聖書の暗号や、それに類する主張に対しての反論

リップス・ウィツタム論文に対する学問的反論もいくつかインターネット上で読めます。

以下に、サンプルとしてひとつリンクを載せておきます。

Gil Kalai による反論

リップス・ウィツタム論文では、第1実験で、まず34人のラビを扱い、 第2実験で、別の32人のラビを扱っているのですが、第1実験と第2実験の確率の数値が近いことから、少なくとも第2実験で、恣意的な操作が行われていて、実験自体が無効であることを証明しようとしたものです。

正直なところ、私自身が数学の専門家ではないので、数学の議論となると、ことの 真偽は判断しかねます。

もっとも、この問題の要点は、数学自体の難しさではありません。これは、いわば 統計学の分野ですから、統計の基となるサンプリングが公正に行われているかどうかが、最大の論点となってきます。
これについても、ラビの名前の綴りや、タイトルの選び方まで含めて公正かどうか 調べなければならないわけで、中世のユダヤ教史の知識まで必要とされてきます。 この点でも、リップスたちの手法について、いろいろとクレームがついていますが、 ここでは立ち入りません。


難しい議論よりも、むしろ、ここではオーストラリアのマッキーという数学者のアプローチのほうがわかりやすいので、以下、リンクを載せておきます。

Brendan McKey On Torah Codes

この中には、リップスたちとの学問的な議論も載っていますが、 わかりやすくておもしろいのは、「聖書の暗号」の著者であるドロズニンのチャレンジに対する答えです。

ドロズニンは、彼にケチをつける人たちに対して、「もし、白鯨(有名な小説)の暗号で、ラビンの暗殺が予言されていたら、彼らを信じる。」と言ったので、 マッキーは、白鯨をテキストにして、ラビンどころか、ガンジーやケネディーや、 その他多くの暗殺を「予言」しているものです。
「白鯨」は英語ですから、子音字だけで構成されるへブル語のテキストより、ずっと「暗号」の見つかる率は低いはずですが、 実際は、いくらでもこのような例が見つかるということは、ある程度の分量のあるテキストからは、 任意の等距離文字列の組み合わせは、いくらでも見つかるわけで、 なにも、聖書に限ったことではないということです。

なお、こおマッキーに対する再反論については、こちら(New!)をどうぞ。

言うまでもなく、このような、「任意の」文字列を見つけるやり方は(ドロズニンに限らず、他の本もそうですが)、統計学的にはまったく無効です。
文字列のサンプリングは、あくまで、無作為であって、しかも、実験の前に確定していなければならないからです。(そうでなければ、見つからなかった文字列には触れないで、見つかった文字列だけを取り上げることになるからです。)

要するに、このような「主観的」暗号と呼ばれるものは、暗号でもなんでもなく、 単なる言葉あそびにすぎないことは、歴然としているということです。


このようなものに、真面目なクリスチャンまでが首を突っ込み、「神の指」や、 「イエス・ファクター」などといった本まで出版され、しかも、伝道の材料に使われているというのは、 実に悲劇と言うか喜劇と言うか、困ったものだと思います。

すでに、多くの危惧の念があがっていますが、ひとつのリンクを紹介します。

ウリ・マルコスによる警告

これは、あるメシアニック・ユダヤ人(イエスをメシアと信じるユダヤ人)による 警告ですが、「主観的暗号」の無意味さについてだけではなく、「客観的」といわれるリップス論文や、それを積極的に用いている団体、アイシュ・ハトーラーの意図などについても疑念が提出されており、さらにはラビン暗殺の影にまで考えさせられる文章です。


こういった資料を見てくると、結局、聖書は普通に読むべきだというのが結論のようです。
暗号に関する日本語の本についての書評がのっているサイト(2000-8-2)