観客の歓声が控え室にまで聞こえてくる。ミスターはスチール製の椅子に腰
掛けて目をつぶっている。ノックの音がして、入り口のドアが開いた。
「ミスター選手、時間です」
 ミスターは目を開けて立ち上がった。蛍光灯の無機質な光が照らす通路を歩
いて、入場口までやってきた。血と汗と熱狂の臭いに混じって、かすかに花の
香りが漂ってきた。
「コズエ」
 正面スタンドの最上階に梢江の姿を認めた瞬間、ミスターの五感から他のす
べてが消え失せた。手を伸ばせば梢江に届きそうな気がして、グラブをはめた
右手を前に差し出したその時、大音量のアナウンスが場内に轟いた。
「白虎の方向! ミスター選手!」
 ミスターは右手を下ろして、試合場に向かって静かに歩を進めた。
「青龍の方向! アントニオ猪狩選手!」
「ダッシャー!」
 猪狩は試合場の真ん中で、猪狩アライ状態で待っていた。ミスターはズンズ
ン歩いていって、ボウリングの玉を猪狩の股間に投げつけた。
「ダラッシャー!」
 元気いっぱい悶絶する猪狩の髪の毛をつかまえて、アゴが触れあうほどに顔
を近づけて言った。
「バキは」
「私は猪狩だー!」
「そんなことは分かっている。ボクの対戦相手のバキはどうしたんだ」
 猪狩はこの世のすべてが平和になる必殺の笑顔を満面に浮かべて答えた。
「刃牙くんはなー。どっか行った!」
「どこへ!」
「知らん! 梢江くんとラブホのハシゴでもしてんじゃないのか!」
「そんなことがあるか! コズエならあそこにいるじゃないか!」
 ミスターは梢江の座っているスタンドを指さした。その指が何か変なものに
触れた。丸くてちっちゃくて尖っている、人間の乳首のような感触だった。
「このドスケベがー!」
 それはアライの乳首だった。アライのパンチをまともに喰らって、ミスター
は顔面から倒れて地の砂をなめた。アライは震えてはいなかった。体つきもや
せ細った病人のそれではなくて、現役時代と全く同じ筋肉の塊だった。
「父さん! 病気が治ったのか!」
 アライはミスターの前に大きなガラクタを放り投げた。丸太を人の形に組み
合わせて、顔の部分にアライの顔写真を貼っただけの人形だった。
「キサマが父だと思っていたのはこれだ! 私の身代わりロボットだ!」
 絶対にそんなことはない。こんなお粗末なゴミクズと生身の人間を、どうや
ったって見間違える訳はない。
「だったら!」
 アライはミスターを担ぎ上げて試合場を出た。
「これは!」
 通路を走って階段を登って、スタンドの最上階でミスターを下ろした。
「何に見える!」
 梢江が座っていたはずの椅子には、丸太に梢江の写真を貼ったボロ人形が転
がっていた。
「なぜだー!」
 ミスターは頭を抱えて絶叫した。追い打ちをかけるように、アライは一枚の
写真をミスターに見せた。
「あとな、これがお前の本当の母親」
 どの向きから見る写真なのか、初めは分からなかった。縦にしたり横にした
りしている内に、写っているのが人間の女だということが分かってきた。東京
湾に落ちて十年たった自動車みたいな顔をしていた。
「すげーブスだー!」
 いつの間にか猪狩がやってきて、ミスターの後ろから写真をのぞき込んで大
笑いした。ミスターは天地晦冥に陥って、うわごとのように言った。
「何が一体どうなっているんだ」
「よし、説明してやろう」
 アライは猪狩と肩を組んで、ファンに写真を撮らせてやりながら話し始めた。
「お前にボクシングをやってもらいたくて、最初は病気のフリをした。そうす
れば私を可哀想だと思ってくれるかと思ったが、全然そんなことはなかった」
 ミスターは黙って話を聞いている。肩のあたりから微かに湯気が立ってきた。
「だから今度は女で釣った。お前の脳みそをちょっとだけいじくって、刃牙の
彼女とお前の母親がそっくりだってことにした」
 アライは鉄のヘルメットをミスターにかぶせた。ヘルメットは太いケーブル
でコンピューターに繋がっていて、猪狩がキーボードで「お前の母ちゃん、犬
のウンコにそっくり」と打ち込んでいた。ミスターはヘルメットを脱ぎ捨てた。
「そしたら案の定食いついた! お前はやっとボクシングに目覚めてくれた!」
「そして私がバックドロップを教えた!」
 猪狩のバックドロップはボクシングとは関係なかったが、ミスターにはそん
なことはどうでもよかった。ミスターは氷のような表情でアライに言った。
「つまり、ボクはアンタたちのオモチャにされた、という事か」
「それは違うぞミスター! 私はお前の人生を掌の上でもてあそんだだけだ!」
「ミスターくん、梢江くんが見ているぞ! さあ笑いたまえ!」
 猪狩が突きつけた梢江の人形と目が合った。写真の梢江の笑顔が網膜に焼き
付いて、頭の中で炎が渦巻いた。ミスターの心の氷は炎に焼かれて蒸発した。
「キサマらー!」
 ミスターの怒りが爆発した。憎しみを込めて放った拳は、しかしアライには
当たらなかった。アライは鼻くそをほじりながらパンチをかわして、ほんの軽
く手首を返した。
「ブヒー!」
 ミスターはアライのアッパーで吹っ飛んで、試合場の隅でテレビを見ていた
範馬勇次郎に衝突した。
「何すんじゃー!」
 勇次郎は頭突きでミスターを打ち返した。スタンドに戻ってきたミスターは、
今度は猪狩に襲いかかった。
「喰らえ!」
 渾身のバックドロップを猪狩にお見舞いした。しかし猪狩は受け身をとって、
素早くミスターの背中に回り込んだ。
「ダッシャー!」
 猪狩もバックドロップを放った。ミスターもまた受け身をとってバックドロ
ップを返した。
「負けるかー!」
「ダッシャー!」
 バックドロップの無限ループになった。猪狩とミスターはこんがらがって通
路を進んで闘技場の外に出て、駐車場に止めてあった猪狩号の前まできた。操
縦席の扉が開いている。
「ダダッシャー!」
 猪狩はひときわ力を込めて、ミスターを操縦席の中にぶん投げた。衝撃で扉
が閉まって、ミスターは弾みで発射ボタンを押した。猪狩号は鼻とアゴから炎
を吹いて急上昇した。
「さよーならー!」
 アライと猪狩、それに観客全員が、ミスターの旅立ちを見送った。

「乳もませろー!」
 徳川は闘技場に残って、目隠しをして裸の女性たちを追い回していた。笑い
ながら逃げる女性の一人に猛然と飛びついて、胸のあたりの突起を押した。
「これが乳首かー!」
 乳首ではなく、爆弾の起爆スイッチだった。

 澄んだ青空の彼方でドーンという音がした。豆粒みたいに小さな煙の花が咲
いて、風に吹かれてすぐに消えた。その後のミスターの行方は誰も知らない。
 刃牙の行方も誰も知らない。


おしまい


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