秦という国があった。王の名前は政といった。
 政の号令一下、秦は諸国を次々と平定し、中国史上はじめての統一国家を打
ち立てた。時に紀元前221年。政は自らを始皇帝と称し、大規模な国政改革に
着手した。
 しかし、地方豪族や辺境の野盗団による小乱は後を絶たず、なかんずく北方
の騎馬民族は脅威の的であった。始皇帝はこれらに対抗すべく、皇帝直属の近
衛兵、すなわち禁軍の中から特に信頼のおける武勇に秀でた12人を選りすぐり
各地方の全軍指揮及び軍備拡充を一任し、同時に王を名乗ることを許した。こ
れが海王の始まりである。
 漢朝、三国時代、辛亥革命、文化大革命と、有為転変を繰り返す中国にあっ
て、それでも海王の地位が揺らぐことはなかった。時の指導者の頭上には、い
つも海王という名の12の巨星が輝いていた。


 20世紀中頃、一人の青年が海王の末席に名を連ねた。その後めきめきと頭角
を現し、わずか数年で他の海王から師と仰がれるほどの実力者となった。国家
首脳からの信望も篤く、彼を英雄と称える声が民の口から途絶える日はなかっ
た。烈海王様バンザイ、と。
 烈海王には息子がいた。小龍と名づけられた少年は、八歳という若年にして
将来を嘱望される程の拳才を開花させつつあった。武名高き白林寺で鍛錬に明
け暮れる日々を送る。
 同年代の門下生にはほぼ負け知らずの小龍だったが、どうしても勝てない相
手が一人いた。金蓮という名の、小龍より一つ年上の少女である。翡翠の珠の
ような美少女であったが、拳の腕は立派なもので、小龍などは何度も当て身を
食わされて地に這いつくばった。
 それでも、稽古が終われば二人はよく一緒に遊んだ。金蓮の父親は烈海王の
副官であったのだが、大人の世界の階級差など、二人は考えたこともない。年
上の金蓮は小龍を『龍ちゃん』と呼び、小龍の方でも決して同門の稽古仲間と
いうだけではない、暖かで不思議な感情を金蓮に抱いていた。
 よく晴れた五月の夕方、二人は河原で石ころを集めていた。変わった形の石
や綺麗な色の石を見せ合って、得意げになったり悔しがったり、それでも結局
はお互い笑って次の石を探し始める。
 小龍が戻ってきた。両手を後ろに回して、自信満々の顔つきである。訝しげ
な金蓮の鼻先に突きつけた手のひらには、大きな翡翠が乗っていた。これを金
蓮にあげるという。
 金蓮が翡翠を受け取り、燃えるような夕日に透かし見た。青緑や紫の輝きを
うっとりと眺め、小龍に目を戻してアリガトウと言った。金蓮の笑顔に、小龍
の頬も夕日のように紅に染まった。
 日が暮れる前に河原を後にした。小龍の母に夕食に呼ばれていた金蓮も、小
龍と共に家路についた。


 小龍の家は燃えていた。夜空に火の粉を巻き上げ、屋根まで覆った炎が熱風
となって吹き付けてくる。母親の名を叫び、小龍が崩れかかった玄関から家の
中に飛び込んだ。慌てて金蓮もその後を追う。
 大量の煙に咳き込みながら、奥へと進んでいく。炎の熱など感じないといっ
た必死の形相で、母親の姿を探し求める。
 母親は、台所にいた。大きな血だまりの中にうつ伏せになった母親を小龍が
泣きながら抱え起こすと、左肩から右脇腹にかけて大きな傷口が広がっていた。
明らかに刀創である。母親はこときれていた。追いついた金蓮も、その場にへ
たり込んだ。
 一体誰が? 何のために!? 絶望と怒りに我を忘れた小龍の頭上で巨大な
梁が燃え崩れ、小龍目がけて落下した。危ない!
 思わず目を覆った金蓮が、指の間から様子を窺った。小龍は無事のようだ。
梁は空中で静止したままである。その下で、男が両手で梁を支えていた。
 烈海王だ。一家の危機を察知したのか別の用事があったのか、とにかく中国
の武の象徴として各地を飛び回っていたはずの烈が、今ここにいる!
 手の平からブスブスという音がして、肉の焦げる匂いを放つ。そんな火傷を
物ともせず、梁を支えたままの烈が小龍にやさしく微笑みかける。父親に抱き
つこうとした小龍の目の前に、突如ぶ厚い刃が突きつけられた。刃は、父の胸
板から生えていた。
 最後の力を振り絞り、梁を小龍の後方に投げ捨てる。口から血の塊を吐き、
烈はそのまま膝からくず折れた。烈海王の最期である。
 烈の背後の人影が、刃を引き抜いて烈を蹴倒した。邪悪な笑みを浮かべたそ
の顔を見て、金蓮は心臓を鷲づかみにされたように硬直した。烈海王の副官、
すなわち金蓮の父親だった。
 金蓮の姿に、かすかに動揺の色を見せた副官だが、すぐに視線を小龍に戻し
て青龍刀を握りなおした。烈の後釜を狙う副官としては、烈一族を一人も生か
しておくつもりはないらしい。烈の母親を殺したのもこの男だろう。
 小龍もまた構えた。双眸に復讐の炎を燃やし、副官を睨み付ける。海王の息
子にして拳法の天才児とはいえ、しかし八歳の小坊主を怖れる副官ではない。
委細構わず血濡れの凶刃を振り下ろした。
「小龍、逃げて!」
 これまで何度も味わった金蓮の当て身の感触が、小龍の脇腹に走った。次の
瞬間、小龍の体は宙を舞い、奥の壁に激突した。火勢の弱い区画だった上、土
壁のおかげでダメージはほとんどない。
 今まで小龍が立っていた場所には、金蓮がいた。副官の振り下ろした刃は、
金蓮の左肩から腹部までを袈裟懸けに斬っていた。
 金蓮はゆっくりと小龍を振り向き、ゴメンネとつぶやいた。河原で聞いたア
リガトウとは違う、哀しみに満ちた声だった。真っ赤な血の糸を引いて、金蓮
は倒れた。
 金蓮の服のポケットから何かがこぼれて、小龍の目の前まで転がってきた。
河原で烈が拾った翡翠だ。烈はその翡翠を固く握りしめ、我が子を手にかけた
ショックで呆然と立ち尽くす副官の脇をすり抜け、玄関に向かって走り出した。


 近隣一帯の家々を巻き込んで、紅蓮の炎は夜半まで燃え続けた。その光景を
小龍は裏山から見ていた。
 副官の護衛兵からは逃げ切ったのか、それともまだ追ってくるのか。当の副
官自身は脱出したのか、焼け死んだのか。
 そんな事はどうでもいい。かけがえのない人たちを一瞬で失った小龍に残さ
れたのは、手の中の翡翠ただ一つだった。翡翠が握られていた。月光に淡く輝
く翡翠の奥に、三人の笑顔が浮かんでは消えた。
 父上、母上。
 そして、金蓮。
 副官はきっと生きている。そして俺も、きっと生きて戻ってくる。その時を
楽しみに待っていろ。
 涙の雫が翡翠にはねた。小龍の姿は、街とは反対の方角に消えていった。


 数年後。政府公認の武術大会において、海王に昇格した副官が若干15歳の少
年に無様な敗北を喫した。醜聞の噂の絶えない上に、海王の名をいちじるしく
汚した副官を政府はただちに罷免、国外に追放した。
 空位となった海王の座には、伝説の海王の息子であるこの少年がついた。
 二代目烈海王の誕生である。


続く
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