広い食堂の大きなテーブルに、二人の人間が向かい合って座っていた。初老
の男は全身が小刻みに震えていて、フォークを何度もテーブルに突き立ててい
る。まったく肉には刺さらない。もう一人の若い男は初老の男に目もくれず、
こちらは普通に食事をしている。
「ミスター! ボクシングをやりなさい!」
 初老の男はロレツの回らない口調で言って、ようやく肉の刺さったフォーク
を若い男の目の前に伸ばした。若い男が飲んでいたスープの皿に肉汁がしたた
り落ちて、白いスープに茶色の染みが広がった。
「いやだ」
 ミスターと呼ばれた若い男はフォークを払いのけて給仕を呼んだ。給仕はう
やうやしく礼をして、スープの皿を持って厨房に下がった。初老の男は口の端
に泡をためてなおも言った。
「お前はモハメド・アライの息子なんだから、ボクシングをやりなさい! バ
キもユージローもコテンパンにしちゃいなさい!」
「ボクは父さんの後を継ぐ気はない。バキにもユージローにも興味はない」
 給仕が新しいスープの皿を持って戻ってきた。皿の上にはボクシングのグロ
ーブが載っていた。給仕はミスターの両手にグローブをはめて上着を脱がせた。
ミスターは黙々とステーキを食べている。
「そうか。それなら私にも考えがある!」
 アライは震えながら立ち上がった。いつの間にかボクシングのグローブをは
めてガウンを脱いでいる。食堂を警備していた黒服の男たちがテーブルと椅子
をどこかへ運び去って、アライとミスターの周りに四本の柱を立ててロープを
張った。ミスターは立ったまま皿を持ってデザートを食べている。
「キサマの嫌いなボクシングで、父の私を倒してみろ!」
 ゴングが鳴った。アライはミスターとの間合いをダッシュで詰めて、世界を
制した黄金の拳を打ち込んだ。
「でやー!」
 ナマコが眠ったようなパンチだった。元ヘビー級チャンプのアライは寄る年
波と病のために、すっかり弱くなっていた。ミスターはデザートを食べながら
アライのラッシュをすべてかわして、食べ終わった皿を床に置いた。
「ふん」
 ミスターは神がかりに強かった。アライはミスターの軽いジャブで壁を突き
破って飛んでいって、反対側の壁から戻ってきてリングの中央でダウンした。
 いつもの親子ゲンカであれば、アライがこのまま朝までぐっすり眠って終了
なのだが、この日は違った。アライはカウントナインで立ち上がって、ヨロヨ
ロとミスターの背中に抱きついた。
「ミスター! ボクシングやってー!」
「くどい!」
 ミスターは何度もアライを振り払ったが、しつこく亡霊みたいにすがりつい
てくる。ミスターはアライにとり憑かれた状態で外に出て、家の近くの裏山に
登って山頂の杉の木にアライをくくりつけた。
「ミスター! ボクシングー! 腹減ったー!」
 アライの体の震えが激しくなって、山全体が大きく揺れた。アライの魂の叫
びは山を下りたミスターの耳にも届いたが、ミスターは聞こえないふりをして
自宅に戻った。

 ミスターはボクシングが大嫌いだった。父親の偉大さは認めるし、自分にボ
クシングの才能があることも分かっている。だが人が人と殴りあうという野蛮
な行為が、どうしても許せなかった。
 母の影響か、と思う。ミスターの母親はミスターが幼い頃に死んだという。
アライも母親の話をしないので、ミスターは母親のことをまったく知らない。
しかし、争いを好まない優しい母親だったと思う。母親のことを考えると、覚
えていないはずの母親の笑顔がいつも脳裏に浮かんだ。しかしこの日は父のア
ライの寂しそうな顔が見えた。
「すまない、父さん」
 ミスターは小さな声でつぶやいて、自分の部屋のドアを開けた。
「さあミスターくん! かかってきたまえ!」
 ドアを開けたら股間があった。黒いビキニパンツに上半身裸の男が、部屋の
中であお向けになって手足を伸ばして待っていた。アゴが異常に長い。
「どーしたミスターくん! 勇気を出して猪狩の股ぐらに飛び込んでこい!」
 アゴがこちらを見て喋った。プロレスラーの猪狩完至だった。


つづく


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