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米山 黒姫山 八石山 三階節 柏崎の民話 藤井堰



鯖石川藤井堰と直江兼続・青山瀬兵衛 (よろい堰の民話)
 藤井堰の記事  年号・主な出来事

 直江兼続は
天正9年(1581年)から、与板城主として過ごした17年間に多くの実績を残しましたが、その一つに“刈羽(現在は柏崎市)鯖石川の藤井堰(ふじいぜき)”の治水事業が挙げられています。

 その“藤井堰”は柏崎市平井地区に最も長い歴史をもつ堰として、その後も改修を重ね今でも稼働しています。

 太閤検地が全国的に実施された
文禄4年(1595年)2月、上杉景勝の重臣、直江山城守(直江兼続)の名で藤井堰の掟書(おきてがき)が下されました。

 掟には、その他に新たに開墾するものには、5年間の年貢免除や1年間の無利子の援助なども定められていました。

 それから3年後の
慶長2年(1598年)4月、豊臣家5奉行の一人石田三成らが越後の国改めの為に下向した際に、藤井堰の掟を下しました。これは景勝が会津に移封され豊臣家5大老の一人となった翌年でした。

 これは直江兼続の掟を踏襲する旨を述べているものですが、景勝の後の
領主堀秀春(ひではる)もこれを継承して同年同じ文書を出しました。

 このようにして築造された藤井堰でしたが、その後、洪水などで何回も破壊されました。

 しかも、時代は豊臣から徳川へと激動し大名も激しく交代したので、藤井堰は置き去りにされました。

 そんな藤井堰でしたが、江戸時代、松平光長の治下になると柏崎に陣屋がおかれ、
正保元年(1644年)、郡奉行青山瀬兵衛が現在の平井地内で新しい堰と東江、西江の開削工事を大々的に着工しました。

 この堰や用水の設計と その土木工事の指揮監督に当たったのが青山瀬兵衛でした。
 青山は、越後守の松平越後中将家(光長)の家臣で200石取りの刈羽郡奉行として柏崎陣屋詰めでした。
  算勘(さんかん)に詳しく、水利土木に優れた手腕を発揮しました。

 彼は藤井堰を築くに当たって、従来の原始的な「草堰」よりもずっと進歩した独創的な工法を用いました。
 その工法は川底に多くの杭を並べ打ち、その間に多くの伐木やソダ木さし渡し、さらにその上手に同工法で何段もの小堰を組み合わせ、堰を何十段も重ね、また約70mほど延長しました、その姿はちょうど鎧(よろい)のように見えるので「鎧堰」と呼ばれました。
を。
  工事の拠出金には柏崎の富豪市川嘉七が協力しました。

 藤井堰と並行して進められた東江は、2,400メートルの用水を掘り割る大工事で、すでに専用の用水を持っていた平井村が強く反対しました。
しかし、青山の私利私欲を越えた地域開発の熱意に、反対の急先鋒だった平井村の庄屋高野六大夫が、逆に最も強い協力者となりました。

 藤井堰と東江・西江は正保元年(1644年)から承応3年(1654年)まで10年の歳月をかけ、東江6・西江15ケ村の水田を潤す
大工事が完成しました。

 これにより刈羽平野の水田の60%は水害と干ばつから解放され、米の収穫量は安定し増量できたので多くの住民が救済されました。

 青山瀬兵衛はこの工事のほかに水利土木事業として、柏崎海辺の砂除け山や防風林の造成、川尻の改修、橋の架橋、溜池、村道、川の分水、植林など多くの大工事を手掛け、柏崎、刈羽地方に計り知れぬ恩恵をもたらしています。

 青山瀬兵衛は元禄2年(1689年)4月3日87歳で没しました。
 青山の墓は平井の福勝寺にあり、東江六ケ村では今でも毎年、彼の命日には野良仕事を休み、その徳をたたえています。

 直江兼続が手がけ、青山瀬兵衛によって完成した鎧堰は、その後、新堰が築かれましたが、洪水の魔力にはおよばず決壊の悲劇にあってしまいました。

 しかしその意思は引き継がれ、現在の藤井堰は昭和34年(1959年)着工、同41年に完工したものが稼働しています


(キャッチアイ・柏崎、与板観光協会パンフレット、長岡・柏崎の歴史より)



 米山が望む刈羽平野の水田は、藤井堰によって水害と干ばつから守られてきた。
(2009年5月撮影)




 写真右側の堰の堤防には、四角ものが幾つも積み上げられているが、これは2007年7月16日の中越沖地震で傷んだ堤防を補強するために運ばれた土嚢の袋。
(2009年5月撮影)


天正9年(1581年)
 ・景勝の側近である与板城主直江信綱が殺害される
 ・兼続はお船の婿養子になり直江家を継いで
与板城主となる。
 ・上杉家は兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る
 ・新発田重家の乱が始まり、終結に7年間かかる

天正10年(1582年)
 ・柴田勝家に上杉方の魚津城を攻略される
 ・本能寺の変で信長横死

文禄3年(1584年)
 ・ 狩野秀治が死去。兼続は単独執政を行なう

天正14年(1586年)6月
 ・景勝上洛し、秀吉と接見し、秀吉に畠山義真)
  を人質として差し出し、臣従して命脈を保つ。
 ・景勝は左近衛権少将に昇叙転任。兼続も従五
  位下に叙せられる

天正15年(1587年)
 ・景勝、重家を討ち新発田重家の乱が終結

天正17年(1589年)
 ・佐渡の本間氏を討伐し、佐渡を平定した

文禄元年(1592年)
 ・秀吉の朝鮮出兵が始まる
 ・兼続は景勝と朝鮮出兵に参陣し武功を挙げる

文禄3年(1594年)
 ・景勝上洛し。豊臣景勝として権中納言に転任

文禄4年(1595年)
 ・1月、景勝が秀吉より越後・佐渡の金山支配を任せられると、兼続はその代官となる。
 ・お船は豊臣秀吉の人質となった景勝正室の菊姫とともに京都伏見の上杉邸に移る
 ・2月、直江山城守の名で藤井堰の掟書が下される

慶長2年(1597年)
 ・景勝が豊臣家五大老に任命

慶長3年(1598年)
 ・景勝が越後から
会津120万石に加増移封
 ・兼続も米沢に30万石、お船も米沢へ移る
 ・石田三成が下向した際に、藤井堰の掟を下す
 ・春日山城主は景勝転封によりり堀秀治が入城
 ・領主堀秀春も継承して藤井堰の掟を下す

  9月18日、秀吉薨去慶長5年(1600年)


慶長5年(1600年)
 ・兼続は家康に会津征伐を煽った直江状を送る

 ・家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣する

慶長5年(1600年)9月15日
 ・関ヶ原の戦い


正保元年(1644年

 ・青山瀬兵衛が新しい堰と東江、西江の開削工事を着工

承応3年(1654年)

 ・
10年をかけた堰と東江、西江の開削工事が完成

昭和34年(1959年) 現在の堰を着工、同41年に完工


 平井の福勝寺の脇の坂を上ると小高い山の上に青山瀬兵衛の墓がある。
(2010年7月撮影)
    




 青山瀬兵衛の功績が記されてある。
二つの石碑は藤井堰を見降ろしながら見守ってるるように建てられてある。
(2010年7月撮影)


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青山瀬兵衛の民話


 よろいぜき
 昔の話でありました。

 今日も 朝から雨が「バチャ バチャ バチャ バチャ」降っていました。
 空には 黒い雨雲が がんばっていて 動こうともしません。
「もう今日で 15日になる こんなに雨が降っては 水上がりするぞ」
 扇町の陣屋では 奉行の青山瀬兵衛が暗い顔をして 言いました。

 その時です。
「お奉行さま。藤井の草ぜきを越えて 水がおしよせて来ますッ」
 若党が 息せききって 陣屋に飛び込んできました。
「何ッ 水が藤井の草ぜきを 越えたと申すかッ」
 奉行、青山瀬兵衛は すばやく みのを着 かさをかぶって 永徳寺の丘に 登りました。

 登ってみると 鏡沖一面の田は 水をかぶって 銀色にひかっていました。
 ヒタヒタヒタヒタと 川水が 後から後から 押し寄せてきます。
 青々とした 稲が
「お助け下さい」 「お助け下さい」
と 悲鳴をあげながら 水の中に 姿を消していくのです。

「今年は 稲はだめか」
と しょげている お百姓さんの顔が 青山瀬兵衛の目に ありありと見えるのでした。
「もっと大きい せきを 作らなければ・・・」
と 青山瀬兵衛は つぶやきました。
「お奉行さんが設計した よろいぜきが作れると いいんですがねえ」
と 若党は言いました。

 青山瀬兵衛は 鯖石川に 草ぜきよりも もっと大仕掛けな どんなに水が出ても ビクともしない よろいぜきを 作らなければならぬと 思っていたのでした。
 よろいぜきというのは 川底80メートルの長さに 木の枝や 丸太や 石や 板などを 並べ その上に又 石や そだ(木の枝)や 板などを 積み上げて いくのです。
「先立つものは お金だ。 しかし 今 お上には よろいぜきを作るだけの お金がないのだ」
 青山瀬兵衛は ホーと 大きなためいきを つきました。

 この話が 柏崎の大金持ちの 市川喜七さんの耳に 入りました。
「青山瀬兵衛様は お若いが せきをお作りになさる事は 天下の名人でいなさる。
 この間も 上条の古町に りっぱなせきを お作りなされた。
 お金に お困りなら 私がおたてかえ致しましょう」
と 柏崎陣屋に 申し入れてきました。
「おお あなたが お金を立て替えてくださるか」
青山瀬兵衛は 天にものぼるように 喜びました。

 さっそく よろいぜきの工事に かかる事になりました。
「さあ みんな手伝いしてくれよ」。
 今までの 草ぜきの 何十倍も大きい 丈夫なせきを作るんだ。
 どんなに雨が降ろうが びくともしない よろいぜきを 作るのだ」
と 青山瀬兵衛は 村々にふれをまわしました。

「今度 青山さまが 大きいせきを お作りになるんだと」
「一日も早く そのよろいぜきとかいう りっぱなせきを 完成しなくてはならん」
「雨が降るたんびに 田んぼが流されては たまったもんじゃないからのう」
「そうとも そうとも みんな 工事のお手伝いに出ようぜ」
 村々は わきかえるような さわぎになりました。
「ワッショイ ワッショイ」
 毎日 毎日 人々は お手伝いに 集まりました。

 青山瀬兵衛は 草ぜきの上流に 新しいよろいぜきを作って 水をせき止めようとしました。
 そだを 山から運ぶもの 
 そだを たばねるもの 
 川のせきをとめるもの
 川底にくいを打つもの
 石で地固めをする者
 板を並べる者
 工事場は もうゴッタがえして 大騒ぎになりました。

 まだあります。
 せきをとめた水を 川東の方に 流してやろう。そうすれば 平井の村をはじめ その水を利用して たくさんの田んぼが出来るであろう。
 そのため 川水を流す堀を作らなければならぬ。
 2,400メートルの掘りを作るために その方へも手伝いの人が まわりました。

 毎日 毎日 
 それこそ 雨の日も 雪のチブチブふぶく日も 風のゴウゴウなる日も 何百人という人がせきを作ったり 堀をほったり どろんこになって 働きました。
 ちょうど10年かかって りっぱなせきが 出来上がりました。
 下が80メートル 上が10メートルに積み上げたせきの形は どっしりしていて 武士のよろいのように 見えました。

「これが よろいぜきだ」
「もう どんなに大雨が降っても へっちゃらだぞ」
と 人々はおどりあがって喜びました。
 新しい 川東の堀川には 満々と水がみなぎって 流れました。
「おお これで 新しい田んぼも できるわい」
「これも あれも みんな青山さまの おかげだぞえ」
 平井むらの人々は 声をあげて殊の外喜びあいました。

 それから35年がたって 青山瀬兵衛が亡くなると 平井の福勝寺に 手厚く埋めました。
 そして青山様の亡くなられた 4月3日には 平井の人たちは のら仕事を休み ごちそうを作って 青山瀬兵衛の墓を お参りするようになりましたとさ。

「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>よりより

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