初めてのホノルルマラソン完走記録

参加のきっかけ
 一ヶ月前に、旅行会社の友人から勧められ、急遽参加を決めた。テロの影響で参加人数が少なく、ツアー代金がやや安くなっていたのだ。
準備
 ジョギングとウォーキングの計3キロを、正味3週間しただけ。
そもそも私は
 フルは一年前に5時間40分で、一回完走のみ。一応マラソン愛好会には所属しているが、練習は平均週に一回。たまに、近隣のマラソン大会の5キロに出場するも、毎回ビリから6位入賞で満足している。なまけ者を自慢してもしょうがないが、そんな私がホノルルに来てしまったのだ。しかし、ランナーのはしくれとして、いつかは走りたいと夢みていたホノルルマラソンだった。
師匠について
 今回並走してくれたのは、ホノルル3回目の60歳代女性で同じ会の我が師と尊敬するMさんだ。心強い。私と同じく、登山とマラソンが趣味だ。カナダ、ニュージーランド、アラスカなど海外の山にも出かける。今年はヒマラヤに行くとか。大変おおらかで飾らない性格。毎日犬の散歩で鍛え、フルは4時間台で走るタフな人。
現地での準備
 私は、ネットでマラソンの申し込みをしたが、師匠は現地で登録した。ゼッケンはどちらの方法でも、前日の午後5時までに、アウトリガーホテルまで取りに行かねばならないため、ハワイ到着初日の4時過ぎにそれらを済ました。
 あとは、ゴールでの待合場所を確認しにカピオラニパーク行っただけ。スタート場所は、皆が歩く方向について行ったら着いた。スポンサーの催し(セミナーやパーティ)は、有料なのと遊ぶ時間が無くなるので割愛した。
前日の夜
 ダイヤモンドヘッド登山、ハナウマ湾海水浴と2日とも丸々身体をはって遊んでしまった為、疲れていた。
 せめておいしいものを食べてスタミナつけておこう、とパークホテルの1Fのディナーバイキングにした。ここは、ハワイ通のHPでも紹介されていたし、実際ドリンク込で35$弱。隣のホテルで近いし、内容もとてもよかった。
 牡蠣ツウの師匠は新鮮だといって、殻が山になる位食べている。では私もと、1つ食べたのが間違いだった。今まで牡蠣はあまり相性がよくなかったのに、いやしさに負けてしまったのだ。疲れの蓄積と、食べ過ぎと、生牡蠣で、ドンぴしゃりやられてしまった。(師匠は全く平気)
 11時に床に着くが、吐き気がして寝付けない。とうとう12時に吐く。下痢もひどい。12時半に師匠を起こしてしまい、背中をさすってもらう。1時にやっと落ち着き、胃腸薬を飲み横になる。
朝2時起床
 2時にモーニングコールがあったが、起きれない。30分だけ寝させてもらう。貧血でトイレでも力が入らない。シャワーを浴び、足の裏や踵に靴擦れ防止のテーピングをする。日焼け止めも塗っておく。頭痛薬も飲む。食欲がないので、バナナ1本は手に持ち、ゼリー2袋、飴、アンドーナツ1個甘納豆少々を、ウエストポーチに入れる。その他、お金少々、ちり紙、パスポートのコピー、頭痛薬、インスタントカメラ、名刺等も。
スタートまで
 3時50分にホテルを出て、地図で見た道を歩き出す。他の人たちもゾロゾロゴールの方向に歩いていた。暗いのに師匠がやたらと写真を撮りたがる。顔面蒼白で、ふらふらと夢遊病者のように歩くうち、40分程でスタート地点に着く。
 霧雨が降っているので、涼しく寒いくらいだ。私は日焼け防止の為、長袖のランシャツだったので、ちょうどよかったが、袖なしの師匠は腹が冷えると言っていた。
 師匠は3回の経験からか、前に並ぶべし、と言う。マジメな私は非常に悪いことをした気持ちになる。だって申告タイム2時間台のところに並んだのだ。でも、周りを見るとおでぶな人もいるし、年配の人もいた。実際走り出すと、歩きの人もいた。スタートを前に興奮して万歳三唱する人達もいる。吐き気がなくなったので、手に持っていたバナナを1本食べる。
スタート
 「がんばってください」とスターターの佐々木投手の声がスピーカーから聞こえる。花火とともに、のろのろスタートした。いやに人が多くて走りにくいのと、足元が暗いのを除けば、いつもと同じようだ。遠路ホノルルまで来たと言うのに、寝不足で感受性までにぶっている。悲しいかな、感動や興奮は無く、ただ流れに身を任せている感じのスタートだった。
目標タイム
 実は昨日までは、4時間台も運よければ可能かも、と思っていた。ところが夜中の嘔吐。まさに絶不調だ。でも、走り出すと、なんとか走れるものだ。だんだん気分が良くなってきた。休憩を入れ、できれば6時間以内、遅くとも昼まで(7時間以内)には、ゴールしたい。ボーっとしながらもそんなことを考えていた。
大魔神との遭遇
 10分位走ると、だいぶ回復してきて、まわりの景色を見る余裕が出てきた。ワイキキ周辺はクリスマスのイルミネーションが美しい。沿道の応援も多く、さすがに感激した。
 有名人いるかな?と人垣を見ながら走っていると、おお!なんとスターターの大魔神佐々木投手が、にょきっと立っているのが目に入った。
 写真撮りたい!と思い、走るのをやめて、無断でインスタントカメラを向ける。と、横を走っていた師匠がすぐさま大魔神に駆け寄り、「仙台から来たんでがす(来たのです)。一緒に撮らせてけさい(下さい)。」と交渉し、撮影OKとなった。師匠は、ちゃっかり彼と腕まで組んでいる。
 仙台御出身の佐々木氏は、気さくなお人柄のようで、「お母さん、早く、早く!」と、にこやかに声をかけて下さった。いい人だ。たとえ完走できずとも、もう大魔神とのツーショットが撮れたただけで、ハワイに来た甲斐があったというものだ。握手もしてもらい、すごく得した気分になる。
 もう、吐いたことなど忘れてこの幸運を喜ぶ。急に元気になり、またコースに戻って走り始めた。
トイレの問題
 カピオラニ公園の10キロ地点通過。1時間20分。私にしては、まあまあの調子だ。ここにトイレがあり、行きたかったが、ランナーが列になって並んでいたので、諦めた。
 ダイヤモンドヘッドの登りにかかると、車椅子のランナーがもう戻ってきたのが見えた。いくらか、空が白み始める。ダイヤモンドヘッドを回り込む道に左折するともうだいぶ明るくなり、走りやすくなる。
 まだ、トイレは我慢できたが、師匠が「ここを過ぎると、市街地とハイウエイで、野外で用足しする場所はない。」と言うので、私はコースから300m位山道を駆け上り、皆から見えない所で用を足す。同類の白人女性と師匠は、沿道からまる見えの林の中でしゃがんでいたので、ピューピューと皆から、はやされる。
 屋外トイレは、ちょっと恥かしかったが、師匠と私は登山好き。山登りでは「お花摘み」と称す日常的な行為なので、あまり罪悪感もなく、淡々とコースに戻り、また走り始めた。
 もちろん、自然破壊的行為なのでお薦めはできないが、屋外でするなら、ここしかない、と後で思った。ここでしなかったら大変なことになっていたと思う。
 このあと、日が登るのが見えてきた。薄暗いうちに、野外トイレを済ましたのも正解だった。
休憩
 カハラモール付近の給水所では、5分程休憩する。朝、食欲がなく、バナナしか食べてないので、さすがにお腹が減ってきた。ウエストポーチのアンドーナツと、スポーツ飲料のゼリーを食べる。
 給水所は、紙コップとスポンジだらけで走りにくい。あとで、ボランティアの方々がデッキブラシで道路を掃除していた。ごくろうさまです。足の屈伸などをして、さらに走ると、ハイウエイに出た。
ハイウエイ
 折り返しのランナーが、足早に反対車線を戻って行く。また、有名人はいないかと探すが、出会わない。あとで考えると、既にスタートから2時間半も過ぎており、谷川真理さん等のトップランナーはゴールしている頃だ。ここで会えるはずが無い。しばらくして、同じ飛行機で来たマラソン仲間4人(仙台SMCの守さん、南仙台走友会の西田さん、出口さんご夫妻)と、次々にすれ違い、写真を撮り合ったりする。彼等はもう30キロも走り終えているのに、我々は、まだ半分の20キロ。既に3時間経過。だいぶくたびれてきたので、お昼までにゴールできるのか、不安がよぎる。が、暑からず寒からず、陽射しも弱いし、天候には恵まれたと思う。
ついに歩く  
 私は、まだなんとか、のろのろ走れたが、師匠が腹が冷えて調子悪いと、22キロ付近で歩き出した。ホノルル3回目とはいえ、昨日は私の介抱をして睡眠不足。60代だから仕方ないかなと思う。独り旅はいやだし自分の足もだいぶ重かったので、一緒にしばらく歩くことにする。ハワイカイの分岐にトイレが見えた。
大休止
 24キロ付近だ。トイレと大休止を20分位する。師匠は、しばらく芝生に寝そべり休息。私は、空腹でバテた状態になり、持っていた甘納豆やゼリー等の食料を、全て食べ尽くしてしまった。あと、残り18キロもある。
アドバイス
 休んだ後は、ますます疲れを感じた。コースに戻り、弱音を吐きながら二人で歩いていると、「まだまだ、これからよ。歩いてばかりじゃダメ、電注二本歩いたら、二本走るのよ」と、励ましてくれた方がいた。
 フル100回走友会のシャツをお召しになっている。凄い女性だ。初フルという彼女のお嫁さんも一緒だ。時々気合を入れられながら姑についていく。この嫁さんも世にも珍しい人だと思う。ホノルルの魅力は、嫁姑の壁も越えられるのだろうか。
 33キロ付近のトイレ休憩まで、その嫁姑コンビと、我々師弟コンビは抜いたり抜かれたりしながら、進む。この方のアドバイスのおかげで、電柱二本の歩きとランは、いつしかリズムになっていた。あのまま歩いていたら、どうなっていたかわからない。時々痛む足や膝のストレッチをしながら、なんとか長い復路のハイウエイを終えることができた。
フィルムが無くなる
 ハイウエイの復路で、もう写真のフィルムが残1枚になっていたことに気付く。ゴールでの1枚は証拠として残しておかねばならない。それにしても、前半で67枚も撮ってしまったのは、大ボケでした。
思考能力ゼロ
 やっと、35キロまできた。お腹は減るし、根性はかなり使い果たしていた。あと7キロだったが、このころには、思考能力がなくなり、マイルとキロの掛け算や、残り何キロの引き算ができなくなっていた。もう、時間など、どうでもよくなり、時計も見ない有りさまだ。左膝がかなり痛む。
救護所の氷
 ハイウエイを下りた所に白いテントの救護所が見えた。師匠が寄ろう、と言うので付いていく。
 なんと、師匠は外人のボランティアの方に、身振りで氷を2袋をご所望し、1つを私に分けてくれた。テントのベンチで、痛い膝を10分位冷やすと、不思議と痛みが少しやわらいできた。冷たくて気持ちいい。
 気が小さいので、自分独りだったら、とてもこんな考えは思い浮かばなかった。さすが師匠は年の功だ。さほど重症でなくとも、要求すれば氷は頂けるし、ベンチも自由に使っていいようだ。
高級住宅街
 高級住宅街を、時々歩きを入れながら、のろのろ走る。業者の撮影ポイントがあり、一応ポーズをとる。後で4cm角くらいの写真見本が送られててくる。師匠は大地主でお金持ちなので、一枚1万2千円位で注文したようだ。
 マイル表示も見逃し、時計も見ない。ただ、早く終わりたい一心で前に進む。産卵の為に川を遡上する鮭のように、身体はボロボロだが、本能的に気持ちが前に行く。まわりのほとんどの人が既に歩いている。私達は走っているつもりだったが、歩きと同じペースになっていた。
 カハラ大通りで、沿道のお金持そうなおじさまから、チョコを頂く。師匠はこのチョコで俄然元気になる。私は全くダメで、左膝がもう悲鳴をあげていた。それでもなんとか師匠に引っ張られて、ゴールまであと3kの看板までたどり着く。
あと3キロ
 しばらくぶりに時計を見ると、11時30分だった。残り3キロなら、目標の12時までにゴールできるか、と思ったが、この3キロがとてつもなく長かった。もうすぐだと励まされるが、もうだめだ。ついに師匠に先に行ってもらう。師匠の後ろ姿がドンドン遠くなっていく。
 ここはダイヤモンドヘッドの下り坂だったが、膝に響くので、走れず歩きになった。行けども行けども長い下りだ。やっと平坦な道になり、もうゴールは真近と思えたが、なかなか着かない。やっと、公園内に応援の人垣が見えてきた。グッドジョブ!の声援が聞こえる。あと少しだ!もう膝が壊れると思うくらい痛かったが、それこそ歯を食いしばって走りだした。最後は走ってゴールしたかったのだ。
ゴール出来ました 
 目標の正午は過ぎてしまい、記録は7時間02分06秒だった。先に着いていた師匠が、沿道の応援隊に頼んで、記念写真。あとでみたら少し笑って写っていた。これで、私のホノルルが終わった。


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ゴール後 ゴールはうれしかったが、心身とも疲労困憊だった。ボランティアが貝をつなげたレイを首に掛けてくれた。スポンサーからアミノバイタルをもらう。完走者にはTシャツがもらえるが、公園内の案内表示が完備されておらず、疲れた体をひきずってうろうろする。膝が痛くて、歩くのもロボット歩きで、やっとTシャツをゲット。早くホテルで横になりたかったが、無料の送迎トロリーバスの出発場所もわからない。

寿司屋義経 落ち着くと空腹でバテている事に気づく。まずは、腹ごしらえだ。師匠がゴール近くの「義経」という寿司屋で、完走者に湯呑みをプレゼントというサービスがあることを知っていて、下見の時に予約(店の前のノートに住所氏名を書いておく)していたので、そこに行く事にする。
 近くといっても、公園から動物園の向こうのカパフル大通りだ。300mくらいだが、足を引きずりながらの身にはこたえた。途中でやはり膝か痛くて、ベンチで休憩していた、栃木のランナー(40代男性)に師匠が声をかける。師匠は元気だ。ご飯を食べると完走者に湯呑みがもらえることを教えると、彼も後で奥様を連れて店にやって来た。
 義経は寿司屋だが、寿司を消化できる自信がなかったので、メニューにあったうどんを二人で注文した。そして帰りに、”2001年ホノルルマラソン完走記念”と書かれた青磁の湯呑み(割といい品物)をもらう。師匠は「お父さんの分もね」といってにこっとしてちゃっかり、2つゲット。「あんだのご主人にも」と私の分ももらってくれた。うどん2杯で湯呑み4個も・・・。でも、そんなわざも許されるおおらかなお食事処だった。

ゴール会場インフォメーション 義経の前にはバス停があったが、疲れで頭が回らず、無料のトロリーバスにこだわってしまった。再びカピオラニ公園にもどり、インフォメーションを探して聞く。しかし、無料トロリーの出発場所は「知らない、わからない」で、誰かに聞いてくれるというふうでもない。インフォメーションには、日系の現地ボランティア(日本語OK)が皆70〜80代のおじいさま3人が座っており、要領をえない。会場内の施設がわからない人を置くなよ、と思う。

歩きしかない 元気な師匠が「すぐだからホテルまで歩こう」というので、しぶしぶ従う。私は完璧にキレていて、バスにも乗れない自分にイラついていた。カラカウア大通りを疲れきってとぼとぼ歩く。師匠が後から付いて来て「もう半分来た」とか、励ますつもりなのか声をかける。もう反応する気力もなく、無言で歩く。ホテルに着いたらすぐ、明日のハイキングツアーの予約をしなければならないし・・・。あ〜あ師匠はのんきだよな〜。二人に気まずい雰囲気が流れる。ともかく、疲れていたのだ。あたりまえだよね、フル走ったあとだもの。

帰りてみればこはいかに ホテル着午後3時。しかし、愕然とする。ツアーデスクがクローズなのだ。げっ、なんてこったい!走り書きの英文メモが張られており、「都合により閉めます・・。」みたいなことを書いてある。マラソンの次に楽しみにしていた、ジャングルのハイキングが〜〜。(T_T)
 仕方なく、エコツアーのパンフを見せて、フロントに相談すると、隣のパークホテルに行けという。地下1Fにあるデスクに行くと、このツアーはここでは扱ってない、とのこと。しまった〜〜。絶望的になるが、裏のシェラトンなら、大きいホテルだからツアーも充実しているかも・・・と、もう汗でどろどろになった髪の毛を振り乱して、執念でツアーデスクを探す。シェラトンは高級ホテルなので、行き交う人々もリッチな感じで、ロビーも広々としている。みすぼらしいのは私だけだ。
 ツアーデスクも複数あるようで、日本語が通じるデスクもあったが、そこは先客がいたので、仕方なく親切そうなおじさまのいるデスクに駆け込む。エコツアーのパンフを見せると、すぐにOK。いやあほっとしました。最初から、こうすればよかった。日本語ガイドにこだわっていたので、なかなか探せなかったのだ。

師匠のすごさ  午後4時、部屋にもどると師匠がシャワー済ませ、さっぱりとした顔をしていた。明日のハイキングツアーに予約できたことを報告すると、おおいに喜び、私の労をねぎらってくれた。こういうさりげない気遣いが師匠にはあり、先ほどの気まずい雰囲気は払拭されていた。私もシャワーをあびてもどると、師匠がおおいびきで熟睡していた。さすがにいくら強靭な体力の持ち主とはいえ、60代後半なのだから疲れていていたんだな、と思う。

師匠の知人Mちゃんまた来る 2時間熟睡して、外食する元気がないので、あるもので済ませていると、6時半に初日に訪ねてきた、Mちゃんがやったきた。彼女も、マラソンの救護所の通訳ボランティアをしていて、今終わったそうだ。日本の家族への届け物を師匠に託すために来たのだが、師匠にマッサージをしたり、私にバスの乗り方を教えてくれたりして2時間ほどして帰っていった。美人で英語も堪能で、彼女の人生に栄あれと願う。
 明日は、朝5時半モーニングコールで、7時ピックアップのジャングルハイキングツアーだ。この晩はさすがによく眠れた。


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