がんば716ショップ
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米山 黒姫山 八石山 三階節 柏崎の民話 藤井堰の治水



八石山 六条院領佐橋庄と
八石山城主・毛利氏
不動滝 八国山埋蔵金 民話

 八石山は四峰あり、柏崎から見た山容は大仏様が横たわっているように見えるので、民話のように昔は大仏山と呼ばれていたという説がある。
 
 場所は柏崎市と小国町の境に位置し、刈羽三山の他の二山より地味な存在で最も低い山である。

 山頂は、北から赤尾八石、下八石、中八石、上八石の四峰に分かれている。
 最高点は中八石山の518m、次が下八石山の513m、その次が上八石の494m、それから赤尾八石の474mがある。

 小国町では、中八石山を小国八石、柏崎市の南条では、下八石山を南条八石、その下手にある山を赤尾八石と呼び、古くから地元民から親しまれ、旧跡や不動滝などもある。

 中八石山の山頂までは、南条登山口(北条駅から徒歩で60分)から1時間30分、柏崎市の石川登山口(柏崎駅からバスで30分、徒歩で15分)から2時間かかる。

 中鯖石地区にある石川集落から中八石へのコースは多くの人が登っているが、その登山道の途中にある八石城の城趾(ジョウシ)は標高441mにあり昼食の場として親しまれている。
 ここには旧小国町が建設した避難小屋があったが老朽化して現在は平地になっている。
 そこで柏崎市の中鯖石コミュニティ振興協議会が立ち上がり、避難小屋を2010年6月12日に建設する予定で昨年から資材運びを行っている。

 毎年5月の下旬(2010年は5月23日)の日曜日には、南条八石の山開き登山が「八石の自然を楽しむ会」(2010年は藤田修一会長)主催で開催されている。
 当日の午前9時、追田林道から入った追田登山口駐車場から山頂を目指し、山頂では記念撮影や豚汁(無料)などのイベントがあった。
 南条八石によく登っている中年の女性は、「冬でも安全に雪山を楽しまれるようにと、追田登山口から頂上まで 人が足で雪を踏みしめて道が作ってあることが何度かあった、北条の人々の南条八石に対する思いには敬服する」と話していた。
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八石山城主・毛利氏(毛利元就の先祖)と 六条院領佐橋(さばし)(鯖石)庄


・八石山城主・毛利氏(毛利元就の先祖)

 毛利氏は鎌倉幕府の初代別当を務め鎌倉幕府に貢献した大江広元の四男・季光が現在の神奈川県厚木市で毛利氏と称したのが始まり。

 宝治元年(1247年)、宝治合戦で、有力御家人三浦泰村に味方して季光は執権・北条時頼によって討たれ、一族全滅の危機に見舞われたが、四男経光のみが越後に居て直接的に関わることはなかったため越後国刈羽郡佐橋荘南条(現在の柏崎市)と安芸国・吉田庄の領有は許された。

 後に経光は四男の時親に安芸国高田郡吉田庄(現在の広島県安芸高田市)を継がせている。この時親の子孫から後に中国地方の戦国大名となる毛利元就が出ている。

 越後に残ったた嫡男の毛利基親は佐橋荘南条を引き継ぎ、子孫には北条、安田、石曽根、善根の毛利氏となり、(越後統一した上杉謙信の養子となり上杉氏となった)上杉景勝が米沢へ移封された後も その子孫は安田氏・北条氏(きたじょうし)などに、柏崎市に残った。

 この南条の毛利氏城館は、現在その跡地に佐橋神社が創建されている。
 利氏ゆかりの神社・周廣院(市内与板)は八石山城主・毛利大萬亮周廣(もうりだいまんのすけちかひろ)で、毛利氏が開基し、創立は天文三年(1534年) 一説には弘治年間(1555〜1557)と言われ、本尊の阿弥陀如来坐像(像高53cm桧材の一本式寄木造り)は新潟県文化財、柏崎市文化財指定)新潟県文化財になっている。

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・六条院領佐橋(さばし)(鯖石)庄

 柏崎地方にある皇室に関係する荘園は、前斎院(さきのさいいん)御領宇川(うかわ)(鵜川)と、六条院領佐橋(さばし)(鯖石)庄、穀倉院領比角(ひすみ)庄などがある。
 
 前斎院とは賀茂神社の神祈官を指し鳥羽上皇の内親王がその職であり、領主(本所)の六条院とは白河上皇の内親王の御所名で、後に歴代上皇に伝領されていき、穀倉院は宮廷役所の一つで、鎌倉時代初めの白河・鳥羽上皇院政時代に寄進が行われたとされる。

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安芸国吉田庄・毛利時親

 鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、越後国南条から安芸国吉田へ移った後に国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた
戦国時代には国人領主からついに戦国大名への脱皮を遂げ、中国地方最大の勢力となる。 しかし1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となり、敗戦後、周防国・長門国の2か国に減封され36万9千石の長州藩(萩藩)になり外様大名となるも、江戸時代を通じて安泰であった。

 また、江戸時代末期には長州藩から数々の優秀な志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。

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戊辰戦争と柏崎毛利家と長州毛利

 1868年(慶応4年)、江戸時代末期の戊辰戦争当時、伊勢(三重県)桑名藩の越後国における飛地領の中心都市であった柏崎(大久保陣屋)は、伊勢の桑名藩本藩が 新政府軍に恭順して以降も 藩主松平定敬(さだあき)らは これに従わずに飛地領の柏崎に移り、会津藩兵および旧幕府歩兵とともに 新政府軍に抵抗した。
 藩主・松平定敬は、会津藩主・松平容保の弟であり、容保が京都守護職の時、京都所司代を務めたので、柏崎の鯨波は、戊辰戦争(北越戦争)の激戦地の一つになり、佐幕派の桑名藩と反新政府軍が衝突して鯨波は殆どの家が両軍の砲火で炎上した。

 ところが一方では、戦前から長州の国学者・勤王家の近藤芳樹(後、明治天皇の侍従)が、国学を通じて、勤王派工作を行っていた。
 近藤芳樹は歌人として柏崎の剣野にあった星野藤兵衛家の御殿山に滞在し、国の内外の情勢を説く一方、古事記や万葉集から王政復古への待望を論じたりした。

 また、北陸道先鋒総督参謀の山県有朋が柏崎に在陣した当時、「我々は、毛利家の遺臣である」と、北条周辺の人々が訪ねて来たのだと云う説がある。 (山県有朋:高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。明治政府では軍政家として手腕をふるい 元帥陸軍大将となる)

 ここに、近藤芳樹の影響で勤王家になった星野藤兵衛が私財を投げうち、官軍を説得して、官軍の焼き打ちを回避させ柏崎を戦火から守った。

(星野藤兵衛:、桑名藩 柏崎陣屋御用達の豪商。星野家は柏崎で代々酒屋、質屋を営み六代目の時、苗字、帯刀を許される。七代目藤兵衛輝正の次男は万延元年(1860)33歳で九代目藤兵衛を名乗り、文久3年(1863)郷士格となり、同年7月外国船渡来のために兵糧掛を命ぜられ、長州藩士近藤芳樹と出会い近藤芳樹の影響を受ける。星野藤兵衛の屋敷があった場所は星野小路と呼ばれ、この小路は現在の柏崎信金本店の角から旧市道64号線に向かう道であった)
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1、大仏山と呼ばれていた八石山

豆の木御門(北条の民話)


 柏崎中心部から東方に見える八石山は右の写真のように大仏様が横たわっているように見えるので、大仏山(『涅槃(ねはん)の仏』)と呼ばれていたと言われているが、地域により大仏山ではなく観音様だという説もある。

 昔、八石山の麓にある北条村に仲の良い夫婦と可愛い男の子一人が住んでいました。
 その男の子が幸福に育っているうちに、そのお母さんがふとした病気で死んでしまいました。
 
 残された父さんと男の子は親子二人で仲良く暮らしていましたが、お父さんは人に勧められて新しいお母さんをもらいました。
 
 この後のお母さんは良い人で前のお母さんの男の子を大切に育ててくれていましたが、後のお母さんに子供が出来、前のお母さんの兄と後のお母さんの弟の二人になってからは、前のお母さんの兄を憎むようになりました。

 色々と難くせをつけていじめていましたが
 ある日、お母さんは
「さぁ、今日は大仏山の畑に、種をまいてきなさい。」
 と言って、兄には炒った豆を、弟には、生の豆を持たせました。
 二人は、大仏山の畑に豆をまきました。

 それから十日たちました。
「もう豆は芽を出したころだな。行って見て来よう。」
 お母さんは、二人の子供を連れて、大仏山の畑にやって来ました。
 弟の畑には、青々と豆が芽を出していましたが、兄の畑には一つも芽を出していませんでした。

 お母さんは
「お前は豆をまいたのかぇ。」
 とにくにくしげに言いながら
「この怠け者のろくでなし。」
 と杖で兄を打ちました。

 兄は亡くなったお母さんが恋しくなって、涙をポロリと落としました。
 ポロリと落とした涙が、土にしみ込むと、むくむくと土が盛り上がって、一粒の豆が芽を出し、ものすごい勢いで伸びました。
「あれまあ、あれまあ」
 と三人が驚いているうちに、豆の木はグングン伸びて、雲に届くほど大きくなり、大枝、小枝が茂り、枝々が垂れ下がるほど、たくさんに豆がなりました。

 あっけにとられている、三人の目の前に、風に吹かれて、パラパラ、パラパラと豆が降るように落ちてきました。
 三人は慌てて豆を拾い集めました。大きな豆の山が十もできました。
 この豆を家に運ぶのに、三日三晩かかりました。
 計ってみたら八石(千五百リットル)もありました。

 たちまち、このことが村中の大評判になりました。
「たまげたもんだ。一本の豆の木に八石も豆がなったてがんだのう」
「まさかと思ったが、本当だぞえ。わしは昨日ほんとに見てきたんだに」
「きっと、死んだ前のおっかさんが、あんにゃさを、かわいげらに思って、ならしたんだろうて」
「そうとも、そうとも、そうでなけりゃあ、一本の木から八石も豆がなるはずはねぇだ。」

「こんだから、大仏山を八石山と呼ぶべえか。」
「そら、いい名前だ。おらも八石山と呼ぶべ」
 そのことがあってから大仏山を八石山と呼ぶようになりました。

 そして、このお母さんは
「私が悪かった。」
 とそれから二人の子供を分け隔てなくかわいがりました。

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 この豆の木で門を造り寄進したのが専称寺の境内にある山門で、別名"豆の木御門""と呼ぶ という伝説が残っています。
 また、その木の枝が小国(現在の長岡市小国町)へ飛んで行って芽を出したのが沢山実って、大きな桶に三つもあったので その村を三桶村(現在の小国町三桶)と呼んでいます。

「昔の話でありました」、「柏崎市伝説集」より
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2、大仏山と呼ばれていた八石山

信心ばばさと豆の木(鯖石の民話)


 昔の話でありました。

善根(ゼゴン)の久の木に 大変信心深いばばさが いました。

朝、起きると先ず大仏山に向かって
「今日も たっしゃで 暮らせますように」
と ポンポン拍子を打ってお祈りしますし、夕方は 又 大仏山に向かって
「今日も たっしゃで 働かせてありがとうございました」
とポンポン拍子を打ってお礼を言いました。

その夏は日照りが続いて 雨が一粒も降りませんでした。
ばばさは大仏山の山畑に 大豆をまきましたが みんな ひっからびて しまいました。

「この冬はどうして暮したら いいこったやら」
と がっかりして ため息をつきました。 と
「ばばさ ばばさ あしたの朝げ ござらっしゃれ」
と いおう声が大仏山のてっぺんでしました。

不思議に思って 翌朝 ばばさが畑に行って見ますと 沢に転がり込んだ豆がたった一粒 芽を出していました。
「たった一粒ぐらい 芽を出したところで どうしょうも ないではないかえ」
と ばばさががっかりして 又 ため息を つきました。と

「ばばさ ばばさ あしたの朝げ ござらっしゃれ」
と いおう声が大仏山のてっぺんで又しました。
ばばさが翌朝 畑に行って見ますと 豆の芽が 十メートルもある大木になって 数百本の枝が 空が見えないくらい 広がっていて 枝という枝には 豆の花がいっぱい 咲いていました。

「もうじき二百十日だ。大風が吹けば 一晩で散ってしまうがね」
と ばばさは がっかりして 又 ため息を つきました。と

「ばばさ ばばさ あしたの朝げ ござらっしゃれ」
と いおう声が 大仏山のてっぺんで 又しました。

翌朝 ばばさが畑に行って見ますと 豆の木は 一晩の中に りっぱな実となって カラカラ、カラカラと さわやかな音を たてていました。
「せっかく いっぱいになったとて おらの手が届かん。 あんがに高い所では どうしてみようも ないてば 宝のもちぐされ というもんだ」

と ばばさは がっかりして 又 ため息を つきました。と

「ばばさ ばばさ あしたの朝げ ござらっしゃれ」
と いおう声が 又 大仏山のてっぺんで しました。

その晩 心配していた 二百十日の風が ピープー ピープー 吹き荒れました。
ばばさは生きた心地もなく
「どうか風がおさまりますように」
と一晩中 一心に 大仏山にお祈りを 続けました。
夜明けには 風はおさまり 何事もなかったように 朝日が赤々と昇りました。

朝飯もそこそこに 畑にやってきたばばさは 腰が抜けるほど 驚きました。ゆうべの風で吹き落とされた大豆が あっちこっちに 小山のように 積まれていました。

「ひゃあ、これは大変なことになったァ。村の衆 来て見てくらしゃいてば」

山畑を転がる様に 降りてきたばばさは大声で 叫びました。

ばばさから 話を聞いた村人たちは、 からざおを持って ばばさの山畑に やってきました。
なるほど ばばさの言う通りに 豆の小山が 幾つも 幾つも 出来ていました。

バタン、バタン、バタン、バタン
村の人が、 からざおで 豆を打つ音が 一日中 賑やかに 響き渡りました。
「どの位 あるものだろうか」
こんなに たくさんの豆は 誰も見た事は ありません。

「枡形山(マスガタヤマ)から 枡(マス)を借りて来て はかって見ようや」

若者の一人が 枡形山から 一斗枡(十八リットル)を 借りて来て、一つ 二つと はかっていきました。1斗枡に八十杯も ありました。 
「ほう 八石も あったぞえ」
と若者が 叫びました。

「これは 大仏山の神様が くんなした豆だ。わしが 独り占めするのはよくないこった。 皆で神様のお恵みを 分け合おうじゃ ないかえ」
とばばさが 言いました。

「そうかえ そうかえ。おらたちにも神様のお恵みを分けてくれるかえ」
村人たちは 大喜びで 大豆を背負って 山を下りました。

村人たちは それから 大仏山を 八石山と呼ぶように なりましたとさ。


「昔の話でありました」より
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善根の不動滝
(八石山の滝)
 善根の不動滝は、三段で奇岩怪石が高くそびえ、高さは72メートル余りになる。古来より不動明王の滝として、八石山にかかる多くの滝の中で最も信仰されている。

 また、明治の初めに佐之久の村松家出身であった八代目柏戸関が深く信仰し、不動明王の石像を寄進している。(石像は、滝壺に向かって左側岩窟に安置されてある)

不動滝付近は駐車場があり、遊歩道や水洗トイレなども整備されている。

不動滝(2008年6月23日撮影)

不動明王の石像



八国山埋蔵金
 (善根の不動滝)
 八国山には蒋介石が八国山に金銀等の財宝を埋めたという、八国山埋蔵金の説がある。

 蒋介石は、国共内戦で敗北(1949年)し、その後、首都南京を脱出し、重慶などを経て台湾へ敗走、事実上台北への遷都を強いられた。

 この台湾に逃げる時、蒋介石は台湾に多くの財宝を持ち出したが、台湾も追われることも想定し、妻の宋美麗の家から持ち出した金銀等の財宝(800億)だけは、日本に持ち出して埋めた。
 その時、多くに人物が、持ち出した財宝の後を追ったが、何故か八国山の麓にある善根のお滝(不動滝)さんの辺りで見失ってしまった。

 また、この時に財宝を運んでいたのは田中角栄ロッキード事件で有名になった児玉誉士夫であった。
 (児玉誉士夫は日中戦争で上海に児玉機関という店を出して暗躍し、莫大な資産を得て、戦後も政財界の黒幕と言われた人物である)

 次に、蒋介石が日本の中で善根の不動滝を選択した訳は、飯田貞固(サダカタ)陸軍中将という人物が関係していたからである。
 
 飯田貞固は山本五十六や東条英機と同じ明治17年生まれの小国町八王子の人で、昭和天皇の信頼が厚く、八国山の善根城跡に飯田貞固陸軍中将揮毫(きごう)の碑があったが、現在は加納の清龍寺に墓がある。

 蒋介石は新潟県の高田連隊にいて、小千谷小栗田原にあった陸軍飛行場に来たこともあり、これが飯田貞固との出会いであった。
 
 1945年、第二次世界大戦で日本が敗戦した時、中国大陸に残された多くの日本人達を救出し、日本に帰した司令官がいて、そのお蔭で中国大陸からの引き上げは満州よりスムーズとなった。
 この司令官が飯田貞固であったが、それは蒋介石との信頼が厚かった飯田貞固は蒋介石に援助をしてもらったからである。

 その4年後、上述の通り今度は蒋介石が台湾へ敗走するはめになったので、蒋介石は飯田貞固に飯田貞固の故郷であるに善根の不動滝に財宝を埋めることを託したのであった。

 しかし、この財宝は、蒋介石が台湾の総統に就任(1950年)し、国内が安定した数年後、日本に来て内密に掘り出して持ち帰ったが、この時、蒋介石はこのお礼としてお滝(不動滝)さんの川に2本の橋(右の写真の護国橋と不動橋)を寄付したとのことであった。

 『柏崎日報、「風の戯れ言」(市内加納:石塚 修)、2018年9月22日』参照

 先日、現場に行き近くの地元の方から埋蔵金の話を聞いた。
 今から40〜50年前(1970〜80)、突然埋蔵金目当ての人々が多くの来るようになった。

 彼らは地元民ではなく、遠方から来て地主の許可も得ずに勝手に辺り構わず穴を掘り返していた。

 それから、日を増す毎に多くの人々が来て穴の大きさも拡大していったので、地主の方々とのトラブルも増大し、裁判沙汰になったこともあった。

 しかし、埋蔵金のかけらも出ず、地主の眼も厳しくなったこともあり埋蔵金を探しに来る人々も自然に来なくなった。


 上の写真は加納の静龍寺にある飯田貞固氏の墓であるが、飯田氏は神道なので墓石の上は平らではなく三角に尖っている。

 近くの墓にお参りに来ていた人が、「日本の国の為に戦った兵士は、亡くなると仏になならずに神になるので、墓も神道の墓石になる。よって飯田氏の墓も上部が三角に尖った神道の墓に埋葬されてあるのだ」と話してくれた。




 蒋介石から寄贈さたたという護国橋と不動橋の2本の橋。

但し、当時は木製の橋だったが、現在はコンクリートの橋に作り替えられている。
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