歌の下句程異句の多いものはない。
 曰く「かくみの本田白根分」又「加古川本蔵白鼠」又「かこがわ本田城の雪」又「かくがわほんぜん白鼠」。

 意味は地検の折の役人の不正を歌ったものらしい
 高田稲田へ五郎兵衛が、命、命を忘れて
  幾多の代わりに上書する。
 この歌は又「高田近所の稲田村、五郎兵衛、五郎兵衛がうけとりあまたの百姓喜んだ」や、「高田はなれて稲田村、五郎兵衛、庄屋を願やる幾多の百姓喜んだ」などとも歌われている。

五郎兵衛は義人。
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島根県隠岐の「しげさ節」
       レコード化されていない古くからある歌詞

 島根県隠岐の民謡の『しげさ節』(しげさぶし)は、柏崎の『三階節』が源流です。
 この『しげさ節』は、江戸時代、北前船で日本海を下った行商人によって、柏崎から隠岐へと民謡が伝わり、その後も長い年月唄い継がれ代表的隠岐民謡となりました。
 
勿論、「しげさ」は 柏崎の『三階節』の原歌にある僧侶の「しげさ」です。

 現在は大正時代に吉田竜夫氏と安部勝氏の二人の詩人によって新作されレコード化されたものがより有名になっていますが、下記の歌詞はそれ以前にあった古くからの歌詞です。


  しげさ しげさと声がする  しげさ しげさのごかんしょ
 山坂越えても 参りたや

 しげさ 何処ゆく しげさ どこゆく   夜の道 
 月のでしおに いそいそ

 帯の模様が気にかかる 橋のたもとで
 ちょいと 出おうた 
 話 話を 心にあること 皆(みな)話せ

 忘れしゃんすな 西郷の港
 港の明かりが 主(ぬし)さん 恋しと 泣いている
柏崎『三階節では「忘れしやんすな 番神の港 みなとの灯かげが主さん恋しと泣いている 」になっている。

 

その他の 島根県隠岐の「しげさ節」

 しげさしげさと 声がする しげさ しげさの御開帳 山坂越えても 参りとや 柏崎『三階節』の「しげさの御勧化」が、隠岐では「しげさの御開帳」や「しげさのごかんしょ」になっている。
 蝶や蜻蛉やきりぎりす お山 お山さんで泣くのは 鈴虫 松虫 くつわ虫 柏崎の『三階節』の「蝶々とんぼや」が、隠岐では「蝶や蜻蛉や」になっている。
 橋の向こうで チョイト出会て 話せ 話せよ話せよ 心にあること 皆話せ
柏崎の『三階節』の「蔵の戸前で ちょいと出遇うた」や「胸うちあること」が、隠岐では「橋の向こうで チョイト出会て」、「帯の模様が気にかかる 橋のたもとで  ちょいと 出おうた」に、又「胸うちあること」は「心にあること」になっている。
 夕んべ着たのは猫じゃと いわしゃったが 猫が下駄はいて 笠さして筑前絞りに 浴衣着て 来りゃすまい 柏崎の『三階節』の「猫じゃ猫じゃとおしやれども」が、隠岐では「夕んべ着たのは猫じゃと いわしゃったが」になっている。
 忘れしゃんすな 隠岐の島 島のしげさの踊りに 牛突きどっさり 島娘
 愛宕おろしの 吹く夜さは いとし 様の帰りを 浜に出て待つ 二度三度
 にっこり笑うて送り出し 消ゆる 後ろ姿に 思わず泣き伏す 乱れ髪
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しげさのごかんげ
(三階節しげさの民話)
 ごかんげというは、お説教のことです。

 昔、柏崎の専福寺(センプクジ)に、しげさというお坊さんがいました。
 しがさというお坊さんは、大変お説教がじょうずでした。

「どうか、おらたちの村に来てくらっしゃれ(お出でください)。」
「私たちの村に、ごかんげに来てくだされ。」
とあっちの村から、こっちの里から、頼みにきました。

 しげさは頼まれる、つとめて村々をまわって、仏様のありがたさや、人間に生まれた幸福などを、説教して歩きました。

 しげさのごかんげを聞いていると、美しい花が咲き競い、美しい鳥たちが鳴き遊ぶ極楽浄土(ゴラク ジョウド)にいるように思われ、仏様のお慈悲(ジヒ)深いお心や、人間に生まれてきた幸せがつくづく思われて
「ありがたや、ありがたや」
と涙を流して、お礼を申し上げるのでした。
 
 母親を困らしてばかりいた加造(カゾウ)どんの、あんにゃ(長男)は、しげさのごかんげを聞いてからは、見違えるほど、親孝行になりました。

 のめしこき(怠け者)の台(ダイ)べえどん、しげさのお説教を聞いてからは、村一番の働き者になりました。

 しげさは、酒が大好きでした。

ごけんげがおわると
「さあ、おとき(お説教の後に出す食事)
と村人たちは、しげさに酒をすすめました。

「ホホウ、これは、これは。」
としげさは、にこにこしながら酒をごちそうになるのでした。しげさは、酒を飲むときまって
「ひとつ、おどろうや。」
とひょうきんなかっこうをして踊るのでした。

 ♪ しげさと酒のめば しげさ しげさが一升のんで 私が五合のんでようたよた ♪

 皆は、手を叩いて、賑やかに、はやしたてました。酒もりは、いつまでもいつまでも続きました。
こんなわけで、村の人たちは、
「専福寺、しげさは、こんだ(今度)、いつ来られるのか。」
と指を折って、待ち焦がれるようになりました。

「隣の村で、しげさのごかんげがあるそうだ。」
とうい話が伝わりますと、どんな山坂が険しかろうが、どんなに遠い村であろうが、年寄りであろうが、若者であろうが、お説教に集まりました。

 この村人たちは

 ♪ しげさしげさと こえにする  しげさ しげさのごかんげ 山坂越えても まいりたや ♪

と歌を口ずさんでいました。 
 
 しげさが死んだ後も村人たちは、お盆になると、村のお寺に集まって、この歌を歌い、夜の更けるまで踊りました。

 私どもの三階節は、こうしてはじまったといいます。


参照「柏崎のむかしばなし」より
 
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