Orgoglio エピソードの意味するもの

――The Faerie Queene とパウロの神学――

野呂俊文

 

 

The Orgoglio Episode

――The Faerie Queene and St. Paul’s Theology――

Toshifumi Noro

 

 

 

 

 The Faerie Queen の第1, 第7―8篇で語られる Orgoglio エピソードは, 1巻の中でもその中心をなす最も重要な箇所であると考えられる. それは, このエピソードにおいて, 主人公である赤十字の騎士の堕落が決定的なものとなるからである. スペンサーは第1巻前半で騎士の様々な <罪>――<高慢>, <怒り>, <情欲> などの <罪>――を周到に描き, そしてこのエピソードに至って, その騎士の <罪> が決定的なものとなることを明らかにする. また, Orgoglio はきわめて内容の豊かな登場人物であって, 騎士に下る <天罰> という側面と, 騎士の持つ様々な <罪> を体現した, いわば騎士の <分身> としての側面という, 二つの側面を持っている. <神聖の騎士> を主人公とするこの第1巻は The Faerie Queene の中でも特に神学的色彩が濃厚に出ている巻である. 1巻とパウロの神学とのつながりが, まだ十分に認識されていないように思われるが, スペンサーが第1巻の思想的骨格として用いたのは, 何よりもまず『新約聖書』のパウロの神学であった, と筆者は考える. 以下, 必要に応じてパウロの神学を引き合いにだしながら, Orgoglio エピソードを考察し, 筆者なりの註釈を加えたいと思う.

 

I

 

 『高慢の館』に逗留していた赤十字の騎士は, 従者の小人 (こびと) から地下牢で様々な罪を背負って苦しんでいる囚人の群のことを聞き, Duessa の不在の間に裏口からこっそり逃げ出す. 騎士が泉のそばの木蔭で甲冑を脱いで休んでいると Duessa が追ってくる. 二人が戯れていると, 突然, 普通の人間の三倍も身の丈のある巨人Orgoglio が襲ってくる. 甲胃も着けず, 力も弱っている騎士に勝ちめはなく, 巨人の振り下した棍棒のあおりを受けて転倒し, 気を失ってしまう. 巨人は騎士を打ち砕いてしまおうとするが, Duessa の言葉を受け入れ, 騎士を奴隷にして, Duessa を自分の恋人にする. 小人が主人の武具を拾って逃げていくと, Una に出会う. 二人はたまたま通りかかった Arthur に助けを求める.  Orgoglio の城の前で Arthur の小姓が角笛を吹き鳴らすと, 城の扉は残らず開き, Duessa と戯れていた巨人があわてて駆け出して来る.  Arthur は巨人と, 巨人が Duessa に与えていた七つの頭を持つ怪獣とを倒したあと, 地下牢に監禁されていた赤十字の騎士を救出する. 一同は Duessa を裸にして, その醜い姿を暴いたあと, 逃がしてやる.

 

 以上が Orgoglio エピソードの粗筋である. 次に, 表現とイメージをもう少し詳しく見ていきたい.

 

騎士が泉のそばの木蔭で甲胃を脱いで休んでいる所へ, 魔女 Duessa がやってくる.

 

Ere long she fownd, whereas he wearie sate,

To rest him selfe, foreby a fountaine side,

Disarmed all of yron-coted Plate,

And by his side his steed the grassy forage ate.

 

He feedes vpon the cooling shade, and bayes

His sweatie forehead in the breathing wind,

Which through the trembling leaues full gently playes

Wherein the cherefull birds of sundry kind

Do chaunt sweet musick, to delight his mind.

                          (1. 7. 2--3)

 

魔女が, 自分を置き去りにした騎士に恨みごとを言ったあと, 二人は楽しく語らい合う.

 

Vnkindnesse past, they gan of solace treat,

And bathe in pleasaunce of the joyous shade,

Which shielded them against the boyling heat,

And with greene boughes decking a gloomy glade,

About the fountaine like a girlond made.

                                                 (1.7.4)

 

 この木蔭は <そよ風>, <緑の葉>, <烏の歌声>, <泉> などのそろった典型的な locus amoenus (pleasant place) となっているが, それにもかかわらず, ここに出ている表現やイメージのいくつかは, ここまで読み進んできた読者にとっては, 不吉な連想を伴うものとなっている. この木蔭は <小鳥たちの甘い歌声> (the birdes sweete harmony) (1. 1. 8) の聞える Wandering Wood , Fradubio FræIissa の変身した木々を連想させる. 前者は一度迷い込めば抜け出すことのむつかしい『迷妄の森』であり, その奥には Error という名の恐しい怪獣が待ちうけていた. また, Fradubio は恋人 Frælissa を捨てて, 代わりに Duessa を魔女とは知らず恋人とし, 結局, Frælissa と共に呪われた木に変えられてしまったのである. 赤十字の騎士も, Una を捨てて, 倒した相手 Sansfoy の恋人であった Duessa を自分の恋人にしようとしていたのであって, この Fradubio の身の上話は, 騎士に彼自身の姿を映し出し, 警告を与える鏡の役を果していた. 特に, この Fradubio エピソードの初めの部分――赤十字の騎士と Duessa の二人が二本の木の蔭で休む部分――, 上の引用箇所との表現上の類似が著しい. 両者の表現を比較して, 類似の語句を拾うと次の表のようになる.

 

(Orgoglio エピソード)

(Fradubio エピソード)

1  rest him self (1.7.2)

rest their weary limbs (1.2.29)

2  cooling shade (1.7.3)

coole shade (1.2.29)

3  the breathing wind/ Which through the trembling leaues full gently plays (1.7.3)

greene leaues trmbling with euery blast (1.2.28)

4  pleasaunce (1.7.4)

pleasaunce (1.2.30)

5  ioyous shade (1.7.4)

a calme shadow (1.2.28)

6  shielded them against the boyling heat (1.7.4)

in hope themselues to hide/ From the fierce heat (1.2.29)

7  a girlond (1.7.4)

a girlond (1.2.30)

 

 Fradubio エピソードの場合も, 今問題にしている Orgoglio エピソードの場合も共に, 赤十字の騎士は焼けつく陽射しを避けて木蔭に腰をおろし, Duessa と楽しげに語らい合う. 情況は同じである. 前者の場合, 羊飼も恐れて近づかない呪われた二本の木があり, 後者の場合, その水を飲めば力が抜けていく呪われた泉がある. すなわち, 両者とも表面 (appearance) locus amoenus と見えながら, 実際 (reality) には共に <呪われた場所> であって, 赤十字の騎士にとっては <情欲の罪> への誘惑の場所となっている. <情欲> (lust) Fradubio の犯した <罪> (sin) であり, 赤十字の騎士の場合, 枝を折ったとき木が身の上話をすることになって, この <罪> の決定的な実現が中断されていたのであった.

 <girlond () がこの <情欲の罪> の象徴として用いられていることに注意したい. Fradudio は魔女にバラの girlond を与え, ついには呪われた木に姿を変えられたが, 赤十字の騎士の場合, 木の枝で girlond を作って魔女に与えることは実現できなかった. しかし, 今や騎士は, 枝が girlond のように取り巻いている呪われた泉から水を飲み, Fradubio が犯したのとまったく同じ <罪> を犯そうとしている. このように, スペンサーは同じような情況, 同じ語句を繰り返すことによって表現に奥行きと象徴性を付与するのである. したがって, この第7篇の初めの部分で用いられている語句にはこれまでの意味の重みがいわば充電されていて, ここまで作品を読み進めてきた読者が受け取る重層的効果は, いきなりこの箇所を読んだ場合の印象とは, 著しく異なる筈である.

 騎士の馬が草を食べているように, 騎士自身についてもやはり <食べる> というイメージを用いて, ‘He feedes vpon the cooling shade’ (1. 7. 3) と述べられている. これは <七つの大罪> の一つである Gluttony を読者に連想させる. 他の衣服は暑くて着ておれない Gluttony , ぶどうの葉を衣がわりに身に着けている (1. 4. 22) , 同様に, 騎士も甲胃を脱ぎ捨てて,「汗ばんだ額をそよ風に浸す」(1. 7. 3) のである. また, Gluttony は「酒や食物に溺れて, 敵と味方の区別もつかないほどであった」(Whose mind in meat and drink was drowned so, / That from his friend he seldome knew his fo.) (1. 4. 23) , 「敵と味方の区別もつかない」という表現は, Falsehood (=Duessa) Truth (=Una) の区別もつかない赤十字の騎士にそのままあてはまる. Gluttony については, ‘His dronken corse he scarse vpholden can.’ (1. 4. 22) と述べられているが, この ‘dronken’ という語を「泉の水を飲んだ」という意味に代えれば, やはり騎士にあてはまる. 騎士は地下牢から Arthur によって救出されたとき, ほとんど立っていることもできないのである (‘Whose feeble thighes, vnhable to vphold / His pined corse, him scarse to light could beare.’ 1. 8. 40) .

 さて, 引用文で ‘bayes’ (1. 7. 3) (=bathe. OED による唯一の引用例) 及び ‘bathe’ (1. 7. 4) という語が用いられているが, この <水に浸す> というイメージ, あるいは <水> のイメージに注目したい. この作品では, <水> erotic motif であり, 同時に <無意識 (眠り) への退行>, <任務の忘却> を象徴すると考えられる. たとえば, Archimago に言いつけられた悪霊は, <夢の神> Morpheusのもとへ行くとき水の世界を通っていく ( ‘He making speedy way...through the world of waters wide and deepe, / To Morpheus house doth hastily repaire.’ 1. 1. 39) . また.

 <夢の神> の館は海底の地の下にあり, <海の女神> Tethys Morpheus の濡れたベッドを絶えず洗う ( ‘there Tethys his wet bed / Doth euer wash’ 1. 1. 39) と描写されている. また, 騎士は Archimago の庵で ‘drownd in deadly sleepe’ (1. 1. 36) [1]  の状態にあるとき, 魔術によって <淫夢> を見せられる.

 

And made him dreame of loues and lustfull play,

That nigh his manly hart did melt away,

Bathed in wanton blis and wicked ioy.

                                             (1. 1. 47)

 

 この引用文でスペンサーは, <眠り> という <無意識への退行> から, <夢>, そして <快楽>, <情欲> へとつながるイメージ連鎖 (image cluster) を明確にして, それらを <溶ける>, <水に浸る> というような <水> のイメージと結びつけている. そして, この確立されたイメージ連鎖をふまえた上で, ‘bathe in pleasaunce of the ioyous shade’ (1. 7. 4) と叙述する. つまり, この表現は表面はただ「木蔭の涼を楽しんだ」と述べているに過ぎないのであるが, 実際にはその表面の意味以上のものを読者の心に喚起することになる. bathe ―― pleasaunce ―― shade という一連の語は <水――任務の忘却――快楽――情欲> というイメージ連鎖を呼び起こし, この <水> のイメージによって第7スタンザのPourd out in loosnesse on the grassy grownd’ (1. 7. 7) という決定的な一行へとつながっていく. このように, ここでもスペンサーは, 語句の繰り返しによって確立したイメージによって, 表面の意味以上のものを表現に付与するという技法を用いているのである. 次に, 今引用した ‘Pourd out in loosnesse...’ という一行の意味を考えてみたい.

 騎士が呪われた泉とは知らずにうつ伏せになって泉の水を飲むと, ただちに全身の力が抜けていく. スペンサーはそれからこう叙述する.

 

Yet goodly court he made still to his Dame,

Pourd out in loosnesse on the grassy grownd,

Both carelesse of his health, and of his fame.

                                              (1. 7. 7)

 

 この一節で問題になるのは, ‘pourd out’ という語句である.  OED pour out の定義の所で, ‘In pa. pple.  poured out=L. effusus, diffusus, spread out diffusely’ と説明している. 細江逸記氏もその註釈書で,Pourd out=lying about, lounging. 元々 ‘spread out’ 程の意味. 英語としてはあまり普通の言方ではなく, 恐らくclassical influencesの一つと見るべきであろう.[2]  と述べている.  A. C. ハミルトンは, やはり OED をふまえて, ‘the Lat. effusus, spread out; hence stretched out,’ と述べたあと, ‘The phrase expresses his dissipation: sexually expended and exhausted, he is like the water he drank.’ [3]  と適切な註を付けている. 熊本大学スペンサー研究会訳では, この一節は,「だが騎士は, 草の上にだらしなく寝そべっている連れの婦人になおもやさしい言葉をかけ, 自分の身の安全や名誉のことなど気にも止めずにいた.」と訳されている. (この訳は, 2行目を ‘his Dame’ にかかる修飾語, 3行目を主語 ‘he’ にかかる修飾語と取っていて, 少し不自然な気がしないでもないが, 文法的にはこの解釈も可能である. しかし, 筆者は2行目も3行目も共に主語 ‘he’ の修飾語と考える.)

 上に紹介した4つの解釈は, いずれも ‘pourd out’ を基本的には <身体を伸ばす>, <寝そべる> の意味に取っている点で共通している. The Oxford Latin Dictionary (1982) によれば, 確かに, pour の意味のラテン語 fundere には受動態で ‘be stretched out (on the ground, etc.)’ (OLD, 13a) という意味があり, また effundere (=pour out) にも再帰用法, あるいは受動態で ‘let oneself sink down so as to lie outspread’ (OLD, 13b) の意味がある. しかし, テキストの ‘pourd out’ を単に <寝そべる> の意味にだけに取るのは, 不十分なように思われる.

 OED が記しているように, スペンサーは ‘pourd out’ をラテン語 effusus の訳語として用いていると思われるので, この元の形 effundere の定義のうち, 関係のありそうなものをOLD から拾ってみる.

 

1  pour out, off, or away  (liquids)  (OLD, 1)

2  discharge from the body  (OLD, 3b)

3  expend, use up (one’s strength or energy)  (OLD, 11b)

4  (refl. or pass.)  let oneself sink down so as to lie outspread  (OLD, 13b)

それから, effusus の項にはこうある.

5  (of persons, with inacc.)  extremely prone (to some weakness)

この5の定義よりもC. T. Lewis (ed.), Elementary Latin Dictionary (Oxford, 1977) effundere に与えている定義の方がより分かりやすいので, そちらも引用すると,

5(with se) abandon oneself, give up, indulge.  (passive participle) abandoned, given up.

とあり, 例文として ‘se in aliqua libidine [effundere]’ (或る欲望に身をゆだねる);  ‘milites in licentiam effusi’ (放縦に溺れた兵士たち) が載っている.

 

 スペンサーはこの 5′の意味で pour out, あるいはそれと同義の pour forth を用いることがある.  F. Q. からの用例を示すと, ‘But poured out in pleasure and delight’  (快楽にふけって) (2. 2. 36) ;  ‘For she was giuen all to fleshly lust, / And poured forth in sensual delight, / That all regard of shame she had discust, / And meet respect of honour put to flight.’ (女王は情欲に溺れ, 官能の喜びに浸っていたので-) (3. 1. 48) がある. これらの例文では, poured out, poured forth がいずれも <官能の喜びにふける> という意味で用いられていて, 次に <ふける> 対象を示す前置詞 in が続いている. これはラテン語の effusus にやはり前置詞 in が伴っているのに対応している. テキストの ‘pourd out in loosnesse’ という句も, やはり基本的にはこれらの例文と同じ意味ではないかと筆者は考える. 勿論, この句は多義的であって, 註釈書などが指摘するように, 「草地に <だらしなく> (in loosnesse) 身体を伸ばして横たわって」(pourd out=effundere 4) という意味でもあるのだが, それと同時に, 「草地で <情欲の行為> (loosnesse=OED, 3.  licentiousness, lewdness) にふけって」という意味でもあることを無視することはできない. むしろ, この後者の方が第一義的な意味であると思われる.

 さて, 赤十字の騎士が <理性> <怒り> によって曇らせてしまったのは, Archimagoの庵で, 悪霊の化けた偽の二人が情事を演じるのを見せられたときであった. そこはこう叙述されている.

 

Who [=Archimago] soone him brought into a secret part,

Where that false couple were full closely ment

In wanton lust and lewd embrαcement:

Which when he saw, he burnt with gealous fire,

The eye of reason was with rage yblent.

                                               (1. 2. 5)

 

 これは, 騎士が <理性> (reason) を失い, <罪に支配された体> (το σωμα τησαμαρτιας, the body of sin) (Rom. 6: 6) となって, 彼の堕落が始まる決定的な場面である. ここで, いわば <罪> の種子が, <情欲の行為> (wanton lust and lewd embracement) を見ることによって騎士に植え付けられた. これが第7篇の ‘Pourd out in loosnesse on the grassy ground’ というやはり決定的な場面で, こんどは騎士自身の <情欲の行為> (lust in action ―― Shakespeare, Sonnet 129) として実を結ぶことになる. ‘In wanton lust and lewd embracement’  (1. 5. 2) ‘in loosnesse’  (1. 7. 7) という二つの句は同義であり, 違いは前者が ‘false couple’ に属すが, 後者が騎士自身に属すという点だけである. appearance として騎士の目から入り込んだ <情欲の罪> , ここに至って騎士自身の reality となったのである.

 筆者がこのように, ‘Pourd out in loosnesse on the grassy grownd’ の一行にこだわるのは, これが第1巻全体の中心になる一行, 騎士の <罪> が決定的となったことを示す重要な一行であると考えるからである. これは第1巻全体のちょうど真中にあたり, ここで <神聖の騎士> はもうこれ以上堕ちることができない地点まで堕ちたのである. 彼はこの直後にOrgoglioの襲撃を受けて破れ, 奴隷となって, いわば牢獄での死を経験するが, これはこの <罪> の必然的結果に過ぎない. パウロによれば, 「罪の報酬は死である」(the wages of sin is death) (Rom. 6: 23) からである.

 ところで, ‘pourd out in loosnesse’ は含畜に富む表現である. 以前, 夢を見せられたときにも, 「彼の雄々しい心は溶けた」(his manly hart did melt away) (1. 1. 47) のであったが, 今や, 呪われた泉の水を飲んだため,「血は冷えて溶け」(chearefull bloud…did melt) (1. 7. 6) , 彼はあたかも溶けて水になったごとくに, 地面に <注がれた> (pourd out=effundere 1) 状態となった. ここには, <溶ける> というイメージが一貫して用いられている. 泉の水を飲んだ効果は, 次のように描写されている.

 

Eftsoones his manly forces gan to faile,

And mightie strong was turnd to feeble fraile.

His chaunged powres at first them selues not felt,

Till crudled cold his corage gan assaile,

And chearefull bloud in faintnesse chill did melt,

Which like feuer fit through all his body swelt.

                                                 (1. 7. 6)

 

 徐々に, (こご)らせるような寒けが騎士の心を襲い, 生き生きとした血は冷えて弱まって溶け, 寒けと衰弱が熱病の発作のように全身に広がるのである. これは,  J. W. シュローダーがそのすぐれた論文の中ですでに指摘しているように, アリストテレスによって述べられている, 性行為に伴う faintness chill という症候を示している. [4] シュローダーは主としてアリストテレスの『問題集』から引用しているが, アリストテレスの『動物発生論』を見ると, ‘Semen when it leaves the animal is thick and white, but when it cools it becomes fluid like water.’ [5] と述べられており, さらに ‘semen is pretty certainly a residue from that nourishment which is in the form of blood.’ [6] とある. すなわち, アリストテレスの生理学によれば, semen は血液という栄養物の過剰物であり, 最初は濃くて白いが, 冷ると溶けて水のようになる, というのである. そして,  ‘the sequel to sexual intercourse is exhaustion and weakness.’ [7] とアリストテレスは述べている. また, シュローダーも引用しているように, 『問題集』には,  ‘When [semen] leaves the body, men are generally relaxed and chilled.’ [8] とある.

 テキストの ‘chearefull bloud in faintness chill did melt’ (1. 7. 6) という表現は, アリストテレスの説明にあてはめれば, 騎士の血液が semen となってejaculateされ, 冷えて <溶けた>  (did melt) ことを表わしている. その結果, 騎士の体は <消耗され> (pourd out=effundere 3:  expend, use up) [9]  つくして, <弛緩> (in loosnesse) してしまったのだと考えられる. また, ‘pourd out in loosnesse’ における ‘loosnesse’ , 同じスタンザの中で魔女が ‘his looser make’  (いとも淫らな連れ) と表現されていることを考えれば, 魔女の体を指す abstract for concrete と取ることも可能である. ‘in’ という前置詞を, 対格を伴うラテン語 in の意味, すなわち英語 into の意味に取れば, ‘pourd out’ discharge from the body (=effundere 2) の意味となって, lust in action の露骨な描写となるであろう. このように, 1巻全体の中心と思われるこの ‘pourd out in loosnesse on the grassy ground’ の一行は多義的で, 含蓄が豊かであることが分かる.

 以上で, スペンサーの一見曖昧で, ぼかした表現にもかかわらず, 騎士が犯すことになった決定的な <罪> とは, <情欲の罪> であることが明らかになった. このことは, Despair ‘Thou hast…sold thy selfe to serve Duessa vilde, / With whom in all abuse thou hast thy selfe defilde.’  (1. 9. 46) という言葉によっても確められる.

 ‘Pourd out in loosnesse...’ の次の行 ‘Both carelesse of his health, and of his fame’ (1. 7. 7) , 騎士が本来の任務も忘れて <怠惰の罪> にも陥っていることを示している.[10] Archimago が悪霊で作り上げた <偽の騎士> , ‘Like a young Squire, in loues and lustyhed / His wanton dayes that euer loosely led, / Without regard of armes and dreaded fight’ (1. 2. 3) と描写されていたが, ‘in loosnesse’ の状態にあり, ‘carelesse of his fame’ と述べられている赤十字の騎士は, 彼自身 <偽の騎士> と同じ姿になり果てたのである. <七つの大罪> の一つであるIdleness , <罪をはぐくむもの> (the nourse of sin) (1. 4. 18) と形容されている. また, 作者は第5篇の冒頭で, 「高潔な思いを抱き, 輝く大志を宿している気高い心は, 至高の名誉という永遠の子を生み出すまでは休むことを知らぬものである」(1. 5. 1) とも述べている. 騎士たるものがすっかり武具を脱いで (‘Disarmed all of yron-coted plate’ 1. 7. 2) 休むというのは, <怠惰> 以外の何ものでもない.

 オウィデイウスの『転身物語』第4巻の Hermaphroditus Salmacis の物語を下敷きにした泉の挿話は, ハミルトンも指摘しているように, <怠惰> の象徴と考えられる.[11] 女神ダイアナが供の者たちを引き連れて狩をしていたとき, この泉の水の精は, 焼けつく暑さに疲れて, 狩の最中に腰をおろして休んだ. そのため, 女神の怒りを招き, 泉はその水を飲む者の力を失わせるという呪われた泉になった, とスペンサーは述べている.「狩の最中に腰をおろして休んだ」(1. 7. 5) 水の精は, そのまま,「任務の最中に武具を脱いで腰をおろして休む」騎士の姿を映したものとなる. アーサー・ゴールディングは『転身物語』の英訳に付けた書簡の中で,

 

Hermaphrodite and Salmacis declare that idlenesse

Is cheefest nurce and cherisher of all voluptuousnesse,

And that voluptuous lyfe breedes sin: which linking all toogither

Make men too bee effeminαte, unweeldy, weake and lither. [12]

 

と述べて, <怠惰> <情欲> を導き出し, <情欲の罪> <衰弱> をもたらすことを明らかにしている. この <怠惰――情欲> というパターンは, 7篇の今問題にしている箇所にあてはまるだけでなく, 作品の最初から存在していたものである. すでに見たように, ‘still drownd in sleepe’ (1. 4. 19) と述べられている Idleness と同様, ‘drownd in deadly sleepe’ (1. 1. 36) の状態にあったとき, 夢を見せられて <情欲> を覚えたのが, そもそも赤十字の騎士の堕落のきっかけであったからである.

 

 

II

 

 Orgog1io はこの作品の中で複雑な複合的意味を持つ登場人物である. 大きく分けて, Orgoglio は二つの側面を持っていると思われる. 赤十字の騎士にふりかかる <天罰> としての側面と, 騎士の <罪> を集約した <分身> としての側面とである.

 まず, <天罰> としての側面を見てみたい.  Orgoglio , 無防備の状態で <情欲の罪> にふける赤十字の騎士のもとに現われるが, そこは,  ‘at the last’ というように,  <最後の審判> (the Last Judgement) を思わせる叙述となっている.

 

Till at the last he heard a dreadfull sownd,

Which through the wood loud bellowing, did rebownd,

That all the earth for terrour seemd to shake,

And trees did tremble.  Th’ Elfe therewith astownd,

Vpstarted lightly from his looser make,

And his vnready weapons gan in hand to take.

                                                  (1. 7. 7)

 

 Orgoglio はこのように <地震> (earthquake) を思わせる描写がされている. これは彼が <神の怒り> (the wrath of God) として, <地震> の形で騎士を襲ったのだとも解釈できる. たとえば『イザヤ書』には, 「万軍の主は雷, 地震, 大いなる叫び, つむじ風, 暴風および焼きつくす火の炎をもって臨む」(Isa. 29: 6) とある.  Orgoglio <地震> としての側面は, その母である <大地> <うつろな胎> (hollow womb) (1. 7. 9) に父である風の神Æolus <風> () を吹き込んだため, <大地> が身ごもって, Orgoglio が生れたという, その出生にも表われている. アリストテレスによれば, <地震> は大地の深い洞穴に押し込まれた <風> によって起こるとされていたからである.[13] 

 また, Orgoglio <雷> (thunder) としての側面は, Arthur との戦いのときの描写に見られる.  Orgoglio の一撃は Jove <雷電> (thunderbolts) (1. 8. 7) , そして, その打撃を受けた大地の震動は <地震> (earthquake) (1. 8. 8) に喩えられている.

 

It booted nought, to thinke, such thunderbolts to beare.

                             (1. 8. 7)

 

...The sad earth wounded with so sore assay,

Did grone full grievous vnderneath the blow,

And trembling with strange feare, did like an earthquake show.

                             (1. 8. 8)

 

As when almightie love in wrathfull mood,

To wreake the guilt of mortall sins is bent,

Hurles forth his thundring dart with deadly food,

Enrold in flames, and smouldring dreriment,

Through riuen cloudes and molten firmament;

The fierce threeforked engin making way,

Both loftie towres and highest trees hath rent,

And all that might his angrie passage stay,

And shooting in the earth, casts vp a mount of clay.

                                                   (1. 8. 9)

 

 ここでは, Orgoglio の一撃が <雷電> に愉えられているわけだが, 先に引用した ‘at the last he heard a dreadfull sownd, / Which through the wood loud bellowing, did rebownd, / That all the earth for terrour seemd to shake, / And trees did tremble.’ (1. 7. 7) の一節も, 注意深く読めば,「森中に轟き渡って反響する恐しい物音」とは <雷> のことだと理解できるのであり, その <雷> を恐れて <大地> <震動> したと述べられていることが分かる. また, そこで用いられている ‘loud bellowing’ という言葉は <雷鳴の轟> にも,  <風のうなり声> にも共にあてはまる表現であって (cf. bellow=OED, 4. of thunder, cannon, wind... make a loud hollow noise; roar), 『イザヤ書』に見られる <大いなる叫び> にあたるのである. とにかく, この <雷 地震> というパターンは, 上に一部を引用した第8篇の第79スタンザにおいても繰り返されている. そこでもやはり, <大地> <雷電> の打撃を受けて,「恐怖に身を震わせて, さながら地震のようなさまを呈した」(1. 8. 8) と叙述されていて, <雷電> であると同時に <地震> でもあるという Orgoglio の側面が示されている.

 Orgoglio <地震> であり, 同時に <雷電> でもあるというのは, 一見矛盾するように見えるかもしれない. しかし, アリストテレス (擬アリストテレス) によれば, <雷電> , <地震> と同様に, やはり, <風> によって引き起こされるとされていたのである.[14] その点で, 本来 <風> の息子であり, またそれ自身 <風> と言ってもいい Orgoglio , <地震> を表わすと同時に, <雷電> をも表わすことは, 何ら不思議なことではない. これによっても, スペンサーが, いかにアリストテレスの説に忠実に Orgoglio のこれらの側面を描いているかが分かる.[15] たとえば, 赤十字の騎士は, Orgoglio の棍棒の一撃を受けたとき, 身をかわしたものの,「振り下したときの <風> (wind) のあおりを受けて転倒し, 気が遠くなって」(1. 7. 12) 横たわってしまうのであるが, これなども, Orgoglio <風> であることを考えれば, 容易に納得がいく. この <風のあおり> ,『イザヤ書』に述べられている <神の怒り> としての <つむじ風> に相当するであろう. このように, Orgoglio <地震>, <雷鳴=大いなる叫び> (thunder), <雷電> (thunderbolt), <つむじ風> などの属性は, すべて彼が <風> であるという一点から説明がつくのである. また, これらの属性は, 『イザヤ書』に記されている <神の怒り> の表われであって, <天罰> としての <神の怒り> の擬人化という Orgoglio の側面を明らかにしている.

 ところで, Orgoglio のこの <神の怒り> としての性格は, すでにその名前の中に暗示されていると考えられる. 『新約聖書』で <神の怒り> (the wrath of God) というフレーズが用いられているのは, 『黙示録』とパウロの書簡だけである. <怒り> を表わすギリシア語としては, θυμοσ (thymos) οργη (orge) とがある. 『黙示録』では, <神の怒り> を表現する場合, ο θυμοσ του θεου (Rev. 15: 1, 7;  16: 1) η οργη του θεου (Rev. 19: 15) のように, これら両方の語が用いられているが, 一方, パウロの書簡では, もっぱら οργη θεου (Rom. 1: 18) のように, οργη だけが用いられている. すなわち, パウロのギリシア語の語法に限れば, <神の怒り> という場合の <怒り> (wrath) にあたるギリシア語は, 端的に οργη だと言うことができ, このことは, パウロが οργη という語を単独で <神の怒り> の意味で用いることがあることを見れば, 一層明白となる.[16]  Orgoglio という名前は語源的にいくつかのものを意味しうるが, そのうちの一つはこのギリシア語の οργη (神の怒り) であると考えられる.[17] また, スペンサー自身このことを意識していたにちがいない.

 さて, 先に引用した箇所では, Orgoglio の棍棒の一撃は, <怒った> (in wrathfull mood) (1. 8. 9) 全能の神 Jove が人間の罪を罰するために放つ <雷電> に喩えられていた. しかし, そのとき, 振り下した棍棒は地面に食い込んで抜けなくなり, そのため巨人は Arthur によって左腕を切り落とされてしまうことになる. また, Arthur Orgoglio の一撃を盾に受けて倒れたとき, 偶然にも覆いが取れて, 燦然と輝く盾が露わになる. すると巨人は目がくらみ, 武器を揮う力も, 自分の身を守る力も失い, 自分の命運の尽きたことを悟る. その有様は, 「全能者の雷電が落ちるとき, 見る者の目はくらみ, 感覚は麻痺してしまう」 (1. 8. 21) さまに喩えられている. こうして, 巨人は Arthur によって右足を切り落とされて, 倒れてしまう.

 ここでは, 巨人ではなく, Arthur の方が <雷電>, すなわち <天罰> としての <神の怒り> に喩えられているわけだが, これは一体何を意味するのであろうか. この叙述は, 先ほどの, Orgoglio Jove <雷電> に喩えられていた箇所をパロディー化する効果を持つことになると考えられる. これによって読者は, Orgoglio が実は真の <神の怒り> を表わすのではなくて, <神の怒り> のパロディーに過ぎないことを理解する.  Orgoglio 自身「汚れた罪で満ちた」(1. 7. 9) <罪の塊> とも言うべき存在であって, <神の怒り> とも言うべき Arthur によって滅ぼされることになるのは, 当然の成行きである. この場合, Orgoglio ,「神の奉仕者として, 悪を行う者に怒りをもって報いる」(Rom. 13: 4) ための神の <道具> (οργανον, organon)[18] として利用されている, と解釈できる.  Orgoglio が倒れるさまは,「高々とそびえる円い城」(1. 8. 23) が土台から破壊されて, 崩れ落ちるのに喩えられているが, この「高々とそびえる城」は, たとえば, バベルの塔を思わせる. ここで巨人はアッシリアやバビロンなどの諸帝国, あるいはその暴君に喩えられていると考えられる. これらは「神の民を罰するための神の道具となることはあるが, 高慢な心でその使命を果すために, あとで神に罰せられる」[19] からである.

 以上, Orgoglio <神の怒り> としての側面, もっと正確に言えば, <神の怒り> のパロディーとしての側面を見てきたが, 次に, この巨人の赤十字の騎士の <分身> としての側面を見てみたい. スペンサーは Orgoglio の誕生をこう叙述している.

 

The greatest Earth his vncouth mother was,

And blustring Æolus his boasted sire,

Who with his breath, which through the world doth pas,

Her hollow womb did secretly inspire,

And fild her hidden caues with stormie yre,

That she conceiu’d; and trebling the dew time,

In which the wombes of women do expire,

Brought forth this monstrous masse of earthly slime,

Puft vp with emptie wind, and fild with sinfull crime.

                            (1. 7. 9)

 

 風の神Æolusが大地の洞穴にこの世を吹き渡る自分の息を吹き込んだ結果, この巨人が誕生したわけだが, これは, 言うまでもなく, 『創世記』に述べられているアダム誕生のパロディーである.

 

And the Lord God formed man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living soul.  (Gen.2: 7)

 

 『創世記』の記述によれば, 人間は <大地の土> と神が吹き込んだ <生命の息> という二つのものから成り立っている. すなわち, 人間は地上的な側面と神の息という天上的な側面という二つの面を持つことになる. 人間のこの天上的な側面, <神の似姿> としての側面は, 『創世記』の ‘God created man in his own image.’ (Gen. 1: 27) という記述によっても明らかにされている. ところが, Orgoglioの方は, 天上的な <生命の息> の代わりに, <荒れ狂う怒り> (stormie yre) を吹き込まれた結果, 誕生したのである. 確かにこれは人間のパロディーではあるが, ここには, 人間の持っている <生命の息> としての天上的側面が決定的に欠落している. すなわち, <大地> を母とする Orgoglio , 人間の <土くれ> としての地上的側面のみを誇張し, 拡大したもの, と言うことができる. パウロの用語を借りれば, Orgoglio , Spirit () とは対立するものとしての flesh () の擬人化と考えられる.

 パウロは人間に内在する <堕落した本性> のことを σαρξ (sarx) と呼んでいる. そして, この σαρξ が『欽定訳聖書』では flesh () と訳されている.[20]  flesh (σαρξ) とは, ルドルフ・ブルトマンの『新約聖書の神学』の説明を借りれば, <神と敵対する罪深い力> (a sinful power at enmity with God)[21] のことであり, また, OED の定義によれば, ‘the depraved nature of man in its conflict with the promptings of the Spirit’ (OED, 11) のことである. flesh (σαρξ) Spirit (πνευμα, pneuma, 神の霊) と対立する概念であり, 人間は fleshに従って> (κατα σαρκα) 生きて, <死> へ至ることもできるが, また, Spiritに従って> (κατα πνευμα) 生きて, <永遠の生命> に至ることもできる.[22]  flesh に従って生きることとは, すなわち,「神に敵対する」(Rom. 8: 7) ことであり, <罪> に他ならない.

 Orgoglioはこの flesh を寓意的に体現した人物であり, 赤十字の騎士の中に潜む <罪へと導く堕落した本性> を拡大して, 映し出したものであって, その意味で, 騎士の <分身> と言うことができる. 巨人が flesh を表わしていることは, 先の引用文の, ‘this monstrous masse of earthly slime, / Puft vp with emptie wind, and fild with sinfull crime’ (空しい風でふくれ上がり, 汚れた罪で満たされたこの泥の巨大な塊) という箇所によく示されている. ところで, flesh , <土で作られた> (earthly=OED, 3. consisting of earth) 人間の <地上的> (earthly=OED, 1.  terrestrial. Chiefly with implied opposition to heavenly) 側面を表わす語である.[23] earthly slime’ であり, <罪の塊> (fild with sinfull crime) である Orgoglio , 短く言えば, sinful flesh (σαρξαμαρτιας) (Rom. 8: 3) ということになる.

 赤十字の騎士は, Spirit ではなく flesh に従ったため, <真の自己> を失い, <罪に支配された体> (the body of sin), fleshの奴隷> となってしまう.[24]  Orgoglio は倒した赤十字の騎士を Duessa の忠告に従って <奴隷> (bondslave) (1. 7. 14) として, 地下牢に閉じ込める. これは騎士が fleshの奴隷>, <罪の奴隷>[25] となったことを象徴的に表わしている. したがって, テキスト第8篇冒頭のスタンザにある ‘to sinfull bands made thrall’ (罪の奴隷になる) (1. 8. 1) という言葉は, sinful flesh である Orgoglio の奴隷となった赤十字の騎士のことを言っていると考えられる.

 赤十字の騎士が犯す <罪> には, <怒り>, <高慢>, <情欲> などがあるが, Orgoglio はまたこれらの <罪>, すなわち passions of the flesh (επιθυμια σαρκος) (Gal. 16: 16) の擬人化とも言うことができる.

 Orgoglio <天罰> すなわち <神の怒り> としての側面, もっと正確には <神の怒り> のパロディーとしての側面, を持つことはすでに見たが, この <神の怒り> , 裏を返せば, 悪徳としての <怒り>, すなわち <七つの大罪> の一つとしての <怒り> ということになる.「<怒り> は人間がいだくべき感情ではなく, それはただ神に属す」[26] ものだからである. <大地> Æolus <荒れ狂う怒り> (1. 7. 9) を吹き込まれた結果産み落した Orgoglio , 悪徳としての <怒り> を表わすのは, 当然のことと言えるかもしれない. また, 赤十字の騎士も, Archimago の庵で, 悪霊が化けた偽の小姓と偽の Una とが演じる情事を見せられたとき, <怒り> <理性の眼> (the eye of reason) (1. 2. 5) をくもらせてしまったのが, そもそも彼の堕落の始まりであったことを思えば, Orgoglio <怒り> は赤十字の騎士自身の <怒り> という <罪> を映し出したものであることが理解できる.

 次に, Orgoglio <高慢> の側面を見てみたい. Orgoglio <高慢> (pride) を表わすことは, その名前が <高慢> を意味するイタリア語であることに, すでに明瞭に示されている.  Orgoglio を形容するpuft vp with emptie wind’ (1. 7. 9) という表現は, 文字通りには, 背丈が普通の人間の三倍以上もあるそのふくれ上った巨体を指す. , それと同時に, ‘puft vp’ という言葉は, パウロの ‘vainly puffed up (=φυσιουμενος)[27]  by his fleshly mind’ (「肉」の思いに従って根拠もなく思い上っている) (Col. 2: 18) などの表現に見られるのと同様に, ‘cause to “swell” with pride; make proud or arrogant’ (OED, puff, 5. Usually with up; most commonly in pa. pple. puffed up) をも意味する.[28]  <ふくれる> (swell) という概念を表わすギリシア語は οργαω (orgao) であるが, この οργαω という語は Orgog1io という名前の音の中に含まれている.[29]  Orgoglio の持つ <高慢> の側面は, 彼が自分の生れを <自慢> (cf. ‘And blustring Æolus his boasted sire’ 1. 7. 9) している点や, また,「彼は, 自分が生れた家柄の高いことを鼻にかけ (=through arrogant delight), 自分の力は比類のないものと思って成長したので, どのような力ある者をも騎士をも, 侮っていた (=did scorn) (1. 7. 10) という叙述によって, 明らかにされている.

 パウロの神学では, <自己依存> (self-reliance) の態度は, 生命の授与者である神から顔をそむけ, 自分の力で生命を得ることができると錯覚することであって, それは <罪> であるとされる. この <自己依存> の究極的表現が <自慢> (boasting) という形をとって表われる.[30]  <自慢> という行為の中には, 人間という存在についての誤った理解が暴露されている. パウロによれば, 人間が持っているもので, 神から与えられなかったものは何一つとしてなく, 故に, 人間は高ぶることがあってはならない (I Cor. 4: 6-7). 人間に許される唯一の <自慢> , 主を誇ることだけということになる (cf. ‘He that glorieth, let him glory in the Lord.’ I Cor. 1: 31). したがって, パウロの考えでは, <自慢> あるいは <高慢> , <信仰> とは正反対のものであり,[31] <罪> の最たるものと見なされる. <信仰> とは, 徹底的な <従順> (obedience) であり, いかなる自分の業績をも放棄することだからである.[32]  Orgoglio の態度は, この <高慢の罪> を表わしたものに他ならず, 彼は第7篇の Argument ‘Gyaunt proud’ (高慢な巨人) と呼ばれている. この巨人の <高慢> , 赤十字の騎士自身の <高慢の罪> を拡大して, 映し出したものと考えられる. 9篇で, Despair は騎士に向って, 「お前が, 争いと血と復讐で勝ったと自慢している (=boasts) 大きな戦いも, その時こそ誉められようが, 後ではひどい後悔の種になるだろう」(1. 9. 43) と語っている. パウロと同じように, スペンサーも作品の中で, 人間が自分の力を頼みにして, 自分の力を誇ることが, いかに迷妄に基づく誤りであるかを強調してやまない. それは <信仰> とは矛盾する態度であり, <高慢の罪> 以外の何ものでもないからである.

 

What man is he, that boasts of fleshly might,

And vaine assurance of mortality…?

Ne let the man ascribe it to his skill,

That thorough grace hath gained victory.

If any strength we have, it is to ill,

But all the good is Gods, both power and eke will.

                                                 (1. 10. 1)

 (肉の力を誇り, 終りある身を甲斐なくも信じきっている人間は何という愚か者であろうか. また人間は神の恩寵によって得た勝利を, 自分の力量のせいにしてはいけない. たとえわれに力があるとしても, それは悪へ向かうものであって, すべての善は, 力も意志も共々に, 神のものなのである.)

 

 ここには,「汝をして人と異ならしむる者は誰ぞ, なんぢの有てる物に何か受けぬ物あるか. もし受けしならば, 何ぞ受けぬごとく誇るか.(I Cor. 4: 7) というパウロの神学が, そのまま反映されている.

 <迷忘の森> の中の Error の洞穴の前で, 用心するようにという Una の忠告に対して, 赤十字の騎士は,「美徳 (=vertue) は自らの光によって, 暗闇も通り抜けることができる」(1. 1. 12) と答えるが, この言葉には, すでに騎士の <高慢> が表われていた. しかし, 赤十字の騎士に潜む <高慢の罪> が明白に示されるのは, 彼が Sansjoy との一騎討で勝利を得たあと, Lucifera の前にひざまづく場面においてである. そこをスペンサーはこう叙述している.

 

...he goeth to that soueraine Queene,

And falling her before on lowly knee,

To her makes present of his seruice seene.

                                            (1. 5. 16)

 

 ハミルトンも ‘His falling expresses his fallen state.’ と註を付けているが, Lucifera <高慢> を寓意することを考えれば[33], 赤十字の騎士が今や Lucifera に仕える騎士となったことは, 彼自身の <高慢の罪> を象徴的に示していると言える. 上の引用文中の ‘falling’ という動詞を, 『高慢の館』の裏口に放り出されている多数の死体について述べた件(くだり),

 

Which all through that great Princesse pride did fall

And came to shamefull end.

                                                  (1. 5. 53)

 

‘fall’ (没落する) , また『高慢の館』の地下牢に監禁されている夥しい囚人が没落するに至った原因を述べた件(くだり),

 

         ...after their wofull falles,

Through wicked pride, and wasted wealthes decay.

                                               (1. 5. 51)

 

‘falles’ (堕落+没落) と並べてみれば, ‘falling her before on lowly knee’ という表現が, 騎士の堕落を象徴し, 彼の没落を予示するものであることがはっきりする. パウロは, ‘1et him that thinketh he standeth take heed lest he fall (I Cor. 10: 12) と述べているが, スペンサーは第8篇の冒頭で次のように述べる.

 

Ay me, how many perils doe enfold

The righteous man, to make him daily fall ?

              ・・・・・

So oft as he through his owne foolish pride,

Or weaknesse is to sinfull bands made thrall.

                                               (1. 8. 1)

 

 ここでもスペンサーは, 人間の <堕落> (fall) の原因が愚かな <高慢> (pride) ――すなわち, 生命の根源である神によってではなく, 自己の力によって生きられるとする錯覚――にあることを明らかにして, 赤十字の騎士の堕落の原因もやはり <高慢> にあることを暗示するのである.

 ついでに言えば, この falling (下降+堕落) というイメージは, 1巻の前半で支配的なイメージになっている. たとえば, Archimago に使いにやられた悪霊は, Morpheus <夢> をもらうために海底深く下って行く (1. 1. 39). また, Duessa Nigh , Sansjoy を治療してもらうべく, Æsculapius が監禁されている地獄へ下る (1. 5. 32). <高慢の女王> Luciferaの前にひざまづいた (=fall) 赤十字の騎士の <堕落> (falling) , すでに見た <呪われた泉> の水を飲む件(くだり),

 

And lying downe vpon the sandie graile,

Drunke of the streame, as cleare as cristall glas.

                            (1. 7. 6)

 

‘lying downe’ (身を横たえて) という <下降> のイメージにおいて, その決定的表現が象徴的に与えられている. そのあと, 騎士は Orgoglio の棍棒のあおりを受けて転倒し, 気を失って「地面に横たわる」(lay full low) (1. 7. 12) ことになる. そして, 「地獄のように暗い」(1. 8. 39) 深い地下牢の中で, 地獄の Æsculapius と同様に, いわば地獄の死を経験する. このように, この Orgoglio エピソードにおいて, 赤十字の騎士の failing (下降+堕落) は極まるのである. しかし, 1巻の後半では, 騎士は徐々に <上昇> していって, 『神聖の館』では, 神に選ばれた人々の住む <神の都> (New Hierusalem) を遠望し, 聖人 Contemplation から騎士自身やがて Saint George としてそこに入るという予言を聞かされることになる.

 以上, Orgoglio <高慢> (pride) という側面を持ち, それは赤十字の騎士の人格の一部を映し出したものであることを見た. 次に, Orgoglio が持つ <情欲> (lust) の側面を見てみたい. Orgoglio phallic image でもあることはすでに註11で触れたが, 赤十字の騎士が, 彼の堕落が決定的なものとなるDuessaとの <情欲の行為> にふけっている最中に, Orgoglioに襲われるということは, Orgoglio が騎士の分身として, 騎士の <情欲の罪> を象徴する存在であることを暗示している. Orgoglio が赤十字の騎士の分身であるという事実は, Orgoglio 自身 Duessa と戯れている最中に Arthur によって襲われるというパラレルな情況によって, 一層強調されることになる. Arthur の小姓が巨人の城の前で笛を吹き鳴らすと, 城は土台から揺らぎ, 扉は一つ残らず開いてしまう.

 

The Gyant selfe dismaied with that sownd,

Where he with his Duessa dalliance fownd,

In hast came rushing forth from inner bowre,

With staring countenance sterne, as one astownd.

                                                 (1. 8. 5)

 

 この叙述で, 巨人の心的状態を表わす語として用いられている ‘astownd’ ‘dismaied’ という二個の過去分詞は, 共に, 巨人に襲われたときの赤十字の騎士についても用いられているものであって (1. 7. 7;  1. 7. 11), スペンサーは, このような同一語の反復という技法によっても, 巨人と騎士との同一性を明白にしようとしている. Fradubio Duessa を情婦としたことによって没落したのであったが, 赤十字の騎士も同じく Duessa に対する <情欲> に屈したために堕落して, Orgoglio の奴隷となった. そして, 今度は, やはり Duessa を情婦とした Orgoglio Arthur によって滅ばされることになる. スペンサーは, これら三つの対応する情況を繰り返して parallel structure を作り上げることによって, 三者に共通する <情欲の罪> をより明確にし, Fradubio Orgoglio も共に赤十字の騎士の分身であることを明らかにするのである.

 ところで, Orgoglio <情欲> の側面はすでにその名前によって示されている. οργαω (orgao) というギリシア語が Orgoglio という名前の中に含まれていることを先に見たが, この οργαω という動詞は, swell という基本的な意味の他に, swell with lust; desire sexual intercourse (Liddell & Scott, Greek-English Lexicon) の意味を持ち, orgasm という英語の語源でもある. すなわち, οργαω , <情欲> を表わすが, 同時に, <ふくれ上がる> という意味において <高慢> をも表わし, そして, οργαω と同語源の語である οργη <怒り> を意味する, というように, Orgoglio の主要な三つの属性である <情欲>, <高慢>, <怒り> , すべて Orgoglio という名前に含まれていることになる. この Orgoglio という名は, スペンサーの会心の命名であったことと想像される.

 さらに, すでに見たように, Orgoglio というイタリア語は pride (高慢) を意味するが, 英語の pride という語は, <高慢> という意味の他に, <情欲> (OED, 11.  sexual desire) の意味をも持つ. たとえば, Una を強引にものにしようとする Sansloy , ‘leachour vylde’ (3Argument) とも, また ‘proud Paynim’ (1. 3. 35) とも呼ばれているが, スペンサーはこの Sansloy に関して, 次のように, lust will pride の三語をほぼ同義で用いている.

 

                 lust did now inflame

His corage more.

                                            (1. 3. 41)

 

Who now is left to keepe the forlorne maid

From raging spoile of lawlesse victors will ?

                                             (1. 3. 43)

 

He now Lord of the field, his pride to fill,

With foule reproches, and disdainfull spight

Her vildly entertaines.

                                             (1. 3. 43)

 

 これらの引用文中の ‘lust’, ‘will’, ‘pride’ , いずれも <情欲> の意味で用いられていると解釈して差し支えないであろう. スペンサーは, このように, まず pride という語と lust という語との, <情欲> という意味における同義性を確立したうえで, pride (高慢) を意味するイタリア語 Orgoglio を名に持つ巨人を登場させ, 彼に <情欲> という側面を付与することによって, pride という語に潜んでいた多義性――<高慢+情欲>――を復活させるのである (すなわち, Orgoglio It. orgoglio (高慢) pride lust). われわれはここにもスペンサーの隠された言語遊戯 (wordplay) を見ることができる.

 Orgoglioが赤十字の騎士の分身であることを見てきたが, このことは両者の名前に共通点があることによってもまた示されている. 巨人Orgoglio <大地> から生まれたのであったが, スペンサーは ‘Geant’ (1. 7. 8) というスペリングを用いることによって, <大地> とのつながりを強調する(<geant 13-16世紀に用いられた giant の別綴――OED).  geant の語源はギリシア語の γιγας であるが, へシオドスによると, 一般に巨人は <大地の息子> とされていて, それで γηγενης (earthborn, 大地から生れたるもの) とも呼ばれたりする.  Geant というスペリングに含まれている γη (ge, 大地) という要素は, 赤十字の騎士の本名であるGeorgeにもまた含まれている.  Georgeはギリシア語では γεωργος であり, これは γη (大地) εργον (仕事) とから成る合成語で, <大地を耕す者> の意味である. 赤十字の騎士は, 実は, 古いサクソンの王族の出であったが, まだ赤子だったころ, ある妖精によって盗み出され, 妖精の国の <あぜ溝> (furrow) の中に隠されたあと, たまたま一人の農夫によって見つけ出され, 大きくなったら農夫となるべく George (γεωργος) という名前を付けられたのだ, と述べられている (1. 10. 65-66). この <大地を耕す者> という側面は, Orgoglio にもまた見られるものであって, 彼が振りおろした一撃は, Arthur が身をかわしたために大地を打ち, 地面の中に食い込んで, 三ヤードの深さの <あぜ溝> (furrow) を作ったと叙述されている (1. 8. 8). また, George という名の後半部 -orge , Orgoglioという名の前半部 org- と対応している. このように, 名前の上でも, Orgoglio が赤十字の騎士の分身であることが暗示されているのである.

 さて, flesh を体現した Orgoglio Arthur によって, 片腕, 片足, 頭というふうに <体の部分> (οργανον,  organon)[34] を順に切り落されることになる. これは赤十字の騎士自身が巨人の地下牢で経験する mortification of the flesh を象徴したものと考えられる. そして, Orgoglio の切り落とされる <体の部分> (οργανον) , 赤十字の騎士の <感覚> (οργανον)[35] を象徴したものと考えられる.  Orgoglio , 覆いのとれた Arthur の盾の輝きによって,「すべての感覚」(all his sences) (1. 8. 20) が麻痺してしまう. 同様に, 赤十字の騎士も, Orgoglio の一撃のあおりを受けて転倒し,「すべての感覚」(all his sences) (1. 7. 12) が麻痺してしまうのである. 騎士は, そもそも, Archimago によって「感覚」(sence) (1. 7. 49) を欺かれたために, Unaを捨てることになったのであるが, 地下牢から救出されたときには, 彼の <眼> という <感覚器官> (οργανον) はもはやその機能を十分に働かせることができず, その flesh はしおれた花のように縮んでしまっているのである.

 

His sad dull eyes deepe sunck in hollow pits,

Could not endure th’ vnwonted sunne to view.

                                              (1. 8. 41)

 

…and all his flesh shronk vp like withered flowres.

                                              (1. 8. 41)

 

 これは, 騎士が経験した mortification of the flesh の結果を表わしたものと考えられる. へニンジァーも指摘しているように, この Orgoglio エピソードは第1巻の転換点となっていて, これ以後, 騎士は flesh を制した人間となり, もはや <感覚> (senses) によってひき起こされる <罪> にそそのかされることがなくなる.[36]  もっとも, <絶望> という精神的 <罪> と戦うことはまだ残っていて, 騎士は Despair (絶望) の鋭い論法にあやうく屈しかけることになるのであるが.

 Orgoglio について以上述べてきたことをまとめてみたい.  Orgoglio , 赤十字の騎士に下る <天罰> としての <神の怒り> という側面と, 赤十字の騎士の <罪> を拡大して映し出す <分身> としての側面とを持つ. 後者は, 具体的には, く怒り> (wrath), <高慢> (pride), <情欲> (lust) という三つの <罪> であり, これらは, Orgoglio という名前に含まれる οργη (怒り), οργαω (高慢+情欲) というギリシア語によって暗示されている. <怒り>, <高慢>, <情欲> などの <罪> をパウロの用語を借りて縮めて言うなら, それは, <神の霊> である Spirit (πνευμα) とは対立する <人間の堕落した本性>, すなわち flesh (σαρξ, ) ということになる. つまり, <罪の塊> とも言うべき Orgoglio , flesh を具現化した人物と言うことができ, それは, 赤十字の騎士自身の flesh の側面を拡大して表わしたものに他ならない. また, Orgoglio の体は騎士の <感覚> を象徴するとも考えられるが, この側面は Orgoglio という名前の音の中に οργανον (感覚器官) として暗示されている.

 

 

III

 

 次に, 赤十字の騎士の <救済> について見てみたい.  Night Duessa が地獄に下って行く件(くだり), 地獄の入口を一度通れば,「<天の恩寵> (heauenly grace) がない限り二度と引き返すことはできない」(1. 5. 31) と述べられている. したがって, <天の恩寵> を欠いた Æsculapius ,「救済の望みなく」(remedilesse) (1. 5. 36) 地獄の中に鎖でつながれている. 同様に, flesh に従って <罪> を犯し, その結果, 地下牢という地獄の死を味わうことになった赤十字の騎士も, 本来ならこの Æsculapius のように, 地下牢の地獄から救い出されることはなかったであろう. 彼が救われるのは, Æsculapiusの場合とは異なり, <天の恩寵> が働いていたからである.

 Duessa との <情欲の罪> にふけっている最中に, Orgoglioに不意討ちをくらった赤十字の騎士を, スペンサーは,

 

Disarmd, disgrast, and inwardly dismayde.

                                             (1. 7. 11)

 

と描写している. 騎士は,「<神の武具> を脱ぎ去った状態で」(disarmd), 普段から恐れていた「恥辱をうけ」(disgrast),「純潔を失い」(dismayde) (cf. maid=OED, 2c.  a man that has  always abstained from sexual intercourse), 騎士としての自負も失って, 人間的に「解体し」 (dismayed=unmade) (Hamilton, p.98),「動転してしまう」(dismayde) のである. ここで ‘inwardly’ という副詞が用いられているが, この語に注意したい. 騎士は, 以前, 自分の <徳> (vertue) (cf. ‘Vertue giues her selfe light, through darknesse for to wade.’ 1. 1. 12) を確信していたのであった. しかし, 今はじめて, 自分が virtuous などではなく, 一人の <罪人> (sinner) に過ぎないという自覚が, 彼に訪ずれるのである. それが,「内心動転して」(inwardly dismayde) という言葉によって表現されていると考えられる. 巨人は情容赦なく騎士に打ちかかるが, この <罪人> である騎士に <神の恩寵> が下る. スペンサーはそこを,「もし騎士を守り給う <神の恩寵> (heauenly grace) がなかったなら, 彼は粉々に打ち砕かれるところであった.(1. 7. 12) と叙述している. <神の恩寵> はまさに <罪人> に対してこそ下るというのが, <恩寵> というもののパラドックスだからである.[37]

 ブルトマンの説明を借りれば, <神の恩寵> とは, 神が人間の弱さや, 善に向っての怒力を考慮して, 人間の <罪> を赦すというような神の好意をいうのではない. むしろ, 人間の善に向っての努力というようなものは, <神の恩寵> が拒否するところのものである. そこには, 人間の罪の中の罪とも言うべき <倣慢>, すなわち, 自己の力で生きられると考える迷妄, が潜んでいるからである. <恩寵> , 人間の努力に対する神の肯定として訪れるのではなく,「汝は神に服従するか, 汝は自分が神の前での <罪人> であることを知るか」という問いかけとして訪れる. <恩寵> を受けることは, このように, 人間の側の, 自己が無に等しいという自覚を前提とし, そして <罪人> に対してこそ, <恩寵> が下ることになる.[38]

 パウロは,「<罪> (sin) が増したところには, <恩寵> (grace)[39] がいっそう満ちあふれた」(Rom. 5: 20) と述べている.  Una もまた,「<裁き> (iustice)[40]  が増すところには, <恩寵> (grace) もまたいっそう大きくなる」(1. 9. 53) と言っている. この <恩寵> Arthur を通して働き, 赤十字の騎士を地下牢から救出するのである.

 スペンサーは第8篇の冒頭で, <真理> とともに <恩寵> の働きについて要約している. 部分的にはすでに引用した箇所であるが, 再び引用する.

 

Ay me, how many perils doe enfold

The righteous man, to make him daily fall?

Were not, that heauenly grace doth him vphold,

And stedfast truth acquite him out of all.

Her loue is firme, her care continuall,

So oft as he through his owne foolish pride,

Or weaknesse is to sinfull bands made thrall:

Else should this Redcrosse knight in bands haue dyde,

For whose deliuerance she this Prince doth thither guide.

                                                   (1. 8. 1)

 

 引用文2行目の ‘righteous’ (δικαιος) , この場合, <道徳的に正しい> ということを指しているのではない. 『聖書』では, righteousness (δικαιοσυνη) , 元来, <神の正しさ>, <神の完全性> を表わす言葉であり, また, 神に対するキリストの <従順> (obedience) をも表わす言葉である.[41] このキリストの <従順> が人間に <転嫁> (impute) され, その結果, 人間は「正しい者 (=righteous) とされる」(Rom. 5: 19) [42] ことになる. righteousness はまったくの <贈り物> (gift) であって, 人は人間的努力や業績によってこれを得ることはできない.[43]  <罪人> である人間は, <神の恩寵> (grace) によって <贈り物> として与えられる <神のrighteousness <信仰> (faith) によって受け入れるのである (Rom. 3: 23 f.). パウロが <神のrighteousness (δικαιοσυνη θεου) (Rom. 1: 17;  3: 21) という表現を用いることがあるのは, righteousness <神の恩寵> に基づくものであり, 神から与えられたものだからである.[44]  したがって, テキストの ‘the righteous man’ とは, <信仰を持つ人間> のことであり, また ‘how many perils doe enfold / the righteous man to make him daily fall?’ という文は, <信仰> を持つ者がさらされる危険について述べていることになる.[45]

 3行目で ‘grace’ (恩寵) という語が用いられている. これはこの文脈では二通りの意味を持つと思われる. 一つは, OED (11. b) ‘the divine influence which operates in men to impart strength to endure trial and resist temptation’ と定義している <人間を内面から支える神の働き> のことであって, 人間が <堕落> (fall) しないように, これが <支えている> (vphold= keep from falling) のである. ‘graceのもう一つの意味は, OED (11. a) ‘the free and unmerited favour of God as manifested in the salvation of sinners’ と定義している <罪に堕ちた人間を救済する神の働き> のことである. これは, パウロが,「<神の恩寵> (=grace) が働くときには, いかに多くの罪があっても, 無罪の判決が下される」(Rom. 5: 16) と述べるときの <恩寵> のことである. 後者の意味における <恩寵> Arthur という姿を取って, <罪に堕ちた> (fall) 赤十字の騎士を地下牢の地獄から <救い上げる> (vphold=OED, 5. lift up) のである.

 『ヨハネの福音書』では, ‘grace and truth came by Jesus Christ.’ (John 1: 17) というように, <恩寵> (grace) <真理> (truth) とが並んで現われるが, スペンサーも, 同様に, ‘grace’ ‘truth’ 3行目と4行目に並べて, 対句表現にしている. 4行目のstedfast truth acquite him out of all’ というのは, 『ヨハネの福音書』に ‘The truth shall make you free.’ (John 8: 32) とあるように, <真理> <罪人> をその <罪> から <解放> (acquit=OED, 8. pay the debt for and free) して, <無罪の判決を下す> (acquit=OED, 11.  declare not guilty;  exculpate) ことを指している. この ‘acquite’ という動詞は, 8篇の Argument にある ‘Faire virgin to redeeme her deare brings Arthur to the fight’ ‘redeeme’ と同義である. ここで, 普通キリストについて用いられる ‘redeeme’ という語がUnaについて用いられている. これはUna <真理> の寓意であり, <真理> とは <神の言葉> のことであって, また <神の言葉の啓示者> であるキリストのことでもある (II Cor. 4: 2 f.) からである. <真理>, すなわちUna, の「愛は揺ぎなく, その配慮は止むことがない」のであり, 彼女は, 「愚かな <高慢> , <生れながらの本性の弱さ> (Rom. 7: 14)[46], <信仰の弱さ> (Rom. 14: 1) のために罪を犯し, Orgoglio の奴隷, すなわち fleshの奴隷>, <罪の奴隷> (thrall to sinfull bands) となった赤十字の騎士」を <赦し> (acquit. OED, 11) , そして彼を <救出する> (acquit. OED, 8) するために Arthur を伴って来るのである.

 この第8篇冒頭のスタンザは, 1巻の骨格となる神学を要約したものであって, これはそのままパウロの思想と考えられる. スペンサーが第1巻で用いているパウロの神学とは, <罪の神学> であり, <恩寵の神学> なのであるが, それがこのスタンザに明瞭に表われている.

 地下牢から救出された赤十字の騎士の <救済> (salvation=OED, 1. the deliverance from sin and its cosequences, and admission to eternal bliss) , しかし, これで完成するわけではない. それは, 彼が <信仰> というものをまだ十分に理解していないからであると思われる. パウロによれば, 「人間が正しい者とされるのは, <律法> (law) の実行によるのではなく, <信仰> (faith) による」(Rom. 3: 28) のである. そして, <信仰> とは, 自己の力によって生命を得ようとする古い自己理解を放棄して, <神の恩寵> に全面的に身をゆだね, 自己を神の所有物として理解することである.[47]  しかるに, 赤十字の騎士はこのことを悟らず, 未だ, <律法> によって正しい者とされようとする考え方に囚われている.

 この, <律法> によって正しい者とされようとする (=righteousnessを得ようとする) 誤った考え方――旧約的考え方――を代表するのが, Despairである.  Despair ,「罪人をして死なしめよ, というのが神の <律法> (law) ではないのか」(1. 9. 47) , 鋭い論法で赤十字の騎士に迫る. 「死は苦しみの終りだ. すぐに死ね.(1. 9. 47) と言われ, 亡霊どもが地獄の罰を受けている一枚の絵を見せられると, 騎士はすっかり動転してしまい, 彼の目に見えるのは, ただ死と,「全能者の <律法> (law) の判決によって自分の前に置かれた, 永遠に燃える <怒り> (wrath)(1. 9. 50) だけとなる. <絶望> に陥り, 自害しようとしてためらう騎士の手から, Una は短刀をひったくり, この <信仰弱き騎士> (cf. ‘fraile, feeble, fleshly wight’ 1. 9. 53) を叱り, たしなめる.

 

In heauenly mercies hast thou not a part?

Why shouldst thou then despeire, that chosen art?

Where iustice growes, there grows eke greater grace,

The which doth quench the brond of hellish smart,

And that accurst hand-writing doth deface.

                                                 (1. 9. 53)

 

 「あの呪われた証書」(that accurst hand-writing) とは, 言うまでもなく, 旧約の <律法> (law) のことであり, 「呪われた」と形容されているのは, パウロの言葉に, 「律法の実行に頼る者はだれでものろわれている」(Gal. 3: 10) とあるからである. キリストが人間を「律法ののろいからあがない出した」(Gal. 3: 13) のであり, 信仰者はすでに <律法> から解放されている. ところが, 赤十字の騎士は, 依然として「律法の文字に従う古い生き方」(Rom. 7: 6) に支配されていて, 自分が実際には「律法の下(もと)ではなく, 神の恩寵の下(もと)にいる」(not under the law, but under grace) (Rom. 6: 14) のだということに気づかない. 彼に必要なのは, 自己の力によって生命を得ようとする古い自己理解から, 自己が神に依存した存在であるという新しい自己理解への転換であり, <従順> (obedience) という行為によって <神の恩寵> を受け入れることなのである. この, <従順> によって <恩寵> を受け入れることこそ, <信仰> に他ならない. やがて, 赤十字の騎士は, 『神聖の館』(House of Holiness) で教育を受けて, 新しい自己理解を得ることによって <信仰> を確立し, <神聖の騎士> (Knight of Holiness)[48]  Saint George として永遠の生命を得ることになるのである.

 

 以上, 赤十字の騎士の罪が決定的となるOrgoglioエピソードを取りあげ, このエピソードが意味するものを見てきた. この第1巻は, いわば <スペンサーの神学> であり, それは <パウロの神学> を寓意の形で物語として表現したものである. パウロの神学は <罪の神学> と言われるが, スペンサーも, Orgoglioエピソードに至るまでの第1巻前半で, <罪の諸相> を描いてみせる. その点で, 1巻前半は, いわばスペンサーによる『罪の解剖』(The Anatomy of Sin) とでも言えるであろう.

 この作品は, 大まかに言えば, <物語のレベル> <寓意のレベル> という二重構造を持っている. <物語のレベル> で見れば, Unaは作品の第二の主人公であり, また, 危険から保護されなければならないか弱い乙女である.しかし,<寓意のレベル> では,Una <真理> を表わし,滅びることのあり得ない存在となる.彼女は Truth