天使ガブリエルは神の言葉を伝える天使。女性として表されることが多いとされるため、ここでは名前も女性形です。神の言葉は人の言葉ではなく、人の言葉に完全に写すこともできません。したがって、それは、なんら思わせぶりな表情も象徴的仕草もなく、瞬間の中に立ち現れるはずです。
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不信は自分自身へと反省的意識を向ける機会となります。媒介し伝達するものの抱く不信は、伝達そのものの自覚を引き起し、伝達と伝達されるはずのものとの分離をもたらします。この状況の下では、瞬間の中で融合する経験も、怪しげで狂気にも似たものとなり、彼の世界とこの世界との断絶(つまり「悪」)の意味論が現れてきます。
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神の言葉を人の言葉へと伝える人間として、予言者が現れます。予言者は人間であって天使ではなく、
神の言葉を想起させるという人の言葉も、ある人には瞬間における融合の幸福を感じさせるものであっても、他の人には支離滅裂な狂人の言葉にも見えかねないのは、ある意味では当然のことといえます。聖母とその子は、大きく人間の側にずれ込んできつつも、彼の世界とこの世界を結ぶものとみることができます。
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天女は空を飛ぶことからみても、天使と同じ起源を持つものと推測できます。天女は、常に神の側にある天使とは異なり、ときとして人の世界にも現れ、帰ることができなくなったりもする存在です。神の世界でのことも、人の世界でのことも、すべてを背負い込んで、さまざまな記憶に思いを馳せるときの静かな哀しみ。
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地蔵は天上界に招かれながらも、多くの苦しみと悲惨を抱える人々のために、その人々のもとに留まることを選択した菩薩といわれます。融合の不可能を知りながら、敢えて境界に留まるということ。この世の人々にとっては、地蔵菩薩は天上界の存在と救済の証であり、慈愛と保護の象徴といえます。
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かかしの原型は、稲刈りの後、田んぼに一列に杭を打ち並べ、そこに稲藁をかける形の藁積みと深い関連があると考えます。この型の稲藁積みが行列のように一列に並ぶ様子は、祭の時期に眷属を引き連れて訪れるという祖先霊(後には田の神)の姿を連想させます。この稲藁積みは儀式のための贄でもあったでしょうが、来訪してきた祖先霊が取り憑く仮の身体でもあったでしょう。来訪した祖先霊は、邪霊が稲の生育を妨害することを抑え、豊作を妨げないように邪霊との盟約を交わして去ります。米が実り始める頃、祖先霊の似姿を立てることによって、邪霊達に祖先霊の威力を思い起こさせ、盟約の履行を確実なものにしようとしたのが「かかし」なのではないか。すると、「かかし」はあの世(常世の国)から人の世に豊かな実りをもたらす田の神たる祖先霊の姿ということになります。
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