駄文 視軸記 トップ
米山 黒姫山 八石山 三階節 柏崎の民話 その他
(米山講) 牧口庄三郎 北前船 藤井堰


桑山 省吾先生からの寄稿
柏崎近在の米山講 北前船と江差港の繁栄

柏崎近在の米山講
中越地方の実態の視点から
「柏崎刈羽 第2号」より)

「柏崎刈羽 第2号」
1975年柏崎刈羽
郷土史研究会
 まえがき
 1、米山講の実例
 (1)、柏崎市港町の信仰
 (2)、北条町鹿嶋の信仰
 2、米山・石塔の分布
 (1)、米山講中の分布
 (2)、石塔の分布
 3、講の習俗
 (1)、講のアタリ日
 (2)、薬師堂参拝前夜の習俗
 4、米山信仰
 5、むすび

 まえがき
 十数年前、私は北条町の品田定平氏の勧めもあって、民俗的なものに興味をもった。
 そのとき、農村生活を支えている一つの機能として「講」に注目した。

 一般的に講は宗教団体であり、教団拡張のため、社会の表面に表れている報恩講(浄土真宗)、身延講(日蓮宗)などの講は各地にあって珍らしくない。
 ところがもう一つは宗教との直接的結合は少なく、宗派を問わず各部落ごとで仲間が作っている庚申講、米山講、二十三夜講など地縁性の深いものもある。

 後者の講は 明瞭な形をとって社会の表面に表れないが、潜在的な形として社会の基底面で活躍してきた。
 すなわち、信仰生活をはじめ、農事一般、社会や娯楽の場ともなり、個人や共同生活の維持に役立ってきたのである。

 過酷な幕藩体制の中で、自然の恵みに頼らざるを得ない百姓衆にとって、何回となく襲ってくる自然の災害による凶作はどれほど農民を痛めつけたことだろう。
 それだけに鍬を振り上げ大地に全身をぶちつけながら、絶対者にすがろうとする信仰心がどれほど強烈であっただろうか。
 その強烈で素朴な信仰心を山岳信仰から生まれた米山薬師様の薬師講、米山講に求めてみようとするものである。

 そこで、はじめに薬師講、米山講の信仰実例を調べ、
 そのような講および講の記念碑ともいわれる石塔が中越地方のどの地域に分布しているのか、
 米山講にまつわる習俗にどのようなものが残されているのか。
 そして米山薬師講の性格を地域社会の民衆はどのように受け止めているか。
 最後に米山講の盛衰を考えてみたい。

 1、米山講の実例
(1)柏崎市港町の信仰
 旧市内、かって納屋町と呼ばれていたので、俗に納屋町講中と呼ぶ。
 明治9年4月8日に始まり、今日まで毎年欠かすことなく守り継がれてきた。 明治初年に始まった理由が何であるか分からない。

 片山ヤスさんの話をもとにのべてみる。
 講の組織は現在6名である。明治9年は9名、同23年は15名、大正8年は17名であった。 明治初年から受け継がれているのは3軒にしかすぎない。
 浄土真宗を除いて禅宗・真言などが参加している地縁的結合で構成されている。

 講の日取は冬期を除いて毎年8日を原則としていたが数年前からふた月に一回となり、頭家の都合によって日の決まる事が多い。
 8日以外にも講を持つ場合は縁日を絵選ぶ。頭家は終講のとき来年の順番をくじで決めておく。
 掛軸をはじめとする道具類は次のアタリ日までに前の頭家が届ける。
 講に出席する人は男衆のみ講名簿(明治・大正)に記してあるが、都合の悪い時は女衆も出席した。 現在の6名は女衆のみである。

納屋町講中祭壇
 頭家は講のアタリ日の前日フレを出して都合をつけてもらう。
 時刻は戦前8時〜11時頃まで、今は10時頃までである。祭壇は座敷の床の間に軸三幅を下げる。中央と左手には米山薬師如来坐像、右手に四国八十八ケ所霊場本尊御影の軸、祭壇中央には高さ30センチ位の薬師坐像、ローソクたてと花瓶一対、鉦と線香をあげる。
 軸の入手経路は不明であるが米山寺から販売されたものであろう。

 供物と料理は宿が負担する。それは宿が順番でお互さまだからで、講中は当日、ローソクとさい銭を持っていく。供物は佐渡豆・だんご・精進料理で和讃後、皿にとって戴く。数年前まではその他に赤飯、どら焼きも戴いた。

 勤行は8時頃から40分位続く。灯明をつけ、線香をたき、鉦や木魚をたたきながら唱名とりを中心に,
一同「四国三十三所御詠歌諸和讃人」の経文を朗々と唱える。その後、供物を頂き世間話に興じた。
 (2)、北条町鹿嶋の信仰
 信越線北条駅の裏に28軒の鹿嶋部落がある。
 5年前、北条町30余の部落を調査したが13部落は大正の頃まで残り、2部落(鹿嶋、峠)は続けられていた。
 主として鹿嶋部落を対象に冨田弥八さん小暮重一さんの話をもとに述べてみる。

 講の組織は峠が18軒、鹿嶋が26軒と全戸が宗派の区別なく参加し、区長が講を主宰し、町内会的役割を果たしてきた。
 講の日取は両部落とも11、12月を除いて毎月7日を厳格に守ってきた。頭家はクジで決めることなく、順番に隣へと送る。
 講の出席者は男衆であるが、女衆の出るときもある。

 上講終講以外の時刻は8時から11時までである。祭壇は座敷で床間に薬師如来の掛軸一輻を下げる。
 その他の道具類は納屋町講中とほぼ同じである。軸の入手経路は米山寺である。

 供物と料理は宿が負担する。宿が順番なのでお互いさまだからである。上講以外は夕食後に講がもたれるので供物も簡単で神酒・煎豆ていどである。

北条の米山塔
(文久2年)
 ところが上講は盛大な宴が続く。午の3時ともなれば全員が集まり、夕食・夜食をとりお日待のようにして、早いものでも12時を過ぎぬと帰宅しない。
 この場合、各自飯米1升を持参するが、酒3升と黒砂糖3斤の代金は講銭から支出する。

 2、3人の女衆は午前から料理の手伝いをし、男衆は餅つきををする。酒も3升では足らないので頭家が不足分を負担する。習わしである。

 勤行は鹿嶋では十三仏の念仏を1時間近く唱名とりに合わせて仲間がする。峠では薬師和讃をする。
 勤行が終わると供物をいただき、農事をはじめ、世間話に興じ時の経つのも忘れる。


 2、米山・石塔の分布

 中越地方に多いと言われる米山講や米山薬師塔・米山塔の分布、年代を確かめることにより講の盛衰の一端を知ることができよう。
(1)、米山講中の分布
小千谷市(片貝町・真福寺)の米山塔。
裏面には「嘉永6年癸丑5月」の刻字がある。

嘉永6(1853)年は6月3日(西暦7月8日)にアメリカの東インド艦隊率いるペリー提督が4隻の黒船で来航し浦賀沖に到着した年である。

癸丑(みずのとうし、きちゅう)は(60のある)干支の一つ。
 米山山麓の真言宗米山寺に主として明治・大正年間の講中控帳3冊がある。
 これを見ると郡単位ごとに各部落の講中を大まかに整理してある。
 実数はつかみにくいが、一応あたった数は二百数十位あった。
 講中仲間は各部落単位の登録が多く、5、6名から40名に及ぶものもあるが、平均20名位である。
 米山寺の佐藤さんの話によると、現在は二百数十(昭和38年)、盛んなりし頃は600以上とのことであった。
 すると講仲間20名としても実に12,000名以上の信仰者が中越の各地に散在したことになる。

 郡単位で講中数と講仲間の多い順位を示すと、見附・南蒲原・西蒲原・長岡・刈羽・頸城・三島・栃尾・三条・柏崎・魚沼の各郡や市、それに信州の水内・高井・安曇郡など13講中、北海道も2講中が参加している。

 講中控帳は男衆のみの登録で女は参加していないが、戦後の控帳には女子が含まれている。講中の職業は記載されていないが農村地域が圧倒的に多く、漁村、商業地域も含まれる。
 (2)、石塔の分布
 米山講と並んで米山薬師如来の分身でもある石塔もこの地域に多い。
 大体高さ1メートル前後の自然石に「米山薬師如来」「米山塔」などと刻んである。
 造塔者は講仲間で「講中」「村中」「同行」など散見できるが無名も多い。

 諏訪部政子様は南蒲原地方石塔70余基を調査された。それによると最古の造塔は三条市東大崎永明寺山門下にある石塔で、正面に「米山薬師如来」側面に「明和四亥(1767)四月八日」と刻まれている。
 また三条、見附市方面の51基と寺泊町方面の25基の造塔年代を較べると、前者では17基が江戸時代に属しているが後者はすべて明治以降のものである。
 なお寺泊町の石塔の題字は「真言宗 万善寺住職 目黒宋全氏の筆になるのもが多い」と述べておられるが、真言宗 米山寺との関連はともかくとして、信者拡大に関与したことを示すものであろう。

 長原四郎氏は長岡市の一部と与板町を中心に27基を調査され、私は主に関原町附近の石塔9基を調査した。
 最古のものは長岡市李崎(すもんざき)部落入り口にある長方形の石塔で、正面に「米山薬師如来」側面に「文化7年庚午10月8日大久保矢三太 吉田冶平」と刻んである。
 両者合わせて36基中、江戸時代のもの9基、他は明治以降か刻年ないものである。

 柏崎近在の石塔は見附、三条方面と較べずっと少ない。 11基中、古いものは北条町峠にある「米山塔」で右下に文久2壬戌(1862)と刻んである。
 その他、柏崎市柳橋の原酒造宅の屋敷内には、「湯殿山」と共に祭ってある。「米山薬師如来」側面「元治元年四月八日 願主 柳橋 鍋屋 吉左衛門」、また北条町専称寺門前の路傍の米山塔は「慶応三丁卯 三月」のもので、他は明治以降か刻印のないものである。

 鹿嶋部落の冨田弥八氏宅には道具類が保管してある。
 鉦の裏面の刻銘は「講中世話人 弥七 文政八酉年(1825)大久保 歌代市之助作」また薬師箱には「天保元卯(1830)正月七日 鹿嶋講中 米山薬師如来箱 施主 世話人仙右衛門」と記されている。
 更に小暮重一氏は「寛政年間(1789〜1800)の講銭覚書帳が終戦直後まで保管されていた」と述べておられた。

 石塔の建立日は講が順調に運営されてきたので、薬師の恩恵に感謝し、4月8日とか10月8日など始講とか終講の縁日を選び、記念碑を建てたものが多い。
 その日から講が始まった訳でなく、ずっと以前より仲間が集まり講をもっていたと考えられる。

 民間信仰としての講が始まったのは江戸の初期であろう。資料からは中期以降が明確である。しかし全盛は末期から明治年間にかけてだろう。
 このことについては結びの講で論述してみたい。

 次に石塔正面の題字を見ると、江戸時代に「米山薬師如来」と印字したものが多く、「米山塔」と刻んだものは明治以降に多い。
 題字の違いから両時代における信仰性格の違いを多少なりともくみとることができよう。

 考えるに、江戸時代の薬師如来は本来のご利益である、「徐病・長寿」への期待も込められており時代が移るに従って、田の神への信仰が心の支えとして信仰されていったのではなかろうか。
 また各地の講の読経を分析することにより、より本質的なものを探ることができよう。

 柏崎・刈羽地方の石塔分布は蒲原地方に較べ少ない。これは米山を朝な夕な直接体験として拝むことが出来た事によるものであろう。
 これに反し遠い中越から米山を拝むとすれば青空の中の点にしか過ぎない。したがって米山薬師様の分神を祭ることはごく自然なのであろう。

 3、講の習俗
 2、3の古い資料より日常の講がどんな目的で営まれているのか。アタリ日の由来は何によるのか。
また、古老より、代参人がどのような習俗でお札を受け、帰宅しどんな行事をもつのだろうかを調べてみよう。
(1)講のアタリ日
 北条町専称寺(時宗)にかって保存されていた米山講の習俗の一端を「高志路」から引用する。

 慶応4年辰正月 箱並御神酒徳利 施寺沢善六と記された箱があって、その中に薬師如来の掛軸、鉦、香炉一式および数冊の帳面が保存されている。
 嘉永四年の米山薬師銘々講預帳を見ると、小字四日市、道場町講中、願主勝五郎、藤四郎他16名が連記してある。

 右人数毎年正月より10月まで7日の夜 輪番に宿を致し 一人前講銭5文にて 都合3分宿にて預置 5月15日に差置惣代として講中より 1〜2人を米山迄詣 御礼奉り申し講候
 順番にて出席の節 宿よりお神酒の外 聊奢ケ間敷儀は無用 茶菓子として豆煎など 其外春秋の時宣により其節の宿にて手酒などの貯置候はば 宿の思召に相拠り頂戴仕るべく候
 先年は丁内にも薬師講もこれ有り候へども 近年人情猥り相成久 中絶にしかる処 近年は上作打続き天災のがれ難きにより 人力の及ぶ所に有らず 御薬師蒙り奉るによる外御座無申候

 北条町鹿嶋部落に講中保存の安政6年講銭覚帳1冊がある。
 帳面には安政6年(1859)正月7日より昭和18年10月7日までの80余年間の講の日と頭家、それに積立金が記されている。
 また、いずれも毎年10月7日を上講として決算している。

 安政7年正月七日
 正月七日 八拾文   嘉右ェ門 預り 講中名略
 二月七日 百拾五文  同人
   略
 七月七日 百拾五文  同人
 八月七日 百拾文    同人
 九月七日 九拾文    同人
 十月七日 百拾五文  同人
 〆 壱〆弐百四拾弐文
 内 八百弐拾八文 米山様へ 
 残金 四百拾四文  内三百文 宿入
      百拾四文

 次に柏崎市納屋町講中保存の積金帳2冊を見ると、明治23年1月8日から昭和35年11月8日迄のもので一部を紹介しよう。
 
 明治廿七年 残り金 八拾六銭一厘有
 明治廿八年
 三月五日   宿  水嶋藤吉    拾三銭二厘 講銭さい銭
 四月十五日  宿  近藤仙吉    七銭三厘      同
 五月八日    宿  井倉六之助   拾銭五厘      同
 六月八日   宿  曽田徳兵エ   拾銭六厘      同 
 合計      壱円弐拾七銭七厘
          内  三拾銭  上納金  弐拾銭 御札料
              拾銭  御開帳料  拾六銭 酒一升
              四銭四厘 同樽代  弐銭 とうき代
          〆  八拾弐銭八厘 四拾四銭九厘残り有
   略
 十月八日   宿  近藤新助    五銭三厘   講銭さい銭
  十二月十五日宿  大島嘉七     八銭三厘      
  〆       壱円拾銭三厘

 上にあげた資料より、農村の北条では毎月正月より10月までの7日のアタリ日とし、町では3月から12月までの8日をアタリ日にしている。

 この農村の7日のアタリ日と米山薬師様との関係を推測してみたい。
 雪消えと共に、薬師は4月8日から10月8日までの山麓の米山寺より、山頂の堂に安置され「山の神と共に田の神の役目を果たす」と伝えられている。
 また4月7日という日は8日が釈迦降誕の日、薬師様は田の神となられる日なので、前夜祭的意味があるのだろうか。

 10月7日という日は8日が薬師の命日なので「逮夜」の日にあたり、ありし日の徳を偲ぶため、夜こもりをして、日待をし、8日を迎えるのだろうか。
 また一般に農村では10月7日を終講にしているのは薬師如来様が田の神の役目を果たされたので、いよいよ明日お帰りになるということから「半歳間、わたくし達の田をお守り下さいました」という感謝の気持ち、農作業の一段落から盛大な田の神まつりの宴も開かれ、一同が8日に解散したのだろう。

 頭家の宿は各部落とも輪番でするのが多いけれど、鹿嶋のように嘉右エ門が引き受けているところもある。部落における総代的役割を果たしているのだろうか。

 納屋町の講(職人)のアタリ日は3月から12月までの各月8日となっている。
 農村と較べてみると10月7日を終講にしていない。田の神を強く受けた講の持ち方をしていないことが分る。
(2)、薬師堂参拝前夜の習俗
 北条町峠部落では戦前毎年6月の中頃(柏崎最大の閻魔市祭)田植えを済ませた百姓姿の若衆二、三人が講中の代表として、仲間の見送りを受け出発する。
 出発に先立ち講銭(上納金・御札料・御開帳料・酒一升・薬草当帰(とうき))と山麓にて履きかえられるわらじ一足。土入れの袋、水入れの竹筒を持参する。

 米山への登山道は三階節にもあるように「谷根、河内や青海川、子供、、米山詣りや わが身を浄める祓川」とあるように谷根部落の祓川で手足を癒して清め講銭を洗い、新しく用意したわらじに履き替える。
 ここから急斜面の一の坂、二の坂、三の坂をよじ登る。三の坂の終わったところに平坦な場所があり女人堂がある。
 女天井と呼び、この上は結界山(仏道に障害なきよう一定の地域には女人の登山を禁止)とした。
 荒浜の古老が親から聞いた話によると明治初年までは女の赤不浄を嫌いその掟が守られていた。
 また子供は12歳になると薬師詣りを必ずやり一人前になる証とした。

 ご来光を仰ぐと、ご室前にて護摩供修行をし、講仲間の豊作をはじめ家内安全諸願成就の加持祈とうをする。
 また、「米山月護摩供札 別当 米山寺」と書かれた大札と黒札(黒の地に白の文字)、必要に応じてあられや当帰を求め、湧き出る清水を竹筒に、堂より数握の砂を入れて下山する。
 山麓にて再び元のわらじに履き替え、神聖なわらじを持ち帰る。
 あられを戴くと風邪をひかないとか、豊作を期待することができる。
 当帰は山中に自生している薬草を買い求めたりし、臭気、魔除け、悪除けに効き、各家の庭先とか便所に吊り下げる。

 お札の分配方法はアタリ日の講の席上で分配する場合、、講仲間を廻り配布する場合がある。
 しかし、この地域ではお札(外来神)を配布するに当たり、先ず仲間が部落の氏神様(在来神)に集り、許可を得てから配布するという習慣は残念ながら聞き出すことはできなかった。

 大札は各戸一枚宛、黒札は必要に応じて配布する。大札は仲間の神棚へ(神棚は二基あって、一基は「天照皇大神」のお札、他の一基は各地域参拝のおり求めた札を安置する)、黒札は早速、葦や竹竿の先に挟んで畔や田の水口に立てる。
 また、家によっては竹竿のもとに一握りの土とわらじ、それに竹筒の清水を供えるところもある。
 
 虫除けを願い、豊作を期待する素朴な農民の信仰心を習俗の一つひとつに求めることができる。

 4、米山信仰
江戸末期より明治にかけて講が全盛期の頃、12,000名に及ぶ仲間がいたと推察できる。
 この数を支えてきたものは一体何であるか。米山薬師如来の不思議な力であろう。それを米山薬師の縁起に求めてみよう。

 米山にある薬師如来は和銅五年越前の僧、泰澄が安置したものである。
 これは日本三大薬師如来の中でも随一願いをかければ必ずかなえてくれる。
 この山はその昔、五輪山と呼んでいたがその後、米山と改める。
 すなわち和銅五年出羽の国の住人上部の清定というものが上米を積んで北海を渡る時、泰澄が供米を願うが拒否されたので、沙弥鉢を飛ばし五輪山に運んだので「米山」といった。
 清定は上米を納めて後、米山にきて泰澄にお目にかかり、名前を浄定行者と改めた。

 米山の四方の峰に女人堂がある。これより上は結界山とされ、神霊が宿ることになる。山上南に寒冷な清水が湧き出ており、日照のときも枯れず、真夏に雨乞いをすると、雲がかかり、雷鳴とどろき、田に水を叶えてくれるという。

 「東遊記」にはこの山高いけれど奇妙な山で、山上七、八分まで山中に田作りしも、水がかりが良いので米山と名付けた。

 また「越後野志」には山中の村里数が多くあって、水田は良く米を産するから米山と称したと書かれている。

 この縁起は特に豊作を期待する農民にとって、科学では解決できなかった稲作に対し、霊ある生き物として結びつき素直に受け入れられやすかったのであろう。
 
 3の「講の習俗」のところで百余年前の古文書を紹介したが、そのところに米山講の動機が述べられている。
 「近年は人情が乱れたので(北越戦争)久しく中絶していた。
 ところがここ2、3年豊作が続いた。自然の天災は到底人の力では防げないので、薬師様のお恵におすがりする以外道がありません」ここにもはっきりと農民の天災に対する不安・恐怖から逃れようとする心情の一端を汲み取る事ができる。

 酒の神様でもある。
 清酒「越の誉」で有名な原家には先代から「米山薬師如来」と刻んだ石碑を信心している。これはかって市内柳橋に屋敷があった頃、地内より酒の生命と言われる良質の水が湧き出たので祭ったものである。
 縁起の中でも「山上の南に清水があり、寒冷で澄み、どんな日でも涸れない」と記されていることと関連ずけて、考えてもよいのでなかろうか。

 漁業道標の神様でもある。
 寺泊・石地の講中の中には漁師の講中がみられる。
 市内番神にある石塔には「米山薬師如来 船頭中」と刻んである。漁に出掛けた漁師にとって遥か海上から眺めた米山は絶好の航海上の道標であったろうし 魚場の位置をこの米山によって確認できたのでなかろうか。

 長岡市曲新町の野口三雄、同清二氏宅では米山塔を「屋敷神」として祭っておられる。先代は百姓なので「田の神」とし信心していたのだが、百姓を絶ってからは自ら信仰の目的を変えたものであろう。

 悪病治癒の神様でもある。
 日本民族資料辞典によると「米山薬師様は12月8日に出雲に向かい、薬の調合に行き、4月8日にお帰りになるので、その日が参詣日になっている」と記されている。
 北条鹿嶋の古老、長谷川サカさんは「薬師様は万病に効く薬を持っておられる。それは八千草(あらゆる草)を手の平で焼いて、薬の種を作り、万民に与えた」と耳元で語って下さった。
 私はかねてより聞き出したかった田の神と伝えられている神様と異なり、薬師如来の信仰(徐病・長寿)の中にとけこんでいる本来の姿をうかがい得た喜びを感じとった。

 具体例より信仰心のご利益を幾つか述べたが、生活としての職業と結びつきつつ、詰る所は諸願成就と規定することができよう。

 5、むすび
 薬師講、米山講はすでに江戸初期に始まっていただろう。中期の明和・寛政年間には講の実例が散見できる。
 そして江戸末期から明治にかけて、中越各地に爆発的広がりを支えてきたものは米山薬師如来を安置する米山寺の縁起に基ずく不思議な力である。
 科学では解決することが出来なかった稲作に対し、農民は絶対者に結び付けて解決してもらうより仕方なかった。
 米山は確かに霊あるものとして結びついた。その背景には、農民にとって避けて通ることのできない「凶作」が指摘できよう。
 今日では自然の災害を科学の力である程度まで解決することができるが、戦前はそうでなかった。
 農民は日照・水害・冷害・虫害など自然のいたずらをただ傍観するかたわら、絶対者に解決を求めたのである。
 
 石塔の散在が多い蒲原平野を流れる信濃川とその支流は豪雨が続くと、決まって氾濫したといわれる。
 与板町の古津・広野・南中・中田などの各部落付近を流れる黒川、見附市の坂田・福島などの附近w流れる刈谷田川などはその好例である。
 また、山間地には冷害・水不足が多く凶作を招いた。
 そのような農民の不安・動揺を解決するために農民の絶対者(米山薬師)を部落は勧講するよい機会でもあった。
 薬師本来の信仰とやや異なり、伝道者は田の神という現世的利益を携え、比較的安易に入り込む余地を与えた。
 農民は部落にある在来信仰としての氏神様・産土神の中へ、講仲間の同意を得て、外来信仰としての米山薬師如来を勧講した。

 石塔は氏神様の境内の片隅に、部落の三叉路、あるいは米山を遥か拝むことのできる山頂へ祭ったのである。
 伝道者として各地の神官・僧侶および部落の総代さんが教義を体得し、講仲間つくりに果たした役割は大きかったであろう。

 ところで全盛だった米山講も、昭和20年代に入ると急速に衰えてきた。そのよってきたるところは神仏の不思議な力を科学の力が解決するようになってきたからである。

 米山講はその昔から今日に至るまで、主として田の神として農民の信仰面を支えるとともに、部落内の寄合、娯楽の場ともなり。個人生活や共同生活の維持に果たしてきた役割は大きかったと考える。

  一行目に戻る

駄文 視軸記 トップ
米山 黒姫山 八石山 三階節 柏崎の民話 その他
(米山講) 牧口庄三郎 北前船 藤井堰