三線建設の経済的評価

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1.インフラ面

 プロジェクト内容を見た限り、鉄道、発電、炭鉱等の開発が多くみられる。交通インフラに関して、鉄道面では、今日において当時に建設された鉄道は内陸部の省間をつなぐインフラとして大きく機能しているように見える。しかし、現在多くの貧困人口が暮らす地域というのは、三線建設のころ建設された襄渝鉄道等の鉄道沿線である。同じ内陸の鉄道沿線でも50年代に建設された宝成鉄道(宝鶏―成都)沿線の地域は内陸における発展地帯である。道路の敷設に関してはほとんどされてない。これは三線建設の各プロジェクトが軍事的プロジェクトであるため、施設を隠蔽することが要求され"大分散、小集中"の原則で行なわれたために、省内の各地域を連絡する交通インフラを作る必要がなかったからである。交通インフラに関しては、ただ軍需物資を沿海部に輸送するインフラ設備があればよいだけだった。そのため三線建設の時期に建設された鉄道は、地域開発という目的があったわけではない。その点が宝成鉄道と大きく異なる。
 炭鉱や電力、冶金に関してもその使用用途は、主に軍事工場のためであり、地域開発、住民のためのものではない。そのため三線建設の終了、冷戦の終結、改革開放によって、その歴史的役割をおえ、さらに改革がうまくいかず構造不況に陥った業種が多い。

2.産業面

 三線建設は経済的に結果的に内陸部、特に四川省の多くの都市で軍需物資の生産が行なわれた。しかし、時代は変わり、戦争の危険性は回避され、軍需物資を生産する必要がなくなり、多くの工場が軍需工場の民需工場への転換をせまられた。また時を同じくして改革開放が始まり、混乱の文化大革命の時代から、高度経済成長を遂げるようになるのだが、軍需工場というその性質上、インフラ(電気、ガス、水道)がない状況では軍需の民需転換をしようとしてもできず、その稼働率も低い。また軍事という特殊な分野ということもあり、外資が積極的に中国(沿海部)に入ってきても内陸部を簡単に開放するわけにはいかなかった。核兵器を製造していたことも考えられる。90年代をすぎて、ようやく外国人に開放された地域も多い。その結果完全に発展(改革開放)から取り残された地域が四川には多い。しかし、技術者は多くいたので、軍需の民需転換に成功した企業も多い。具体的には綿陽のレーダー工場から中国家電業界最大手の1つとなった四川長虹、重慶の軍需工場から、自動車工場へ転換し、日系最大の合弁企業の1つになった慶鈴自動車(慶鈴汽車)、当時の機械工場を発展させ、中国最大の発電設備製造企業の1つとなった徳陽の東方集団など、中国有数の企業となった企業もある。勝ち組みと、負け組みがはっきりしているのも特徴である。
 三線建設最大の失敗は、軍事面以外の産業を完全と言っていいくらい無視した極端な産業政策にあったのではなかろうか。今日四川省で省都成都、綿陽、コ陽を除いては、ほとんどが貧困地域である。地域を大きく発展させるような産業がこの3都市以外は現状ない。攀枝花と重慶にしても、その産業は全体的に構造的不況業種が多数存在し、GDPが高くても、国有企業改革は、まだまだ不十分であり、多くの問題を抱えている。綿陽にしても、もとは第一次五カ年計画で開発された地域なので、三線建設で新たに産業が持ち込まれたわけではなく、実質的にプラスの作用を働いたのは現段階ではコ陽の機械工場東方集団以外あるとは言えない


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