七ツ森ななつもり |
★松倉山・撫倉山 2006.5.6(土)の記録 |
概 要 | 4号線を走り、大和町付近にさしかかると、日本昔話の挿絵のような里山が、肩を寄せ合っている姿が見えてくる。つい、一つ二つと数えたくなるのが七ツ森だ。 全山を一日では体力や時間に無理があるので、まずは東側の二つの山を登ることにした。撫倉山は眺望がいい。 |
場 所 交 通 |
仙台から、国道4号線の富谷のひより台手前を左折(西成田宮床線・県道256)し宮床へ。羽後街道(国道457)に出て、右折してから900m位走ると、東北理工専門学校が見える。専門学校の手前を南川ダム方向に左折。田んぼを600m程進み、標示を右折。民家の狭い路地に標示があり、突き当たりを左折しすると、左手に案内板のある駐車場に到着する。 4号線が混んでいる時は、愛子を経て457号線から宮床に入ると交通量が少なく、緑が目に優しい。 |
注 意 事 項 |
登山道は遊歩道で道標もあり、整備されている。しかしロープ設置の急登やハシゴもあり、変化がある。危険な場所は、じっくり楽しんで登るのがいいと思う。それ以外の箇所はのんびり歩けるが、道がたくさんあるので、注意しないと現在地がわからなくなる。コースが色々に取れる点は良いが、ガイドマップは必携。 |
コ ー ス タ イ ム |
仙台南部→(車60分)→信楽寺跡前駐車場→(歩60分)→松倉山→(歩60分)→境→(歩35分)→撫倉山→(歩80分)→信楽寺跡前駐車場→(車60分)→仙台南部 ※所要時間3時間55分(植物観察時間含む) ※女性3人 |
ガ イ ド ブ ッ ク |
「新・宮城県の山」山と渓谷社 地図:「七ッ森」「根白石」 1/25000図 |
七ツ森に植物観察と山菜採りにでかけました。ところが七ツ森には判る山菜はあまりなく、山も急坂にロープ、はしごまでありました。遠目にはコンパクトな森ですが、一つ一つの隆起は足で標高をかせぐ以外になく、見た目より、のん気に歩けない所でした。 |
←登山口駐車場 宮床の原阿佐緒記念館駐車場で8時半に待ち合わせをし、道標に導かれながら、車で数分で到着。信楽寺跡の手前左側にあります。 |
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←信楽寺門前 しんぎょうじと読むそうで、駐車場の筋向かいにある。白い標柱には飯峯山信楽寺跡と書いてあります。 ここを曲がらないで、まっすぐ歩いていきます。 |
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←撫倉(左)と松倉(右) これから登る二山が見えてきます。こんもりコンパクトで、おとぎ話に出てきそうな山です。 |
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←道標 信楽寺門前から数分歩くと、分岐に道標があります。右折し松倉山を目指します。 |
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←松倉山(まつくらやま)へ向かう 松倉山の山頂は291mで、東側に40m程低い二つの小山を従えている。(写真には一つしか見えないが、奥にもう一つこぶがある)道は写真の矢印のように、二つのこぶの谷筋を登っていく。 |
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→道標 杉林を右に見ながら歩いていくと道標があります。道脇には、イカリソウ、ニリンソウがさっそくお出迎えです。 |
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→ロープの登り 植物観察しながらの時間ですが、分岐から30分ほどで、急な登りになります。足元は石がごろごろしており、ロープが設置されています。 |
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→ますます急な登り 最初は頼らなかったロープも、手ががりにしないと登れないほどの急な登りです。 |
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→左側にはヤマブキソウ 急登胸突き八丁というあたりに、ヤマブキソウの群落がありました。大ぶりの艶やかな黄色はよく目立ちます。 何度も登っているリーダーのSさんも、ここでヤマブキソウに出合ったのは初めてだそうです。タイムリーでした。 |
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→右側にはニリンソウ 右手にはニリンソウの群落。いい季節に登ったものです。 一直線の急坂は、鞍部に出て終わります。 |
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→ 鞍部を左に曲がり、松倉を回り込むように道を登っていきます。チドリノキの新緑が目につきます。 |
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→道標あり 撫倉山の標識を左折して、松倉山を目指します。 |
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→松倉への登り よく歩かれた道です。 |
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→松倉山頂のようす 分岐から2分で到着。「大切にしましょう三角点」と書いてあります。地図では、291.2mになっています。 三角点の他何も無く、展望は余り良くありません。 |
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→撫倉山 かろうじて、撫倉山が西側に見える。その名の通り撫で撫でしたくなるような、馬の背状のやさしい姿をしています。 |
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→松倉山の表示 来た道を戻らず、尾根を北に行くと、松倉山291mの楽天カラーの表示がある。三角点に山頂の表示がなく、三角点より北の登山道の真ん中にある標識。おや?ここにお薬師さんが鎮座していました。 |
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→道標を通過 道標を通過し尾根を下ると、先程の七ッ森自然遊歩道に出ます。 松倉山には、山頂直下で2つ登り口があることが判りました。 |
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→樹木観察をしながら 松倉山と撫倉山の鞍部に下っていく途中です。 なだらかな道なので、樹木観察をしました。樹木芽吹き出した新緑の木々はどれも似ています。木肌だけではなかなか判別できません。 |
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→鞍部付近を行く 左手に松倉と撫倉の鞍部から、谷沿いに信楽寺跡へ下る道があるはずですが、見落としました。 |
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→左手が撫倉登山口 国土地理院地図には無い道ですが、山渓の新版「宮城の山」に案内されている道です。我々は、左折せずに直進します。道標には、←撫倉山登山口A七薬師掛コースと記されています。あとで撫倉を下る途中でこの道に出合います。 |
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→境(深野さんのガイドでは境と表記あり) 上の写真から3分で到着。右が大倉山、峰倉山方面。左が撫倉山。直進すると撫倉の山裾を回りこんで、梅ノ木平へと続く下山路。十字路です。 |
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→大倉山 境から見上げる大倉山。境とはよく言ったものです。十字路に北向きに立つと、前が大倉、右が松倉、左が蜂倉、後ろが撫倉です。 |
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→道標を見る人々 境には道標があり、道迷いをしないようになっています。 ※この写真は、西から東を見ており、来た方向とは反対側から写しています。 |
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→撫倉山(なでくらやま)への登り 雑木林の登りとなりますが、ロープが設置されています。 |
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→尾根が狭くなる 5分余りで、尾根が狭くなってきます。 |
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→岩もある 分岐から20分程の付近です。 |
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→稜線から右手の景色 だんだん見晴らしもよくなってきました。右手には、笹倉山も見えます。 |
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→急な登り 稜線の東側に道がついていてだんだん尾根が狭くなる。蟻ノ戸渡りと呼ばれる岩尾根もあるそうだが、どこなのかわからないまま過ぎた。 |
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→ハシゴ場 ここが噂のハシゴ場。数mの落差だが、岩場なので、登りはともかく、下りはこのハシゴがなければ下れない場所。 |
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←大倉山 | |
↑景色も開け、後ろを振り返ると、北に大倉山(327m)が見えました。 | |
→いよいよ頂上 撫倉山(359m)の頂上です。 |
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→西には南川ダム 頂上からの展望はよく、薄曇りでしたが、ダムの向こうには、泉、北泉ガ岳が見えました。 |
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→南西には笹倉山 撫倉山にもお薬師さんがあります。 |
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→南方向は宮床 曇っていますが、仙台の方向を見ています。 |
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→南東は松倉山 撫倉より68m低い松倉山は、やはり眼下に見える。 |
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→北東は吉岡方面 ゴールデンウィーク後半なので、今は田植えの真っ最中。吉田川の水に潤った田んぼが光って見えます。 |
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→撫倉から下山開始 景色を堪能し、休憩したら頂上で既に12時を過ぎていました。3時に中新田に行き、山菜料理の予定だったので、急いで下ります。 |
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→急斜面 撫で撫での平坦部からの下りが、一部急な所がありました。 |
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→植林帯に入る この下あたりで、松倉、撫倉の鞍部からの登山道に出合います。 |
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→杉林を下る 分岐を左に見たら、右下に下って行きます。 |
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→分岐 ここがおどろき展望台?展望がないのでおどろくってこと? |
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→林縁を行く 足元にスミレやタンポポなどが咲いています。 |
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→広い道になります モミの木、ウリハダカエデ、ホオ、ミズキ、クリなどが見られました。 |
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→民家あり 植物観察はしましたが、山菜を採らなかったので、この付近で田芹やミズを採って目的を果たして帰りました。 |
↑イカリソウ | ↑チドリノキ |
↑ヒトリシズカ | ↑ルイヨウボタン |
↑ムラサキケマン | ↑ヤマブキソウ |
↑ブナ? | ↑アカシデ? |
↑ゴヨウツツジ | ↑? |
↑アオハダ? | ↑アオハダ? 痛かったでしょう。 |
↑ヤマナラシ? 菱模様あり | ↑コシアブラ? |
↑? | ↑キケマン? |
↑イヌドウナ ボンナ、ヨブスマソウともいう。ヨブスマはムササビの事 | ↑? |
↑スミレ科? | ↑スミレ科? |
↑スミレ?とタンポポ | ↑チャワンタケ科? |
↑ウリハダカエデ |
↑モミ |
↑ホオノキ |
↑ミツバアケビ |
↑ミズキ? |
↑ツツジ科? |
↑? |
↑オオイタドリ てんぷら ぬるっとして、くせ無く美味しい。 |
↑? ゆでてしょうが醤油。 |
↑タラノメ てんぷらが美味しい |
↑コゴミ(クサソテツ) 茹でて胡麻和えにしました。 |
↑ワサビ 醤油の一夜漬けが美味。 |
七ッ森に関する補遺 ●原阿佐緒記念館 宮床を語るのに欠かせないのが、女流歌人、原阿佐緒です。あさおは明治21年に宮床に生まれ、16歳で上京。東京女子美術学校に入学しましたが、退学。幾度も恋に破れ、二児をもうけたものの、世間の醜聞から逃れられないような一生だったようです。教師、事務員、女優、バーのマダム等もした後、筆を折り、宮床の実家には、昭和7年から29年までひっそりと暮らしていたようですが、実家が人手に渡り、昭和44年に82歳で東京で亡くなったそうです。 しかし没後、波乱の生涯に詠んだ4つの歌集が評価され、後世に伝えられています。
●生きながら 針に貫かれし 蝶のごと 悶へつつなほ 飛ばむとぞする ●吾がために 死なむと言ひし男らの みなならがへぬ おもしろきかな 参考文献:「涙痕-原阿佐緒の生涯」小野勝美 至芸出版社 |