2004年30号

 対抗戦第二回戦が始まった。開始の銅鑼と同時に元気いっぱい走ってくる春
成が、刃牙はとてもうらやましかった。
 いつの頃からか、刃牙は己の人生に何らの情熱も持てないようになっていた。
弱冠十七歳にして地下格闘場での最大トーナメントを制し、世界中の猛者達の
頂点に立った。高校で学ぶべきことは何一つない。同年代の少年少女がみんな
ケント・デリカットに見える。
 柳龍光に毒を仕込まれた時には一瞬ドラマを期待はしたが、裏返りがどうと
かですぐに治ってしまった。生き甲斐を求める刃牙の目には、春成の笑顔はと
ても眩しく、絶望で渇いた胸に嫉妬の風を吹かせるのであった。この人は、ど
うしてこんなに元気なんだろう?
 春成は刃牙との距離と一気に詰めて、刃牙の鼻先で大きく拳を振りかぶって
いる。ここは本人に直接尋ねることにしよう。
「春成さんは、どうしてそんなに元気でいられるんだい?」
 刃牙は呑みかけのビールのコップをテーブルの上に置いた。そこは闘技場近
くの大衆食堂だった。
「ここはどこだー!」
 刃牙の向かいに座った春成が頭をかきむしって絶叫した。無理もない。ほん
の一瞬前まで闘技場で試合をやっていたのだ。刃牙は構わず話を続けた。
「俺さ、世の中が全然面白くないんだよね。何をやっても超一流で、努力なん
かしなくても常に人類のナンバーワンだから、張り合いがなくって」
「そかー!」
 春成は落ち着きを取り戻して、大盛りの冷やし中華をうまそうにかっ喰らっ
ている。
「一度くらい試合に負ければナニクソって気にもなれると思って中国くんだり
までやって来ても、どいつもこいつもチンカスみたいな雑魚ばっかりだし」
「俺は強いぞー!」
 春成は心外そうにテーブルを叩いて主張した。刃牙は春成の噴き出した冷や
し中華の食いカスを片手ですべて受けきって、春成の皿に戻してやった。
「分かってるって。春成さんは誰かに負けたり、強くなるために努力をしたこ
とはある?」
「ないー!」
「それが分からない。敗北も知らない、努力も知らない。それなのに、アンタ
はどうしてそんなに人生を楽しめるんだい?」
「分かんないー!」
「そうか。ところで、この金庫には何が入っているんだい?」
 大衆食堂ではない、殺風景な部屋の壁際に、黒い大きな金庫が置かれていた。
刃牙は金庫の上に肘を乗せて、春成に質問した。
「俺の部屋だー!」
 春成は再び頭を抱えた。手には冷やし中華の皿を持ったままだ。
「どうやんのこれー!」
 刃牙の質問には答えず、刃牙の肩をガクガクと揺さぶった。
「後で教えてあげるから。金庫の中を見たいんだけど、開けてもらえるかな?」
「分かったー!」
 春成が金庫のダイアルを何度か回すと、鍵の外れる音がした。この中に、春
成の元気の秘密が隠されているに違いない。刃牙は久しく忘れていた高揚感に
震える手で金庫の把手を握り、一気に扉を引き開けた。
「何をするんだ、バキくん!」
 扉の向こうでは烈海王が排便の真っ最中だった。人影もまばらな闘技場の公
衆便所で、刃牙はすいませんと言いつつも不満そうに口をとがらせた。
「烈さん、ウンコする時は鍵ぐらいかけようよ。ねえ春成さん」
「戻ってきたー!」
 春成はそれどころではない。掃除したての真っ白な便器に囲まれて、両手の
拳を口に頬張ってパニック状態に陥った。
「まあまあ。せっかくの海水浴なんだからもう少し楽しんでくれよ」
 春成の長い髪に潮風が吹いた。真夏の日光に照らされて、エメラルドブルー
の水面が星空みたいにキラキラと輝いた。
「海だー!」
 春成は全裸になって泳ぎ出した。躍動感にあふれる春成の背中を見守って、
刃牙と烈は感慨深げに何度も何度も頷いた。
 ああ。バカの春成さんがうらやましい。


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