「西田村誌」
昭和30年発刊より
青字は注釈・読み
嵯峨隧道の開鑿もまたきわめて重要な事業であった。 その沿革と事業の大要については、昭和9年4月、西田村役場から開鑿完成を記念して嵯峨隧道沿革略誌という小冊子を刊行して関係諸氏へ頒布したが、これに要を得て記されているのでこれを再録したい。
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嵯峨隧道開鑿起源 嵯峨隧道の開鑿は 宝永6年(昭和9より225年前)(1709) の春大津の住人笹屋弥七氏嵯峨山を開鑿して水月湖の水を日向湖に落し湖辺に新田を得んと計りしに始まる。 然るに其の業竣らず享保20年(1735) の洪水に山崩れありて湖水屡々(しばしば) 氾濫し沿岸の被害多大なりしかば、八村生倉、西田村成出、田井の者等7人組相謀りて再び嵯峨山の開鑿に従う。然れども費用多大にして到底其の負担に堪えず、6人の者は手を引きたりしも田井の赤尾善次唯一人は其の後を請け、赤尾本治郎と協力、数年を費やして遂に 宝暦元(1751) 未年に至り竣成す。然るに其の後崩壊壅(よう) 塞したれば、 寛政2年(1790) に於て川方役所を設け片岡鯨治郎を川方奉行とし、 同3年(1791) 2月晦日より開鑿に従い頂上より切下に着手せるも、 同年6月14日に至り俄かに中止したり(その理由詳らかならず)。其の後開鑿に着手し 寛政11年(1799) 4月16日竣工して水拔(ばつ)成就の碑今に嵯峨隧道の頂上に建立しあり。其の碑に刻せられたる文字左の如し。
此時の工事の顛末詳らかならず。
人夫以外の賃金詳ならず。此の時の工事湖面水平の時6尺の水路となり小艇の通過自由たりしを以て、日向より両湖沿岸の運輸に利すること多大なりしも、当時の器具機械精巧ならず工事亦完全ならざりしかば、漸次崩壊して僅かに水を通ずるのみとなり、明治17年(1884)に於て日向、三方、水月、三湖沿岸の住民は相謀りて嵯峨、浦見、堀切の三水道を浚渫なさむとしたるも、遂に之を果たさずして終る。明治27年(1894)に至り嵯峨隧道愈々閉塞し、三方、水月の両湖氾濫して其の被害少なからざりしかば、沿岸関係村民相謀りて田井、藤本栄吉、鳥浜、増井嘉四郎に浚渫工事の請負をなさしめ、隧道崩壊の箇所より掘鑿をなし、松丸太を以て杭を打ち其の上に松丸太を蓋せて笠木となし土の落下を防ぎ、高6尺巾2間に浚渫して漸く通水するに至る。之に要せし工費並に人夫等に関しては記録なきを以て詳ならず。
三方湖は十村、八村、西田村の三村に於ける田野の降雨聚まりて之に注ぐ、此の雨量と排水口たる浦見川と嵯峨隧道の排水能力を比較するに、其の排水量は注ぎ来る雨量を排出するに足らず、大雨時に於ては湖面の水位5尺(150cm)乃至7尺(210cm)に増嵩し滞水半ヶ月に及ぶこと珍しからず、其の被害甚大にして実に惨憺たるものあり。
嵯峨隧道浚渫以後明治38年(1905)に至る十ヶ年間に水害を受くる事七ヶ年、普通作得を見ること漸く三ヶ年にして到底現状に安んずる能はざれば、関係民相謀りて三方湖辺水害予防組合を設立することとし、数次に亘りて発企人会を開き八村、西田村の両村より、委員を選出して創立を図り明治38年10月29日福井県告示第164号を以て組合設立並に管理者を三方郡長為す旨発表えられたり。今其の区域並びに段別地価等を大字別に記せば左の如し。
創立以来の管理者の職氏名左の如し
爾来管理者は何れも水防に専念し浦見川の浚渫に改修に努められ其の被害大いに減少せりと雖も、嵯峨隧道の排水は依然として意の如くならざれば、其の被害の皆無を期する能はず、如何にしても嵯峨隧道の大改修を為して排水並に舟楫の便益を計らむと努めしも、貧弱な組合にありては到底其の負担に堪えざれば、大正13年通常組合会議に於て左記規程を設け工事費の積立を為すこととせり。
以上の規程に依り毎年蓄積をなし其の限度に達したるも未だ予期の目的に進む能はざれば、昭和3年通常組合会に於て之を左の如く改正したり。
今工事の概要を説明せば次の如し
此の労役使用の人員26,061人3分、23,889円を要したるが、起工以来昼夜兼行工事の進行に努めたり。
上述の如く多年の宿望も暗夜に照明を得たるが如く関係地方民は躍如として之を喜べリ。惟ふに此の隧道の完成により享くる福祉増進は独り農業而巳に止まらず水利上将又交通運輸上の便益はもちろん、之により農村と漁村との連絡は一層其の緊密を加えたり。又四時の眺望絶佳なる三方湖は山紫水明の勝地にして都会人士の一大遊園地たれば遊覧客の出入一入頻繁を加ふべく、春に魁け湖辺の梅花馥郁として水面を覆い桃李の花満開を告ぐるのとき銀鱗躍る鯉魚を友として湖上船を浮べなば一日の清遊に飽き足らざる可し。
夏は青山緑樹の蔭、涼風炎熱を忘れしめ秋は茸狩、紅葉狩、湖上の月の眺一入情趣を味はしむ。本湖の湖畔に此の隧道の開通を見たるは啻(シ・ただ)に通達の利便を与えられたのみならず、風光に一段の精彩を添え湖岸の住民に及ぼす無形の利益亦少からざるなり。
尚、本工事に関し添田代議士を初め直接間接に関係したる諸氏の労苦を深く感謝するものなり。
以上は「嵯峨隧道沿革略誌」昭和9年 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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一、 浦見川に関する工事は已に県費支弁として規程されているものであり、その時に応じて施行されて可なるものである。而も両岸の土質が柔弱であって施行幾何もなく崩壊する虞れがある。かかる常備的に施行の途を認定されているものを、国家の時局匡救事業の中に指定することは、地方の実情を弁えず、徒に形式主義を以てその責任を糊塗せんとするものである。 二、嵯峨隧道こそは二百数十年に渉り、民力を以てこれを改修し来たったものであるが、微力にして効果ある工事を施行し得ず、今以て湖岸の水田は豪雨のある毎に水害を蒙り、三年間に一度の平作収穫を得ることすら不可能の状態である。この嵯峨隧道の通水こそ浦見川の復線工事の役目を果たすもので、これによって湖岸沿400町歩が永年の水害より解放される。この困窮せる農地の匡救と失業者の救済は、この工事を以て一石二鳥の効果を挙げ得る。 三、浦見川工事は巳に決裁の上、内務省に上申済みであり今更変更は不可能だと云われるが、真に時局匡救の趣旨を実行されることが国家官吏の本務と考えられるが故に、形式や面子に捉はれることなく、これを変更して地方民の窮状を匡救して頂きたい。 |
吉田吉兵衛の懇願は声涙共に降り、並んでいる人々の胸を衝いた。強直不覇といはれた大達知事はその真意を諒とし、河川課主任三條技師を招致して更に詳細の説明を聴くと共に左の如き言質を与えた。
嵯峨隧道の改修を時局匡救事業として採諾せよという地元民の実情を諒知した。知事としては地方民の熱望に応えることに吝かでない。此上は更に地方関係民の決意を強固にし、万全の策を講ずることが肝要である。更に内務省に対しては巳に浦見川工事の計画が上申済みであるから、これが変更取消は困難なことと考えるが、君等当事者が上京して内務省の諒解を得ることに努力しなければならない。内務省の承認さえあれば工事の変更は可能である。県としてもその趣旨に応じる用意があるから、急遽上京して内務省との折衝に努力するがよい。
この言質を得た吉田吉兵衛は即日帰郷し、急遽、三方湖辺水害予防組合の臨時総会を招集し、嵯峨隧道改修の方策を協議した。
参集した組合議員の人達はその趣旨に賛成であるのは当然であり、異議を挟む余地はなく、吉田吉兵衛が責任を以て飽迄、県及び政府の採諾を売るよう運動を展開せよと一任するに至った。そこで吉田は再び大達知事に会見の上、上京し県選出代議士添田敬一郎に頼り、内務省をしてこの困難なる申出を採諾させるに至った。吉田はこれが交渉の為に約二週間、東京に滞在して不眠不休の活動を続けたが、その強引と熱情的な駆引は、内務省の役人を驚かしたと云われている。
嵯峨隧道改修工事の施行は時局匡救事業として辛うじて採諾されることには成功したが、その後の事務上の運行、施工上の形式については、幾多の困難が次々と倍加されて行く有様であった。
一、時局匡救事業の工事費は七分五厘を国家が助成し、残り二分五厘が地元負担となる。而してこの責任は町村が主体となるべきが当然であるが、三方湖辺水害予防組合は西田・八村の地主関係者の集合体であって町村会議とは無関係であるから大蔵省の起債認可は得られない。即ちこの事業を西田村の事業として負担関係を承認し、裏面に於いては予防組合の賦課金を西田村に寄付行為を以てして、その償還に充当するということに苦心が払われた。
二、時局匡救は国家の緊急事業であり、臨時国会を八月に開き、九月より十一月までの三ヶ月に凡ての工事計画を樹立し、年度内にその工事の三分の一以上を施工しなければならない条件であったから、県当局としても規模の大きいこの隧道工事が果たして規程通り運行し得るかどうかを危惧し、西田村長渡辺繁、組合議員田邊寛三、吉田吉兵衛を県庁に招致し、左の各項について責任を以て之を遂行することを誓約させられたのである。
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一、工事施工方法。請負者の指名推薦と公入札。三月末日までに工事。三分の一以上の完成。 一、工事施工に際しては全村挙つて労力并に資材を提供し、時局匡救の趣旨に副うよう努力すること。 一、関係地係及隣村より、この工事に対し苦情又は異議を申立てる虞れなしとしないから、これらに対しては事前に諒解を求め、手落ち、手違いのなき様注意し、県当局に迷惑を及ぼさない決意あるべきこと。
一、事故の為、工事費に不足を生じた場合は一応西田村に於いてその責任を負担し県当局に迷惑をかけざること。
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この様な複雑な経緯を経て昭和7年11月、敦賀・宮崎相吉の請負によって着工された。宮崎相吉は本村土木工事については従来義侠的に寄与する處多く、今度の請負に関しても工事完成の暁には応分の寄付金を納入することを確約し、それを実行した。当時、西田村の責任に於いて借入した低利資金は、二回に渉りて総額壱萬九千円であったが、これらの篤志寄付金の援助などあって、関係村民としては大なる賦課金に苦しむことなく、この大工事を受入れることが出来た。
三方湖水逆流防止水門設置
三方湖辺の水害予防対策は、浦見川の改修と嵯峨隧道の貫通といえぬまでも最善の方法が講ぜられ、300年に渉る農民の宿望が一応達成せられた。しかし乍ら、その施工以前から三方湖と日向湖の落差が僅少であり、三方湖氾濫の場合は一応この悪水が日向湖に奔流して、田面の水害は免れることは可能であるが、一面、日本海の潮が増嵩下場合はこの隧道を海水が押寄せてきて、三方湖の淡水に多大の変化を生じ、ここに生息する魚類繁殖に影響することが心配され、次の嘆願書が提出された。
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嵯峨隧道開鑿付帯工事施行ニ関シ嘆願 嵯峨隧道疏水開鑿工事ハ関係村民ハ勿論地方民多年ノ宿望ニシテ是レカ実現ニ御努力アリシハ誠ニ感謝ニタエサル所ニ有之候図ラスモ今般時局匡救土木事業トシテ愈々着工ヲ見ルニ至リシハ御同慶ニ堪へサルノミナラス此ノ事業ノ完成ニ依リ利害関係者ノ直接受クル利益ト幸福ハ実ニ多大ノモノニシテ独リ水害予防ニ止マラス交通ト運輸ニ及ホス便益亦尠少ナラサルヲ思ヒ衷心歓喜シテ感謝ノ念禁スル能ハサル次第ニ御座候然ルニ一難去ッテ一憂来ル世ノ諺ニ漏レス茲ニ我カ海山区漁民ハ苦衷ヲ披瀝実情ヲ具陳シテ適当ノ措置ヲ講セラレンコトヲ嘆願スルノ不幸ヲ悲ムモノニ御座候 抑モ此嵯峨隧道開鑿ノ事タルヤ多年ノ宿望ニシテ之レカ達成ハ誠ニ欣幸ニシテ受クル利益ト幸福ノ多大ナル事ハ何人ト雖モ是ヲ否ム能ハサルハ論ヲ俟タス我等漁民モ其喜ヒヲ共ニスル次第ニ有之候處我海山区ノミ独リ之レカ工事ノ完成ニ伴フ鹹水(かんすい; 塩分の強い水)ノ逆流ニ依リ蒙ル損害ノ多大ナルノミナラス延テ将来ノ生活ニ一大脅威ヲ感スルヲ竊(ひそ)カニ憂慮スルモノニ有之是レカ対策ニ就テハ当時既ニ陳上の次第モ有之候ヘハ適当ノ方策御考慮中ト不安ノ内ニ今日ニ立至リ居候 而シテ工事中日向側ノ鹹水逆流ノ状態ヲ観察スルニ誠ニ寒心ニ堪ヘサル現況ニ有之未タ工事半途ニ於テスラ斯ノ如キ状態ナルニ於テハ工事完成後ニ於ケル逆流ノ状況ヲ観察セムカ到底想像タニ及ハス延テ水質ニ多大ノ変化ヲ来スハ火ヲ観ルヨリモ明カナル事実ト痛切ニ愚考致候
果シテ然リトセムカ海山事業漁業者17戸人口123名ハ何ヲ以テカ口糊ヲ凌カンヤ 以上陳述仕候事情ニ候ヘハ何卒吾等漁民ノ苦衷ヲ御憫察ノ上相当技術者ヲシテ適当ニ鹹水逆流ノ防止ヲ計画セラレ直チニ実行シテ此ノ不安ト惨害ヲ解除セラレンコトヲ茲ニ連署シテ嘆願スル次第ニ御座候 恐惶謹言 昭和八年三月四日
三方郡西田村海山
三方湖辺水害予防組合
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そこで工事半ばに、県の水産試験場から日比谷技師を聘して一週間に渉り、この危険を如何に防止すべきかということを様々の想定の許に調査研究をして貰った。決断はいうまでもなく、高潮が逆流して今迄の淡水は海水を含むから、大いなる異変を生ずることは自明のことであり、これが防止策としては嵯峨隧道の改鑿口に水門を設置し、高潮の場合はこれを閉鎖して海水の逆流を遮断するより外に途がない。即ちこの隧道工事の完成に先立って、この水門を設置して当然あり得べき災害に対処すべきあるというのである。
そこで村当局並に水害予防組合の当事者が緊急、会を開いて、水門設置についての協議を重ねた。然るに水害予防組合議員は、農地の水害を免れんとする一種の地主関係の会合であり、水産漁業については特別の知識も関心もないのは当然であるが、財源が乏しいのと、この大工事の負担について虞れを抱いている折柄、更にこの水門設置に金を消費することを極度に嫌い、殊更に耳を塞いでこれを聴かざる態度を執った。一方、この当然あるべき災害に直接関係を有する湖面の漁業組合に対し、この詳細を報告して、この工事完成に先立ち同時に水門設置を完成するよう協力方を再三申入れを行ったが、経済的に豊富でない漁業組合側は之に対して出資することを極度に嫌い「湖辺の水田の為に設置する嵯峨隧道によって、水質に異変をきたすことある場合は、その全責任は水害予防組合が担当すべきであって、漁業組合の與り知らぬところである。かかる費用の分担は厘毛も受諾することは出来ぬ」という強固な態度を執り、寧ろこの両者が感情の対立状態に終始した。かくて双方水門を設置することを拒否したまま隧道工事は進行したのである。
昭和9年3月嵯峨隧道が完成すると、一時、湖面の水は非常な勢いを以って日向湖に流出し、目に見えて減水したが4月5日以降の嵩潮期になると不意にKライスいが逆流して来て、この濃厚な塩分が中の海を通じて上湖に迄浸入し、予想以上の異変が勃発した。
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鹽(塩)水逆流防止ニ関スル請願 嵯峨隧道開鑿ノ恩恵ニ依リ湖畔ノ水害ヲ除去シ舟楫ノ便ヲ得タルハ常ニ感謝スルトコロナルモ一面ニ於テ鹹水逆流甚敷為ニ既ニ昨年夏期ニ於テ中湖ノ水質変化ヲ来シ魚族ノ斃死スル状態ニ至リ漁業組合等ヨリモ之ガ善後策ニ対シ屡々陳述致シタルガ上湖ニ於テハ何等稲作ニ於テモ被害ヲ感ゼザリシガ本年ニ至リ浦見川ノ改修ト相俟ッテ鹹水ノ逆流一層甚敷為ニ稲毛ノ全ク枯死セル田百数町歩ニ及ヒ既ニ浸水被害田面亦数拾町歩ニ至リ実ニ目モ当テラレサル惨状ニ有之既ニ技師ノ御派遣ヲ乞ヒ実地踏査ヲ蒙リタル次第ナルモ水質検査ノ結果塩化ナトリウムハ千分中ノ含有量2.45532ニシテ硫化水素ハ0.00102ナル為水稲ノ枯死ニ瀕スルハ勿論淡水魚ノ被害ハ当然ニシテ一刻モ早ク防止セサレハ吾等ノ苦衷御憫察ノ上何卒特別ノ御考慮ヲ煩シ一刻モ早ク実地御踏査ノ上之カ防止施設ヲナシ被害ヲ除去シ以テ生活ノ安定ヲ与ヘラレン事ヲ御詮議相成度一同連署ヲ以テ奉懇願候也 昭和拾年六月二十二日
三方湖辺水害予防組合 福井県知事 近藤駿介 殿
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だが、このときすでに時局匡救事業は打切りとなっており、県財政も緊縮方針をとっていたので、救援の途が講ぜられなかった。しかし直接被害者である。農漁村民は自費を投じて、これが対策を講ずる実力も気力もなかった。そこで県農林部、耕地課の指導と援助を懇請して災害復帰工事の名目を籍り、更に農林省の助成を得て、この水門設置を実現しようと奔走した。
この間の苦心は唯ならぬものがあったが、漸く県当局の了解を得て工費七千円の予算の捻出を請け、福井市の土木請負業某に施工の一切を委任した。何分にも緊急の突貫工事であり、僅少なる予算額であるから、請負人としてはその締切り工事に非常な困難を来たし、大なる損失と犠牲を払わしめた。この応急の施設によって、暫定的ではあるが海潮の逆流を塞ぎ、辛うじて水質の変化を柔らげ、田面の被害を軽減し得たことは不幸中の幸というべきであった。
しかし乍らこの工事は火急に応じた拙速主義のものであり、予算も僅少なものであったから、工事完成一年足らずにその弱点が表面化した。即ち水門の閘となる木材は一方が淡水に接し、一方は海水に接するので、この境には俗にいう蟲が這入って腐蝕してしまう。之を科学的に防止する方法は、予算額に制せられた為か講ぜられなかった。これに要する木材も、わざわざ北海道から草槙と称するものを取寄せて取付けて見たが効果は見えず、四年目位になると腐蝕の程度が甚だしくなって、水門の機能を発揮することに不安を感ずるようになった。これらの対策については第一期工事以来、久々子武田組が水利組合の依嘱を請負って施工したが、この困難なる幾多の事情に制約されて工事を貫遂し得ず、相当の損害を蒙って挫折してしまった。
この嵯峨隧道の水門施置工事は苦心の結果、漸く完成してその目的を達成したのであるが、この工事の仮締切りの際に水門の近辺に土砂が集積して残留しているので、これを徹底的に浚渫しなければその使命を完全に発揮することが困難であるから、更に県耕地課に上申して、昭和二十四年度に於いて予算額十五万円余を計上する旨、内示があった。その後引続いて工事を施工する計画もないままに放置されている。
以上昭和30年発刊「西田村誌」より全文転載
尚、昭和9年発行の「嵯峨隧道沿革略誌」が本文中に転載されている
※ 数字は読みやすく把握しやいように変えてあります。
(統一はしていません)
※ 漢字は原文のままですが、字体を変えている場合があります