んば716ショップ 柏崎加盟店 |
〒945-0063 新潟県柏崎市諏訪町11-41 TEL 0257-22-4553 営業時間 10時〜18時 |
定休日 月曜日 |
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柏 崎 の 民 話 | ||
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五輪山 (米山) |
米山の竜灯 (米山) |
織り姫さま (黒姫山) |
信心ばばさと豆の木 八石山) |
よろい堰 (藤井堰) |
じんすけ (小倉山) |
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お万が渕 (米山) |
払川の姥薬師 (米山) |
麦と姫神さま (黒姫山) |
豆の木御門 (八石山) |
おしの皇子 (八坂神社) |
ぎおんときゅうり (八坂神社) |
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しげさのごかんげ (米山三階節) |
萩の大柱 (米山) |
水上の熊野権現 (黒姫山) |
弥三郎ばば (八石山) |
ざいわり船 (荒浜) |
まぼろしの公園 (荒浜) |
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荒浜の狐塚 (米山) |
お城のぼんさん (八石山) |
橋場の天保橋 (西中通) |
くるそん仏 (土合) |
おしの皇子 (柏崎ぎおん祭り発祥の地の八坂神社) |
「ぎおん柏崎まつり」発祥の地は、古事記に記載されている「おしの皇子」の民話がある西本町の八坂神社です。 八坂神社の祇園祭の花火の歴史は古く、明治初年には既に花火奉納が行われていました。 1950年(昭和25年)の柏崎市市制10周年を記念して、同神社の祇園祭が商工祭と合体して催したのが「ぎおん柏崎まつり」のはじまりです。 |
昔の話でありました。 まきむげのたましろの宮に しなずわけの命(ミコト)と申す 皇子様が おられました。 この皇子様は 生まれた時から 一言も お話を されませんでした。父宮は 「この子は おしでなかろうか」 と あっちの神様 こっちの仏様に 「どうか 皇子様が 口をききますように」 と お祈りしましたが 一こうに ききめが ありませんでした。 母宮も 心配されて 手をかえ 品をかえて 話をするように しむけるのですが 首を縦・横にふるだけで にこりとも なさりません。 人々は この皇子様を「おしの皇子」と 呼ぶようになりました。 ところが 皇子様が 七歳になった ある日の事で ありました。 ごてんの上を 白い鳥が一羽 ゆっくり・ゆっくり 羽ばたいて 東に飛んで行きました。 白い鳥は 赤い朝日の光を 空一ぱいに受けて 羽ばたきするたびに バチバチと 赤いさんごの光が空一ぱいに 飛び散るようで ありました。 あまりの美しさに 「あれは なんという鳥か」 と 皇子様 家来に 問われました。 おしの皇子が 突然 ものを申されたので 家来たちは びっくりして 「何か 仰られましたか」 と お尋ねになりました。おしの皇子は重ねて 「あの鳥は 何と申すぞ」 と 申されました。 「はいはい あの鳥はくぐい と いう鳥でございます」 「くずいと 申すか。 美しい鳥じゃのう」 と はっきりと おしの皇子は 申されました。 家来たちは 早速 母宮さまに 「おしの皇子が 口をおききに なりました」 と お知らせ いたしました。 家来たちの 知らせを聞いた 父宮さまは うれしさのあまり 「その鳥を 生け捕りにして まいれ」 と 家来たちに お言いつけに なりました。 家来たちは 早速 くぐいを追いかけました。 くぐいは ゆっくり・ゆっくり 美濃の国へ飛んでいきました。 美濃の国は 山国でした。家来たちは 山・坂こえて 白い鳥を追いかけました。 くぐいは 美濃の国から 信濃の国へ ゆっくり・ゆっくり 飛んでいきました。 家来たちは そのあとを追いかけました。信濃の国も 又 山国でした。 くぐいは 信濃の国から 越後の国へ ゆっくり・ゆっくり 飛び続けました。 家来はくぐいを追って 海岸に出ました。そこは柏崎の浜でした。 ここまで飛び続けた くぐいは さすがに疲れたのでしょうか 鵜川の 川尻の海に 下りて羽を休めました。 追ってきた 家来たちは 網をつくろっている漁師に 「おしの皇子」の話をして 「その網で あのくぐいを 捕らえて くれまいか」 と 頼みました。 漁師と 家来たちは 空中に 網をはって 待っていました。 海の上で 十分に休んだ くぐいは 大きな羽ばたきをして又 飛び立って ゆっくり・ゆっくり飛んでいきましたが とうとう わな網に かかりました。 「そらッ わな網に くぐいが かかったぞッ」 家来たちは 漁師たちに 手厚くお礼を言い くぐいを 大切に かごの中に入れ 喜び勇んで 都に たち帰りました。 皇子の喜びは 一通りでは ありません。 りっぱに お話をする 王子様を見て 父宮様も 大そう喜ばれ 「空を 飛ぶ鳥を とりおさえる事なんて 神様のお力がなければ とても出来るものではない。 きっと 柏崎の神様が 私たちの心を あわれに思われて くぐいを わなに追い入れたに ちがいあるまい。 早速 その わなみのみと(柏崎の鵜川の川口近く?)に お社をたてて 柏崎の神様を お祭り申しあげよ」 とお命じになりました。 家来たちは 早速 都の大工さんを 大勢連れて わなみのみとに 立派なお宮を 建てました。 柏崎の八坂神社は こうして建てられましたとさ。 *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* わなみのみと(和那美の水門)は、温古の栞・白川風土記にあり 尚八坂神社の縁起中にも書かれている。 温古の栞には、和那美は川口町の和南美とも 岩室村の和納ともと挙げられている。 古事記の垂仁帝のころと記されている。 *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* 「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>より |
おしの皇子 は古事記に下記のように記されている。 |
古事記には 「伊玖米入日子伊沙知の命(垂仁天皇)は、師木の玉垣の宮においでになって、天下をお治めになった。この天皇が、沙本毘古の命の妹の佐波遅比売の命(沙本毘売)を嫁はんにしてお生みになった子は、 品牟都和気(ほむつわけ)の命。」 と記載されてあるが、 まきむげのたましろの宮 上記の古事記の「師木の玉垣の宮」は垂仁記には、 「纒向(まきむく)に都作る。是を珠城宮(たまきのみや)と謂う」 とある。 「まきむげのたましろの宮」は「まきむげ」は「纒向(まきむく)、「たましろの宮」は珠城宮(たまきのみや)ではないだろうか。 「しなずわけの命」 「しなずわけの命」とは、「本牟智和気(ほむちわけ)の命」であるが、古事記では同一皇子の名が前の頁では「品牟都和気の命」、その後の頁では「本牟智和気」と記されている。 そこで「品牟都和気の命」を「しなずわけの命」、「本牟智和気の命」を「ほむつわけの命」と言ったのではないだろうか。 「和那美の水門」(わなみのみなと) 古事記には 「垂仁天皇の話せなかった皇子である「本牟智和気(ほむちわけ)の命」が、白鳥の鳴き声を聞いて声を発した。 そこで天皇がその白鳥を捕えるよう命じ、その白鳥を追いかけ尋ねて、紀伊国から播磨国に到着して、また追って因幡国に越えて渡って、そこから丹波国、但馬国に到着して、東の方に追いかけて、近江国に着いて、そこから美濃国に越えて、尾張から伝わって信濃国に追いかけて、ついに越国で追いついて、和那美の水門に網をかけて、その鳥を捕まえ大和国へ持ち上って献上した。 それで、その水門を名付けて和那美の水門(わなみのみなと)という」 と記載されてある。 |
ぎおんさんときゅうり (柏崎ぎおん祭り発祥の地の八坂神社) |
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昔の話でありました。 7月は 柏崎のお祭りです。 夏祭りには すわさん(柏崎神社)の おみこしも すみよしさん(石井神社)の おみこしも ぎおんさん(八坂神社)の おみこしも町中をねり歩きました。 狭い町で 三つもおみこしが出るので いたる所で おみこしがぶつかりました。 「すわさんのおみこしのお通りだッ さぁ道を開けろッ」 「何ッ お前たちこそ道を開けて すみよしさんのおみこしを お通し申せッ」 「道を開けなきゃ やっつけるぞッ」 「えいッ 面倒くさい やっつけろッ」 若者たちは元気がいいので たちまちもみ合いになりました。 「そらッ やれえッ」 「なにッ 負けるものかッ」 と 両方の若者たちは口々に怒鳴りながら おみこしとおみこしを ぶっつけ合い もみ合って 右と左に別れていくのでした。 そうした騒ぎが 狭い柏崎の町のあちこちに 繰り返されて 夏祭りは いよいよ熱気をおびて 賑やかになって来るのでした。 ある年の 夏祭りでした。 すみよしさんと ぎおんさんのおみこしが ぶつかり合いました。 「そうら 相手のおみこしを 川に投げ込んでしまえ」 「何くそッ 負けて泣きづらかくなよ」 と 二つのおみこしは 激しくもみ合いました。 「そらやれ わっしょい そらやれ わっしょい」 「負けるな わっしぃい 負けるな わっしょい」 山のように集まった見物人も 二手に分かれて けしかけるのでした。 中には見物人同志で 掴みあいするのもありました。 この時 どうしたはずみか ぎおんさんのおみこしを 担いでいた若者の一人が よろよろッと よろけて 倒れました。 と それにつまずいて おみこしの担ぎ手が 次から次から転がって15、6人の若者が みこしもろとも 5メートルもあるがけ下に ガラガラガラッ と なだれ落ちました。 そこはきゅうり畑でした。見物人は ハッとして 息を呑みました。 人の上に人が重なり その上に重いみこしが 落ちたんですもの 怪我人はもちろん てっきり死人が出たと誰もが思ったのでした。 「そりゃ 大変だあッ 大変だあッ」 見物人は 口々に叫びながら うろうろして しまいました。 「おうい 医者だ 医者だ」 「陣屋に届けろ 陣屋に」 「たんかだ たんかを持って来い」 と お祭りはそっちのけの 大騒ぎになりました。 「おうい 大丈夫かぁえ 生きてるかぁえ」 と がけ下のおみこしに向かって 怒鳴る人もありました。 みんな 心配して がげ下を じっと覗き込みました。 その時です。じっと動かなかったおみこしが むっくりと持ち上がり それから一人 二人と 若者たちは みんな立ち上がり 何事もなかったように 「わっしょい わっしょい」 と威勢よく 掛け声をかけながら おみこしを担いで 走って行きました。 見物人は ほっとしながら 話し合いました。 「あんな高い所から 落ちながら 一人も怪我人がないなんて ぎおんさんのお陰だね」 「そうとも そうとも 落ちた所が きゅうり畑だもん ぎおんさんがお助け下さったのさ」 ぎおんさんの紋は きゅうりを横に切ったような 模様でした。 だから町の人たちは きゅうりは ぎおんさの紋だと 信じていたのです。 この事があってから なお一層 ぎおんさんの紋は きゅうりだと信じるようになりました。 それから夏祭りには ぎおんさんに必ずきゅうりを供えて おみこしが落ちた時に 誰一人怪我がなかった事の お礼を言いました。 夏祭りにきゅうりを供えるまでは ぎおんさんの氏子(うじこ)たちは 大人も子供も 絶対にきゅうりを食べませんでした。 「さぁ ぎおんさんにお供えしたから わしらもきゅうりをいただこう」 こう言って 氏子たちは 初めてきゅうりを食べたものですとさ。 「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>より |
くるそん仏 (不動院縁起) |
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昔の話でありました。 「今日は都から 最澄様が おいでになって お前の家に泊まられるから そそうのないよう 丁寧におもてなしせえ」 と 殿様の手紙が 村の名主どんの所へ 届きました。 名主はもちろん もう村中 てんやわんやの 大騒ぎになりました。 「最澄さんといえば 中国の天台山で 勉強なされた 日本一のえらい坊さんだ」 「そうとも 比叡山の 生き仏様だぞ」 「天台宗という 有難いお教えを 広めるために 今 日本中を 歩きまわられて お説教なすってられると いう事だ」 「今日は ありがたいお説教を 聞かれるぞえ」 名主どんの家では 村中の者が集まって お掃除するやら 障子をはりかえるやら お風呂をわかすやら ごちそうをするやら もうお祭りのような 騒ぎでした。 名主どんの家からは 広い広い沼が見え、沼には赤や白の 蓮の花がすがすがと 咲匂っておりました。 「いい眺めじゃのう。名主どんの家から見ると まるで極楽浄土のようじゃ」 と村人は 掃除の手を休めて 見とれていました。 この辺には 沼が多くて どの沼も 今 蓮の花が 咲匂っていました。 夕方 最澄さまは 名主どんの家に着かれました。 村人たちは 一番よい着物を着て ぞろぞろ ぞろぞろ 名主どんの家に 集まりました。 みんな 手に手に 仏様にお供えする 蓮の花を 一本ずつ持って 集まりました。 村人たちは 床の間の仏様に 蓮の花をお供えして 頭を下げました。 「何という ありがたいお顔の仏様ですこと」 村人たちは 口々に ほめたたえました。 「あれが 有名な くるそん仏さまだよ」 と 名主どんが 説明しました。 「へえ あれが 中国のくるそん仏さまですかえ」 「最澄さまが 中国の師の僧から 戴いたという仏様は あれですかえ」 村人たちは 蓮の花にうずまった くるそん仏をしみじみと 拝みました。 お説教のあとに 最澄さまの お説教がありました。 最澄さまのお説教は 村人たちを 仏様の国に さそいました。 翌朝 最澄さまは 名主どんに 「このくるそん仏を この村にお祭りしたいと 思いますが 手伝ってください」 と 申されました。名主どんは きょとんとして 「へえ このくるそん仏を この村に お祭りするのでございますか」 と問い返しました。 「さよう」 「それは 一体 どうした事でございますか」 「昨夜 くるそん仏が この蓮の花の咲く村が 大変気に入ったと 申されたのじゃ。 そしてこの村を 永久の住み家としたい と 申されたのだ」 名主どんは 「それはもったいないお言葉です。 それでは この村で一番見晴らしのよい 岩野山に お堂をおたてになったらいかがで ございましょう」 と 恐る恐る申し上げました。 名主どんの案内で 岩野山のてっぺんに立った 最澄さまは すっかり満足なさって 「ここは素晴らしい眺めじゃ。ではここにお寺を建てるとしよう」 と言われて 中国の天台山から 持ってこられた土と 岩野山の土と混ぜ合わせ こね合わせて お寺の土台となされました。 この村を 土合というようになったのは この時からでした。 「私も お手伝い いたしましょう」 「私にも お手伝い させてください」 村人たちの 熱心なお手伝いのお陰で 岩野山には たちまち 本堂・仏堂・僧堂など七つも大きな立派な建物が出来上がりました。 最澄さまは くるそん仏をおまつりになり お寺を 無量寿寺(むりょうじゅじ)と名付けられました。 岩野山からは 村中の蓮沼・蓮池・蓮田などが 一目に眺められ 夏には何万という蓮の花が咲競って ふくよかな香りは この七堂のすみのすみまで 漂うのでした。 無量寿寺に お参りに来る人たちは 蓮の花を眺め 「まるで 極楽浄土にいるような気持ちだ」 と ほめたたえましたとさ 「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>より *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* 三階節の歌の中にも この「くるそん仏」が出てきます。 |
よろいぜき (青山瀬兵衛の民話) |
昔の話でありました。 今日も 朝から雨が「バチャ バチャ バチャ バチャ」降っていました。 空には 黒い雨雲が がんばっていて 動こうともしません。 「もう今日で 15日になる こんなに雨が降っては 水上がりするぞ」 扇町の陣屋では 奉行の青山瀬兵衛が暗い顔をして 言いました。 その時です。 「お奉行さま。藤井の草ぜきを越えて 水がおしよせて来ますッ」 若党が 息せききって 陣屋に飛び込んできました。 「何ッ 水が藤井の草ぜきを 越えたと申すかッ」 奉行、青山瀬兵衛は すばやく みのを着 かさをかぶって 永徳寺の丘に 登りました。 登ってみると 鏡沖一面の田は 水をかぶって 銀色にひかっていました。 ヒタヒタヒタヒタと 川水が 後から後から 押し寄せてきます。 青々とした 稲が 「お助け下さい」 「お助け下さい」 と 悲鳴をあげながら 水の中に 姿を消していくのです。 「今年は 稲はだめか」 と しょげている お百姓さんの顔が 青山瀬兵衛の目に ありありと見えるのでした。 「もっと大きい せきを 作らなければ・・・」 と 青山瀬兵衛は つぶやきました。 「お奉行さんが設計した よろいぜきが作れると いいんですがねえ」 と 若党は言いました。 青山瀬兵衛は 鯖石川に 草ぜきよりも もっと大仕掛けな どんなに水が出ても ビクともしない よろいぜきを 作らなければならぬと 思っていたのでした。 よろいぜきというのは 川底80メートルの長さに 木の枝や 丸太や 石や 板などを 並べ その上に又 石や そだ(木の枝)や 板などを 積み上げて いくのです。 「先立つものは お金だ。 しかし 今 お上には よろいぜきを作るだけの お金がないのだ」 青山瀬兵衛は ホーと 大きなためいきを つきました。 この話が 柏崎の大金持ちの 市川喜七さんの耳に 入りました。 「青山瀬兵衛様は お若いが せきをお作りになさる事は 天下の名人でいなさる。 この間も 上条の古町に りっぱなせきを お作りなされた。 お金に お困りなら 私がおたてかえ致しましょう」 と 柏崎陣屋に 申し入れてきました。 「おお あなたが お金を立て替えてくださるか」 青山瀬兵衛は 天にものぼるように 喜びました。 さっそく よろいぜきの工事に かかる事になりました。 「さあ みんな手伝いしてくれよ」。 今までの 草ぜきの 何十倍も大きい 丈夫なせきを作るんだ。 どんなに雨が降ろうが びくともしない よろいぜきを 作るのだ」 と 青山瀬兵衛は 村々にふれをまわしました。 「今度 青山さまが 大きいせきを お作りになるんだと」 「一日も早く そのよろいぜきとかいう りっぱなせきを 完成しなくてはならん」 「雨が降るたんびに 田んぼが流されては たまったもんじゃないからのう」 「そうとも そうとも みんな 工事のお手伝いに出ようぜ」 村々は わきかえるような さわぎになりました。 「ワッショイ ワッショイ」 毎日 毎日 人々は お手伝いに 集まりました。 青山瀬兵衛は 草ぜきの上流に 新しいよろいぜきを作って 水をせき止めようとしました。 そだを 山から運ぶもの そだを たばねるもの 川のせきをとめるもの 川底にくいを打つもの 石で地固めをする者 板を並べる者 工事場は もうゴッタがえして 大騒ぎになりました。 まだあります。 せきをとめた水を 川東の方に 流してやろう。そうすれば 平井の村をはじめ その水を利用して たくさんの田んぼが出来るであろう。 そのため 川水を流す堀を作らなければならぬ。 2,400メートルの掘りを作るために その方へも手伝いの人が まわりました。 毎日 毎日 それこそ 雨の日も 雪のチブチブふぶく日も 風のゴウゴウなる日も 何百人という人がせきを作ったり 堀をほったり どろんこになって 働きました。 ちょうど10年かかって りっぱなせきが 出来上がりました。 下が80メートル 上が10メートルに積み上げたせきの形は どっしりしていて 武士のよろいのように 見えました。 「これが よろいぜきだ」 「もう どんなに大雨が降っても へっちゃらだぞ」 と 人々はおどりあがって喜びました。 新しい 川東の堀川には 満々と水がみなぎって 流れました。 「おお これで 新しい田んぼも できるわい」 「これも あれも みんな青山さまの おかげだぞえ」 平井むらの人々は 声をあげて殊の外喜びあいました。 それから35年がたって 青山瀬兵衛が亡くなると 平井の福勝寺に 手厚く埋めました。 そして青山様の亡くなられた 4月3日には 平井の人たちは のら仕事を休み ごちそうを作って 青山瀬兵衛の墓を お参りするようになりましたとさ。 「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>より *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* (鯖石川藤井堰と直江兼続・青山瀬兵衛) |
ざいわれ船(荒浜の民話) |
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昔の話でありました。 青い海の上を 一そうの船が 走ってきました。 不思議な事に その船の上には 美しい紫の雲が 浮かんでいました。 その船は 荒浜の沖にくると ピタリと とまりました。 「はて、見かけない船だが どうした事であろうか」 浜で よた木を拾っていた人は 手を休めて 眺めていますと 突然 船は向きをかえて、荒浜に向かって走り出しました。 船が 浜に着きますと 中から 船頭らしい人が降りてきて 村人にことばを かけました。 「私は 牧口と申します。 京のさるお公家さまから 秋田の殿様に差上げる地蔵さんを 運んできました。 ところが この沖まで来ますと 船がピタリと とまってどんなに漕いでも船は動きません。 これは お地蔵さんが ここに居たいに違いない と思って船のへさきを こちらの浜辺に向けると 船は独りでに すいすいと走りだして ここに着いたのです。 どうか この浜に このお地蔵さんを おまつりくだされ」 お地蔵さんの 美しいお顔は 光りを放って いるようでありました。 お地蔵さんは 荒浜の真ん中に たてられました。 「さあ、これで このお地蔵さんも 満足されたことでしょう」 その夜 牧口さんは 夢の中で お地蔵さんの声を 聞きました。 「ここへ まつってもろうて ありがたいと思っています。 お前は ここで暮らすがよい。 わしは お前や村の人の力になって あげるから」 牧口さんは 荒浜に住もうと 決心したのは この時でした。 「どうすれば 荒浜の人の暮らしが 楽になれるのでしょうか」 牧口さんが お地蔵さんに 尋ねたのも道理、見渡すかぎりの砂漠の荒浜は みんな貧乏でした。 屋根は草ぶきでした。 壁のかわりに 家のまわりにかやを立てかけて 雨風を ふせいでいました。 お葬式の時 お寺から 仏様のかけじを借りてきますが、それをかける壁がないので 仏様のかけじを むしろの上に広げて おがみました。 「荒浜の 地ばえ仏さん」 と 世間の人々は 荒浜の悪口を 言い合いしました」 ですから牧口さんは 「どうすれば 荒浜の人の暮らしが 楽になるのでございましょう」 と お地蔵さんに お尋ねしたのです。 「麻を買うて来て それで村の人から にしん網を作って もらいなさい」 夜が明けると 地蔵さんの お言葉どおり 牧口さんは 麻を買いに出かけました。 遠く長岡や栃尾まで 麻を買いにでかけました。 麻が集まると 牧口さんは 村の人に頼みました。 「にしん網を作って売れば 荒浜の暮らしが 楽になると お地蔵さんが 申された。 さあ。村の衆 一生懸命 にしん網を 作ってくだされ」 お地蔵さんのお告げと言われて 村の人たちは 一生懸命 心をこめて にしん網を 作りました。 網はどんどん作られて いきました。 ある夜 牧口さんの夢の中に お地蔵さんが 又あらわれて 「さあ、出来上がったにしん網を えぞの国へ 売りに行きなさい」 と 言われました。 「へえ、えぞの国へ・・・・・ですか」 牧口さんは あっけにとられて 聞きかえしましたが お地蔵さんは もういませんでした。 えぞの国 というのは北海道の事です。 荒浜の村は、野も山の 雪でまっ白に なっていました。寒い冬が 吹き荒れていましたが 「お地蔵さんのいう通り えぞの国に にしん網を 売りに行こう」 と 牧口さんは そう思いました。 村の人たちは 牧口さんの決心に 驚きました。 「米山がまっ白だと いうのに」 「えぞの海は かたい”ざい”(氷)が はっているだろうに」 「海は 白い牙をむき出して 荒れ狂っているのに」 驚いている村人たちに 牧口さんは 話しかけました。 「みんなの言う通り 北の海は 荒れ狂っているし えぞの海には”ざい”(氷)が はっているであろう。 地蔵さんが 守ってくださるから 大丈夫だ。 安心して 待って いてくれ」 にしん網を 積んだ船は 荒れ狂う海に 漕ぎ出していきました。 待ていた正月がきましたが あっと言う間に過ぎ去って 二月になりました。 待っていた牧口さんの船が 出て行ってから お地蔵さんをお参りする人は 絶えませんでした。 新しい線香や お花や お水が 毎日あげられていました。 しかし 二月の海は 毎日のように 白い泡をふいて 海辺に かみ付いて いました。 「この嵐に 船が ちんぼつしなければ よいが・・・・・」 「”ざい”に挟まれて ミリミりと こわれてなければよいが・・・・・」 人々の不安は 一日一日と つのっていきました。 そして三月。浜でよれ木を 拾っていた子供が 突然 「ざいわれ船がきたあ」 と叫びました。見るとえぞの国への”ざい”とたたかった 牧口さんの船が 走ってきます。 「「ざいわれ船がきたあ」 と いう叫びが 村中に伝わって 村人は みんな浜に出てきました。 「やっぱし お地蔵さんが 守ってられたのだ」 と人々は 夢見る気持ちで じっと 牧口さんの船を 見つめました」 船には たくさんの さけ ます にしん こんぶなどが 積んでありました。 「荒浜の にしん網は ひょうばんがよくて 高い値段で 売れました。」 牧口さんは 一番大きなさけを お地蔵さんに差上げて お礼を言いました。 村の人たちは 手分けして さけ、ます、にしん、こんぶなどを 売りに出かけました。 「北海道のこぶ いらんかぇ」 荒浜の人々の 元気な姿が 町々 村々に 見られました。 誰の目もいきいきと輝いていました。 そして「荒浜の 地ばえ仏さん」なんて 荒浜の悪口を言う人も だんだんなくなって いきましたとさ。 「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>より |
まぼろしの公園(荒浜の民話) |
昔の話でありました。 静かな夜明けでありました。 まだ眠りからさめない 荒浜の町通りを 「牧口さんの船が 帰ってきたぞうおッ」 と言う声が 走りすぎました。 「何ッ 牧口さんの船が戻ったとお」 叫び声は 次から次へと伝わり だんだん大きくなって高まり 荒浜の村を飲みこんでしまいました。 村人たちは がばッと 跳ね起きて 争うように浜辺に集まりました。 沖べに一隻 又一隻と大船が水平線に姿を現しました。 「あれはいなり丸じゃ」 「次はけんとく丸に違いない」 浜は 喜びの声で わきかえりました。 「けんとく丸には お前のとっつあんが 乗っているんだぞ」 「三番目の船は あんちゃんが乗っている めいえつ丸だ」 荒浜の浜辺には 薪が山と積まれて 火がつけられました。 まっかな火の手が 高く 高く立ちあがって 「おうい 荒浜はこっちだぞお」 「皆が 待っているぞおッ」 と 船の人たちに 呼びかけているようでした。 「さすが 牧口さんだ。この北海の荒海を 乗り切って よく帰ってこられた」 「何しろ 牧口さんはえんま大王の生まれかわりだからなあ」 荒浜の人たちは もちろん 越後の人々は荒浜の牧口さんの事を えんま大王の生まれかわりだと 呼んでいました。 その訳は どんなに風が吹いても どんなに海が荒れても 船がひっくり返るほど 波が高くても 牧口さんが船のへさきに立って 「わしは 荒浜の牧口だぞおッ。静まれ 静まれ」 とどなると 海の神様も 牧口さんの勢いに おそれをなして ヘタヘタとして たちまち あらしはおさまって 波風が静かになる と言われていました。 「牧口さんは ただ人ではない。 あの方は えんま大王の生まれかわりだ」 と みんな固く信じ込んでいました。 「今年も 無事で もどってこらしたか」 村一番の老人が 浜辺についた牧口さんの船に向かって お祝い言葉を のベました。 お祝に集まった 村の人たちに 牧口さんは 北海道のみやげを分けてやりました。 船乗りたちも 鮭や こんぶをもらって 妻や子共たちと めいめいの家に 帰っていきました。 船に残った牧口さんは ほッとして ふるさとの砂山をつくづく眺めて 言いました。 「何てさびしい浜なんだろう。 見渡す限りは砂漠だ。 たとえ 草木が芽を出しても たちまち砂で 埋まってしまう。 緑一つない砂山では 長い間 海しか見ていない船乗り衆の心は荒れるばかりだ」 ある日 牧口さんは 裏の砂山に 登ってみました。 その砂山をこうしん山と言いました。 山の上にあがると 広々とした 青い海原が見えました。 水平線には 佐渡の島が 手にとるように見えました。 右手には弥彦山や国上山が見えましたし 南側には 八石・黒姫・米山と 刈羽三山の美しい姿がありました。 「ああ 天下の絶景だ。これに美しい緑の木々があったらなあ」 と 独り言を言って 牧口さんは ハタと手をたたきました。 「そうだ そうだ。 緑の木を植えるのだ。 このこうしん山に緑の木を植えるのだ。 そうしたら 長い間 船に乗ってきた船乗り衆の心も これを見て こころ豊かになるであろう。 又 るす居の村人の心も うるおうであろうし 子供たちに 緑のように すがすがしい心が芽生えるにちがいない」 牧口さんは 高さ八メートルもある みかげ岩の大きな墓を こうしん山にたてて 「どうか りっぱな公園ができますように お力をお貸しください」 と先祖の人々に お願いしました。 お盆を中心にして 広いこうしん山に 松を植えました。 松はりっぱに根付きました。 松の間には アカシアの木も植えました。つつじの木も植えました。 とうろうもたて 庭石なども 敷き並べました。 「さあ りっぱな公園になるぞ」 牧口さんも 村人たちも 天下の公園になる日を 指折りかぞえて待っていました。 しかし 牧口さんは その木の成長をみないで なくなられました。 牧口さんがなくなられてからは 誰も手入れをする人がなく こうしん山は やぶになってしまいましたとさ。 「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>より *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* 「こうしん山の公園は実在していて松やアカシアだけでなく桜などの木もあった。 子供の頃、春になるとこうしん山に遊びに行き、桜の木に実った小さなサクランボなどを食べた思い出がある。 勿論、高さ八メートルもある みかげ岩の大きな墓もあった」 と言う。 |
帰った大黒様 (荒浜) |
鉄道が通るようになり、何代も続いた牧口さんも北前船の商がうまくいかずにとうとう店を閉めることになりました。 財力を失った牧口さんは多くの家宝を手放しましたが、その中の一つに「純金の大黒様」の像がありました。 ある日、付き合いのあった佐渡の商人がこの「金の大黒様」を買い求め、佐渡に持ち帰り家の床の間に飾りました。 すると、この大仏様は夜になると 「荒浜の牧口へ帰りてぇ、荒浜の牧口へ帰りてぇ、」 と毎晩のように鳴きうめき、佐渡の商人を寝させませんでした。 数日後、とうとう我慢できず 「こんなに牧口さんの所に帰りたいという大黒様は、とても気の毒で我が家には置けない」 と言って佐渡の商人はこの大仏様を返しにきました。 それを聞いて牧口さんは、大粒の涙を流しながら 「私が悪かった。私が悪かった。もう絶対に私の家からは出さない、どこにもやらない」 と大仏様を抱きかかえながら言いました とさ。 |
じんすけ (小倉山の民話)(北鯖石) |
昔の話でありました。 中田の原に じんすけという じいさんがいました。 ある年 比角の小倉山のお蔵へ 年貢米を 納めに行きました。 大勢の人が つめかけていまして お昼近くになったというのに まだ自分の番が 来そうもありません。 腹が減って 寒さが 身にこたえます。 「こんげに おそうなるんだったら お昼持って 来るんだったに」 じんすけは 泣きべそをかいて 待っていましたが やがて ひざを「ポン」とたたいて 「あッ いい事がある。いい事がある」 と ほくそえんで 外へ出ました。 外へ出たじんすけは 大声で 「やあ 中田の空が変だぞ 火事でないかあ」 と どなりました。これを聞いた人々は 「なにッ 火事だとッ」 「火事は どこだ どこだッ」 と 言いながら 争って外へ飛び出しました。 そのすきに じいさんは 帳場の役人の前に出て 「中田の じんすけでございます。どうか 年貢米を お納めください」 と 言って無事に年貢米を納めました。 とさ 「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>より *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* 皇室に関係する荘園の一つ、穀倉院領比角(ひすみ)庄が柏崎地方にあったことが知られる。 柏崎地方の荘園はその他に、前斎院(さきのさいいん)御領宇川(うかわ)(鵜川)と、六条院領佐橋(さばし)(鯖石)庄がある。 また、前斎院とは賀茂神社の神祈官を指し鳥羽上皇の内親王がその職であり、領主(本所)の六条院とは白河上皇の内親王の御所名で、後に歴代上皇に伝領されていった。 穀倉院は宮廷役所の一つで、鎌倉時代初めの白河・鳥羽上皇院政時代に寄進が行われたとされる。 比角は柏崎市街周辺、宇川は鵜川流域に比定されるが区域は不明である。 (『歴史紀行、13、柏崎市・刈羽郡・三島郡』、佐橋(鯖石)庄より) *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* 比角の何処かは区域が不明とされているが、柏崎市街周辺の旧比角村には小倉町という地名が現存し、小倉町には小高い山というか丘がある。 その小倉町の住民から、「昔、小倉町にある小高い山には公の大きな蔵があり、小高い山に蔵があったので小倉という地名が付いた」と聞いた。 また、上記の民話の中で「比角の小倉山のお蔵へ年貢米」や「帳場の役人」などの一文からして、この小倉山は不明であった『穀倉院領比角庄』ではないだろうか。 *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* 六条院領佐橋(さばし)(鯖石)庄と毛利(毛利元就の先祖) 毛利氏は鎌倉幕府の初代別当を務め鎌倉幕府に貢献した大江広元の四男・季光が現在の神奈川県厚木市で毛利氏と称したのが始まり。 宝治元年(1247年)、宝治合戦で、有力御家人三浦泰村に味方して季光は執権・北条時頼によって討たれ、一族全滅の危機に見舞われたが、四男経光のみが越後に居て直接的に関わることはなかったため越後国刈羽郡佐橋荘南条と安芸国・吉田荘の領有は許された。 後に経光は四男の時親に安芸国吉田庄を継がせている。この時親の子孫から後に中国地方の戦国大名となる毛利元就が出ている。 越後に残ったた嫡男の毛利基親は佐橋荘南条を引き継ぎ、子孫には北条、安田、石曽根、善根の毛利氏となり、その子孫として安田氏・北条氏(きたじょうし)なども有名である。 この南条の毛利氏城館は、現在その跡地に佐橋神社が創建されている。 利氏ゆかりの神社・周廣院(市内与板)は八石山城主・毛利大萬亮周廣(もうりだいまんのすけちかひろ)で、毛利氏が開基し、創立は天文三年(1534年) 一説には弘治年間(1555〜1557)と言われ、本尊の阿弥陀如来坐像(像高53cm桧材の一本式寄木造り)は新潟県文化財、柏崎市文化財指定)新潟県文化財になっている。 |
橋場の天保橋 (西中通) |
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昔の話でありました。 赤田城が落城した時 品田かへえと小栗かくえもんは 「ここで死ぬのは犬死にだ。生き延びられるだけ 生き残ろう」 と 相談し合い 夜の闇にまぎれて 城を抜け出しました 槇原の村に 辿り着いた時には 二人とも ヘトヘトに疲れていました。 「一休みして行こうや」 二人は 破れかけた小屋に隠れて 一休みしている中に 眠くなって グウグウ グウグウ グウグウいびきをかき始めました。 どのくらい 時間がたったのでしょうか。 「ジャン ジャン ジャン ジャン」 けたたましい半鐘の音に 二人は目を覚ましました。 「渡し船が ひっくり返ったぞおッ」 人々は口々に怒鳴りながら 悪田川の方へ 走っていきます。 ここは柏崎から長岡へ行く道筋で この村はずれに悪田川があり そこに渡し船がありました。 昔は この渡し船に乗って 悪田川を渡り 長岡に行くのでした。 「行ってみよう」 二人が村はずれの渡し場に来て見ると 川の中に 渡し船がひっくり返っていました。 川岸には 大きなたき火がしてあって びっしょりに濡れた人たちが 顔を真っ青にし ブルブル 震えて 火にあたっていました。 そのそばには こもをかぶされた死体が 転がっていました。 覗いて見ると 乳飲み子をしっかり抱いた母親の死体でした。 「かわいそうに」 と 二人は 同じ思いで 手を合わせて おねんぶつを となえました。 「こんな事は 度々あるのか」 と かへえが 尋ねました。 「はい 月に二度や三度ございます。そのたんびに 死人が出るのでございます」 かくえもんは 川水を見ながら 言いました。 「どうだ 小栗殿。二人で ここに橋をかけないか」 「えッ 二人で橋をかけるって」 「そうだ。赤田城で死んだと思って 頑張ろうじゃないかえ」 「そうだな。橋が出来たら 皆大喜びするだろうな」 「よしッ 話が決まったら 今からやろう」 二人は 悪田川のやつめを取って それを売り そのお金で材木を買いました。 二人の橋をかける様子を見て 村人たちは お金を出し合いました。 暇を作っては 村人たちは 橋作りの手伝いをしました。 一年たって 立派な橋が出来ました。 「品田かへえさんのお陰だ」 「小栗かくえもんさんのお陰だ」 殿様も 大喜びになり 「これから槇原むらを 橋場村というようにいたせ」 「それから 悪田川のやつめは ほうびとして品田かへえと 小栗かくえもんにつかわそう。外の人は 悪田川のやつめを 取ってはならないぞ」 と申されました。 この橋はその後 天保橋と呼ばれましたが 今では開運橋と呼ばれています。 かへえさんとかくえもんは 長く橋場村に住みましたとさ。 「昔の話でありました」<子どものための柏崎地方の民話集>より *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* 天保年間(1830年 - 1843年) *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* *〜* 赤田城(あかだじょう) 曾地峠入口付近にある標高169mの独立峰に築かれた山城で、刈羽郡刈羽村赤田町方に位置し、刈羽村指定史跡になっているが、築城時期は不明。 元は赤田氏の居城であったたが、室町期に斎藤氏が赤田氏を滅ぼし城主になったという。 戦国期には越後国守護職上杉謙信・景勝二代に仕えた斎藤下野守朝信(とものぶ)が出た。 天正6(1578)年にあった「御館の乱」(上杉謙信死後の家督争い)では朝信が上杉景勝を支援し、数々の軍功をあげた。 慶長3(1598)年、朝信の嫡男昌信は上杉景勝の会津転封に同道し赤田城は廃城となった。 |
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