Shakespeare <結婚ソネット> における主題とイメージの借用について

――ソネット1 番第 2 quatrain に見られる Ovid の影響――

 

野呂俊文

 

 

Ovid's Influence on the Second Quatrain of Shakespeare's “Sonnet I”

Toshifumi Noro

 

 

 

 Shakespeare の『ソネット集』について確実に分かっていることは少ない. 製作の時期について分かっていることは三点しかない. Francis Meres 1598 年に出版した Palladis Tamia: Wits Treasury という本の中で Sh. “sugred Sonnets” に言及していることと, William Jaggard 1599 年に出版した詞華集Passionate Pilgrim の中にソネットの138 番と144 番を収めていること, それに Thomas Thorpe Sh. のソネット154 篇を1609 年に出版したということである. すなわち確実に言えることは『ソネット集』が1609 年以前に書かれたということと, 1598 年にはそのうちの一部あるいは全部が既に書かれていたということである. 『ソネット集』が書き始められた時期についても諸家の説はまちまちであるが, Venus and Adonis (1593) The Rape of Lucreece (1594) が書かれた頃と普通言われている. 1592 8月から1593 年にかけてロンドンに疫病が流行し, ロンドンの劇場が閉鎖されていた間にこれらの物語詩が書かれたと言われている. それと同じ時期にソネットが書き始められたとする説は『ソネット集』とこれらの物語詩の言語とイメジャリーの類似からみても有力である. (特に結婚ソネット群との類似が顕著である.) それに後に述べるつもりだが, Christopher Marlowe (1564-93) Hero and Leander の中のイメージを Sh. は明らかに借用している. この作品は1593 年に Marlowe が居酒屋での喧嘩で殺されたため未完に終ったが, 生前既に原稿が仲間の間で回覧されていたと考えられる. すなわち Marlowe Hero and Leander よりも後に Sh. のソネット (少なくとも影響が認められるソネット) は書かれたと言うことができる. しかし『ソネット集』全体の正確な製作時期についてはっきりしたことを言うことは今の所できないと考えられる.

 私たちが今日目にする Sh. のソネットの基になっているのは先に述べた1609 年の Thomas Thorpe の版であるが, このテキストにしても Sh. の校正を経ず, 恐らく Sh. の承認を得ないで Thorpe が勝手に出版したのであろうということについても諸家の意見は一致している. したがって154 篇の配列順序にも問題があり,「まるで作者が揃えておいた自作のイロハかるたを, 印刷工が過って床に落としてしまい, あわてて大ざっばに揃えなおして, そのまま印刷してしまったかのような感じがするほどである」という意見も見られるくらいである.[1]   Dover Wilson は彼の編集した『ソネット集』の序文に於いて,  36-39 番の位置には問題があるとし, また75 番は52 番の後に来る方が適当であり, 77 番と81 番は Rival Poet についての一連の詩の間に割り込んでいると述べている.[2]   このような次第であるから, 154 篇が sonnet sequence であるのかそれとも単なる collection に過ぎないのかということが問題となる. 154 篇全休の雰囲気には確かに一貫したものがあり, また主題にも統一が見られるが, 全体に渉る一貫した物語を引き出すことはなかなかむつかしい. 勿論物語らしきものは存在するが, 詳しく見れば各詩相互間に矛盾があることが分かる. しかしこの問題に関してはここでは立ち入らない.[3]   154 篇の中には明らかに sequence を成している詩群が存在することもまた事実である. 例えば27 番と28 , 44 番と45 , 57 番と58 , 63 番から65 番にかけて, 97 番から99 番にかけてなどはそれぞれ linked sonnets であることが Edmund Chambers によって指摘されているし,[4]  Dover Wilson はそれに36 番から39 番にかけてのソネットを付け加えている. その他全体的に見た場合, 1 -17 番の貴公子に結婚を勧める主題の詩群は126-152 番の Dark Lady に関する詩群と共に明白な sequence を成している. この試論では1-17 番の <結婚ソネット> と呼ばれている詩群の主題とイメージの借用について, そして特にソネットl 番第2 quatrain に見られる Ovid Narcissus のイメージを中心に考察を試みたい.

 

 

I

 

 ソネット1 番で詩人は年少の貴公子に向って, 美しいものからその美が絶えないで子孫に受け継がれることを望むのが人の常, しかるに君は自分の美貌に心奪われてその美を一代で絶やしてしまおうとしている, 世間の人々を憐れんで結婚して子孫を残すことによって美を伝えよ, と説く.

 

From fairest creatures we desire increase,

That thereby beauties Rose might never die,

But as the riper should by time decease,

His tender heire might beare his memory:

But thou contracted to thine owne bright eyes,

Feed'st thy lights flame with selfe substantiall fewell,

Making a famine where aboundance lies,

Thy selfe thy foe, to thy sweet selfe too cruell:

Thou that art now the worlds fresh ornament,

And only herauld to the gaudy spring,

Within thine owne bud buriest thy content,

And tender chorle makst wast in niggarding:

  Pitty the world, or else this glutton be,

  To eate the worlds due, by the gave and thee.[5]

(もっとも美しいものに対して私たちは増殖を望む,

美の薔薇が決して死に絶えることなく

熟したものがやがて死ぬときには

若い世継がその面影を伝えるように.

しかし君は自分の輝やく眼に魅せられて

自分自身が薪となって君の光の炎に糧を与え

豊饒な所に飢餓を作り

自分が自分の敵となって可愛い君自身に対してあまりに残酷なふるまいをしている.

君は今やこの世の新鮮な飾りであり

華やかな春の無比のさきがけでありながら

自分の蕾の中に持てるものを埋めてしまい,

年若くして吝嗇家となり, もの惜しみすることによって浪費している.

世を憐れみたまえ. さもなくば墓と共謀して,

世の取り分までも食らうような貪欲漢となるがいい. )

 

 主題の面から見てみると, 本来かなわぬ愛の嘆きを歌う詩形であるソネットで, 友人に結婚し子供を作るように勧めるのは奇異に思われるかも知れない.  C. S. Lewis が指摘しているように, このような結婚の慫慂は同性愛的感情とは相入れないし, また普通の友情に全くふさわしいといったものでもなく, このような感情が自然であるような状況を考えることは, 父親か義父になる可能性のある人間を別とすれば, ちょっと困難であろう.[6]   結婚を厭がっている貴公子の母親に Sh. が結婚慫慂の詩を作ることを依頼され, その時貴公子の年齢が17 才であったために, Sh. 17 篇の結婚ソネットを作ったのだという説も見られる.[7]   しかしこういった自伝説に基づいた伝記的な問題は証明することが究極的には困難であるので, ここでは深く立ち入ることはせずに別の観点から眺めてみたい. この結婚慫慂のテーマの由来について突込んだ考察をおこなっているのは J. W. Lever である. そこで Lever の論述にしたがってこの点を見てみたい.

 中世以来カトリック教会は <処女性> (virginity) の重要性を人々に説いて来たし, 騎士道文学 (ロマンス) はもっばら <宮廷愛> (courtly love) をあつかってきた. この両者とも結婚とか生殖とかいった観念とは相入れないものであった. Edmund Spenser (1552?-1599) になると結婚というテーマも主要な位置を占めるようになり, <結婚愛> が歌われるようになる. その表われが例えば “Epithalamion” などの作品である. しかし Sh. のソネットで述べられているのは Spenser <結婚愛> ともまた異なっている.  Sh. のソネットの話者である所の<詩人> Spenser とは異なり, 結婚の精神的, 肉体的な利点については一切触れないし, 友人が結婚の相手として選ぶべき女性の性格についても語らない.[8]   この場合, 結婚の目的はただ単に生殖 (procreation) であり美の子孫への伝達であって, 結婚に伴う求愛や結婚してからの夫婦愛などといったことは一切問題になっていない. これは Sh. の結婚ソネットの際立った特徴と言えるものである. ではこのような生殖の手段としての結婚というテーマを Sh. はどこから持ってきたのであろうか.

 勿論中世にもアレゴリー作者たちによって Goddess Kind <自然の女神> として擬人化されていた所の, ものを生み出す根源としての <自然> という観念は存在した. Kind のラテン系の同義語であり, 17 世紀に <自然> という意味では, 英語本来の語であるこの kind に取って替わった nature という語[9] はその語源によって, <自然> に内在している <万物を生み出す力> という観念を端的に表わしている Nature という英語はラテン語の natura に由来し, そのnatura <生れる> という意味のラテン語動詞 nasci の完了受動分詞 natus に名詞化語尾 -ura を付けて造られた名詞であって, <万物を生成する力> というのがその本義であり, ラテン語にあっては <誕生> を第一義とする. Venus and Adonis の中の Adonis Venus に対する “By law of nature thou art bound to breed, / That thine may live, when thou thyself art dead.” (ll. 171-172)[10] (自然の理法にしたがってあなたは子供を作る義務がある. あなた自身が死んでもあなたの子孫が生き延びるように) という言葉に見られる “nature” という語は根源的意味に於けるこの語の使用を示していて, この場合 “nature” natura naturans (能産的自然) natura naturata (所産的自然) とに <自然> を分類した場合の前者の意義である. また同じ作品の “O, had thy mother borne so hard a mind, / She had not brought forth thee, but died unkind.” (ll. 204-205) (ああ, あなたのお母さんがあなたのように冷い心を持っていたのだったら, 彼女はあなたを生むことなく子供なしに死んでいたことだろう) に於ける “unkind” という語は unnatural と同義であって, <子供を生むことなく> という意味に付け加えてさらに, 子供を生まないのは <不自然> なことであるとともに男に対して <つれない> 態度を取ることであり, それは彼女の美しさが死に絶えることを惜しむ世の人々に対しても <残酷> なしうちとなっただろうという意味を含ませて読む時, ここにはソネットとほぼ同じ言語とイメージでソネットと同様の思想が述べられていることに気付く.

 Nature という語の本義に基づくこの生殖的 <自然> あるいは <自然> の豊饒性という観念は中世にも存在しなかったわけではなく, <自然> の観念が存在すればそれは必然的にその <自然> の属性あるいは本質として, naturans すなわち新たなる生命を生み出すという豊饒性の観念を伴っていたと思われる. しかし Lever の述べる所によれば, 処女性よりも生殖の方を上位に置いた最初の思想家はルネッサンスの人文主義学者 Erasmus (1466?-1536) であった.[11]    Erasmus Encomium Matrimonii『結婚の賛美』は Thomas Wilson (1525?-1581) Arte of Rhetorike (1553) という本の中に英訳が載り, それによってエリザベス朝の一般の人々に知られていた. その中で Erasmus <増殖の理論> (Doctrin of Increase) とでも言うべき生殖の賛美を明確に打ち出している.

 

「これが自然の理法である. 真鍮の板に書かれている訳ではないが, 私たちの心にはっきりと刻み付けられていて, この理法に従わない者は人間と呼ばれるに値せず, まして市民とはみなされないだろう. (中略) というのは, 自己の種属を死滅から守り, 子孫を殖やすことによって種属全体を不滅にすることは人類にとってのみならず他の生き物にとっても同様に, これほど自然なことはないからである. このことは, だれもが知っているように, 結婚そして生殖行為なしに行なうことは絶対できない.[12]

 

 Erasmus <増殖の理論> を前にして “a heavenly thing” であり “an Angels life” であると考えられていた処女性はその至高の地位を保つことができず, その玉座から降りなければならなかった.  Philip Sidney (1554-1586) Arcadia “Geron and Histor” の中でこの Erasmus の説を利用している.[13]

 

Nature above all things requireth this,

That we our kind do labour to maintain,

Which drawn-out line doth hold all human bliss.

The father justly may of thee complain

If thou do not repay his deeds for thee

ln granting unto him a grandsire's gain.

Thy commonwealth may rightly grieved be

Which must by this immortal be preserved,

If thus thou murther thy posterity.

His very being he hath not deserved

Who for a self-conceit will that forbear

Whereby that being aye must be conserved.[14]

 (自然はとりわけ私たちが私たちの種属を維持するよう努力することを求めていて, 代々続く家系の中に人間の幸福もすべて含まれている. もしあなたが孫を与えることによって父君に報いないのならば, あなたの父君も当然あなたに向って嘆くだろう. もしこうしてあなたがあなたの子孫を殺してしまうならば, 不滅に維持されるべきあなたの国も当然悲しむだろう. 生命を永遠に保つべき行為をうぬぼれのために行なおうとしない者は生まれてくるに値しなかったのだ. )

 

 「生命を永遠に保つべき行為」とは言うまでもなく生殖行為を意味していて, ここでは結婚の目的が種属の維持にあり, その結婚を拒否するものは殺人の罪を犯すものであるという論法が展開されている. また Marlowe Hero and Leander の中でこの <増殖の理論> を拡大して人間の生殖あるいは自然界の繁殖だけでなく, 商業上の利殖をもこの中に取り込んでいる.[15]  Leander , 富も使用しなければ何の価値もないというマタイ伝 25 章のタラントの譬え話を想起させる比喩を用いて, Hero に言い寄る.

 

What difference betwixt the richest mine

And basest mould but use?  for both not used,

Are of like worth.  Then treasure is abused

When misers keep it; being put to loan,

In time it will return us two for one.

Who builds a palace and rams up the gate,

Shall see it ruinous and desolate.

Ah simple Hero, learn thyself to cherish;

Lone women like to empty houses perish. (ll. 232-242)[16]

 (使用しなけれは最も豊かな鉱脈と最も価値なき土くれとの間にどんな違いがあるというのか. 両者とも使用されなければその価値は同じこと. さればけちん坊が宝をしまいこんでおくとき宝は乱用されたことになる. もし貸し付けておくならやがて二倍になって我々の許に戻ってくるのに. 宮殿を建ててその門を閉ざしておく者はその宮殿が荒廃しさびれ果てるのを見るだろう. ああ, 単純なヒーローよ, 自分をいつくしむことを学べ. 独りで居る女は人の住まない家と同様亡びるもの.)

 

 そしてさらに Leander は処女性と結婚とを較べて, 処女性が劣ることを述べる.

 

Virginity, albeit some highly prize it,

Compared with marriage, had you tried them both,

Differs as much as wine and water doth. (ll. 262-264)[17]

 (処女性をもてはやす者もいるが, 結婚と両者を験してみた上で較べたら分かる筈だ, ワインと水とが異なるはどに両者が異なることが.)

 

 ここには明らかに Erasmus の影響が認められる.  Sh. Thomas Wilson “An Epistle to perswade a yong Gentleman to marriage, devised by Erasmus, in the behalfe of his freend” という書簡休の文章と, さらに先に引用した Sidney Arcadia および Marlowe Hero and Leander の文句を念頭においてソネットを書いたのだ, Lever は指摘している.[18]   この指摘は重要であると思われる. それはどうして若い貴公子に結婚を勧めるという, ソネットの主題としては一見不思議にみえる主題で Sh. がソネットを書いたのかという私たちの素朴な疑問に答えてくれるからである. すなわち Sh. は結婚慫慂の主題を自分で案出したのではなかったのである.  Sh. の想像力が物語や主題を案出する方向に働くといったものではなかったことは, 彼の書いたドラマの物語 (ストーリー) にはたいてい出典があるという周知の事実を考え合わせてみるとき容易に納得のいくことである.  Sh. の想像力はむしろすでに存在している物語をその無比の言語能力によって新たな作品に作り変えるときに発揮された.  Sh. がドラマを書いたとき, Plutarch の『英雄伝』や英国その他の歴史やギリシア・ローマ神話などから物語を借用したことばよく知られている. そして結婚慫慂のソネット群を書いたときもその主題を Erasmus から, そして Sidney Marlowe の作品から借用したのである. このことは Sh. のソネットの価値を減ずるものでは決してない.

 ソネットには Petrarch (1304-1374) 以来の伝統があった. 英国に於いても Thomas Wyatt (1503-1542) Henry Howard, Earl of Surrey (1517?-1547) による Petrarch やその他のイタリアの詩人たちのソネットの翻案を皮切りにして, Sidney Astrophel and Stella (1591) の出版を見たとき突然ソネット製作は大流行となる. この大流行の期間に出版されたソネット集を列挙してみると, Samuel Daniel, Delia (1592); Henry Constable, Diana (1592); Thomas Lodge, Phillis (1593); Thomas Watson, Tears of Fancie (1593); Giles Fletcher, Licia (1593); Barnabe Barnes, Parthenophil and Parthenophe (1593); Michael Drayton, Ideas Mirrour (1594); 無名の詩人による Zepheria (1594); Spenser, Amoretti (1595); Richard Barnfield, Cynthia (1595); Barnes, Divine Centurie of Spirituall Sonnets (1595); George Chapman, Coronet for his Mistress Philosophie (1595) などがある. それからソネットの流行は衰退し始める. その後 Bartholomew Griffin, Fidessa (1596); William Smith, Chloris (1596); Richard Linche, Diella (1596) が出版されて, 1597 年に Robert Tofte, Laura が出るとその後に続くものはなかった. それから10 年余たって1609 年に Sh. の『ソネット集』が突然出版される.[19]   ソネットの出版は1590 年代の前半から中ごろに集中しているが, それらのソネットの大部分の主題は女性に拒絶された男性のかなわぬ愛の嘆きという点で一致していた. そして Sh. はこれらの作品の大部分を読んでいたものと思われる.[20]

 このようにソネットでよく使われる主題やイメージはひとつの convention を成していた. ソネット作者たちはこの常套的な表現あるいはイメージを使用してソネットを作ったが, その場合それまでに書かれた作品の句やイメージをそのまま模倣するのではなく, それらをひと捻りし, 変形して用いるのが詩人の腕の見せ所でもあった. すなわち convention をそのまま盲目的に踏襲するのではなくて, convention を変形して用いることが既にひとつの convention となっていた. この意味に於いて, かなわぬ愛の嘆きを歌うのが普通とされていた詩形を用いて結婚の慫慂を歌った Sh. convention に忠実であったとも言えるのである.  Sh. が結婚の主題を Erasmus から引き出していることは既に述べたが, ここで注意しなければならないのは, その場合他に適当な主題がみつからないので他人の作品から主題を盗むといった消極的 (negative) な借用のしかたを Sh. がしているのではなくて, この主題が Erasmus その他からの借用であるというまさにそのことに Sh. は積極的な価値を置いているといった感じがすることである. もし Sh. がソネット1 番を154 篇のソネットの中でも最初に書き, そして『ソネット集』の冒頭に置くことを意図していたと考えることが許されるならば, 彼はソネット1 番が『ソネット集』の巻頭を飾るにふさわしい作品だという自負を持っていた筈である.[21]   Erasmus の結婚慫慂の思想は当時時代の尖端を行く考え方であっただろうし, Sidney Marlowe が求愛という『ソネット集』とは異なる状況に於いてではあるが彼らの詩の中で用いていることは当時の文学愛好家の間では知られていた筈であり, また Sh. Venus and Adonis の中でこれを模倣していることは既に見てきた通りである. そしてこの同じテーマを Sh. は自分のソネットの中に持ち込んだが, この場合彼は Sidney Marlowe とは異なり, また彼自身のVenus and Adonis とも異なって, 年長の男性が年下の友人に結婚を勧めるという全く新しい設定の中に, しかもソネットとしては初めての試みとして, このテーマを用いたのである. そして Sh. はこのことを得意に思ってはいなかったであろうか.

 ソネットl 番に関する限り, そのイメージもほとんどすべて他人の作品から借用したものである. しかもそれらが借用であることが読者に明らかに分かるように書いていて, あたかもそのことを Sh. が誇っているかの感じがする. 他人の言葉やイメージのみを使用しながらそれでいて全く新しい作品を作り上げること, これが特にソネット1 番に於ける Sh. の意図ではなかったか, と思われるのである. そして古い素材を用いて全く別のものを作り出してみせた作者の錬金術的手腕に当時の読者は称賛を惜しまなかったのではあるまいか. 次にソネット1 番第 2 quatrain に於ける Narcissus のイメージを考察して, これが Ovid からの借用であることの証明を試みたい.

 

 

II

 

 水に映った自分の姿に恋し, その場から離れることができなくなってやがて憔悴し, 死んで水仙に化すという Narcissus 神話に対する言及が1-17 番のソネットの中でしばしば見られることは周知のことであり, 註釈者たちの指摘している所である. しかし私が調べ得た範囲内ではこの Narcissus のイメージに Ovid の直接的影響が見られることを指摘した学者がいないようである. このことは私には不思議に思われる. 何故なら, 例えば Dover Wilson Ovid が『ソネット集』におよぼした影響について論じていながら, この Narcissus のイメージについては一言も語っていないからである. また J. B. Leishman も彼の Themes and Variations in Shakespeare's Sonnets[22] という該博な研究書の中で『ソネット集』に対する古典, イタリア, フランス, 英国の詩人たちの影響を詳細に論じながら, Narcissus に関する言及は行っていない.  Sidney Lee という批評家が Sh. Ovid, Metamorphoses Arthur Golding による英訳との言語の精緻な比較を行っていて, Sh. のソネットの “Time the devourer” の出典がこの Golding 訳であることを明らかにしている, Dover Wilson は報告している.[23]   Dover Wilson によれば, 1890 年に既に Thomas Tyler が彼の編集した Sh. の『ソネット集』の序文で, Sh. Ovid Horace から影響を受けたという主張を行い, Lee を既に先取りしているとのことである. しかし Tyler は当時の通念に従ったために, その影響が直接的なものであることを信じなかった, Dover Wilson は付け加えている.[24]   Leishman 64, 65 番と Ovid, Metamorphoses 最終巻の epilogue との密接な関係を証明している.[25]   そして Dover Wilson 63 番に Ovid のまぎれもない echo を最初に発見したのもまた Leishman であると思うと述べながら, Leishman 55 番には Horace Ode 3 , 30 “exegi monumentum aere perennius” (私は青銅よりも長持ちする記念碑を完成した) という箇所の echo が認められるとして, 55 番を引用しているにもかかわらず, 55 番が Ovid から直接引き出されたものであり, Metamorphoses の同じ最終巻からの実質的には翻訳であるという事実に気付いていないと述べて, Dover Wilson はこのことが不満な様子である.[26]   Dover Wilson はこのように執拗に Ovid の影響を追求しておきながら, ソネット1 番の Narcissus のイメージについては註の所で “A reference to the fable of Narcissus who fell in love with his own reflection” という Beeching の註を引用しているだけであって,[27]   Ovid との直接的関係については気付いていないようである.

 

 Ovid とソネット1 番との関係を考察する前に, 当時 Ovid が非常に好まれていて一種の流行であったという事実, そして中でも Narcissus の物語に人気があったということを指摘して, さらに Ovid の伝統とでも言うべきものが既に存在していたことを簡単に見ておきたい.[28]   ローマの詩人 Publius Ovidius Naso (43 B.C.-A.D. 17) Metamorphoses, Heroides, Amores, Fasti, Ars Amatoria, Tristia, Epistulae ex Ponto などの作品を残したが, Chaucer から Shakespeare に到る英詩に大きな影響を与えたのは特にMetamorphoses, Heroides それにAmores であった. 15 巻からなるMetamorphoses は人間が他のものに変身する物語を集めて hexameter の詩形で述べたもので, 後のヨーロッパの人々にとってギリシア・ローマ神話の宝庫となった.  Heroides heroine からその夫や恋人に宛てた書簡の形式を取ったもので, 大部分は捨てられたり裏切られたりした女性の側の恨みごとを述べたものとなっている.  Amores はさまざまな気分の恋を歌ったもので Corinna という女性についての詩が多い. 英国に於ける Ovid の最初の 翻案は Geoffrey Chaucer (1345?-1400) Legend of Good Women John Gower (1330?-1408) Confessio Amantis に表われ, 共に Pyramus Thisbe についてのMetamorphoses 4 巻の物語を扱っている. その後 William Caxton (1421?-1491) Metamorphoses の英訳を印刷し, やがて1560 年に出版された T. H., The Fable of Ovid treating of Narcissus,...with a moral thereunto. very pleasant to read を皮切りにして Ovid の流行が始まる. この T. H. による長い題名の本はMetamorphoses 3巻の Narcissus Echo に対して冷酷な態度を取る箇所の翻訳で, それに Narcissus の傲慢さを説明せんがために別の傲慢な人間の例をさらにこれに付け加えたものである.  1565 年には Thomas Peend Metamorphoses 4 巻から Salmacis Hermaphroditus の物語を英訳した. 1567 年には George Turberville Heroides を英訳し, エリザベス朝の人々に romantic myth の宝庫を開放することになる. そして同じ1567 年に Arthur Golding (1536?-1605?) によるMetamorphoses の全訳が出版される.  Sh. が利用したと言われているのもこの Golding の訳である. 以上の翻訳者あるいは翻案者たちは大かれ少なかれ Ovid を教訓的にそしてアレゴリカルに解釈しようとしていたが, 1589 年に出版された Thomas Lodge Scylla's Metamorphosis は中世以来の教訓的なアレゴリカルな解釈を一切排除した点で画期的なものであった. この Lodge に倣って Ovid を素材にした Ovidian Romantic Verse あるいは Ovidian Verse Romance が続々と書かれることになる. それらの作品を列挙することは省くが, Marlowe Hero and Leander Sh. Venus and Adonis がこの流行によって生み出された最良の収穫と言われている. 参考のために Narcissus を主題としたものを記すると, Thomas Edwards, Narcissus (1595);  James Shirley, Narcissus (1618) がある.

 上記の Thomas Lodge の作品を切っ掛けとしたこの Ovidian Verse の流行はエリザベス朝の詩人たちにとって重要な意味を持っていた. それは Reese が指摘しているように,Ovid を発見することによってエリザベス朝の作家たちは同時に自己を発見した」のであり, Ovid を改作することは彼らに「他の方法ではしばしばうまくいかなかった自己実現と自己表現の手段を与えた」と言えるからである. このことはソネットの製作について特にあてはまる. 「ソネットにあっては, その詩形に内在する困難によるのかあるいはベトラルカ風の手本の厳格さによるのかはともかく, 何か充分に表現しつくすことができないといった感じであった」[29] Reese は述べている. ところが Ovid を発見することによって彼らは自由に表現する手段を得たのであった. そして Ovid は特に Sh. の「お気に入りの詩人」であった.  Sh. は先に述べた Golding の訳によってMetamorphoses をよく知っていたし,Sh. のギリシア・ローマ神話についての知識の九割は Ovid から来ている」[30]とさえ言うことができるのである.  Sh. が特別に Ovid を好んだのは両者の気質が近かったからだと思われる.  Ovid は体質的に長い間続けて真面目な態度を取ることのできなかった詩人であり, 深刻であるべき瞬間にあってさえも読者を笑わせるあるいは微笑ませるようなことがらを持ち込む人であった.  Sh. もこれと同様の気質の詩人であったことは, 例えば一例としてRomeo and Juliet 3 1 場の Mercutio の死に際の場面を想い起せばよい.  Mercutio Tybalt の剣に刺されながら駄酒落を吐きつつ死んでいくのである.

 Sh. Ovid を特に好んでいたことは間違いなく, このことは Gilbert Highet も証言している.[31]    Sh. の同時代人 Francis Meres も既に言及したPalladis Tamia: Wits Treasury (1598) の中で “The sweete wittie soul of Ovid lives in mellifluous and honey-tongued Shakespeare.” と言っている[32]. そしてここで特に強調しておきたいことは Sh. Ovid Golding の英訳によって読んでいたばかりでなくて同時にラテン語の原典をも読んでいたということである.  “Small Latine and lesse Greeke” という言葉はBen Jonson (1572-1637) Sh. の教養について述べたものでよく知られているが, “small Latine” であって “no Latine” ではないことに注意しなければならない.  Dover Wilson Sh. Golding の英訳だけに頼ったのではないことを指摘している.[33]    Highet , Sh. が恐らく当時のすべての英国の子供たちと同様 Ovid の作品の一部を学校で教わったであろうし, また後年 Ovid Metamorphoses の原典と Golding の英訳の両方で読んだのであると述べている.[34]   ソネット60 番の有名な 4

 

Like as the waves make towards the pibled shore,

So do our minuites hasten to their end,

Each changing place with that which goes before,

In sequent toile all forwards do contend.

 

Ovid Golding による英訳

 

As every wave drives other forth, and that that comes behind

Both thrusteth and is thrust itself: even so the times by kind

Do fly and follow both at once and evermore renew.

 

の翻案であることは Dover Wilson も指摘している所である.[35]   しかし Sh. はここで “sequent” という形容詞を使っていて, この語は Golding の訳には見あたらず, Ovid の原典に存在する “sequuntur” という語との一致から見ても Sh. が原典を読んでいたことを示していると言えるであろう, Highet は述べている.[36]   さらにHighet The Rape of Lucreece のある部分が Ovid Fasti『祭事歴』に基づいていることを指摘し, Fasti の英訳は1640 年に初めて出版されたのであり, また Sh. がこの作品から語句を取っていることは確かであるから, Sh. が原典を読んでいたと考えざるを得ないと結論している.[37]

 

 

III

 

 Ovid が当時流行し, Ovid Sh. の特に好きな詩人であったこと, そして Sh. Golding の英訳とともにラテン語の原典をも読んでいたことは以上見てきた通りである. さてソネットの Narcissus のイメージであるが, このイメージを Sh. Ovid のラテン語の原典から直接引き出したのであると私は考える. そこで Ovid の叙述とソネット1 番第2 quatrain との比較を行ってみたい.  Metamorphoses の中のNarcissus に関する部分は第3 339 行目から510 行目にかけてである. まず Ovid がどのように述べているかを見てみたい.[38]

 

 美しい水の精リリオペーは河の神ケピススによってみごもりひとりの男の子を生む. この子は生まれたときから既に美しく, Narcissus と名付けられる. 予言者ティレシアスは, この子が天寿を全うすることができるかどうか尋ねられたとき, もしその子が自分自身を知ることがなければ天寿を全うできるであろうと答える. この予言者の言葉は長い間無意味な言葉であるように思われていたが, やがてこの予言が真実であったことが判明することになる.

 Narcissus 16 才に成長し, 多くの若者や乙女が彼の愛を求めて言い寄るのであった. しかしその若くしなやかな姿には冷酷な高慢が宿っていて (sed fuit in tenera tam dura superbia forma) (), いかなる若者も乙女も彼の心に触れることはできなかった.

 あるとき Narcissus が野を歩いている姿を森の精 Echo (木霊) が見て, 彼女の心にたちまち Narcissus に対する恋の炎が燃え上がる. この頃 Echo はまだ肉体を持っていて単なる声だけの存在ではなかったが, 相手の言葉の最後の部分をこだまさせて繰り返すことしかできなかった. 女神 Juno の怒りによってそのような存在にされていたからである.  Echo Narcissus に話しかけたくても話しかけることができない. そしていざ話をする段になると相手の言った言葉を繰り返すことしかできず, Narcissus に嫌われてしまう.  Narcissus にはねつけられた Echo は森の中に潜み, 恥かしさのあまり木の葉で顔を隠し, そのとき以来さみしい洞穴にひとりで住む. しかしはねつけられながらも彼女の Narcissus に対する愛は消えず, 悲しみを糧として大きくなっていく. 眠られぬ心痛のため彼女は憔悴していき, 体から水分もなくなって骨だけとなり, ついには声だけの存在となる.

 このように Narcissus Echo の愛をしりぞけ, そして同じように他の水の精や山の精, それに多くの若者たちの愛をしりぞける. ついに無視された若者のひとりが天に向って両手を挙げ,Narcissus もまた恋におちいりますように! そして恋する相手が得られませんように!」と祈る. この正当な祈りは復讐の女神によって聞き入れられる.

 羊飼も家畜もやって来ない水の澄んだ泉があった. その回りには草が茂り, 森の木々のために太陽の光線も射し込むことがなかった. あるとき狩りと熱さに疲れた Narcissus がこの泉にやって来る. 喉の渇き (sitis) をいやそうとして水面に口を近づけると, それとは別の渇き (sitis) を彼は胸におぼえる. 水を飲もうとしたとき, 水面に映った美しい自分の姿に打たれ, その姿に魅せられて恋してしまう. 地面にうつ伏せになって彼は双子星のような自分の眼を見つめ (spectat humi positus geminum, sua lumina, sidus) (), そして自分の髪, なめらかな頬, 象牙のように白い首, そして自分の輝やく美しい顔を見つめる. それらすべてに感心するが, それによって自分自身が感心されていることは知らない. 彼はそうとは知らず自分に恋してしまう.  Narcissus は水面に映る姿を称賛したが, それは自分自身を称賛することに他ならなかった. 彼は恋しながら自分がその対象となっていた. 彼は相手の胸に恋の炎を点火しようとしながら自分自身が恋に燃える (accendit et ardet) (). いくたびとなく相手に口づけしようとし, 相手の首を抱こうとするが, それもむなしい. 彼は自分が見ている姿が誰であるかは知らないが, その見ている所のものによって身を焼かれる (quod videt, uritur illo) (). 食事や眠りの欲求も彼をその場所から引きはなすことはできなかった. 彼は草の上に腹ばいになったまま水面に映ったまぼろしの姿を見つめ, 自分自身の眼によって滅びていく (perque oculos perit ipse suos) (). すこし身を起こすと, まわりの木々に向って両腕を差しのべて Narcissus は叫ぶ,ああ森たちよ, いったい誰が私以上に残酷な愛し方をしただろうか?(ecquis, io silvae, crudelius…amavit?) ().  Narcissus が腕を差しのべると相手も同じように腕を差しのべ, 彼が微笑すると相手も同じように微笑を返してくる. 彼が眼に涙を浮かべると相手も涙を見せ, 彼がうなずけば相手もうなずいて答える.  Narcissus の言葉に相手も唇を動かして答えているように見えるが, その言葉は彼の耳には届かない. ただ薄い水が二人の間を隔てているだけだというのに. ついに彼は自分が恋している相手が自分自身だということを悟る.私は私に対する恋に身を焼き, 自分で炎に火を付け自分で苦しんでいるのだ (uror amore mei: flammas moveoque feroque) (). 私はどうしたらいいのか. 愛を求められるのを待てばいいのか, それともこちらから求愛すればいいのか. 何故愛する必要があろうか. 私が望むものを私は既に所有しているのに. 豊かさが私を貧しくしてしまったのだ (inopem me copia fecit) ().」こうして彼の肉体は憔悴していく. 彼は半ば正気を失って再びその水面に映った影の方を向く.  Narcissus の涙が水面に落ちさざ波をたてたとき恋人が消えるのを見て彼は叫ぶ.「ああ, どこへ逃げて行くのだ. ここにいておくれ. 君を愛している者を見捨てないでおくれ. 触れることができないならせめて見つめることを許しておくれ, そしてぼくの不幸な狂気 (=) に糧を与えておくれ (liceat, quod tangere non est, / adspicere et misero praebere alimenta furori) ().こうして恋にやつれた彼は憔悴していき, 徐々に隠れた火によって焼き尽くされていく (sic attenuatus amore / liquitur et tecto paullatim carpitur igni) ().  Echo がかつてあれほど愛した Narcissus の美しさもほとんどなくなっていた. しかし彼女は彼のこのやつれた姿を見たとき, 以前の彼のしうちを忘れてはいないでまだ腹を立てていたけれど, かわいそうに思い, Narcissus が「ああ」と溜息をつくと, 同じように「ああ」と繰り返すのであった. 今や息の絶えようとしている Narcissus がその水面に映った恋人に「さようなら」と別れの言葉を告げると, Echo は同じように「さようなら」と繰り返すのであった.  Narcissus は緑の草の上に力つきて頭を落した. そして死が主人の美しさをたたえつづけていた眼を閉じた (lumina mors clausit domini mirantia formam) ().

 

 以上が Ovid の述べている Narcissus の物語のあらましである. さて今度は Sh. のソネットの方に移ろう. ソネット1 番の第2 quatrain すなわち

 

But thou contracted to thine owne bright eyes,                5

Feed'st thy lights flame with selfe substantiall fewell,    6

Making a famine where aboundance lies,                        7

Thy selfe thy foe, to thy sweet selfe too cruell:                8

 

4 行は上に述べた Narcissus のイメージを用いて構成されている. 5 行目の “contracted to thine owne bright eyes” は「自分の美しく輝やく眼に魅せられる」という意味の他に「自分の眼と契りを結ぶ」という意味, すなわち女性と契りを結ぼうとはしない相手に対する非難が含まれている. そしてさらにこの場合 “contracted” という語には John Donne (1572-1631) “The Canonization” で用いた “Who did the whole worlds soule contract”[39] (全世界の魂を縮小する) に於ける “contract” と同じ <縮小する> という意味が含まれていて, ちょうど Narcissus が自分の双の眼に見とれ, 彼の世界がその眼の中に縮小してしまったように, 君も自分の眼の大きさに自分の世界を限定してしまって, 豊饒な自然の理法 (law of nature) にしたがって結婚し, 子孫をもうけることによって広い世界と結びつこうとはしない, という風に読める. 5 行目で特徴的なのは眼のイメージである. この眼のイメージそして眼によって身を亡ぼすという発想は Ovid にあっても顕著なものであって, 私が (), (), () の符号を付けておいた箇所に見られる. () の「双子星のような自分の眼を見つめ」(spectat...geminum, sua lumina, sidus), 自分の眼に魅せられるという言葉はソネットの “contracted to thine owne bright eyes” に正確に対応する. ソネット 6 行目 “Feed'st thy lights flame with selfe substantiall fewell” に於ける “lights flame” は綴りを現代風に書き改めた Malone 以後のテキストでは普通 “light's flame” となっていて, この場合 “lights” は単数形所有格となる.[40]   しかし Thomas Thorpe の出版による1609 年の版では, この箇所は “lights flame” となっているのであって,[41]   私が使用した Seymour-Smith の編集したテキストもこの1609 年版に忠実である. すなわちこの場合, “lights” は単数であるとは限らず, 複数の所有格 “lights’ flame” という風にも取れると考えられる. さてこの “lights flame” という言葉は, みずからを燃やしながら亡びていくろうそくのイメージを表わしていて, “feed'st” という語はその場合 <燃料を供給する> という意味で用いられている. しかし “lights” という語を複数形と取るなら, OED Light, 4 の項に記されている定義 “Power of vision, eyesight (now poet. or rhet.).  Also pl.=the eyes (now only slang) にしたがって, この “lights” は複数の眼の意味となる.  OED 1580 年の Lyly Euphues から “His eyes hasill, yet bright, and such were the lyghtes of Venus” という用例を引用していることから見ても, 複数形の lights eyes という意味で用いるのは当時まれという訳ではなかったものと思われる. このように考えてくると, 前行5 行目の “bright eyes” からの連想も加わって6 行目の “lights” を眼の意味にも取りたくなる. そうすると6 行目は, 水面に映った自分の姿を燃料 (selfe substantiall fewell) として恋情を燃やし, 眼を恋の炎に輝やかせる (Feed'st thy lights flame) Narcissus のイメージとなる. そしてさらにこの場合 “feed” という語には, “feed the eyes” (眼を楽しませる) という英語の言い回しに於けるのと同じ <楽しませる> という意味が含まれている.  Ovid Narcissus が自分の眼に魅せられ, そして眼によって亡ぶということは, ()の箇所の「自分自身の眼によって亡びていく」(per oculos perit ipse suos) という表現に端的に示されている. また Narcissus が息を引き取るときの言葉は ()「死が主人の美しさをたたえつづけていた眼を閉じた」(lumina mors clausit domini mirantia formam) となっていて殊更に眼が強調されており, Narcissus を滅亡に導びいたのは彼の眼であったという事実が読者の印象に強く残る. 今引用した () の箇所では, 眼にあたるラテン語が行頭の目立つ位置に置かれているという事実にも注意を喚起しておきたい.

 ソネット6 行目で特徴的なのは <燃焼> のイメージである. この <燃焼> のイメージを Sh. はやはり Ovid から直接取ったのだと私は考える.  Ovid Narcissus の恋の描写にあってもやはり <燃焼> のイメージは顕著である. Ovid の場合, この <燃焼> のイメージは執拗と言ってもいいくらいで, 恋の情念を表現するのにすべて <燃える> とか <焼く> といった火に関連した語が用いられている. 例えば ()「相手の胸に恋の炎を点火しようとしながら自分自身が恋に燃える」(accendit et ardet), ()「その見ている所のものによって身を焼かれる」(quod videt, uritur illo), ()「私は私に対する恋に身を焼き, 自分で炎に火をつけ自分で苦しんでいる」(uror amore mei: flammas moveoque feroque), ()「こうして恋にやつれた彼は衰弱していき, 除々に隠れた火によって焼きつくされていく」(sic attenuatus amore liquitur et tecto paullatim carpitur igni) というような言葉である. これらの箇所で用いられている動詞は accendere, ardere, urere などであり, それぞれ <火を点ずる=刺激する>, <燃える=熱愛する>, <焼く=感情をあおる> といった火と恋の情念との両方に同時にあてはまる語である. そして () の箇所では “tecto carpitur igni” (隠れた火によって食いつくされる) といった言葉が用いられ, この場合 <> を意味する “igni” という語は行末であると同時に文末に置かれていて, その位置によって必然的に強勢を受ける. () の箇所は「相手の胸に恋の炎を点火しようとしながら自分自身が恋に燃える」という少し長い説明的な訳にしておいたが, 原文はただ “accendit et ardet” となっているだけであり, <点火する> という意味の他動詞 accendit <燃える> という意味の自動詞 ardet を英語の and に相当する接続詞 et でつないだだけの形をしていて, 他者に対して働きかけることが即自己に対する働きかけであるという複雑な状況を簡潔に表わしている. この文章の構造の簡潔さは読者に強烈な印象を与える. そして Sh. がこの語句を記憶していたという可能性も考えられる. () の箇所では “flammas moveo” (炎を生じさせる) という言い方がされていて, この “flammas” () から Sh. はソネット 6 行目の “flame” という語を得たのであろう. さらにソネット 6 行目の “feed” であるが, この語の最も普通の意味は <燃料をくべる> でもなく <目を楽しませる> でもなくて, <食物を与える> という意味である. <恋に食物を与える> という言葉使いは Ovid () の箇所「ぼくの不幸な狂気 (=) に糧を与える」(misero praebere alimenta furori) に見られるもので, Sh. はこの “praebere alimenta” (食物を差し出す) という言葉を一語に圧縮することによって “feed” という語を得たのだと考えることができる. もっとも, この () の「触れることができないならせめて見つめることを許しておくれ, そしてぼくの不幸な狂気 (=) に糧を与えておくれ」の箇所は, Golding 訳では “But give me leave a little while my dazled eyes to cheere / With sight of that which for to touch is utterly denide, / Thereby to feede my wretched rage and furie for a tide.”[42] のようになっていて, やはり “feede” という語が用いられている. しかしこの場合の “feede” “gratify” を意味する慣用的な用法で, <食物を与える> という原義はやや薄れている.

 さらに既にふれた 6 行目の “lights” という語も Ovid の原典のラテン語から示唆されたのであろう. <> という意味のラテン語は lumen であるが, この lumen という語には同時に <眼の輝き> あるいは <> という意味がある. 先に記した OED に載っている lights <>という意味はこの lumen というラテン語に由来するものと思われる. ただラテン語にあっては lumen という語は単数でも複数でも共に <> の意味を持つが, 英語では複数形の場合のみ <> という意味を持ち得るという違いがある. この lumen の複数形 lumina Ovid は上に述べた Narcissus の物語で <> という意味で 2 度用いている. それは既に引用した () の「彼は双子星のような自分の眼を見つめ」(spectat…geminum, sua lumina, sidus) () の「死が主人の美しさをたたえつづけていた眼を閉じた」(lumina mors clausit domini mirantia formam) という箇所であり, <> という意味のラテン語としては最も一般的な oculus――この語は () の箇所では oculos という複数形で用いられている――を用いるのではなく, <> という第一義の転義としてのみ <> の意味を持つ lumen という語の複数形 lumina をここで Ovid は使用している. したがって Ovid のこの “lumina” という語は印象に残る言葉である. そしてこの “lumina” というラテン語の直訳によって Sh. “lights flame” という句の “lights” という単語を得たのであろう. なお, () の「死が主人の美しさをたたえつづけていた眼を閉じた」(lumina mors clausit domini mirantia formam) の箇所は, Golding 訳では “And death did cloze his gazing eyes that woondred at the grace / And beautie which did late adorne their Masters heavenly face.” のように二行に引き延ばした訳となっている. また, () の「地面にうつ伏せになって彼は双子星のような自分の眼を見つめ」(spectat humi positus geminum, sua lumina, sidus) の箇所も Golding ではやはり二行に引き延ばした, “Stretcht all along upon the ground, it doth him good to see / His ardent eyes which like two starres full bright and shyning bee,” という訳になっている. 勿論, Ovid lumina “gazing eyes” “ardent eyes” としている Golding 訳からでは “lights” という語は得られない. 

 7 行目 “Making a famine where aboundance lies” では oxymoron の技法が用いられていて, <豊饒> の存在する所に <飢餓> を作り出すという一見矛盾した言い方がされている. 勿論ここでは結婚によって子孫に美を伝えようとはしないで, その豊かな宝を枯死させようとしている相手に対する非難が籠められている. こういった oxymoron の技法は当時としては珍しいものではなく, このソネット1 番は主としてこのように対立する概念を並置することによって構成されていると言うことができる. さて, Sh. のこの “Making a famine where aboundance lies” という表現もやはり Ovid の言葉のパラフレーズであり, 豊かさ故に貧しくなるというパラドックスは既に Ovid に見られるものである. それは () の「豊かさが私を貧しくしてしまった」(inopem me copia fecit) という箇所で, Miller の英訳を参考までにあげると, “the very abundance of my riches beggars me” となっている. また Golding 訳では, “my plentie makes me poore.” となっている. ラテン語では copia (豊饒, ) Narcissus inops  (富のない, 貧しい, 無力な) にするという表現が用いられている. この Ovid の言葉を Sh. は彼一流の言い替えによって “Making a famine where aboundance lies” とパラフレーズしたものと思われる. そして8 行目 “Thy selfe thy foe, to thy sweet selfe too cruell” では, 自分が自分の敵となって, 可愛い (sweet) 自分自身に対してあまりに残酷 (cruell) であるという oxymoron 7 行目と同じく使用され, 自己愛 (self-love) がすなわち自己憎悪 (self-hate) に他ならないというパラドックスが述べられている. これは自己を愛したが故にわが身を亡ぼすこととなった Narcissus に対する言及であることは言うまでもない.  Ovid ()「一体誰が私以上に残酷な愛し方をしただろうか」(ecquis crudelius amavit) という箇所では残酷に (crudelius) 愛する (amavit) という矛盾する語を組み合わせた oxymoron が用いられている. この箇所を恐らく Sh. はやはり彼一流の言い替えによって “to thy sweet selfe too cruell” という風にパラフレーズしたのにちがいない.  “Thy selfe thy foe” という句は結局これと同じことを別の言葉で言い替えたものに過ぎず, 考えようによっては Narcissus の物語全体に含まれている逆説を要約した言葉とも取れる.

 以上ソネット1 番の第2 quatrain Ovid Narcissus との比較を行ってみたが, その結果, Sh. はソネット1 番の第 2 quatrain Ovid Narcissus の箇所を, Golding 訳だけではなく, ラテン語原典をも参照しつつ, 意図的にパラフレーズすることによって作り上げたのだと断言できると思う. 両者に共通する点をまとめてみると次のようになる.

 

 (1) 両者とも眼のイメージが特徴的であり, 眼によって亡びるという発想が見られる. そして “lights” (=) という語を Sh. Ovid “lumina” という語から思い付いたものと考えられる.

 (2) 両者とも火のイメージが特徴的であり, <恋する> という意味を表わすのに <燃える> という言い方がされている. そして “flammas” “flame”, “praebere alimenta” “feed” のように類似の語あるいは表現が見られる. ちなみに英語 flame の語源はラテン語の flamma である.

 (3) 豊饒が貧しさを生むというパラドックが両者に共通であり, かつ表現が類似している.

 (4) 一見自分を愛しているようだが実際は自分に対して残酷なのであり, 自己愛は結局自己憎悪になるというパラドックスが両者に共通して見られる. また言葉遣いがきわめて似ていて, “crudelius” “cruell” のように同じ語源の語が両者に見られる.

 

 そしてさらに付け加えておかなければならないのは, ソネット1 番の第2 quatrain Ovid Narcissus の箇所で用いられているイメージからのみ構成されていて, それ以外のイメージは一切使用されていないということである. このことは重要であると思われるし, また Sh. は意図的にこのことを行ったものと思われる. 当時の読者は Sh. のこのソネットを読んだとき, 2 quatrain Ovid の言葉のパラフレーズであることにすぐに気付いたであろう. 古典からのイメージの借用は Sh. の誉れにこそなれ, 欠点とは見なされなかった筈である. 碩学 Highet は次のように述べている.

 

「ラテン語そのままにせよ翻訳にせよ, ローマの詩から語句を引用したり感動した箇所を模倣したりすることは, ルネッサンスの詩人たちにとっては別に衒学とも思われていなかった. 彼らにとってそれは自分の作品に美と権威と箔をつける手段だったのである. こういう時代だから, どれくらい古典から引用しているか, その引用文をどの程度強調して目立たせているか, どの程度装いを凝らして隠しているか, どこまで忠実に原典に従っているか, 古典の語句やイメージや思想をどの程度自分のものに作り変えているか, などということが個々の詩人の美意識や学識を判断するよすがとなっていた.[43]

 

 Highet のこの当時の文学的風土を見事に言い表した的確な言葉ほど, 私がこの試論で証明しようと試みたことに対するささえを与えてくれるものはないと思われる. このルネッサンスの詩人たちの創作態度はソネット1 番を書いたときの Sh. にそのままあてはまる. そして Sh. Ovid をパラフレーズすることに於いて見事に成功しているのである.

 

 

IV

 

 以下蛇足になるが, ソネット1 番について註釈書に書かれていないと思われることで気付いたことをメモしておきたい.

 3-4 行目 “But as the riper should by time decease, / His tender heire might beare his memory” に於ける “riper” は形容詞の比較級であるが, それと同時に OED, Ripe v, 1 に出ている “To grow or become ripe” の意味の動詞 ripe に人を表わす接尾辞 -er を付けた riper, すなわち <成長していく者> の意味にも取れる. 老齢を暗示する “riper” に対比されている “tender” <若い> を意味する形容詞だが, 上に述べたように “riper” を動詞プラス接尾辞と取るとき, これとの対照によって “tender” もやはり, <気を使う, 世話する> という意味の動詞 tend プラス人を表わす接尾辞 -er となり, tender <世話人, 看護人> という意味に取れる. するとこの 2 行は, 父親である君 (=riper) がやがて死なんとするとき, それまで老いていく (=ripe) 君の世話をしてくれていた (=tend) 君の若い (=tender) 世継が君の臨終を看取ってくれる (=tend) から君はさみしい死に方をすることもないだろう, そして君の面影を伝えてくれる (=beare his memory) 父親似の君の息子がやはり君そっくりの孫を生む (=beare) だろう, という風に読める. 3 行目の “by time” OED, Time, 30 に出ている “in good time, early” (間もなく) という意味が最も近いだろうが, “time” を文字通り <> すなわちソネット19 番の “devouring time” (Ovid tempus edax rerum) の意味に取って,「時の破壊力によってやがて君が死ぬとき」という意味もあることを忘れてはならないと思われる. 同じ “tender” という語は 12 行目 “And tender chorle makst wast in niggarding” に於いても再び使用されている. この場合 “tender” という形容詞には <若い> という意味の他に <優しい>, <愛情のこもった> という意味が含まれていて, その次の <けちん坊> という意味の他に <粗野で無骨な人間> という意味を持つ “chorle” という名詞の反意語となり, “tender chorle” 全体で一種の oxymoron を形成している. 前に Ovid () の箇所「しかしその若くしなやかな姿には冷酷な高慢が宿っていて」(sed fuit in tenera tarn dura superbia forma) という行を引用しておいた. この箇所の “tenera” という語を「若くしなやかな」と訳しておいたが, この “tenera” という形容詞 (男性主格形は tener) には (1) <柔らかい>, (2) <若い>, (3) <情愛ある> などの意味があり, したがって “tenera forma” (1) <しなやかな姿>, (2) <若々しい姿>, (3)<情愛あるやさしい姿> というような意味が全部一体となっている. そして “dura” という形容詞 (男性主格形は durus) (1) <硬い>, (2) <粗野な>, <無骨な>, (3) <無情な>, <冷酷な> などの意味を持ち, “tenera” の反意語である. したがって Ovid の「 tenera な姿の中に dura な高慢が存在する」という表現は oxymoron を形成していて, この場合 “tenera” という語と “dura” という語との対立は, “sed fuitin teneratamdura superbiaforma” という hexameter の詩行のほぼ中ほどに, caesura を間にはさんで対峙することによって (tam という軽い語はこの場合一応無視する) いよいよ際立てられている. そしてこの “tenera” (tener) というラテン語こそ tender という英語の正真の語源であって, ソネット1 番の中で2 度までも用いられているこの tender という語を, あるいは Sh. は語源を意識しつつOvid のこの行の言葉から思い付いたのではあるまいか. そして “tender chorle” という oxymoron , “tenera” “dura” というラテン語の反意語の組み合わせに正確に対応している. これは偶然の一致にしてはあまりにも似すぎていると言わなければならない. なお, () の「しかしその若くしなやかな姿には冷酷な高慢が宿っていて」(sed fuit in tenera tam dura superbia forma) の箇所は Golding 訳では “But in that grace of Natures gift such passing pride did raigne,” となっていて, Ovid の原典に潜在する oxymoron が無くなっている.

 11 行目の “Within thine owne bud buriest thy content” には, マタイ伝のタラントの譬話のように宝 (content) を埋めて隠しておく, あるいはひとりじめするという意味と, 結婚せず自分自身に魅せられて自己満足 (content) しているという意味との他に, “buriest” (=entomb 埋葬する) という語と 14 行目の “grave” という語との連想によって死産のイメージが感じられるということを, たいしたことではないがついでであるので付け加えておきたい.

 

 

 

 引用文中のイタリックは筆者によるものである.

 



[1]  (1) 高橋康也「ソネット集」, 小津次郎編『シェイクスピア・ハンドブック』(南雲堂, 1972), p.118.

 

[2]  (2) Dover Wilson (ed.), (The New Shakespeare) The Sonnets (Cambridge U.P., 1969), p.xxx.

 

[3]  (3) この問題に関して詳しくは James Winny, The Master-Mistress: A Study of Shakespeare's Sonnets (Chatto & Windus, 1968), pp.26-59 を参照.  Winny 33-35 番の 3 篇のソネットを分析し, その相互間の矛盾を指摘して次のように述べている.

“Such inconstancies occurring within so many groups of related sonnets should make it impossible to believe that Shakespeare is describing his own experiences, or even telling a connected or purposeful story.... The poet seems to have a general sense of the conditions which he intends to explore, but not to have committed himself by fixing its circumstances in advance.”

 

[4]  (4) “The Order of the Sonnets”, Shakespearean Gleanings, pp.111-124.  D. Wilson, p.xxix に引用されている.

 

[5]  (5) テキストは Martin Seymour-Smith (ed.), Shakespeare's Sonnets (Heinemann, 1976) を使用.

 

[6]  (6) C. S. Lewis, English Literature in the Sixteenth Century excluding Drama (Oxford U.P., 1973), p.503.

 

[7]  (7) D. Wilson, pp.xcv-ci.

 

[8]  (8) J. W. Lever, The Elizabethan Love Sonnet (Methuen, 1974), p.189.

 

[9]  (9) 中島文雄, 寺沢芳雄編『英語語原小辞典』(研究社, 1964) を参照.  S. v. Nature, pp. 278-279.

 

[10]  (10) テキストは G. Blakemore Evans (ed.), The Riverside Shakespeare (Houghton Mifflin, 1974) を使用.

 

[11]  (11) Lever, p.190.

 

[12]  (12) Thomas Wilson, Arte of Rhetorike (1584), p.47.  Lever, p.190 に引用されている.

 

[13]  (13) これは Lever の指摘による.  p.191.

 

[14]  (14) テキストは Gerald Bullett (ed.), Silver Poets of the Sixteenth Century (Everyman's Library) を使用.  pp.269-270.

 

[15]  (15) これも Lever の指摘による.  p.191.

 

[16]  (16) テキストは Christopher Marlowe, The Complete Poems and Translations (Penguin Books) を使用.  p.24.

 

[17]  (17) Marlowe, p.24.

 

[18]  (18) Lever, p.192.

 

[19]  (19) 川西進編, Shakespeare's Sonnets (鶴見書店, 1971), pp.viii-x を参照.

 

[20]  (20) D. Wilson, p.cxiv を参照.

“That Shakespeare read his Sidney, his Spenser, his Daniel and his Drayton, together with other English sonnet-writers, among his elders and contemporaries, goes without saying.  But though it is clear that both Daniel and Drayton learned from him, what he may have owed to them seems quite uncertain.”

 

[21]  (21) このことについては D. Wilson, p.91 の次の言葉を参照.

“It is natural that Sonnet I should be the most formal as it is artistically the most finished of the series, for it was important to arrest attention at the outset, and Shakespeare must have spent much time over it.”

 

[22]  (22) J. B. Leishman, Themes and Variations in Shakespeare's Sonnets (Huchinson University Library, 1968).

 

[23]  (23) D. Wilson, p.cxv.

 

[24]  (24) D. Wilson, p.cxix.

 

[25]  (25) Leishman, p.31-32.

 

[26]  (26) D. Wilson, p.cxv.

 

[27]  (27) D. Wilson, p.93.

 

[28]  (28) Ovid の伝統に関する以下の記述は M. M. Reese (ed), Elizabethan Verse Romances (RKP, 1968), pp.1-7 を参照.

 

[29]  (29) Reese, pp.6-7.

 

[30]  (30) C. P. Watson and A. C. Reynell (eds.), Ovid's Metamorphoses: Selections (Faber and Faber, 1968), pp.12-13.  そして R. K. Root, Classical Mythology in Shakespeare Sh . に見られる神話的題材はほとんど全部直接 Ovid から取ったもので, 残りは極く僅かな例外を別として Virgil から取ってあると指摘している, とのことである.  Gilbert Highet, The Classical Tradition: Greek and Roman Influences on Western Literature. 柳沼重剛訳『西洋文学における古典の伝統, 上巻』(筑摩書房, 1969), p.320 を参照.

 

[31]  (31) Highet, (邦訳) p.211 を参照.

 

[32]  (32) D. Wison, p.xviii に引用されている.

 

[33]  (33) D. Wison, p.cxiv.

 

[34]  (34) Highet, (邦訳) p.211.

 

[35]  (35) D. Wilson, pp.cxvi-cxvii.

 

[36]  (36) Highet, (邦訳) p.321.

 

[37]  (37) Highet, (邦訳) p.321.

 

[38]  (38) テキストは (Loeb Classical Library) Ovid III: Metamorphoses I, with an English translation by Frank Justus Miller (Heinemann, 1971) を使用.  pp.148-160.

 

[39]  (39) Herbert Grierson (ed), Donne: Poetical Works (Oxford, 1973), p.15.

 

[40]  (40) 例えば Dover Wilson;  W. G. Ingram and Theodore Redpath などのテキスト.

 

[41]  (41) Martin Green, The Labyrinth of Shakespeare's Sonnets (Charles Skilton, 1974) には1609 年版のコピーが載っている. p.103.

 

[42]  (42) Golding 訳のテキストは Arthur Golding, The XV Books P. Ouidius Naso, entytuled Metamorphosis (Willyam Seres, 1567) を使用.

 

[43]  (43) Highet, (邦訳) pp.207-208.

 

 

 

 

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