のび太は、待合室で漫画雑誌を読みふけっているケンシロウを指さした。
「そこのアンタ。漫画なんか後回しにして、ちょっとこっちに来なさい」
「はいー?」
のび太に呼ばれたゾンビのケンシロウが、飲みかけの缶ジュースをテーブル
に置いて歩いてきた。セワシに言いたいことを言ってしまったので、ケンシロ
ウはもうこの雀荘には用はない。漫画を読み終わったらさっさと帰って、荒廃
した居酒屋の復興を夢見てクソして寝るつもりだ。
「なんすか? もう家に帰ろうと思ってたんすけど」
「どっかで見た顔だと思ってたら、あんたドラえもんのビデオレターに映って
た居酒屋の店員だろ」
ケンシロウのぶったるんだ発言には取り合わず、のび太は言った。うすぼん
やりとのび太を見つめていたケンシロウの顔が、その時パッと華やいだ。
「ああ、あの時の! ということは、アンタがのび太さん?」
「そうだ、僕が野比のび太だ! 僕の顔を見忘れたとは言わさんぞ!」
「見忘れるも何も、のび太さんのツラ拝むのはこれが初めてっすから」
「うっさいボケ! 僕一人をのけ者にしてさんざん居酒屋で盛り上がってくれ
ちゃったあの時の怨み、今こそ晴らしてやる! いいからそこに座りなさい!」
のび太に言われるまでもなく、ケンシロウはのび太の上家に座っていた。白
い光を放つ照明の下で、胸の七粒のトウモロコシが一瞬黄色く輝いた。
「そっすよね。偉そうに麻雀講座までやっておいて雀荘では打ちませーん、帰
りまーす、では済まされないっすよね」
「ビデオのアンタは、ピストルを口にくわえて泣き叫んで命乞いをしていただ
けだけどな」
「それがカッコイイんじゃないっすか! ゾンビの名にかけて、最高にイカし
た麻雀打つっすよー!」
「ゾンビでもモスビーでもいいから、さっさと始めようぜ」
ケンシロウの闘気が炎となった。天に煌く四つの将星が、乱世の覇権をかけ
て今、激突する!
東一局、ドラは
。起家のドラえもんの第一打、
。ケンシロウは笑顔で
ドラえもんに話しかけた。
「自分ね自分ね、実はアカギの中学時代の同級生なんすよ」
「ふーん。分かったからさっさとツモってね」
アカギはすでにツモを終え、ケンシロウのツモ番だった。ケンシロウはドラ
えもんの無愛想な返事に動じることもなく、ツモ山に手を伸ばしながらトーク
の矛先をアカギに向けた。
「ホント、アカギに会うのも久しぶりっすねー。元気だった?」
「まあな」
これまたにべもない受け答えのアカギだが、ケンシロウは一向に気にしない。
ツモ牌をロクに見もせず切り捨てて、会話を続けた。
「いま何やってんの? 麻雀でメシ食ってんの? アカギってタイトルの麻雀
漫画が売ってるけど、あれのモデルってやっぱりアカギ?」
「さあな」
「はははは、違うに決まってるっすよね。アカギはあんなにアゴはとんがって
ないっすもんね」
「ああ」
「アカギが転校した後、校庭にアカギの銅像を建てたんだけど知ってた?」
「いや」
「建てたはいいけど素材がサツマイモだったから、カラスが突っついて一日で
なくなっちゃった。アカギにも見せてあげたかったなー」
「そうか」
「こないだね、アカギに一番しつこく言い寄ってた女子とバッタリ出くわした
んだけど、どこで会ったと思う?」
「リーチ」
「はずれー。なんと歌舞伎町のゲイバーで……え? リーチ?」
いつの間にやら九巡目だった。ケンシロウは独り言に限りなく近いお喋りを
一旦やめて、アカギの捨て牌を見た。









「いやーリーチか。アカギは相変わらずクソみたいな麻雀打つねー」
ケンシロウは見苦しいイチャモンをつけながら、自分の手牌を見た。












←ツモ
無駄話の片手間に麻雀を打っていた割には、キッチリテンパイに仕上げてい
る。
を切れば高目ピンフリャンペーコー、現物の
を切ればチートイツの
テンパイだが、ドラもなにもない1,600点まで手は落ちる。
「こんなの考えるまでもないっすよね。麻雀でいくら振り込んだって別に死ぬ
訳じゃないんすから、こっちを切るに決まってるっすよ!」
さすがアンデッドは言うことが違う。白魚のような指先で
をつまみ上げ
て、しなやかなフォームで河に放擲しようとした、その矢先。
「待てーい!」
ケンシロウの背後から伸びた大きな手が、ケンシロウの腕をつかんだ。爽や
かに振り返ったケンシロウの目の前にはギョロ目とゲジ眉とバカアゴと、そし
て眩いばかりのハゲ頭があった。
「アカギ相手にそのようなヌルい牌を切るなど、この江田島平八が許さーん!」
アカギにボロ負けのショックからようやく立ち直った江田島店長が、ケンシ
ロウの明日なき暴走に待ったをかけた。江田島はなおも吼えた。
「アカギのリーチは、貴様の首を狙う死神の鎌だと思え! 貴様の持っている
は、死神に唯一抗する光の盾だと知れ! 盾を捨てれば貴様は死ぬんじゃ!
麻雀に命一つ賭けられぬ腰抜けに、ノースウエストの敷居をまたぐ資格はない
んであーる! 分かったか! 分かったら、ワシの袴の裾を捲り上げてキンタ」
「余計なお世話っすよー」
ケンシロウが軽く腕を振り回すと、江田島の巨体はピンポン玉みたいに吹っ
飛んだ。
「むごー!」
江田島は壁に激突した。江田島の豪腕によって無数の客の人型を刻み付けて
きた壁面に、江田島自身の人型が新たに加わった。ケンシロウの背後で揺らめ
いていた江田島の残像がフッと哀しげな笑みを浮かべて、消えた。
「切る前に
だって言われちゃったら、切るしかないっすよね。えい」
そりゃそうだ。江田島のバカに正体をバラされた悲劇の
を、ケンシロウ
は腹ボテのソープ嬢のように簡単に切り捨てた。
「ロン」













「メンタンピン一発イーペーコー。8,000点」
「はいよー」
をロン牌と睨んだ江田島の読みは見事に的中した。振り込んだケンシロ
ウは8,000点を支払ったが、別に死んだりはしない。こちらもケンシロウの宣
言通りだ。ケンシロウと江田島のファーストコンタクトは、まずは痛み分けと
いったところか。
「全然分けてないんじゃー!」
江田島は壁から体を引っぺがした。腕力で負けた屈辱と怒りで、体中の傷口
からジェットのように血を吹き出している。
「痛いのはワシだけなんじゃボケ! こんな不公平は断固許されんのじゃボケ!
貴様も痛い目に合わせないと気がすまんのじゃボケ!」
ボケを連発して、血煙でムンムンの頭頂部をケンシロウに向けて突進した。
「ボケさらせー!」
カプッ。
ケンシロウの大きく開けた口が、江田島のキンカ頭にザックリと歯を立てた。
その刹那、時が止まった。前傾姿勢のまま微動だにしない江田島の流血が赤か
ら緑に変わり、双眸が狂ったような光を放ち出し、口から瘴気を吐き出して、
「ごがー!」
江田島、ゾンビの仲間入り! 正気の時でさえ世間から危険人物呼ばわりさ
れた暴力と唯我独尊の化身が、ゾンビの力にものを言わせてメチャクチャに暴
れ始めた。もう誰にも江田島を止められない!
「さ、麻雀の続きっすよー」
ケンシロウに止めるつもりは毛頭ない。他の三人にも全然ない。素知らぬ顔
で東二局の闘牌を開始した。
「ケンシロウ君、ケンカ強いねえ。一体どうしちゃったの?」
「自分はゾンビっすから!」
ドラえもんとケンシロウの何気ないやりとりの横で、野太い悲鳴があがった。
「ほげー!」
ジャイアンの声だ。ジャイアンもゾンビになったらしいが、四人は粛々と麻
雀を続けた。
「チー!」
「のび太さん、いきなりドラがらみのチーすか? 参ったっすねー」
「へへへ。僕だってやられてばっかりじゃないんだぞ! 見てろよ!」
「悪いな。ポンだ」
「ざーんねん。ポンとチーがかぶった場合はポンが優先だから、のび太くんの
チーは無効だよ」
「あー! アカギさん、そりゃないよー!」
「ククク……」
「ばおー!」
ISAMIが絶叫した。刃物を持ったキチガイがゾンビになった。
「リーチだコンニャロ!」
「へー。のび太くんのクセにリーチか。チーしなくてよかったじゃない」
「うっさい! 一発でツモあがって、ドラえもんに吠え面かかせてやる!」
「そんじゃ、一発を消しとこうかな。チー」
「ひでー!」
「あちょー!」
烈の気合いが大気を震わせた。この男の場合は普段からこの調子なので、声
だけではゾンビになったのかそうでないのかよく分からない。
「カン」
「おー、アカギのアンカンっすか。ひょっとして、その
がのび太さんのロ
ン牌とか、そういう事?」
「ぐほー!」
「うへー! ケツが痛いケツが痛いケツが……ドシー!」
「ククク……」
「カンドラが
だってさ。冗談じゃないよ。アカギがアガったらケンシロウ
君の責任払いね」
「ぐるろー!」
「あはははは。ばははははー!」
「いやーん。げぼはー!」
「なんで自分が責任とらなきゃいけないんすか。まあいいや。
が四枚見え
てんだから、これはさすがにないっすよね。はい、
」
「母さん! 母さーん! ババー!」
「ババアですって!? ボボー!」
「たー! とー!」
「らららー!」
「れれれー!」
「どみそー!」
「SEXー!」
「ローン! リーチ純チャンドラ3、12,000点! イエーイ!」
「やかましっすよー!」
ケンシロウは雀卓をひっくり返した。激しいイラ立ちの相が顔にクッキリと
表れている。
「うるさくて全然麻雀に集中できないっすよ! みんな揃いも揃っていい加減
にするっすよ!」
「お前はハネ満振り込んだのをチャラにしたいだけだろ。いいから12,000点払
えよ、オラ」
「あんなもんは振り込んだ内に入らないっすよ!」
「全然入る。さっさと払え」
ケンシロウはのび太の執拗な催促にも屈せず、声を荒げてまくし立てた。
「こんなやかましい雀荘は初めてっすよ! どうして店長は客に一切注意をし
ないんすか!? あの店長、狂ってるとしか思えないっすよ!」
「店長を狂わせたのは誰だ」
「自分じゃない事だけは確かっすよ!」
ケンシロウはドラえもんの突っ込みを完全無欠に否定した。白を切るのもこ
こまで言い切るとかえって清々しい。
「みんな、外に出るっすよ。落ち着いて麻雀が打てるいい店知ってるんすよ」
「まさか駅前の居酒屋じゃねーだろーな」
「はははは、そんな訳ないじゃないっすか」
「新しい店に着いたら速攻で12,000点払えよ」
「はははは、どーっすかね。さあ、行くっすよ!」
疑いの眼差しのドラえもんとのび太、それにアカギを引き連れて、ケンシロ
ウはノースウエストに別れを告げた。そして明け方の街並みを練り歩いて、駅
前の居酒屋に到着した。
「やっぱり例の居酒屋じゃねーか! こんな廃墟で麻雀が打てるかバカ!」
ドラえもんがケンシロウに飛びついて耳の穴にドライバーを突っ込むが、ケ
ンシロウは平然としている。
「まーまー。場所代だって取られないし、静かでいい環境っすよ。ゾンビの自
分が言うのも何ですけど、はっきり言ってオススメのスポットっすよ」
ゾンビが言うのだから間違いない。と考えているのはケンシロウ一人である
が、別の店を探している時間はない。何はともあれ、ケンシロウと三人は居酒
屋へ通じるエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの扉が開くと、そこは一面の地獄絵図だった。のび太は床に転
がった薬莢を指先で弄びながら言った。
「居酒屋は戦争跡みたいになっちゃってるし雀荘はゾンビのパラダイスだし、
この街はバイオハザードかっつーの」
「のび太くん、そんな文学表現はどーでもいいから、こっちに来て少しは準備
を手伝ってくれよ」
何だかんだ言いつつも、ドラえもんは舞台のセッティングに余念がない。床
のゴミを片付けて、雀卓として使えそうなテーブルと四脚の椅子をフロアの中
央に据えた。アカギがノースウエストからくすねてきた雀牌セットをテーブル
の上に広げて、136牌揃っているか、牌にキズが無いか入念にチェックした。
「はい、みなさんお疲れ様でしたー」
ケンシロウは笑って手を叩いた。汗一つかいていない素敵な笑顔だ。
「お前さては何にもしてなかっただろ」
「そうだ、ひょっとしたらビールがまだ残ってるかもしれないっすね。ちょっ
と見てくるっすよー」
ドラえもんの追求をかわすように厨房へ向かったケンシロウの足が、通路の
中程でピタリと止まった。ドラえもんものび太もアカギも、ケンシロウの視線
の先を追った。通路の奥には重い闇がたれこめるばかりである。
「……誰か、いるんすか?」
能天気なケンシロウが、珍しくシリアスな声音で問いかけた。行く手の闇は
何も答えない。氷のような静けさが未来永劫続くかと思われた、その時。
「きしゃー!」
厨房からラオウ!
「でぶー!」
反対側の便所からハート様! 二匹のゾンビが四人の前に立ちはだかった。
嗚呼、流浪の果てに辿り着いた新天地も、ゾンビの魔の手から逃れることは出
来なかったというのか!
「いやいやいやいやいや」
たちまち元のマイペースな馬鹿に戻ったケンシロウが、テーブルの空いた席
に座った。他の三人はすでに山積みを終え、対局再開を待ちかねていた。
「この人たち、さっきこの店で知り合った自分の友達っすから。なーんも心配
いらないっすよ」
「全然まったく心配なんかしてねーから、さっさとサイコロ振れや。おめーの
親なんだよ」
ドラえもんはそう言って、ケンシロウにサイコロを投げつけた。もう麻雀が
打ちたくて打ちたくてオーバーヒート寸前といった表情である。
「あ、そっすか。もう東三局なんすねー」
「さっきの12,000点は、アンタの点箱から勝手にもらっておいたからな」
「はははは、ウソウソ。そんじゃ始めるっすよー」
何がウソなのかは分からないが、ケンシロウはのび太に莞爾と笑いかけてサ
イコロを宙に放った。そのサイコロが、テーブルの上で目を出すことは遂にな
かった。
「ごげごー!」
ラオウがテーブルを力いっぱい蹴倒した。むき出しになった床の上にケンシ
ロウの投げ上げた二つのサイコロが落ちて、乾いた音を店内に虚しく響かせた。
テーブルと一緒に窓際まですっ転がっていったケンシロウが、テーブルの脚
を持って戻ってきた。暗黒の未来に麻雀の光を灯す、希望のテーブルの成れの
果てだ。
「友達にしては、ずいぶん手荒い歓迎だねえ」
のび太が皮肉たっぷりにケンシロウに言った。無論、皮肉なんぞにいちいち
心を痛めるやわなケンシロウではない。
「まったくっすねー。親しき仲にも礼儀ありって言葉を知らないんすかねコイ
ツラ。お仕置きに、一発キツーイのかましとくっすよ」
テーブルの脚を投げ捨てて、手足の指を鳴らしてラオウとの間合いを詰める
ケンシロウだが、ドラえもんは素朴な疑問を投げかけた。
「あのさ。ケンシロウくんが強いのは、ゾンビになったからなんだよね」
「そっすよ、自分ゾンビっすから」
「あのゴツいのとデブの二人組みは、あれもゾンビなんだよね」
「その通りっすよ。自分がゾンビにしてやったんすよ!」
ケンシロウはグイと胸をはった。七粒のトウモロコシが筋肉の動きに合わせ
て胸の上で躍動した。
「ということは、あの二人もパワーアップしてるんだよね。ゾンビ二匹を相手
にケンカして、ケンシロウくん、勝てる?」
「あ」
気づいた時にはもう遅かった。ラオウの人智を超えたウルトラアッパーが、
ケンシロウのアゴに深々と突き刺さった。
「ぶひー!」
笑っちゃうぐらいに吹っ飛んだケンシロウの体を、ハート様のビール腹が受
け止めた。腹の上でバウンドしたケンシロウに、全米を震撼させたハート様ラ
リアットが炸裂した。
「ひでぶー!」
ケンシロウは断末魔の尾を引いて、再び宙に舞った。先刻のラオウといい、
ハート様は人にひでぶと言わせるのがお好きなようである。
世界中の人々の夢と期待を乗せて、ケンシロウは厨房まで飛んでいった。派
手な激突音がドラえもんたちの耳まで届いて、それきり沈黙が広がった。
「うごらばー!」
数瞬後、沈黙を破る足音と咆哮が入り口のドアを破って押し寄せてきた。ノ
ースウエストのゾンビ軍団だった。そこにラオウとハート様も合流して、陣容
に一層厚みを増した生ける屍の群れが、ドラえもん、のび太、アカギの三人を
ぐるりと取り囲んだ。固い絆で結ばれていた仲間たちの無惨な姿を目の当たり
にして、のび太の心中はいかばかりか!?
「誰でもいいから、メンツに入ってくれよー。麻雀打ちてーよー」
のび太はすがるような目で周囲を見回し、手当たり次第に声をかけた。
「パパ、麻雀やらない?」
「うがー!」
「ああそう、ゾンビなのね。ドラミちゃんはどうかな?」
「げろー!」
「なんでロボットなのにゾンビになってんだよ。ほんじゃジャイアンは?」
「ほげー!」
「ゾンビになってもほげーかよ、芸がねーな。Kくんは?」
「うへー!」
「絶対言うと思ったバーカ。烈くんはどーよ?」
烈がゾンビの輪の中から進み出て、のび太の耳元で囁いた。
「なに? 今日は腰に違和感があるから打ちたくない? 烈くんはゾンビには
なってないの?」
烈はコクンとうなずいた。
「へー、そうなんだ。何で?」
烈は哀しそうに首を横に振った。
「分かんないんだ。じゃあさ、なんでゾンビじゃないのにゾンビと一緒に行動
してんの?」
烈は何の反応も示さない。烈の答えの代わりに、柔らかな音色がのび太の耳
朶を打った。パイプオルガンの奏でる、心に染み入る荘厳なメロディだ。
メロディは厨房から流れてくる。ケンシロウはまだ厨房にいるはずだ。
「のび太くん。メンツも揃わないみたいだし、厨房に行ってみない?」
「そうだね。ケンシロウの奴、向こうで隠れてやらしい事してんのかもしんな
いしね」
のび太とドラえもんは厨房へ向かった。他にすることがないので、アカギと
烈も二人の後を追った。なぜかゾンビ軍団もついてきた。
厨房は光に満たされていた。賛美歌の鳴り響く部屋の中央で、ケンシロウが
膝をついて呆然と虚空を見上げている。駆けつけた全員が、ケンシロウの見つ
める先に首を向けた。
純白のローブ姿の男性が、宙に浮かんでいた。慈愛のこもった眼差しでケン
シロウをじっと見下ろしている。
神々しい、ではない。オリュンポスの頂から舞い降りたかのような、神の御
姿そのものであった。
「て、店長!」
「店長?」
ケンシロウが神の名を呼んだその声に、ドラえもんは小首をかしげた。
「店長って、セワシくんが冷蔵庫に放り込んだあの小太りのオッサン? こん
なにもったいつけた面してたっけ?」
「どっからどう見ても店長じゃないすか! 死んじゃったんすか店長ー!」
大粒の涙を零して泣き叫ぶケンシロウに、神は優しく微笑みかけた。
「死んだのではない。生まれ変わったのだ」
「生まれ変わった? 一体何に生まれ変わったんすか?」
「ゾンビとしての生涯を全うして、私はゾンビの神になったのだ」
「ゾンビの神様? 全然有り難くなさそうだね。ちゃんと服とか洗濯しろよ」
のび太が神のローブをツンツン引っ張って挑発するが、神はそんなことでは
怒らない。
「時にケンシロウよ。そなたの体内にもゾンビの血が流れていることは知って
おるな?」
「もちろんっすよ! 店長が自分をゾンビにしてくれたんじゃないっすか!」
「そうなの? コイツ悪いオッサンだなー」
のび太は神のケツに何度も浣腸を打ち込んだ。神の大いなる慈悲は、のび太
の罪深き愚行をまたも赦した。
「うむ。にもかかわらず、そなたは人であった記憶を失うことなく、正しき心
を保ち続けておる。何故だか分かるか?」
「全然わかんねっす」
「すべての答えは、胸の北斗七星にある!」
神はケンシロウのはだけた胸元を指さした。神の言葉に導かれるように、七
粒のトウモロコシが突如らんらんと輝きだした。
「こ、このトウモロコシに、どんな秘密があるんすか?」
「北斗の星を象ったその七粒のトウモロコシこそ、一子相伝の居酒屋店長の証。
ケンシロウよ、私はこの居酒屋の未来を、そなたに託したのだ!」
「マジっすか!」
ケンシロウはガバとひれ伏した。店長直々の大抜擢を受けた感激よりも、店
長の証を失った神の運命を悟って、ケンシロウは全身を針で貫かれた思いがし
た。
「それじゃあ、店長が完全にゾンビになっちゃったのは、ひょっとしてトウモ
ロコシを自分に譲ってしまったから……」
「気に病むことはない」
神のまとった聖なる光が、ケンシロウの影をひときわ強く照らし出した。
「新たな時代が動き出す、その瞬間を見届けることができた。私はそれだけで
幸せだ。ケンシロウよ、お客様を愛する、いい店長になれよ」
「店長ー!」
わななく腕を神に差しのばしたケンシロウに、のび太が尋ねた。
「ところでさ。そのトウモロコシって食えるの?」
「そりゃもちろん食えるっすよ。だってこれコーンバターなんすから」
「どれどれ」
のび太はケンシロウの胸からトウモロコシを一粒はがして口に入れた。
「ああホントだ。こりゃ駅前居酒屋のコーンバターに間違いないね」
「のび太さん、一粒だけでお店まで分かっちゃうんすか? 通っすねー。自分
も食っちゃおうかな。腹減ったし」
ケンシロウとのび太はコーンバターに舌鼓を打った。あっという間に七粒全
部なくなった。
「ケンシロウ、店長クビー!」
怒れる神の裁きの雷がケンシロウに落ちた。
「ぐはー!」
神はケンシロウにペッと唾を吐いて中指を立てて消えた。ケンシロウは意識
を失った。
「ユリアー!」
ケンシロウは跳ね起きた。どうやら気絶している間に客室フロアに運ばれた
ようだ。ケンシロウは額の汗をぬぐって大きく息を吐いた。
「なんだ、夢っすか……」
「ユリアって誰だよ」
背後からドラえもんの声がした。店内には何台ものテーブルが整然と並び、
ゾンビと人間とロボットが種族の垣根を越えて仲良く麻雀を打っていた。
「自分だって知らねっすよ。豚の名前か何かっすかね?」
ケンシロウは答えた直後に、バネ仕掛けみたいに立ち上がった。
「そうだ、店長は!? 本当に死んじゃったんすか店長ー!」
ケンシロウはしばらくテーブルの合間をバタバタ駆け回り、やがて厨房の冷
蔵庫に一目散にすっ飛んでいった。
「あのさ。ケンシロウ君が完全ゾンビにならなかったのって、トウモロコシの
おかげだったんだよね」
「そうだね、店長のオッサンがそう言ってたね」
「トウモロコシは無くなっちゃったけど、ケンシロウ君はまだ正気みたいだね。
どうしてなんだろう」
「さあ。バカだからじゃねーの?」
「そうか! バカだからか!」
のび太は麻雀牌の匂いを嗅いでいる烈を見た。
「烈くん聞いた? バカはゾンビになっても正気のままなんだってさ。だから、
きっと烈くんもゾンビになってるんだよ。仲間外れにされてた訳じゃないのさ。
よかったね!」
烈は麻雀牌に天ぷら粉をまぶしながらコクリとうなずいた。
「みんなー! これ見て下さいっすよー!」
ケンシロウがわめき散らしながら帰ってきた。つくづくうるさい男だ。ケン
シロウは小さな包みの紐を解いて逆さに振った。すると包みから小さな黒い粒
がいくつもこぼれ落ちた。
「冷蔵庫の中にこの包みがあったんすよ。中身はなんとスイカの種っす!」
「スイカの種ぇ?」
のび太がうさん臭そうにケンシロウの言葉を反芻した。
「そうっす、スイカの種っす! きっと店長の生まれ変わりに違いないっすよ!」
「店長は神に生まれ変わったんだろーが」
「だからさっきまでは神だったけど、その後スイカの種に生まれ変わったんす
よ!」
「ふーん。ものすごく格落ちしちゃったんだね。可哀想に」
「店長のメッセージ、確かに受け取ったっすよー!」
ケンシロウはフロア中央のテーブルを対局中のゾンビごと蹴散らして、床を
手刀でほじくり返した。そして耐火建材のむき出しになった床の穴にスイカの
種を一粒落として、粉々になった床のタイルを上からふりかけた。
「種が芽吹いて茎を伸ばして、やがて立派なスイカを実らせる。今は荒れ果て
た死の土地だけど、いつの日か緑豊かな居酒屋を復興させてみせるっすよ!」
「居酒屋に種を撒いてどうすんだよ。だいいち芽なんか出る訳ねーじゃねーか」
「そんなことないっすよ! だってこの種には」
ケンシロウは窓際に歩み寄って、窓枠に手をかけて天を仰いだ。
「店長の熱い思いが、こもっているから……!」
「アホか」
「便所サンダルシロウ! ここにいたか!」
入り口の自動ドアが開いて、セワシが店に入ってきた。そういえば、ゾンビ
軍団にセワシの姿はなかった。フライパンとワイングラスで完全武装を施して
徹底抗戦の構えである。
「ゾンビに堕して人心を脅かす便所サンダルシロウめ! このセワシ様が成敗
してくれる! 尋常に勝負だ、さあ来い便所サンダルシロウ! どうした便所
サンダルシロウ!」
「だから便所サンダルシロウじゃないっすってば。えい」
ケンシロウはセワシに噛み付いた。セワシの頭の上のワイングラスが床に落
ちて、涼やかな音を立てて割れた。
「むじょー!」
セワシはゾンビになった。セワシの孤独な闘いは終わった。
「セワシくーん! アカギさんの卓がメンツ割れしてるから、今すぐ入ってお
くれよー!」
「むじゃー!」
ゾンビのセワシは嬉々としてアカギのテーブルについた。一度は灯の消えた
居酒屋に、象牙の牌の軽やかな音と活気溢れるざわめきがこだました。
「エドゥー」
「ISAMIさん、それじゃポンだかチーだか分かんないよ。キチンと発声しろよ」
「エドゥー!」
「分かった! ポンは認めるから刀はしまえ! 危ない!」
人々の息吹と未来への希望が、ここにはある。自分はこの居酒屋を守るため
に生まれてきた。居酒屋のために闘い、居酒屋のために死す。ケンシロウは決
意も新たに、明け方の空に向かって大きく叫んだ。
「よーし! スイカの種を、撒いて撒いて撒きまくるっすよー!」
「ふしゅるー!」
「その手は
でもアガれるな。フリテンだ」
「ふしゅるー……」
「ククク……」
東の空に太陽が昇った。透き通るような真っ白い光が、徹夜明けの疲れた体
をそっと優しく包み込んだ。
駅前居酒屋に、新しい朝がやって来た。