三線建設の内容

その軍事的プロジェクトとは?

 もともと第三次五カ年計画では軍事を最優先させる国家プロジェクトは組まれていたわけではなかった。大躍進運動の1に重工業(製鉄)2に国防3に農業と軽工業重視政策の失敗教訓を活かし、1に農業と軽工業2に国防3に重工業として行われるはずだったが、毛沢東の三線建設の大号令によって農業、文化教育、インフラ投資を圧縮した国防優先の第三次五カ年計画の改正草案が提出された。
 基本的には、鉄道インフラを敷設し、その沿線を中心に、都市ごとにそれぞれことなったプロジェクトを割り当てたように見える。具体的には重慶に軍事工場、攀枝花に製鉄所、西昌に宇宙センター、コ陽に機械工場といった通りである。
 三線建設の究極の目的は、対外戦争に備え内陸部に後方支援地帯をつくる。万が一沿海部が壊滅的な打撃を受けても内陸部で抵抗できるようにすることである。そのため内陸部の開発はあらかじめ戦争が内陸まで波及してきたときのことを想定して開発がなされた。まずなされたのは沿海部の工場、技術者の内陸移転である。これは戦争で沿海部が壊滅したときのことを想定した典型である。内陸部に産業、技術者が少なかったので、産業未発達の地域に無理やり産業を持ち込んだ。地域格差是正と言ったら聞こえがいいが、効率の面で良いとは決していえない。当時の固定資産投資の大半が工場移転に用いられたという。また移転先がインフラ未整備な山奥に配置された工場が多く、移転しても機能しなかった工場がほとんどだった。これらはすべて"大分散、小集中"の原則によって行われたからである。"大分散、小集中"は大都市を建設せず、工場は山間に設置し、分散し、隠蔽し、特殊で重要な工場の重要設備や生産ラインは洞窟の中に入れることを意味している。攀枝花の製鉄所はその典型といえる。四方を山に囲まれた天然の要塞に新たに建設された。
 しかし、文化大革命が発動されたことにより三線建設を実際に指揮していた西南建設委員会副主任の彭徳懐らが失脚し、三線建設を統括するシステムが崩壊し、各地域の開発はバラバラになってしまい、多くのプロジェクトが中断され、工場の生産ラインは停止した。
 後に中国の中心人物となる葉剣英、陳毅らは経済政策を優先する提案をするが、毛沢東、林彪の当時主流派に押し切られ、文革の中軍備増強は続行された。しかし、社会インフラを重視しないその開発は、戦争に即座に対応できたとは言い難い。三線建設が本当に戦争目的だったのかはわからない。


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