ほどよく冷房のきいた室内に、ガラスの割れた窓からうだるような外気が吹
き込んでくる。スネ夫としずかの顔に強い不快の色が流れたが、全裸ののび太
と不感症のアカギは汗一つかいていない。三人リーチのショックで男泣きのジ
ャイアンは、もとより暑いだの寒いだのぬかす余裕などないといった有様だ。
こいつらのアホ面を見ていると、ただでさえムカつく胃袋に一層どす黒い汚泥
が溜まっていくのを、スネ夫としずかは抑えることができない。
 特にのび太がうっとおしい。呼んでもいないのにしゃしゃり出てくるわ、窓
ガラスはぶち破るわチンコ丸出しだわ、おまけに場代も払ってない。呆れたの
を通り越して、のび太の足跡を一冊の本にまとめて後世に語り継ぎたい衝動に
かられたスネ夫としずかであった。
「のび太くーん!」
 人をイラつかせる技術においては古今無双ののび太だが、今のジャイアンに
はそんなのび太も救世主に見えるらしい。矢も盾もたまらず、のび太の足にす
がりついた。
「のび太くん、アイツらひどいんだよ! ワインに血を垂らして飲んだジャイ
アンファミリーなのに、俺のことあっさり裏切りやがって! あんなアカギの
どこがいいんだよ! 雀力か? 金か? わかった体だろ! うわー不潔! 
な、のび太くんもそう思うだろ? そういえばこの間池袋でカレー食ってたん
だけど隣のテーブルのガキがずっと俺のことを見てやがんだよ。その目があん
まりまぶし過ぎたんで、俺は思わず付け合せのラッキョウを……」
「分かったから後は任せろ」
 のび太はジャイアンの顔をまっすぐに見た。純真で力強い、全てを託せるの
び太のまなざしだった。
「心の友よ! オレ様は心に深い傷を負ったので寝る!」
 ジャイアンは自分の席にのび太を座らせて自分は万一に備えて用意しておい
たジャイアン専用ベッドにとっとともぐりこんだ。
「ゆっくりおやすみ、ジャイアン」
 早くも大いびきをかき始めたジャイアンに、のび太はそう言って微笑みかけ
た。ジャイアン軍団への復讐を誓ったはずののび太だが、はからずもそのジャ
イアンを助けるために麻雀を打つことになった。しかしのび太にわだかまりは
ない。
「ボクが倒すのはジャイアンじゃない。本当の敵は……」
 のび太はスネ夫としずかを見たが、この二人は単なる雑魚なので問題外だっ
た。今日の昼間にボロ負けした相手をどういう理屈で雑魚呼ばわりできるのか
は不明だが、とにかく問題外だった。
「ボクの敵は、コイツだ!」
 のび太は正面の男が真の親玉である事を見抜いた。小学生に混じって大の大
人が本気で麻雀を打っているからだ。とにかくアカギと呼ばれたこの男を倒さ
ない限り、のび太のカイザーロードに光は戻らない。
「アカギを倒して、ボクが天下を取る!」
 その為にはまず、このリーチをしのがなくてはならない。のび太は三人の捨
て牌を確認した。

しずか 
アカギ 
スネ夫 

 次に、ジャイアンから引き継いだ自分の手牌を見た。

 ←ツモ

 ドラも安牌も希望もない、しょぼくれたサンシャンテンである。これまでの
のび太であれば、パニックを起こして便所に閉じこもってスクワットに没頭す
るのが関の山であったろう。しかし今は違う。麻雀のノウハウを体得し、技術
も心もレベルアップしたスーパーのび太に、怖れるものなど何もない。わずか
八枚の捨て牌から三人の待ちを絞り込むため、のび太の頭脳がフル回転を始め
た。そして答えが導き出された。

しずかの待ち牌………知らね
アカギの待ち牌………知らね
スネ夫の待ち牌………知らね

結論………分かんね

「分かんねー!」
 のび太は右手を高々と掲げ、捨て牌を卓に叩き付けた。のび太の頭の中では
稲妻だの竜巻だのがバックで渦を巻いているが、実際にはジャイアンが寝返り
を打っただけだった。のび太が切ったのはだった。
「ロン」
 しずかの口の端がつり上がり、鋭い犬歯がむき出しになった。



「リーチ一発ホンイツイッツーがドラだから、三倍満で24,000点。の
び太さん、これでトビでしょ。どうせ負けるに決まってるんだから、始めから
便所にこもって手刀で瓶切りでもやってりゃよかったとしずか思うの! バー
カバーカ!」
「ロン」
 しずかの罵倒が絶頂に達したその時、アカギが静かに手牌を倒した。



「リーチ一発だけ。裏ドラなし。3,900点」
「はい?」
 アカギが意味不明な事を言い出したので、しずかは混乱のあまりパンツがグ
ショグショに濡れた。しずかの三倍満は確定しているしダブロンなしのルール
だし、何よりその手でリーチをかけてであがる神経が分からない。そんな
しずかの疑問に答えるように、アカギは静かに言った。
「頭ハネだ」


 一枚の捨て牌で二人以上が同時にロンをするダブロントリプルロンを認め
ないルールにおいて、振り込んだ人間の下家に近い者のアガリが優先される法
則をアタマハネという。つまり、下家、対面、上家の順に優先権が発生する。
この場合、のび太から見てしずかが下家、アカギが対面であるので、優先権は
しずかにある。つまりしずかはアカギの戯言など適当に聞き流して、24,000点
をのび太からもらって故郷に帰って見合いでも何でもしてりゃいいのだ。
 しかし余人ならいざ知らず、発言の主はあのアカギである。大勝ちするたび
にオゾン層が破壊されるとも、ビックカメラで万点棒で払おうとして警察に突
き出されたとも噂される麻雀大明神のアカギが言うのだから、ひょっとしたら
マニアの間ではそういう頭ハネが流行っているのかもしれない。しかしこれだ
と頭ハネと言うよりケツッパネだし、ケツに挿した一輪のバラに祝福を……。
などとしずかがゴチャゴチャいらん事を考えていたら、アカギが全自動卓を窓
の外にぶん投げてしまった。
「あれまー!」
 しずかの絶叫も時すでに遅し。しずかの三倍満は虚空を舞い、白馬に乗った
王子様が哀れなを救い上げてどこかへ駈け去り、お腹をすかせたシマリスが
をうまそうに頬張り、メジャーリーガーがをジャストミートして
夜空に虹のアーチを架け、最後に通りかかった瀬戸内寂聴がハゲ頭に三枚の
を乗せたまま無人の街の彼方に消えていった。しずかのアガリを証明するもの
は、これで何もなくなった。アカギは証拠隠滅に成功した。
「ククク……」
「クククじゃねーだろ! 俺の24,000点と一緒に貴様のチンカスみたいな3,900
点もなくなったら結局ゼロ点じゃねーか! あと雀卓の弁償代とか差し引いた
らいくらマイナスだと思ってんだよ少しは考えて動けよ一揆かテメエは!」
 怒りのあまり男口調になったしずかを、のび太が慰めてやった。
「まあまあ、三倍満ならあとで僕があがってあげるからさ、早く麻雀を再開し
ようよ。南二局の一本場からだっけ? アカギさんに3,900点も払ったことだし、
気を取り直してレッツエンジョイだ!」
「アカギに払ったのかテメー! 俺に24,000点払うのが筋だろガッデム!」
「ふーん。でもさ、しずかちゃんのあがった三倍満って、あれインチキなんだ
よね? 前科のあるジャイアンはともかく、僕は麻雀でインチキしたことなん
か一度もないから、文句を言う権利はあるよね。インチキの三倍満には、点棒
は払わなくてもいいよね?」
「アカギの3,900点だってインチキだろーが!」
「インチキだったらあの手を3,900点ではあがらないと思うよ。ねえアカギさん?」
「ククク……」
「あとさ、しずかちゃんがインチキしなかったらアカギさんが雀卓を捨てる事
もなかったんだから、雀卓の弁償はしずかちゃんが全額負担が筋だよね。どう
思う?」
「マジか……」
 アホののび太に屁理屈で負けた。しずかは計測不可能の大屈辱に打ちのめさ
れて膝から崩れ落ちた。スネ夫は一連の騒ぎなどどこ吹く風で、隣の雀卓で次
局の準備を進めた。敗者で抜け殻のしずかに加勢してやるほど、スネ夫は人間
ができていなかった。
 アカギ、無法のケツッパネであった。


続く
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