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柏 崎 の 民 話 
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五輪山
(米山)
米山の竜灯
(米山)
織り姫さま
(黒姫山)
信心ばばさと豆の木
八石山)
よろい堰
(藤井堰)
じんすけ
(小倉山)
お万が渕
(米山)
払川の姥薬師
(米山)
麦と姫神さま
(黒姫山)
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(八石山)
おしの皇子
(八坂神社)
ぎおんときゅうり
(八坂神社)
しげさのごかんげ
(米山三階節)
萩の大柱
(米山)
水上の熊野権現
(黒姫山)
弥三郎ばば
(八石山)
ざいわり船
(荒浜)
まぼろしの公園
(荒浜)
荒浜の狐塚
(米山)
お城のぼんさん
(八石山)
橋場の天保橋
(西中通)
くるそん仏
(土合)



米山の民話
(五輪山、お万が渕、しげさのごかんげ、荒浜の狐塚、払川の姥薬師)


 五輪山(米山さんの由来)

 むか〜し、むかし。
 米山さんは五輪山と呼ばれていました。

 越前国から来た 「泰澄」(たいちょう)と言う偉いお坊さんと修業僧の「沙弥」(しゃみ)が五輪山で修行をしていました。
 
 沙弥は時折、近くの岬の海上を通る船の船主からお米を貰ったり、麓の村などで托鉢(修行のため経を唱えながら各戸の前に立ち食物などを鉢に受けて回ること)して修行に励んでいました

 沙弥が船主からお米を貰う時、沙弥は大声で「この鉄鉢の中に少し米をめぐんでくだされ」と言って鉄鉢を船に向かって投げると、鉄鉢は空中をス〜イ、ス〜イと船まで飛んでいきました。

 そこで船主が「どうぞ、一生懸命修行に励んでください」と言って米などを鉄鉢の中に入れると、米の入った鉄鉢は独りでにまた元来た沙弥にいる方に空中を飛んで帰ってきました。

 ある日、出羽国(現在の山形県、秋田県)の船主の上部清定(かんべきよさだ)が上米を積んで沖を通った時、沙弥はいつものように鉄鉢を飛ばして「米をくだされ」と頼みました。 

 しかし清定は「米はお公へ差し上げるもので、一粒も渡せない」と断りました。

 すると不思議なことに船に積んであった重たい米俵がス〜イ、ス〜イと浮かび上がったかと思うと
、米俵が雁のように相連れなって五輪山に向かって空を飛んでいき、船の中には一粒の米もなくなってしまいました。

 船から飛んでいった米俵は次から次へと米山の頂上に積み重ねられ、五倫山はお米の山となりました。

 地元に人々は、「五輪山が米の山になった」「米の山、米山だ」と口々に叫び驚きました。
 
 これを見ていた船主の清定は恐ろしくなり、船を降りて五輪山の麓の村人に「どうしたらよいか?」と聞くと泰澄に頼んだら良いと言われました。

 そこで清定は五輪山に登り、山頂にいた泰澄に「僅かな米を惜しんだ私が悪かったです。」と詫びながらお米を返してくれるように頼み込みました。
 しかし泰澄は「それは沙弥のしわざであろうから、麓の沙弥に頼むがよかろう」と言いました。

 そこで清定は山を下りて沙弥の居る所に行き「この米がなければ死罪になります。どうぞ許して下さい」と不徳を深く詫びました。
 沙弥は「お前は僅かな供養を惜しんだので懲らしめたのだ。それが分ったのなら早く船に帰れ。米は帰してやる」と言いました。
 すると不思議な事に、山の頂上に積まれた米俵はまた鳥のように飛んで船に向かって帰って行きました。
 清定が船に戻ると、全ての米俵は元通りに戻っていましたので「ありがたや、ありがたや」と言って涙を流して喜びながら自分のしたことを後悔しました。
 
 それ以来人々は、五輪山を「米山」、沙弥が居て托鉢をしていた麓の村を鉢崎(はっさき)、鉄鉢を船に飛ばしていた岬を聖ケ鼻(ひじりがはな)と呼ぶようになりました。 

 【参考文献】 「柏崎市伝説集」、「昔の話でありました」、「柏崎市史」

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 泰澄大師:
 * 天武天皇11年(682)、越前国(現在の福井県麻生津)にて生誕。奈良時代の修験道の僧。
 * 14歳の頃より修行を始め、修験者としての途上「・・・・・十一面観音の徳を学んで世の為につくせ・・・」とお告げがあったといわれ、更に越智山(現在の福井県越前町)で修行を重ね、加賀白山の開創者、或いは米山など数多くの山を開山したと伝えられている。
 * 大宝2年(702)、文武天皇より鎮護国の「大法師」の名称を与えられる。
 * この年に能登(現在の石川県北部)半島のから沙弥だ弟子となり、米山で泰澄と共に修行をつむ
 * 養老元年(717)、白山に入り、更に修行を積む。
 * 養老6年(722)、元正天皇が重い病におかされた時も祈祷を続け、ついにその病を治し、大和尚位を授けられる。
 * 弥彦近くの国上山において、寺塔を三度も壊した雷神を法華経を通して追い払ったという伝承もあるが、これには異説もあり、定かではない。
 * 天平宝子2年(758)、晩年には越智山(現在の福井県越前町)に帰り、宝印して86歳で没した。
 * 泰澄によって大日信仰としてスタートした考え方が時を経るに従い、これが真言宗(宇宙の実相を仏格化した根本物とされる)に結ばれ、米山山麓に真言関係の寺々が次々に建立され、米山寺の密蔵院が別当寺(本尊をお守りする中心的な役割をはたす寺)としての役割を演じ続けたのではないかと推察できる。
 *柿崎町には「米山と呼称する以前は「五輪山」といわれていたとする考え方がみられる。

    【参考文献】 植木昭吾:「米峰・その名をたずねて」、pp15〜17、

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 * 鉢崎:鉢崎と言われた村は現在米山という地名になっている。
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 「泰澄」の弟子「沙弥」などが鉄鉢を飛行させ米俵を運ぶいう『飛鉢伝説』の類似の話は各地にある。

 1、鎌倉末期の『元亨釈書』に記された「泰澄伝」に、和銅5年(713)に弟子の臥行者が出羽の神部(ここでは神部が上ではなく神になっている)清定の船に鉢を飛ばし供米を乞うが断られ、米をすべて越前の越知山(丹生郡朝日町越知山)に雁のように飛び去ってしまう。
 (臥行者とは「ふせ(り)のぎょうじゃ」と読み、奈良時代の高僧泰澄和尚の弟子で、金沢文庫および密谷本『泰澄和尚伝記』によると、泰澄21歳の702年(大宝2)能登島の小沙弥が弟子となり、臥行者と名づけられたとある)

 2、1508年(永正5)白山本宮所属の千手院の権大僧都勝慶の撰じた『白山禅定私記』には、臥行者が神通力をもって空中に鉢を飛ばして海上の船に斎米を乞うていた。出羽国の船頭神部浄定が米を運んで加賀の沖に差しかかると、鉢が飛んできたので海中に投げ捨てたところ、鉢をはじめ船中の俵米、櫓、櫂まで医王山へ飛んでいった。
 泰澄は越知山から加賀国医王山(いおうぜん)の岩窟に移り住り、練行したとある。また 臥行者と浄定行者が泰澄の弟子となったのは、この医王山となっている。そこで船の通った場所が「加賀の沖」、飛鉢の山の名が「医王山」に替えられている。

 3、1777年(安永6)の序を有する『能登名跡志』及び明治45年(1912)刊の『能登島地方志』には、能登島の祖母ヶ浦は臥行者の生母(一説には祖母または乳母)が在住した地といわれ、観音堂がある。 入り江に突出した「行者が端の森」(閨行者端遺跡観音堂)は、臥行者が沖を通る官船に向かって鉢を飛ばして供米を求めたところ伝え、鉄鉢が流れついた土地が、鉢ヶ崎(今は八ヶ崎)という地名になったということである。

 4、日本の国宝に指定されている平安時代末期12世紀頃の『信貴山縁起』は「山崎長者の巻」、「延喜加持の巻」、「尼公の巻」の3巻からなる絵巻物である。
 その中の「山崎長者の巻(飛倉の巻)」には、命蓮(みょうれん)が神通力を行使して、山崎の長者のもとに托鉢に使用する鉢を飛ばし、その鉢に校倉造りの倉を乗せて飛ばし、信貴山に居る命蓮の所まで持って来る。長者が中に収められていた米俵だけでも返してくれと訴えたので、今度は、鉢に乗せた米俵を先頭にし、米俵を数珠繋ぎにして飛ばし、長者のもとまで飛ばす。
 (命蓮は平安時代中期に大和(現在の奈良県)の信貴山(しぎざん)で修行して当山の中興の祖とされる)

 5、宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)

 6、元亨釈書

 7、東国高僧伝

 8、扶桑皇統記

 9、和漢三才図絵 

 以上であるが、これらのどれが原型であるかは定かではない。
                  
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米山の竜灯(りゅうとう)
 (薬師様に捧げられる御燈明の民話)(米山)
 昔の話でありました。

 塩沢の鈴木牧之(ボクシ)という人が 新道の飯塚友義(トモヨシ)という人の所へ 立ち寄られました。
 飯塚友義さんは「新道のだんなさん」と呼ばれていました。

 牧之さんが
「あなたは 竜灯(りゅうとう)を見たと言いましたね」
と 新道のだんなさんに聞かれました。
「はい。はい。 おととしの夏 村の衆と一緒に 雨乞いのために 米山さんに登った時に 確かに この目で見ました」
 雨乞いというのは 「雨を降らしてください」と 神さまや 仏さまにお願いすることでして 昔はよく 雨の降らない年には 村々で雨乞いをしたものです。

 おととしは日照り続きだったので 飯塚さんたちは 米山の薬師様に お願いのために登ったのでした。
「ほほう 面白そうですね。ぜひ そのお話を聞かせてください」
 牧之さんは 一ひざのりだして 話を催促しました。

「米山の頂上には 米山薬師さんをお参りする人のために 休み小屋があるのです。そこで寝泊まりできるようになっていますので 私共は その休み小屋で 泊る事にしました」
 飯塚さんは お茶を一口飲んで 話を続けました。
「その日は 六月十二日でした。昔から 六月十二日には『米山に竜灯があがる』という言い伝えがありますのですが 私共は 思いがけず 夕方の六時頃 その竜灯を見たのです」

 飯塚さんは すっかり興奮して話されました。
「竜灯って どんな大きさでしたか」
 牧之さんは お茶を飲むのも忘れて こう聞かれました。
「どこからもなく集まってきた竜灯は 大きいのは手まりぐらいもありましたし 小さいのは鶏の卵ぐらいでしたね。
 ちょうど 子供が遊べたわむれているように その竜灯はあるときは走るように あるときは踊りを踊るように はねたり とんだりしていました」
 牧之さんは もう一ひざのりだして
「チャカ チャカ光るんですか」
とたずねました。

「そうですね。青白いほたるの光のようでしたね。それも一様ではありません。
 ある時は強く 又 ある時は弱く光りながら あっちへ こっちへ飛びまわって じっとしていないのです。
 その数はたくさんで 数える事なんぞ 出来ませんでした」
「どなたか つかまえた方は ございませんでしたか」
「私共は 小屋の戸を閉めて 小屋のすき間から見ていたのです。
 竜灯のうち 二つ三つは私共の目の前 四、五尺(1、5〜1、6メートル)ぐらいの所まで 近付いて来たのもありました。
 近寄った竜灯をよく見ると 形は鳥のようで その光は のどの下から出ているように思われました」
 飯塚さんの話は ますます面白くなってきました。

 牧之さんは つられて たずねました。
「それで どうなさいました」
「村の若者のひとりが 鉄砲で撃とうとしました」
「ほほう それで・・・・・」
「一人の老人が 若者をとめましてな
『撃ってはならん もったいない事だ 撃ってはならんぞ。
 この竜灯は 海の竜神さまが 米山の 薬師さまにささげられる 御燈明なんだぞ。
 撃ったらならんぞ 撃ったらどんな罰があたるかわからんぞ。
 撃ってはならんぞ 撃っては・・・・・・』
と 叫びました」 
「ううん なるほど なるほど」

「この老人のことばは もっともだと思いましてな 私もみんなに
『そうだ この老人の言う通りだ。
 竜灯を決して撃ってはならないぞ。
 それよりも 二度と竜灯を拝む事ができるかどうか わからないのだ。
 ゆっくりと 竜灯を拝むことにしようじゃないか』
と こう言いました」
「ごもっとも ごもっとも」
と 牧之さんは 相づちを打ちました。
「小半時(一時間)も 竜灯は あっちからこっちへと 光りながら 飛び回りながら たわむれていましたが やがて一つ消え 二つ消えして 星のきらめく夜空になりました」

「これは珍しい話を聞きました。ありがとうございました」
と 牧之さんは 飯塚さんに お礼を言いました。

後に牧之さんは 北越雪譜(ホクエツセップ)という本に この話を書き残しましたとさ。
 
 【参考文献】 「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>

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 鈴木牧之(明和7〜天保13年「1770〜1842年」)は、越後縮(チヂミ)の仲買および質業の鈴木桓右衛門の子。家業を継ぎつつ、俳諧・書画を学び、故郷の描写を務めた。江戸の文人との交流も広く、俳号は秋月庵牧之。
 『北越雪譜』(天保8年「1837年」夏に刊行)は、鈴木牧之が紆余曲折を繰り返し40余年という歳月を掛けて天保8年(1837年)夏に刊行された。 (『北越雪譜』では 『龍燈』と記載されてある)
 これは一年の半分を雪の中で暮らす越後の全貌とそこに暮らす人の目で生き生きと描き出し、それを天下に知らせ、理解を深めさせようと努力した。

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 大清水のの龍燈杉(りゅうとうすぎ)
 大清水観音様の境内に大きな杉の大木がある。
 夜になると観音様が海から龍を招いて、この大杉の頂上に燈(あかり)をとぼし、海に行く船の安全をはかられたという噺(はなし)が伝えられている。

 【参考文献】 『柏崎市伝説集』
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萩の大柱
 (泰澄と大清水観音の民話)(米山)
 昔の話でありました。

「越後の国の人々が 平和に暮らせるように 仏さまのお教えを広めてまいれ」
 時の天子様の御命令で 泰澄(タイチョウ)という えらいお坊さんが 越後の国にやってきました。

「はて どこへ この仏さまを おまつりしようかな」
泰澄禅師(ゼンジ)は 自分で作った千手観音(センジュカンノン)の仏さまを 背負ってこられたのでした。

 米山峠にさしかかる手前に 小高い丘があって 一山かけて紫の藤の花が咲いていました。
 ゆらゆら ゆれる藤の花房が ちょうど紫の雲のようでした。
「これは ただの丘じゃあるまい。この丘こそ 仏さまをまつるに ふさわしい丘だ」
 禅師は そう心に決めて 丘を登られました。

「お寺をたてるには 水が大切だが この丘のどこにも出壺(デツボ)(水の出る所)がない。
 よしよし ひとつお祈りしてみよう。
 お祈りして水が出たら ここに観音さんを おまつりしよう。
 水が出なかったら お寺を建てることはやめよう」

 禅師は一番見晴らしのよい所に 観音さんをおまつりしました。
 ここは 後の方に北アルプスや 上越の山や 米山などが緑にかがやいていましたし 前の方は ひろびろと日本海が きらめいていました。

 海の中に 佐渡の島や 弥彦の山などが 青くけむっていました。
 禅師は 観音さんを拝みながら 一心に読みはじめました。と
「チョロ チョロ チョロ チョロ」
と 水の流れる音が聞こえてきました。
 そして
「サラ サラ サラ。サラ サラ サラ」
と 音が一段と高くなってきました。
 見ると 丘の三ところに もくん もくんと水が噴き出して 谷に向かって流れていました。

「おお ここに観音さんをおまつりせよ。と いう お告げにちがいない」
 禅師は大喜びして 丘の真ん中の出壺を「くどくの水」と名付けられました。
「くどくの水」というのは 仏さまが お恵み下さった水という事です。

 禅師は また 東の出壺を「しょうじょうの水」と名付けられました。
「しょうじょうの水」というのは たいへん清らかな水 と言う事です。
 夏に禅師は 南の出壺を「あかの水」と」 名付けられ 満足そうに ほほえまれました。
 「あかの水」というのは 仏さまに供える水 と言う事です。

「禅師さまが お祈りしたら 水が出たそうだ」
「ありがたい事ではないか」
「あの丘を 今日から大清水(オシミズ)山と呼ぼうじゃないか」
「おしみず山か すばらしい名前じゃないか」
 丘の上の清水は 谷を流れ、ひからびた谷の草木は 生き返ったように みずみずしい葉をさやさやとならしました。
 そして村の田んぼにも チョロチョロと 流れました。

「禅師様が お寺を建てられるそうだ」
「わしは 明日から禅師様のお手伝いを さしてもらおうと思ってる」
「おれも お寺造りに 是非使ってもらいたいものだ」
「こんな尊いお仕事なんぞ そうあるものじゃない」
「そうとも そうとも 一生のうちに又とあるもんじゃない」
「何をおいても お手伝い申さない事には・・・・・」

毎日 毎日 大清水の山には
「ぜひ 私にもお手伝いをさせて下さい」
「どんな仕事もいたします。どうか仕事を言いつけて下さい」
「何もできませんが 土台石を谷から運び上げる事なら お任せ下さい」
と 何十人もの人々が集まって 工事の手伝いをいたしました。

そうした ある朝でした。
「ロッコンショウジョウ ロッコンショウジョウ」
と 掛け声も勇ましく 鉢崎(ハッサキ)の浜の漁師たちが大勢で 丸太を かついで登ってきました。
「その丸太は何だッ」
と 禅師がお聞きになりました。
「はい これは今朝 鉢崎の浜に流れ着いた 丸太でございます」
「松でもないし 杉でもなし けやきでもなし 一体何の木だろうと相談しましたが、誰も木の名前を知っている者は ありません」

「ところが この老人は これは荻の木だと申すのでございます」
「何ッ 荻の大木ッ 荻の大木がこんなに太くなるもんか」
 さすがの禅師も 驚かれて問い返しました。
「はい 荻の大木でございます。十年前 私は南の海へ出かけました。
 途中大しけに遭って 南の島に流れ着きました。そこで見たのはこの木でした。
 土人に名前を聞きましたら『荻の木』と 申すのでございます。
 荻の木が こんなに大きくなるもんかと つくづく見てまいりました。
 その木と同じです。これは荻の木に間違いありません」
「老人がそう言います。もし荻の木なら 日本一の荻の木と言われましょう」
「珍しいので ありがたいお寺の使って貰いたいと思って かついで参りました」

禅師は その話を聞いて 申しました。
「皆の衆 お礼申しますぞ。 どこのどことも知らない南の島から 何百里 何千里 波にもまれもまれて 鉢崎の浜にたどりついたのも 何かの因縁であろう。
 いや千手観音様が お呼びになったにちがいない」
 これは観音堂の柱にしよう」

 村の人々がわき目もふらず 一心に働きましたので たちまち りっぱな観音堂と 大きい寺が建ちました。
お堂には 荻の木も柱となって おまいりする人々の目を楽しませました。
 新しいお寺に「大泉寺」という名前を 禅師はおつけになりました。
モクンモクンと 水の出た事を思い出されたからでしょう。

人々は 大清水観音さんのお祭りを 全山の藤の花が 紫のように咲き盛る五月に決めて いつまでも泰澄禅師の徳をたたえましたとさ。

 【参考文献】 「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集> 
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荒浜の狐塚
(源の義家と米山薬師如来)

 昔の話でありました。
 天皇の命令で 源の義家は むつの国の安倍の貞任(アベノ サダトウ)を 征伐(セイバツ)に行く途中 米山に登り 
「私が勝つように お守りください。もし私が勝ちましたら この米山にお寺を建て 私の守り本尊 薬師如来を お祭り申しましょう」
と 誓いました。
 安倍の貞任は 強い大将だったので 征伐するのに九年もかかりました。

 やっと 貞任を征伐した 義家は
「米山様が 守って下さったお陰だ。 お礼を申し上げなければ・・・・・」
と むつの国から 日を重ねて やって来ました。

 荒浜の村にさしかかると 一軒の漁師の家に 娘をまん中にして じいさんと ばあさんが 泣き悲しんでいました。
 「何で泣いているんだ。泣くわけを話せ。しだいによっては 力をかしてやろう」
と 義家がたずねました。

「はい はい。よくお尋ね下さいました。この村に 年取った白狐(ビャッコ)がおりましてな。その狐がこともあろうに私の娘を嫁にくれぇ と言ってきました。断れば この荒浜の村に どんなたたりをするか 分りません。 困って ただただ泣くばかりで ございます」
 と じいさんが言いました。

「それは 気の毒な。 わしが その白狐を退治してやろう」
と 義家が 言いました。
「して その白狐は 何処にいるのだ」
「ありがとうございます。白狐は ふたつ山に住んでいます。ほれ この前山でございます。 今晩 白狐はふたつ山から 娘をもらいにやって来ることになっています。」
と じいさんは 義家に説明しました。

「都の大将 義家さまが 乱暴者の白狐を 今晩退治して下さるそうな」
 評判は たちまち村中に広がって 村人たちは どぶろくや 魚や ぼたもちや 赤飯などを 持ってやって来て 義家をもてなしました。

夜になると 義家は じいさんの家を出て 昼間 見ておいた砂山の陰に身をひそめて 白狐の出るのを待っていました。

 十二時近くになると ふたつ山が ボ-オと明るくなり たくさんのちょうちんが 現れこっちの方に向かって 近づいて来ました。

 義家は 矢の先を ペロペロなめて つばきで ぬらしました。
ちょうちん行列の真中に見える 白いものは白狐でしょう。

 義家は 近づいてくる白狐に 狙いをつけて ヒユ−ッと 矢を放ちました。
「ギャアッ」
と 悲鳴がして たくさんのちょうちんが 一時に パッと消えました。

 義家は すばやく 第二の矢をつがえ 油断なく 前方を見つめていました。
ちょうちんの消えた 真っ暗な闇には それからは何の変化も 起きませんでした。

 夜が明けてから見ると 砂山の上に 子牛ほどもある白狐が 死んでいました。
尾が九本ありました。

「一万年に一本づつ 尾ができるということが ある本に書いてあった。そうすると この白狐は 九万年生きたということになる。大事にお祭りしてやるがいい」
と 義家は 村の人たちに言いました。

 村人たちは 深い深い穴を掘って この九本の尾のある白狐を丁寧に埋め 砂を盛り上げ海岸の丸石をその上に乗せ 狐塚を作って お祭りしましたとさ。

 【参考文献】 「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>
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 永承6年(1051年)源の義家は、陸奥国(むつのくに)厨川(岩手県盛岡市)の次郎安倍貞任征伐の際、米山薬師に祈願して出陣した。

 義家は、安倍貞任征伐後の康平6年(1063年)2月8日に、諸願成就として霊峰米山に登り、一堂を作り変え、そこに薬師如来を納めた。
 これが今日の「御戸薬師」と言われている。

 義家が米山の頂上にある薬師堂を参拝した時に、駒岳でそれまで乗っていた馬を降りて馬をつなぎ、そこから徒歩で登ったと言われている。
 その駒岳は、登山道の下牧コースから登った標高622mの所にある
                             
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 お万が渕
女人禁制だった米山さん)

 むか〜し、むかし。
 男が女よりいばっていました。

  「女が米山に登ると罰があたるぞッ!」と言われていました。

 谷根(タンネ)のお万(マン)は大変勝気な女でしたので、「罰が当たる事なんかあるもんか。よし私が一つ頂上に登ってみせる」と常に思っていました。
 
 ある日、米山には烏天狗(カラステング)が見張りをしていましたが、お昼頃になってグースカ、グースカ寝てしまいした。
 それを見たお万は「よし、今だッ」と、トットッ、トットッと米山の頂上まで駆け登りました。
 
 米山の頂上は、越後の国が箱庭のようにお万の足元に見えて、何という広々した眺めでしょう。
 大海原には佐渡の島がおもちゃの島のように浮かんでいました。
 「こんなちっぽけな世の中で、人々が言い争ったり怒ったり泣いたりして、何と馬鹿らしいことをしているんだろう」とお万は汗を拭きながら思いました。
 
 満足したお万は意気揚々と米山を下り始めました。
 グースカ、グースカ寝っていた烏天狗が目を覚まし、下ってくるお万の姿を見て、地団太(ジダンダ)を踏んで悔しがりました。

 早速、山伏(ヤマブシ)の姿になって山から谷根の村までヒラリと一瞬で飛び降りました。
 そして、お万が下ってくる前に、「お万は女だてらに米山のてっぺんまで登ったぞ」 「このまんまに捨て置いたら谷根の村に、どんな災難が降りかかるかも知れんぞ」と言いふらしました。

 村人たちは真っ青になって集まり、「どうしたらよかろう」と相談しました。
 すると、山伏になった烏天狗は「それは、お万を俵に詰めて谷根川に埋めろ。それより他に薬師様にお詫びする方法はない」と言いました。

 村人たちは山伏の言うことを信用して、山を下ってきたお万をとっつかまえました。
 「お前は米山のてっぺんへ登ってきたな。ふとい女だ」 とお万の言い訳も聞かず、暴れまわるお万の手を取り俵に詰め、グルグルと縄でしばって谷根川にドボンと投げ込みました。

 「7代までもたたってやる!」とお万は俵の中で大声で叫びました。
 俵は浮かんだり沈んだりして流れていきましたが、一番深い渕にきてブクブク、ブクブクと沈んでいきました。
 その後、誰言うともなく、そこを「お万が渕(オマンガフチ)」というようになりました。

 その冬は大雪でした。
 烏天狗が酒に酔っぱらって「お万が渕」にさしかかった時、山のてっぺんから大量の雪崩(ナダレ)が「ゴーウー」と大きな音をたてて走ってきました。
 その雪崩は一瞬のうちに烏天狗を巻き込んで「お万が渕」になだれ落ちました。
 
 春になって「お万が渕」に烏天狗の死体があがりました。
 村人たちは、それを見て「お万の恨みに違いない」と言い合いました。

 【参考文献】 「柏崎のむかしばなし」


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 地元の人によると、このお万は 村で住み込みで働いていた 16,7歳の娘で、三階節で、「 高い山から 谷見れば おまん、お万(まん)が可愛(かわ)いや 染め分け襷(たすき)で 布さらす」などと唄われている。 また、谷根の村では 三階節を唄うときには 最初にこの歌が唄われると聞いた。

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 米山には四方の峰に四方尸羅場と呼ばれている女人堂が建てられている。
 これは、谷根野田、大平、吉尾、そして(柿崎区の表登山道と言われる)下牧の登山道口にあり、ここより頂上へは結界山として女人は登れないことになっていた。

上記の話の中に出てくる烏天狗や山伏が見張りをしていた場所は、この女人堂のように思われる。
 女人堂は関所、又は番所のような役目をしていたかも知れない。

 柏崎市吉井黒川集落では「米山には、男天井、女天井があり、男は天井(頂上)まで登ってご来迎を仰いだが、女は七合目位の地蔵の立つ(女天井)までしか登れなかった」と言われていた。

 しかし、この女人禁制は明治2年(1869年)に「全国の高山・諸山、女人禁制の処廃止」によってなくなり、柏崎の古記録には「米山の頂上に登られることになり女子大喜び」と記されてある。

 女人堂は「女人禁制の廃止」後、心ない人達によって壊されたが、今はヒュッテに建て替えられたりしているところもある。
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 払川の姥薬師さん 
(泰澄さんが作った薬師さん)
 昔の話でありました。

 野田の 払川の村では 悪い風邪がはやって お徳おばあさんも 風邪にかかりました。
 風邪薬を飲んでも なおらなかったので お徳おばあさんは 米山薬師さんに
「どうか 風邪をなおしてくだされまし」
と お願いしました。 

 すると ある晩 薬師さんが 夢の中に あらわれて
「わしは “しらば”の姥薬師だ。風邪をなおそうと思ったら うるしの葉っぱを 煮詰めて その煮汁で 甘酒を作って 飲め」
と お告げになりました。
 お徳おばあさんは うるしの葉を煮た汁で 甘酒を作って 飲んだところ 風邪はケロリとなおりました。
 お徳おばあさんは 風邪をひいている 村の人たちに 姥薬師さんも 夢のお告げを話して 甘酒を分けてやりました。
 村のみんな 風邪がなおって 元気になりました。

「“しらば”の姥薬師さんに お礼を申さなくてはならんが その“しらば”の姥薬師さんて どこにおいでに なられるのだろうか」
と たずねました。

 お徳おばあさんが言いました。
「“しらば”の姥薬師さんと いうのはな 泰澄(タイチョウ)という えらいお坊さんがな、払川の奥の岩穴からな 青く光る石を見つけられてな その青い石で作られたという 尊い薬師さんだがな」

「へえ それで “しらば”の姥薬師さんは どこにおまつりして あるんだえ」
「“しらば”に きまってるじゃないかえ」

「“しらば”てば どこだえ」
「“しらば”というのはな峠から 米山のてっぺんに行く道の 真ん中だえな。 女は ここから上に登ると ばちがあたる と言ってな ここから引き返したもんだとな」

「そんで 泰澄さんがな 女の人を気の毒がってな その姥薬師さんを ここへおまつりしなすってな
『この姥薬師を 一心におがめばな 米山の頂上の薬師さんばな おがんだと 同じ功徳をさずかる』と 言わっしゃったんだとな」
と お松おばあさんは 話してくれました。

 お徳おばあさんは 翌日 お礼参りに 米山へ登りました。
 しかし “しらば”は 雨風のために 土砂崩れして 姥薬師さんは見当たりませんでした。

「土砂崩れで もしや 谷底へ流れ落ちたのでは・・・・」
 お徳おばあさんは 木の根や藤づるにつかまって 谷底に下りました。
 お徳おばあさんが思ってた通り 谷底に姥薬師さんが泥にうまっていました。

 ゴシ、ゴシ、ゴシ、ゴシ お徳おばあさんは 谷川の水で 姥薬師さんを 洗いました。
 るり色の肌をした 姥薬師さんの 尊い御姿に お徳おばあさんは 思わず手を合わせました。

「これは村のお守りにしよう。わしの夢枕に立ったのも何かの縁だ」
 姥薬師さんを 藤づるで 背中に背負って お徳おばあさんは えっちら おっちら 一足づつ 谷川にそって 払川に戻りました。

「よく お連れ申してくんなすた」
 村の人は 姥薬師さんを お迎えして 大喜びしました。新しいお堂を 作ってそこにおまつりしました。

 その日は 六月の土用の「うしの日」だったので 払川の村では 毎年 土用の「うしの日」を「風まつり」と言って 仕事を休み 甘酒を作って お祭りするように なりましたとさ。

  【参考文献】 「子どものための柏崎地方の民話集」
  
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 米山への登山道の一つ、野田口(上条口)の起点にあたる柏崎市大字田屋の西側に小さな薬師堂が建っているが、これが通称「姥薬師」と呼ばれ『白河風土記』にも記載されている。

 この薬師堂には間口二間、奥行四間ほどの堂の内陣に、本尊である薬師如来の石像が厨子内に安置され、脇には「東方薬師瑠璃光如来」あるいは「「東方姥薬師」などと墨書きされた十枚ほどの奉納旗が掛けられ、「大願成就」の文字も見える。

 また、拝殿の板壁には至る所に墨や鉛筆の「落書」があり、読めば一見して米山参詣者の手になるものと理解される。

 祭礼は薬師の縁日である五月八日と十月八日、姥薬師を管理する石払地区(石塚と払川地区の合称)の人々がひっそりとおこなっている。

 かっては盛大だったが今では年配者十数人が当日参集し、木沢の花栄寺(曹洞宗)を招き、読経後ささやかな宴を行う程度である。

 【参考文献】品田高志・大竹信雄・渡辺三四一、三井田忠明: 「柏崎の民族、第3合、「姥薬師」覚書、平成2年発行
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 出家様(しげさ)のごかんげ
   (三階節の「しげさ」)
 
 ごかんげというは、お説教のことです。

 昔、柏崎の専福寺(センプクジ)に、しげさというお坊さんがいました。
 しがさというお坊さんは、大変お説教がじょうずでした。

「どうか、おらたちの村に来てくらっしゃれ(お出でください)。」
「私たちの村に、ごかんげに来てくだされ。」
とあっちの村から、こっちの里から、頼みにきました。

 しげさは頼まれる、つとめて村々をまわって、仏様のありがたさや、人間に生まれた幸福などを、説教して歩きました。

 しげさのごかんげを聞いていると、美しい花が咲き競い、美しい鳥たちが鳴き遊ぶ極楽浄土(ゴラク ジョウド)にいるように思われ、仏様のお慈悲(ジヒ)深いお心や、人間に生まれてきた幸せがつくづく思われて
「ありがたや、ありがたや」
と涙を流して、お礼を申し上げるのでした。
 
 母親を困らしてばかりいた加造(カゾウ)どんの、あんにゃ(長男)は、しげさのごかんげを聞いてからは、見違えるほど、親孝行になりました。

 のめしこき(怠け者)の台(ダイ)べえどん、しげさのお説教を聞いてからは、村一番の働き者になりました。

 しげさは、酒が大好きでした。

ごけんげがおわると
「さあ、おとき(お説教の後に出す食事)
と村人たちは、しげさに酒をすすめました。

「ホホウ、これは、これは。」
としげさは、にこにこしながら酒をごちそうになるのでした。しげさは、酒を飲むときまって
「ひとつ、おどろうや。」
とひょうきんなかっこうをして踊るのでした。

 ♪ しげさと酒のめば しげさ しげさが一升のんで 私が五合のんでようたよた ♪

 皆は、手を叩いて、賑やかに、はやしたてました。酒もりは、いつまでもいつまでも続きました。
 こんなわけで、村の人たちは、
「専福寺、しげさは、こんだ(今度)、いつ来られるのか。」
と指を折って、待ち焦がれるようになりました。

「隣の村で、しげさのごかんげがあるそうだ。」
とうい話が伝わりますと、どんな山坂が険しかろうが、どんなに遠い村であろうが、年寄りであろうが、若者であろうが、お説教に集まりました。

 この村人たちは

 ♪ しげさしげさと こえにする  しげさ しげさのごかんげ 山坂越えても まいりたや ♪

と歌を口ずさんでいました。 
 
 しげさが死んだ後も村人たちは、お盆になると、村のお寺に集まって、この歌を歌い、夜の更けるまで踊りました。

 私どもの三階節は、こうしてはじまったといいます。

「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>より

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「しげさ」とは誰かという「しげさ」説には下記の1〜3までの3説があります。

 1、「専福寺のしげさ」説
 承応の頃(1652年頃)柏崎の専福寺三代目に法話の上手なお坊さんが、人々に説教の有難さを称えていました。
 このお坊さんは「しげさ」、「出家さ(出家様)」、または「シュゲサ」などと呼ばれ、「しげさのごかんげ」という民話が出来たり、「しげさ、しげさと恋をする・・・」と歌われて出来たのが「三階節」の始まりと言われています。(『柏崎文庫』参照)
 その後の江戸時代中期、10代将軍徳川家冶(1760〜1786年)の時代に盆踊り唄として「三階節」は流行しました。
 この時代の天明2年(1782年)から天明8年(1788年)には、日本の近世史上では最大の飢饉であった天明の大飢饉が発生。更に疫病も流行。しかし幕府は腐敗し、全国各地では米屋への打ちこわしが広がり治安が悪化していました。人々は苦しさから逃れようと「三階節」唄い踊りながら「しげさ」に救いを求めたのかもしれません。

 2、「高野の本竜寺の繁丸のしげさ」説
中頚城郡新井在、高野の本竜寺第七世光暁院釈恵亮(昭和5年正月18日亡、行年55歳)が通称  繁丸と慕われ、三階節の「しげさ」だとも伝えられています。
 しかし、これだと繁丸は明治生まれになりますが、「三階節」はもっと古くから歌われているので違うように思われます。

 3、繁樹のしげさ」説
 どこから出てきたのか定かではありませんが「しげさ」は「繁樹」だとも伝えられています。 
 専福寺の僧侶が通称「繁樹」と呼ばれていたのかもしれません。
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「柏崎のむかしばなし」 柏崎市伝説集 「昔の話でありました」
<子どものための柏崎地方の民話集>1〜5巻
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(八坂神社)
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