『アエネーイス』 第2巻の宗教的要素について

 

(The Religious Elements in the Second Book of the Aeneid)

 

 

(The summary in English is at the end of this page.)

 

 

 

 

 

野 呂 俊 文

(Toshifumi Noro)

 

 

 

 

 

目次

 

1.

2. 第2巻の宗教性

3. ミネルウァ

4. 狂気

5. 神々の贈り物

6. 犠牲(いけにえ)

7. 聖なる空間

8. 境界(敷居,城壁,海岸)

9. 空洞化

10. 空しさ

11. ミネルウァの「怒りの火」

12. ユッピテルの意志

13. まとめ

    注

   主要参考文献

    Summary

 

 

 

 

1.

 ウェルギリウス (Publius Vergilius Maro) (70-19 B.C.) の叙事詩『アエネーイス』 (Aeneis) の第2巻はトロイ滅亡の物語である.ギリシャ軍との戦争に敗れたトロイの陥落時に,アエネーアース (Aeneas) は父アンキーセース (Anchises) と子アスカニウス (Ascanius) や生き残ったトロイ人たちを率いて,新しいトロイを築くべく航海に出ていた.彼の艦隊は7年あまりさまよった後,シシリー島からイタリアに向かう際,嵐によってカルタゴに漂着し,彼らはこのカルタゴの町を築いた女王ディードー (Dido) の歓待を受ける.アエネーアースは宴会の席で女王からトロイ戦争のこと,ならびにこれまでの放浪についての話を所望され,気が進まないながらも承知する.10年にわたったトロイ戦争の最後の日,およびトロイが陥落する最後の夜の様子が第2巻で語られる.またトロイを脱出してから今に至るまでの放浪が第3巻で語られることになる.

 

2. 第2巻の宗教性

 現代のわれわれが第2巻を最初に読んだとき受ける特異な印象は,恐らくこの第2巻の宗教性によるのであろう.神々が登場するのはホメーロス以来の叙事詩の伝統であるとしても,ウェルギリウスより少しあとの紀元1世紀の詩人ルカーヌス (Lucanus) (A.D. 39-65) は,神々を入れずに叙事詩を書いている.[1]  ウェルギリウスもその気になれば神々を排除して書くこともできたであろう.したがって『アエネーイス』における神々の登場は,作者が伝統に従ってやむをえずに加えたというものではなく,この作品にとって,特に第2巻にとって,欠くべからざるものとして意図されていたと考えなければならない.

 『アエネーイス』における神々の登場は,ウェルギリウスの時代のローマ人の宗教観と深くかかわっていると思われる.当時は国家の存亡が神々への信仰にかかっていると一般に信じられていた.すでにギリシャのアリストテレスは,「政治的社会の存続を保証するのに必要なものの中で神々への信仰が最も重要である」と述べていた.[2]  ローマ人の考え方もこれとほぼ同じであった.紀元前4世紀初頭の政治家 Marcus Furius Camillus は「ローマ人は神々に従うときはいつでも成功するが,神々を無視するときには大惨事にいたる」と演説で述べた,とリーウィウスは報告している.[3]  キケローもまた,「他の国民はローマ人をさまざまな資質において凌駕しているかもしれないが,ローマ人は pietas religio において,また神々の働きがすべてを導き支配しているという自覚において,他のすべての部族や国民を凌駕している」と言っている.[4]  このキケローなどの考え方は,そのまま『アエネーイス』についても当てはまり,この詩は,最初それほど自覚的でなかった主人公アエネーアースが pietas を自覚し,それを実行するようになって,徐々に神々の意志を実現していく過程を述べたものとも言える.そう見るとき,神々はこの作品にとって取って付けた飾りであるどころか,本質的なものと考えられるのである.特に第2巻においては神々が物語の骨格に据えられている.

 第2巻に関して言えば,トロイの滅亡がすでに神々の決定した計画であり,アエネーアースたちが無益に戦い,そして敗北していくという事実は,この第2巻にただよう<空(むな)しさ>を一層強める働きをしている.また第2巻では,ミネルウァ (Minerva),ネプトゥーヌス (Neptunus),ユッピテル (Iuppiter),ウェヌス (Venus) などの神々や,神殿や祭壇,神意 (numen),聖物,前兆,運命 (fatum),犠牲(いけにえ)など,「聖」と「俗」に分けた場合の「聖」に関する語句が頻繁に現れる.この小論では,これらの「聖」に関する要素,つまり宗教的要素について見てみたい.

 

3. ミネルウァ

  神々の中ではミネルウァ (Minerva) が第2巻で一番大きな役を果たしている.ミネルウァはイタリアの古い工芸の女神であったが,エトルリア経由でローマに導入され,ユッピテルやユーノーと共に Capitoline Triad と呼ばれるローマの3主要神のひとつとなった.後にギリシャの Pallas Athene と同一視され,Athene Promachos の軍事的性格を引き継ぐようになった.[5]  ウェルギリウスは工芸の女神および戦争の女神としてミネルウァを描いている. Minerva Pallas という名称が用いられているが,Tritonia Tritonis という名も第2巻ではそれぞれ1回用いられている.また,ギリシャとの連想を伴う Athene あるいは Athena という名の使用は避けられている.

 ミネルウァは第2巻においてはトロイを滅ぼす破壊の神として現れる.何故ミネルウァがトロイに対して敵対的に振る舞うのかその理由を,ウェルギリウスは作品中でははっきりとは述べていないが,これはよく知られたギリシャ神話のパリス (Paris) のエピソードを下敷きにしていると思われる.Peleus Thetis との結婚の宴で,争いの神 Eris が「最も美しい方へ」と書かれた黄金のリンゴを投げ入れたとき,ユーノーとミネルウァとウェヌスの3女神がそれぞれリンゴは自分のものだと主張し,その審判がトロイのプリアムス王の息子パリスに委ねられた.パリスにユーノーは偉大さを,ミネルウァは戦争の勝利を,そしてウェヌスは最も美しい女性を妻として,与えると約束した.パリスはリンゴをウェヌスに与え,ウェヌスの助けによって,スパルタ王 Menelaus の妻ヘレン (Helen) を連れ去った.[6]  これがきっかけとなってギリシャ軍がヘレンを取り戻すべくトロイに攻め,トロイ戦争が起こった.リンゴを与えられなかったミネルウァは,パリスの審判を認めたトロイの人々に対して恨みを抱き,トロイにそれまで与えていた寵愛を与えることを止めてしまう.トロイにはミネルウァ像 Palladium が祭られていた.この像はトロイの建国者であり,プリアムス王の祖父であった Ilus が天から授けられたもので,この像が町にある限り,トロイは陥落することはないとされていた.[7]  ギリシャ側のディオメーデース (Diomedes) とウリクセース (Ulixes) がトロイの町に忍び込み,ひそかにこの像を盗み出した.それによって,トロイは滅びないための護符を失った.しかし,トロイの滅亡は単にミネルウァの意志ではなく,それは神々の決定であった.トロイを滅ぼして,ローマに新しいトロイを建国させようというのが最高神ユッピテルの計画であった.しかしそのようなことをトロイ人たちは,それにギリシャ人たちも,知る由はなかった.

 ミネルウァ女神の破壊力は単にトロイに対してだけではなく,幾分はギリシャ人たちにも向けられていた.ディオメーデースらが Palladium を運び去り,血に汚れた手で女神の処女額紐に触れたとき以来,ギリシャ人たちの希望は消え,力は挫け,「女神の心は背き去った」(170) とシノーン(Sinon) は述べている.シノーンはさらに女神の怒りの激しさを次のように語る.ミネルウァ女神はその証明をはっきりした「前兆」(monstris) (171) によって示した.神像を陣営に置くとすぐ,その眼から輝く炎が燃え出し,手足には塩の汗が流れ,女神自身盾と槍とを持って三度地面から躍び上がったというのである.また,カッサンドラ(Cassandra) が連れて行かれる場面では,作品中では詳しい情況は述べられていないが,トロイの最後の夜にカッサンドラがミネルウァの神殿で Aiax によって凌辱されたことは一連の叙事詩ではよく知られていたエピソードであった.[8]  神殿に逃れていた乙女を凌辱し,ミネルウァ神殿の神聖を汚したため Aiax は帰国の際,ミネルウァによって船を難破させられることになる.

 しかし,ミネルウァのすさまじい破壊力が示されるのはトロイに対してである.トロイが滅びる直接の原因となった木馬と蛇はミネルウァと深くかかわっている.シノーンの話でさえ Palladium に言及して木馬に対するトロイ人たちの考えを一定方向に導いたという点で,ミネルウァに関係がある.

 木馬についてアエネーアースは,ギリシャ人たちが「ミネルウァの神の術によって」(15) 山のような大きさの馬を作り,帰国を祈るための(神への)捧げ物だと偽った,と述べている.木馬がミネルウァ女神への捧げ物(votum) だという虚偽を広めたのは,すでに述べたようにシノーンで,彼は次のように語る.

 

hanc pro Palladio moniti, pro numine laeso

effigiem statuere, nefas quae triste piaret.   (183-184)

彼らは忠告に従い,ミネルウァ像の代わりとして,傷ついた神性を償うために,悲しむべき神性冒涜を贖う目的で,この像を建造した.

 

 ここでは宗教に関係した語が多用されていて,イタリック体の部分はすべて宗教関係語であり,シノーンが述べる所の木馬建造の目的は,Palladium を盗んで汚しミネルウァ女神を怒らせてしまった神聖冒涜に対する純粋に宗教的贖罪であるということである.この引用文の ‘effigiem’(像)という語は勿論木馬を指すが,一方その17行前で用いられていた ‘sacram effigiem’ (167) (聖なる像)という表現は Palladium を指していた.このように同一語の使用によってこの木馬が Palladium の代わりであり,また女神像と同様<聖なる> (sacer) ものであることが暗に強調されている.これはこの「聖なる木馬」を Palladium の代わりとしてトロイの城壁の中に入れさせるためのギリシャ側の策略であったが,そのことを確かなものにするため,シノーンは次のように述べる.

 

nam si vestra manus violasset dona Minervae,

tum magnum exitium (quod di prius omen in ipsum

convertant!)  Priami imperio Phrygibusque futurum;

sin manibus vestris vestram ascendisset in urbem,

ultro Asiam magno Pelopea ad moenia bello

venturam, et nostros ea fata manere nepotes.   (189-194)

というのはもし汝らの手がミネルウァへの捧げ物を冒涜するならば, 大きな破滅が(神々よ,まず彼自身の上にこの予言を向けたまえ)プリアムスの王国とプリュギア人の上に訪れるだろう.しかしもし汝らの手によって汝らの町にのぼるならば,アジアの方から大軍によりギリシャの町を襲い,破滅の運命が我らが子孫を待つだろう.

 

 ここでは木馬を「冒涜すれば」(violasset) トロイに破滅がおとずれ,そしてもしトロイの町の中に木馬を入れるならば,逆にトロイがギリシャの町を滅ぼすことになる,と言っているわけである. ‘dona Minervae’ という表現は「ミネルウァ女神への捧げ物」という意味であるが,アエネーアースも別の所でこれと類似した ‘innuptae donum exitiale Minervae’ (31) という表現を用いている.後者は「ミネルウァ女神への捧げ物」(Minervae objective genitive) という前者と同じ意味を持つと同時に,「処女神ミネルウァの死の贈り物」(Minervae subjective genitive) という意味をも持っている.‘exitiale’ という語は上の引用文中で用いられていた ‘exitium’ (破滅)の形容詞形で,木馬がトロイ滅亡の直接的原因となったことを知りつくした語り手アエネーアースの視点を示す言葉である.木馬が「ミネルウァへの捧げ物」だというのが,シノーンの嘘であったのに対して,木馬の真の目的はトロイを陥れるための策略であったのであり,その製作にあたっては,トロイに敵意を抱く<戦争の女神>であり<工芸の女神>でもあるミネルウァが技術を与えていた.

 また,引用文中で「汝らの手」(vestra manus; manibus vestris) という語句が2回用いられているが,これは「汝らの手」が神聖冒涜を犯すか,それとも神の加護を求めるかに,勝敗がかかっていることを強調し,同時にギリシャ人がミネルウァ女神の怒りを買ったのが処女神の聖なる額紐に「血にまみれた手」(manibusque cruentis) (167) で「触れる」(contingere) (168) という神聖冒涜を犯したがためであったことを想起させる.[9]  木馬がトロイの城内に引き入れられるとき,少年少女らは木馬の回りで「聖歌」(sacra) (239) を歌い,喜々として「手で綱に触れる」(funemque manu contingere) (239) と叙述されているが,「手で綱に触れる」という表現もまたディオメーデースとウリクセースの神聖冒涜を連想させる.自分たちに破滅をもたらす元凶であるこの ‘monstrum infelix’ (不吉な怪物+不吉な前兆)(245) を,そうとは知らず,みずから城内に引き入れ,子供達がその引き綱に手を触れて喜んでいる有り様は哀れをさそう.かくして,「ミネルウァの神の術」(divina Palladis arte) (15) によって作られた木馬は,「偽りの誓を立てるシノーンの欺瞞の術」(periurique arte Sinonis) (195) に欺かれたトロイ人たちによって町の中に入れられる.

 トロイ人たちはトロイの最後の日であることも知らず,「聖なる木馬」を祭った祝いにと町じゅうの神々の神殿を聖なる葉飾りで飾る.夜になり皆が寝静まったとき,木馬の中に隠れていた武将たちは「垂らされた綱」(demissum funem) (262) を伝って降り,トロイを滅ぼすことになる.このように類似語句あるいは同じイメージの反復が第2巻では多用されているが,これは作者が新しい語句を作り出す労力を節約したためではなく,単独で用いた場合とは異なった重層性や深みを作品に与える効果を狙ったがためである.

 ラーオコオーン(Laocoon) とその二人の息子たちを滅ぼした二匹の大蛇も,やはりミネルウァ女神が遣わしたものである.これは次の叙述から明らかになる.

 

at gemini lapsu delubra ad summa dracones

effugiunt saevaeque petunt Tritonidis arcem,

sub pedibusque deae clipeique sub orbe teguntur.   (225-227)

しかし二匹の大蛇は高みの神殿へと滑り逃げ,残忍なミネルウァの高台の神殿を求め,女神の足の下,盾の丸形の下へ隠れる.

 

 この引用文はラーオコオーンを襲う大蛇のエピソードの最後に置かれていて,トロイ人たちは,そして読者や聴衆も,ここではじめて,大蛇によるラーオコオーンたちの殺害がミネルウァによるものであることを知る.[10]  当然トロイ人たちの反応は,この惨事は,神聖な木馬を槍で突き刺すという神聖冒涜を犯したラーオコオーンの罪に対するミネルウァ女神による罰であるというものであった.ラーオコオーンが木馬を警戒するようにと忠告する場面と大蛇に殺される場面との間には,シノーンのエピソードが効果的に挿入されていて,シノーンの語る「木馬がミネルウァ女神への捧げ物である」という嘘をうのみにしたトロイ人たちにとって,これは自然な反応であった.木馬が Palladium の代わりであり,その同等物であるということは,シノーンのさらに ‘effigies’ という語による巧妙な言葉使いによって一層トロイ人たちの胸に染み込んでいく.

 

(1)...Palladium, caesis summae custodibus arcis,

corripuere sacram effigiem                     (165-166)

ミネルウァ像[を強奪し],高台の神殿の衛兵を惨殺して,聖像を奪い去った.

 

(2)hanc pro Palladio moniti, pro numine laeso

effigiem statuere,                             (183-184)

彼らは忠告に従い,ミネルウァ像の代わりに,神聖冒涜を償うため,この像を建造した.

 

(3)Laocoonta..., sacrum qui cuspide robur

laeserit                                       (230-231)

ラーオコオーンは槍で聖なる木馬を傷つけたと言って

 

 最後の引用文(3)はシノーンではなく,アエネーアースが語る言葉だが,これはラーオコオーンが木馬を「打ち」(laeserit) ,「傷つける」(laeserit) ことによって,それが献げられているミネルウァ女神を「冒涜して」(laeserit) 「怒らせた」(laeserit) とトロイ人たちが考えたことを表している.この ‘laedere’ という語は,実はシノーンが引用文(2)の「冒涜されたミネルウァ女神の神性を償うため」(pro numine laeso) という箇所で用いたものであった.ちょうどディオメーデースとウリクセースがミネルウァ像(Palladium) を奪い,血に汚れた手で額紐に触れて神聖冒涜の罪を犯し,女神を怒らせたのと同じように,ラーオコオーンもやはり神聖冒涜の罪によってミネルウァ女神を怒らせてしまったと彼らは考えたのである.引用文(1),(2)を見ると,シノーンは,引用文(1)で ‘Palladium’ の意味で用いた ‘effigiem’ (像)という語を,引用文(2)で繰り返し使用し,しかも今度は「木馬」の意味で用いている.この巧妙なやり方で,彼は「木馬」が ‘Palladium’ の代替物であることを印象づけようとしている.実際は,ラーオコオーンが「神聖な木馬」(sacrum...robur) (230) を冒涜して汚したが故にではなく,木馬によってトロイを滅ぼそうとするミネルウァの計画を,彼が妨げようとしたが故に,ミネルウァは大蛇を送ったのであろう.[11]  とにかくその結果,トロイ人たちの胸には恐怖が忍び込む.そして,ラーオコオーンは神聖冒涜の当然の罰を受けたのだと彼らは言って,木馬を城壁内へ引き入れてミネルウァ女神の赦しを請うようにと叫ぶ.

 

ducendum ad sedes simulacrum orandaque divae

numina conclamant.                              (232-233)

彼らは像を神殿に引き入れ,女神に懇願するようにと叫ぶ.

 

 この文を読むときわれわれは少し前の

 

vix positum castris simulacrum   (172)

像が[ギリシャの]陣営に置かれるとすぐに

 

という Palladium の盗みについての文でもやはり ‘simulacrum’ という語が用いられていたことを思い出す.この172行目の文では ‘simulacrum’ OLD, 3a ‘an image, statue (usu. of a god)’,すなわちミネルウァの「神像」,つまり Palladium を指している.ところが前者の232行目の文では ‘simulacrum’ は馬の「似姿」,すなわち「木馬」を指している.同一語の使用によって,「木馬」は ‘Palladium’ と等価のものとなり,トロイ人たちはすでに無くなってしまっている御神体 Palladium の代わりに,木馬をそれがあたかも聖なる御神体であるかのごとく祭ろうとしていることが分かる.シノーンの策略はまんまと成功したのである.

 トロイ人たちは木馬がトロイを陥れる武器であることを,ラーオコオーン無き今となっては知る由もなく,予言の力を持つカッサンドラが来るべき破滅を知らせるべく口を開くが,彼女の予言は誰にも信じてもらえない.彼らはギリシャ人の狡猾さも忘れ,狂気に取り憑かれたように真実を見る力を失い,町の城壁の一部を裂いてまでして木馬を中に入れ,高台の神殿に鎮座させようとする.アエネーアースはこう語る.

 

instamus tamen immemores caecique furore

et monstrum infelix sacrata sistimus arce.   (244-245)

しかしわれわれは忘れてしまい,また狂気に盲目となって懸命に働き,「破滅をもたらす怪物」(=不吉な前兆)を高台の神殿に据えた.

 

この引用文で用いられている ‘arce’ (arx) という語は普通「城砦」や「高台」を意味する語であるが,19行前の226行目でも,そしてそれより前の166行目でも同じ語が用いられていた.

 

effugiunt saevaeque petunt Tritonidis arcem.   (226)

[大蛇は]残忍なミネルウァの高台の神殿を求める.

 

      sacrato avellere templo

Palladium, caesis summae custodibus arcis,   (165-166)

高台の衛兵を斬殺して,聖なる神殿より Palladium (ミネルウァ像)を奪い去り

 

 226行目の ‘Tritonidis arcem’ について Austin (p.108) ‘the shine of Minerva stood upon the arx (166)’ (イタリックは原文)と注釈を付けているように,226行目の ‘arcem’ も166行目の ‘arcis’ も共に高台にあった「ミネルウァの神殿」,あるいはその高台を指している.[12]  同様に245行目の ‘sacrata...arce’ も同一の神殿を指していると考えられる.特に165行目では ‘sacrato...templo’(神聖な聖殿から)という表現によって補足されていることによっても,‘arcis’ は神殿(または神殿の立っている高台)を指していると解釈できる.そしてこの ‘sacrato’ (165) という形容詞と ‘arcis’ (166) とを一緒にした表現が245行目の ‘sacrata...arce’ で,二つの単語の反復によって同一の神殿であることが示されている.

 トロイの町は城壁に囲われており,恐らくその中心部には高台があり,その最も高い部分にミネルウァの神殿があったと想像される.この神殿にはかつてミネルウァ像 Palladium が祭られていて,すでに見たようにこの像がトロイにある限りトロイが滅びることはあり得ないとされていた.この意味において,ミネルウァこそトロイの第一の守護神であった.また,この像を安置する「高台の神殿」(arx) はトロイの聖なる中心であった.同時に,それは最も重要な「城砦」(arx) でもあったはずである.したがって,この神殿の衛兵たちが斬殺され,Palladium が盗み出されたときからトロイの滅亡が始まったのであり,ミネルウァ女神にも見捨てられることとなった.いや,見捨てられるだけでなく,ミネルウァはトロイの最も強力な敵対者となった.トロイ滅亡の夜に,破壊をほしいままにするのはギリシャの兵士たちだけではなく,神々もまた破壊に加わっていた.ネプトゥーヌス,ユーノー,ユッピテルとならんで破壊に加担するミネルウァの姿が,ウェヌスによって曇りを取り除かれたアエネーアースの眼には見えてくる.

 

iam summas arces Tritonia, respice, Pallas

insedit, nimbo effulgens et Gorgone saeva.   (615-616)

振り返って見よ,今やミネルウァは,雷雲に輝きつつ,ゴルゴンをもって残忍に,高台の神殿に座した(を占拠した).[13]

 

 ここでは女神像ではなく,本物のミネルウァが神殿や砦を占拠している(OLD, ‘insido’1 ここの箇所を引用=sit or settle upon).以上のように,これまでの引用文の ‘sacrata arce’ (245)‘saevae...Tritonidis arcem’ (226)‘summae...arcis’ (166) はすべて同一の神殿,すなわちミネルウァの神殿を指していると解釈でき,第2巻におけるミネルウァの重要性がうかがわれる.

 

4. 狂気

 先に挙げた244−245行目を再び引用する.

 

instamus tamen immemores caecique furore

et monstrum infelix sacrata sistimus arce.   (244-245)

しかしわれわれは忘れてしまい,また狂気に盲目となって懸命に働き,「破滅をもたらす怪物」(=不吉な前兆)を高台の神殿に据えた.

 

 245行目では「不吉な」「破滅をもたらす」を意味する ‘infelix’ という形容詞が,その反意語とも言うべき「神聖な」を意味する ‘sacrata’ のすぐ横に並べて詩行の中央に置かれることによって,神殿の神聖さが汚され,冒涜されて,無化されていくさまが強調されている.あるいは,すでに御神体の Palladium の無くなった神殿はもうすでに「呪われていた」(OLD, ‘sacro’ 2=doom to destruction, declare accursed) と言ってもいいのかもしれない.とにかく,この「木馬」という「不吉な前兆である怪物」(monstrum infelix) を神殿に据えたときに,トロイの滅亡は決定的なものとなった.

 244行目の ‘immemores’ という形容詞は,計画的で策略や欺瞞に富むギリシャ人たちとは対照的に,無邪気で呑気なトロイ人たちをよく表している.プリアムス王はシノーンに「これからはもう失ったギリシャ人たちのことは<忘れるがよい>(obliviscere) 」(148) と言っているが,戦争はもう終わったと考えてギリシャ人たちのことを「忘れてしまっている」(immemores) のは実はトロイ人たちの方なのである.彼らは「眠りとぶどう酒に埋もれて」(somno vinoque sepultam) (265) すべてを忘れてしまっているとき,ギリシャ軍に襲撃されることになる.また,トロイの城壁内に木馬を入れるというトロイ人たちの決定は「狂気」(furor) という他はなく,彼らは狂気によって真実と虚偽とを見分ける「判断力を失った」(OLD, ‘caecus’ 2=having one’s judgement impaired, mentally or morally blind) のである.彼らは「暗く」(caeco),「隠された」(caeco) (19) 木馬の内部が見えないという点で「盲目」(caeci) であり,「暗い夜に」(per caecam...noctem) (397) 飢えた「向こう見ずな」(caecos) (357) (Lewis=blind to danger) オオカミのように戦うのである.しかし所詮「めくら滅法な戦い」(caeco Marte) (335) であって,味方の矢によって攻撃されてしまう.

  また ‘immemores caecique furore’ という語句は,単にトロイ全般についてだけではなく,主人公アエネーアース自身にも当てはまる.彼は最初,夢に現れたヘクトル(Hector) の亡霊によって聖物とトロイの守り神を持って逃げ,海を越えて新しい町を建国するようにと言われるが,この忠告を<忘れて>(immemor),「狂ったように武器を取り」(arma amens capio) (314) ,「狂気と怒りに突き動かされて」(furor iraque mentem/ praecipitant) (316-317),戦いに倒れることこそ名誉だと思い(pulchrumque mori succurit in armis) (317),衝動的に戦いに参加する.そのときのことをアエネーアース自身「武器を取る十分な理由があったわけではない」(nec sat rationis in armis) (314) と述べているが,‘rationis’ は「理由」であると同時に「理性」でもあって,「理性」を失って,「狂気」に動かされている彼の姿が浮かび上がる.また,自分だけではなく,「若者たちの心にも狂気を吹き込む」(animis iuvenum furor additus) (355) のである.アエネーアースは衝動や感情,つまり<狂気>(furor) に動かされ,ヘクトルの忠告の意味が十分に分かっていないだけでなく,すっかり<忘れてしまっている>ように思える.ただその場の衝動に動かされるだけで,自分の使命のことについては<盲目>(caecus) であると言ってよい.プリアムス王が殺害されるのを目撃したとき,同年配の自分の父のことが心配になり,家に帰ろうとするが,ヘレン(Helen) の姿を見かけると,衝動的な復讐心が燃え上がり,殺そうと考え,「狂乱した心で突進しようとする」(furiata mente ferebar) (588).そのとき,母のウェヌス女神(Venus) が現れて,「如何なれば汝は心狂えるや」(guid furis?) (595) と言って,神々がトロイを破壊しているさまを見せ,家族のもとに帰るよう諭すと,彼はやっと家に帰る.しかし,父のアンキーセースが一緒に逃げることを拒むと,「悲しみの極みに死を選ぼうと思い,再び戦場に返ろうとする」(rursus in arma feror mortemque miserrimus opto) (655).[14]  以上のように,最後にやむをえず自分の運命を「受け入れる」(cessi) (803) までは,アエネーアースには自分の使命についての自覚が希薄であって,たえず感情や衝動に動かされている.その意味で,引用文中の ‘immemores caecique furore’ という語句は,トロイ人たち全体についてのものであるにもかかわらず,同時にアエネーアースについても当てはまる.その点でも,‘instamus tamen immemores caeique furore/ et monstrum infelix sacrata sistimus arce’ (244-245) の引用文は,驚く程含蓄に富んだ二行であることが分かる.

 

5. 神々の贈り物

 ミネルウァ像 Palladium によって守られていたときのトロイは神々の住む所であった.木馬が「町の中央」(mediae...urbi) (240) に引き入れられるのを語るとき,アエネーアースは感極まって,「ああ祖国よ,神々の家なるイーリウムよ」(o patria, o divum domus Ilium) (241) と叫ぶが,この言葉からもトロイが「神々の家」(divum domus) であったことが分かる.ところがもう今はその神々もすべて去ってしまって,アエネーアースは若者たちを鼓舞するとき,「この国が頼みとした神々は皆,神殿も祭壇も捨てて出て行った」(351-352) と言う.

 トロイが滅亡しかけたが故に神々が見捨てたというのではない.トロイを滅亡させるというのは神々の決定であって,ギリシャ軍でさえもそのための神々の道具であった.神々自身がトロイを破壊していることについては先に触れたが,ミネルウァの技術によって作られた木馬もある意味では神々の道具であり,二匹の大蛇もミネルウァが遣わしたものであった.木馬を入城させた日の夜,人々の疲れた体に眠りが忍び寄るが,アエネーアースはこう叙述する.

 

Tempus erat quo prima quies mortalibus aegris

incipit et dono divum gratissima serpit.   (268-269)

疲れた人々の最初の休息が始まり,神々の贈物としていとも甘美に這い寄る時刻であった.

 

 「神々の贈り物」(dono divum) とは「神々の恵み」のことであるが,「贈り物」(donum) という語は「木馬」を暗示する.そして ‘serpit’ によって「蛇」が暗示されている.「木馬」も「蛇」も共に破壊をもたらすものであった.第2巻中で ‘donum’ はここの他に5回用いられているが(31, 36, 44, 49, 189),それらはすべて「木馬」を指していた言葉である.本来なら「神々の恵み」であるべき「眠り」は,ちょうど木馬が「ミネルウァの死の贈り物」(donum exitiale Minervae) (31) であったのと同様に,実はトロイに破滅をもたらす「死の贈り物」,すなわち「災い」であったのである.

 ウェヌスはアエネーアースにトロイを破滅させているのは「神々の無慈悲」(divum inclementia) であると教える.

 

                  divum inclementia, divum

has evertit opes sternitque a culmine Troiam.   (602-603)

神々の無慈悲なのだよ,神々の,これらの富をくつがえし,トロイを絶頂から引き落とすのは.

 

 「我がやさしき母」(alma parens) (591, 664) と呼ばれるウェヌスを除く主要な神々−−ユッピテル,ユーノー,ミネルウァ,ネプトゥーヌス−−はすべて,トロイを滅ぼすことに加担している.トロイの滅亡が<神々の定め>(fata) であり,避けられなかったことを,現在知っているアエネーアースは,木馬の入城もまた避けがたいことであったと感じている.それ故,もし木馬の中をよく調べていたならトロイは滅びていなかっただろうと述べるとき,

 

et si fata deum, si mens non laeva fuisset,   (54)

もし神々の運命が,もし人々の心が凶でなかったなら

 

と付け加えている.‘fata deum’ は「神々の定め」のことで,それが「敵意のある」(laeva) ものではなく,また人々の心が「愚か」(laeva) で,「不運」(laeva) でなかったなら,という意味である.アエネーアースはトロイ人たちが判断を誤ったのは,必ずしも彼らだけのせいではなかったと言っているのである.それは敵意ある「神々の定め」(fata deum) であったのだから.

 神々のトロイに対する敵意は,アエネーアースが見たトロイを破壊する神々の姿の叙述に明瞭に表現されている.

 

apparent dirae facies inimicaque Troiae

numina agna deum                        (622-623)

恐ろしい神々の姿が,トロイに敵対する神々の大いなる意志が,現れてくる.

 

 Austin (p.239) ‘Numina suggests the power and will of the gods added to their actual presence and visual shapes.’ (イタリックは原文)と述べているように,‘numina’ は単に「神々の力や意志」であるだけでなく,神々自身でもあるだろう.ここに描かれているのは,トロイを滅亡させるために破壊に従事する神々の悪魔のような姿である.ネプトゥーヌスは城壁と,自分自身が建てたトロイの町(Neptunia Troia) (625) 「全体を土台から根こそぎに倒そうとする」(611-612).残忍きわまるユーノーは,剣をおびて,門を占領し,狂ったように船よりギリシャ軍を呼んでいる(612-614).またすでに見たように,ミネルウァは高台の神殿を占領している.最高神ユッピテル自身が,「ギリシャ人たちに勇気と,勝利を得る力を与え,トロイ軍を攻撃するよう神々をみずから鼓舞している」(616-617).以上の光景を,女神ウェヌスはアエネーアースに語って説明する.また,パントゥスは「ユッピテルはあらゆるものをギリシャへ運んでしまった」(325-326) と述べていた.

  神々自身がトロイの敵であるなら,もはや神々の加護を頼むことも空しい.トロイで最も正義の人であったリーペウス(Ripheus) も倒れる.その時アエネーアースは「神々の考えは異なっていたようだ」(dis aliter visum) (428) と付け加える.アポローの神官パントゥス(Panthus) もまた倒れるが,アエネーアースは,「あわれ,パントゥスよ,汝の大いなる敬虔も,アポローの額紐も,倒れる汝を守ることはなかった」(429-430) と嘆く.どんなに正義の人であっても,またどれほど神に尽くす敬虔の人であろうとも,もはや神々は守ってはくれない.逆に,トロイの敵であるシノーンは,木馬のかんぬきを外し,ギリシャ人たちを出すとき,「神々の不公平で敵意ある定めによって守られている」(fatisque deum defensus iniquis) (257).

 アンドロゲオース(Androgeos) らのギリシャ人たちを倒したアエネーアースたちは,コロエブス(Coroebus) の提案で,ギリシャ兵の武具を身に付け,ギリシャ人を装うが,アエネーアースはそのときの様を,‘haud numine nostro’ (396) と言っている.この語句については Austin (pp.165-166) ‘difficult’ と述べてから,いろいろな説を紹介しているが,私は「我々に味方する神(の意志)を得たわけではなく」,すなわち「もし神の意志や神の力を得たとしても,それは我々に味方する神のものではなかった」という意味に取っておきたい.トロイを滅亡させるのが神々の意志であるなら,ギリシャ側の武具で変装したところで神々が味方してくれるわけではなく,アエネーアースらの成功は一時的なものでしかない.そのうち誤解によって味方からの矢(または投げ槍)を浴び,さんざんな目にあう.実際,アエネーアースが言っているように,「何人も神々の意に反して神々に頼ることはできないのである」(Heu nihil invitis fas quemquam fidere divis!) (402)

 

 

6. 犠牲(いけにえ)

 本来,祭壇(ara, altaria) が人を守る力を持つと考えられていたことは,ヘクバが夫プリアムスに「この祭壇が皆を守ってくれるでしょう」(523) と言って,彼を「聖なる場所に」(sacra...in sede) に座らせていることからも分かるが,神々に背かれたトロイの神殿の祭壇にはもうそのような力はない.ピュルルスは神聖冒涜を見せつけるかのように,老王プリアムスを祭壇へと引きずっていって,殺害する.またすでに見たように,カッサンドラはミネルウァの神殿から連れて行かれ(404) ,コロエブスはミネルウァの神殿で倒れる(425).ただ,トロイ側とギリシャ側の両方に関係するヘレンだけは別である.アエネーアースは,ウェスタ女神(Vesta) の祭壇に隠れている所を見つけた彼女を殺そうとしたとき,ウェヌス女神に止められる.

 神々の好意を失ったトロイ人たちにとっては,もはや神に犠牲(いけにえ)を献げることもうまく行かない.作品の中の犠牲の献げ方は恐らくローマの習慣を踏襲したものと思われるが,ローマでは犠牲の献げ方には厳格な方式があった.男神には雄の動物が,そして女神には雌の動物が献げられた.動物の色も重要でユーノー,ユッピテルなど空の神々には白い動物が,そして地下世界の神々には黒い動物が献げられた.[15]  犠牲となる動物は完全なものでなければならず,いかなる不具も神に対する侮辱と考えられた.犠牲を献げようとする者はトガを身にまとい,動物の角と尾にリボンを結び神殿までその動物を導いていく.動物が喜んで進んで行けば吉と考えられた.逆に,動物がもがいて逃げようとしたりすれば,それは神の好意を得られない不吉な動物とみなされた.[16] 

 犠牲(いけにえ)となる動物の屠殺は神殿の外で行われ,静けさが求められ,余計な音を消すために笛が奏でられた.神官はトガで頭を覆い,塩をまぜた聖なる穀粉を,従者たちが押さえている動物の角の間とナイフに振りかけた.この行為は immolare と呼ばれた.さらに任意でぶどう酒をかけることもあった.今や動物はリボンと飾りを取られて,従者が象徴的行為として,動物の頭から背に沿って尾までナイフを触れながら引いた.動物をきれいに殺すことが必要で,動物が半殺しとなったり,逃げ出したりすれば,それは犠牲の儀式が失敗に終わったことを意味した.[17]  犠牲の儀式があらぬ方向に進んだ場合には,恐ろしいことになると考えられていたことは,『アエネーイス』第4巻454−455行目の記述からも想像される.そこでは Dido が献げ物をしようとしたとき,聖水は黒く変色し,ぶどう酒はきたならしい血に変わったと叙述されている.

 犠牲(いけにえ)の儀式には厳格な手順があったことを考えれば,ラーオコオーンの行おうとしていた犠牲が失敗に終わったことは,不吉な前兆であった.ネプトゥーヌスの神官となっていたラーオコオーンが,祭壇で大きな雄牛を犠牲にしようとしたとき,テネドス島から海を渡ってきた二匹の大蛇によって,まず彼の二人の息子たちが食われ,助けようとしたラーオコオーンも殺されてしまう.犠牲(いけにえ)がうまくいかなかったことは,トロイに敵対するようになったネプトゥーヌスが,犠牲を受け入れて,トロイ人の願いを聞き入れるのを拒否していることを表している.また,二匹の大蛇がミネルウァの遣わしたものであることから,ラーオコオーン親子を滅ぼしたのは結局ミネルウァであることが分かる.

 二匹の大蛇に巻きつかれたラーオコオーンが叫び声をあげる様は,犠牲(いけにえ)にされるときに逃げ出した雄牛の叫びに喩えられている.

 

clamores simul horrendos ad sidera tollit:

qualis mugitus, fugit cum saucius aram

taurus et incertam excussit cervice securim.   (222-224)

同時に彼は恐ろしい叫び声を天に上げた.その声は祭壇より逃れ,狙いの外れた斧を首より振り落とした雄牛の叫びにも似ていた.

 

 この比喩が秀抜であるのは,それがただ単に比喩であるにとどまらない点にある.ラーオコオーンが犠牲(いけにえ)にしようと,まさに斧を打ち下ろした瞬間に大蛇に襲われたため,雄牛は首に斧を立てたまま逃げ出した.比喩の雄牛はこの実際の雄牛そのものを表している.犠牲の儀式が中断され失敗に終わったことは,不吉な前兆であった.首を斧で打たれて苦痛のあまり叫ぶ雄牛の叫びは,ラーオコオーンの上げる断末魔の叫び声に重なる.犠牲にされようとしていた雄牛の代わりにラーオコオーン自身が犠牲として献げられたのである.

 あたかもトロイの町自体が神々への犠牲(いけにえ)であるかのような観を呈するこの第2巻では,ラーオコオーンの死はトロイ滅亡の前兆となる.トロイの中心人物であるプリアムス王も祭壇の所へ引っぱって行かれて,いわば犠牲にされるが,こちらはトロイの滅亡を象徴している.プリアムスは「大きな胴体として海岸に横たわる,頭は肩より切り離され,無名の死体として」(iacet ingens litore truncus,/ avulsumque umeris caput et sine nomine corpus) (557-558) と述べられるが,この叙述は同時に,滅んだトロイをも表している.トロイが滅ぶ様子は,切り倒されるトネリコの木に喩えられている(626-631).「山の嶺から切り離された」(iugis avulsa) (631) トネリコの木の「幹」(truncus) は「肩から切り離された」(avulsum...umeris) (558) プリアムスの「胴体」(truncus) (557) を連想させる.プリアムスはピュルルスに倒されて,「残酷な傷によって最後の息(=命)を吐き出して」(crudeli vulnere...vitam exhalantem) (561-562) 絶命するが,同様にトネリコの木も「徐々に傷に打ち負かされて最後のうめき声を発する」(vulneribus donec paulatim evicta supremum/ congemuit) (630-631) というように擬人化されて描かれている.また,トネリコの木を「農夫たちが競い合って根こそぎ倒そうとする」(eruere agricolae certatim) (628) 姿は,神々が競い合うかのように「トロイの町全体を土台から根こそぎ倒そうとする」(totamque a sedibus urbem/ eruit) (611-612) 姿を彷彿とさせる.トネリコの木の比喩によって,プリアムス王,トネリコの木,トロイの三者が同一視されていることになる.

 

7. 聖なる空間

 トロイの町が「神々の家」(divum domus) (241) であったことについてはすでに触れたが,トロイの町全体が一つの「聖なる空間」を形成していたと考えられる.宗教学者ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade) は『聖と俗』という本の中で宗教的人間の世界観を説明している.宗教的人間にとって空間は均質ではなく,一方には「聖なる空間」,すなわち力を帯びた,意味深遠な空間が存在し,他方には聖ならざる空間がある.「聖なる空間」は一つの絶対的な「固定点」,一つの「中心」が聖体示現によって露われることによって生じたものである.[18]  宗教的人間にとっては,自分の国が大地の中央にあり,自分の都市が宇宙の臍をなし,神殿と宮殿が世界の中心にあった.彼は自分の家が中心に存在し,世界の模型であることを欲した.そして,宗教的人間はできるだけ世界の中心近くに住むことを願った.[19]

 このような意味において,トロイは「聖なる空間」であった.城壁がその境界をなし,中心には聖なる神殿と,王の住む宮殿があった.神殿は神々に少しでも接近するために高台に建てられていたと考えられる.神殿や宮殿,さらに個人の家々には「敷居」(limen) があって,外側との境界をなしていた.世界の模型である住居もまた,聖化されていた.[20]  そして「祭壇」(ara, altaria) が神殿や宮殿や家々の中心をなしていた.エリアーデは「火壇の建立により神々が現在するようになり,神々の世界との交流が確保されて,祭壇の空間は聖なる空間となる」[21]  と述べている.また,トロイの町の外にはさらに「海岸」(litus) があって,トロイの国土の境界をなしていた.すなわちトロイでは,一番中心の「祭壇」が神殿や宮殿や家の「敷居」で境界づけられ,町は「城壁」で境界づけられ,さらに国土は「海岸」で境界づけられるというように,「境界」によって何重にも囲まれた構造をしていた.勿論,中心の「祭壇」が最も「聖なる空間」であった.「敷居は聖と俗の境界を表すが」,[22] 『アエネーイス』第2巻では「城壁」や「海岸」も境界として同様な機能を持っている.

 われわれの世界はコスモス(宇宙)であり,これをカオス(混沌)に変えようとする外からのあらゆる襲撃に脅かされていて,また,都市の破壊はカオスへの転落である,とエリアーデは言う.[23]  トロイという「聖なる空間」の崩壊は一つの世界の終焉を意味し,そこに住む「宗教的人間」は神々とのつながりを喪失し,生きる意味を失うことになる.アンキーセースが最初アエネーアースと共にトロイから逃れることを拒むのは,「宗教的人間」である彼が神々の世界との交流を失ったカオスの中に生きれるとも,生きたいとも思わないからである.「宗教的人間は聖化された世界にしか生きることができない」[24]  のである.

 『アエネーイス』第2巻では,「守り神」(penates) や「聖物」(sacra) を救い出すことが重要なこととして描かれている.これらなくしては,別の土地に第2のトロイを建国することも,家を存続させることも不可能となるからである.アエネーアースは背負ったアンキーセースに「聖物と祖国の守り神」(sacra...patriosque penatis) (717) を持たせて,トロイから脱出する.これらは,アエネーアースの夢に現れたヘクトルの亡霊が「トロイは汝に聖物とみずからの守り神を託する」(sacra suosque tibi commendat Troia penatis) (293) と伝えて,彼に委ねたものであった.

 宮殿の建物に囲まれた中庭には「大きな祭壇」(ingens ara) (513) があり,古い月桂樹は祭壇におおいかぶさるように立っている.エリアーデ(pp.141-142) が「樹木は宗教的人間にとって,およそ実在にして聖なるものを表す」と述べているように,この月桂樹は「聖なる木」であると思われる.また,その祭壇は「天空の露わな軸の下(もと)に」(nudoque sub aetheris axe) (512) あると叙述されている.勿論これは常套的なフレーズではあるが,この場合この「軸」は「世界軸」にも相当する意味を持ち,祭壇が神々の世界とのつながりを持つことを示している.ヘクバ(Hecuba) やその娘たちが嵐を逃がれる「ハト」(516) のように,この祭壇に寄り添っているのは,この聖なる場所が人を守る力があると考えられていたからである.

 混乱した宮殿の中で恐れおののく女房たちが戸口の「側柱」(postis) (490) を抱いて接吻を押しつける. Austin (p.192) が, ‘a traditional detail in such a moment of sorrow’ と注釈を付けているように,これは伝統的な行動であった.エリアーデは「聖柱」について述べているが,「聖柱」は世界軸を表し,神々の世界への道を開く柱であった.この柱が折れることは破滅であり,いわば世界の終焉,混沌への逆戻りを意味した.[25]  宮殿の女房たちが抱いて別れの接吻をする「側柱」はこの「聖柱」の役を果たしているのであろう.その柱が倒れるときは,「聖なる空間」も崩壊することになるからである.

 

8. 境界(敷居,城壁,海岸)

 トロイの滅亡は「聖なる空間」が冒されて空洞化していく過程と見ることができる.トロイの一番外側には「海岸」という境界があり,さらに町は「城壁」という境界によって外部とは隔絶されている.各家々や神殿や宮殿にはそれぞれ「門」や「戸口」があって,外部との出入りを可能にしているが,その門や戸口の外部との「境界」を明確に示す語が「敷居」(limen) である.

 ギリシャ軍がギリシャへ帰ってしまったと思い込んだトロイ人たちは,永い間の悲しみから解放されて城壁の外へ出る.「門々が開かれる」(27) と語られているが,「開く」という言葉は「境界」が開かれることを表し,この第2巻では重要な意味を持つ.トロイ人たちはギリシャの陣営やギリシャ軍が「去って行った海岸」(litus...relictum) (28) を見て,彼らがこのトロイの境界から去ったことを喜ぶ.しかし,ラーオコオーンを襲う二匹の大蛇はギリシャ軍の隠れているテネドス島から,まるでギリシャ軍の艦隊であるかのように,「確かな戦列を組んで」(agmine certo) (212) 「並んでこの海岸に向かって進む」(pariterque ad litora tendunt) (205).次にギリシャ軍の艦隊は,やはり同じテネドス島からこの「よく知った海岸に向かう」(litora nota petens) (256) のである.市街での夜戦の際,劣勢となったギリシャ兵の中には「この頼りにする海岸に向かって逃げ返る」(litora cursu/ fida petunt) (399-400) 者もいるが,ここでもやはりギリシャの艦隊の時と同じ ‘petere’ という動詞を用いた類似表現になっている.これは「海岸」がトロイの国とその外側の世界との「境界」だからで,ギリシャ人たちは攻撃するときも逃げるときもまず「海岸に向かう」のである.プリアムス王の体が「海岸」に横たわるという叙述(iacet ingens litore truncus) (557) にはすでに触れたが,これはトロイが滅んで「聖なる空間」が消滅した今となっては,残っているのはただ自然の「海岸」のみだからであろう.

 木馬を城壁という「境界」を越えてうまく町の中に入れられるかどうかに,ギリシャ軍の策略の成否がかかっていた.武将たちを中に潜伏させるためには木馬は巨大なものでなければならなかったが,このことはまたトロイ人たちを欺くのにも役立った.シノーンは,「城門から入れて,町中に引き入れられることのないよう」(ne recipi portis aut duci in moenia posset) (187) 木馬を天まで届くよう作るように,予言者カルカース(Calchas) が命じたと語るが,これは勿論トロイ人たちを欺き,安心させるための嘘であった.トロイ人たちの中にはラーオコオーンのように先見の明をもって,木馬がギリシャ人たちの奸計だと言って警告するものもいたが,一方テュモエテース(Thymoetes) のように「城壁内に引き入れる」(duci intra muros) (33) ようにと強く促すものもいて,皆の意見は分かれた.木馬を入城させるとき,トロイ人たちは城門の回りの「城壁を裂き,町を開く」(dividimus muros et moenia pandimus urbis) (234).「運命を決め,死をもたらす仕掛けは城壁をよじ登り」(scandit fatalis machina muros) (237) 町に入って行くが,「城門の敷居の上で」(ipso in limine portae) (242) 四たび立ち止まり,その腹の中で四たび武器の音がする.しかしトロイ人たちは気にもせずに中に入れる.武器の音がしたとき木馬を疑うこともできたであろうが,そうしなかった点で「城門の敷居」がトロイ人たちの運命の分かれ目となる.この「敷居」こそ「聖なる空間」と外部とを峻別する「境界」であったのである.

 「城壁」や「城門」が重要な役を果たしていることはウェヌス女神が神々について語るとき,ネプトゥーヌスが「城壁」(muros) (610) と町の土台を揺り動かし,ユーノーが「スカエアの城門」(Scaeas...portas) (612) を占領している,と言っていることからもうかがえる.木馬が城壁内に入れられたことは,トロイという「聖なる空間」の内部に異質なもの,「聖ならざるもの」が入り込んだことを意味する.

 

9. 空洞化

 シノーンの言葉は虚偽と奸計にみちた「空(うつ)ろな」(vanum) (80) ものであったが,ギリシャ人の欺瞞を示す木馬もまた同様の「空ろさ」を持っていた.木馬の「空ろさ」,すなわちそれが「空洞」であるということは,最初から強調されている.その「巨大な空洞」(cavernas/ ingentis) (19-20) は兵士で満たされ,トロイ人の中にはその「胎内の空洞の隠れが」(cavas uteri...latebras) (38) を貫いて探れと言う者もあった.木馬の「空洞」の中に閉じ込められていた「聖ならざるもの」すなわち「破壊的要素」がトロイの「聖なる空間」の中に解き放たれるのは,木馬のかんぬきが外されるときである.<産婆>とも言うべきシノーンがかんぬきを外すと,「開かれた」(patefactus) (259) 木馬はその「空ろな木」(cavo...robore) (260) の中から「胎内に閉じ込められていた」(inclusos utero) (258) ギリシャの武将たちを外に出して<出産する>.この「空ろな木馬」によって産み落とされたギリシャ人たちによってトロイの「聖なる空間」は冒され,空洞化していく.「暗い夜が空ろな闇で包む」(nox atra cava circumvolat umbra) (360) と語られているが,この叙述は木馬の「空ろさ」がトロイ一面を満たしたことを暗示している.そして,「神々は祭壇も神殿も見捨てて去った」(351-352) のである.ギリシャ人の武具で変装したアエネーアースたちもまた虚偽を身につけた点でこの「空ろさ」に感染したのである.

 木馬の「空ろさ」がトロイの中心部,すなわち宮殿に達する様は,木馬が産み落とした武将の一人であるピュルルス(Pyrrhus) によって表現されている.ピュルルスは宮殿の入口に立って,両刃の斧で「堅固な入口」(dura...limina) (479-480) をぶち抜き,頑丈な扉に「空洞を開け」(cavavit) (481),「広い口の大きな穴を作る」(ingentem lato dedit ore fenestram) (482).この扉に開けられた「空洞」は木馬の「空ろさ」がここまで達したことを表している.そのとき宮殿の最も奥の部分が露わになる.

 

apparet domus intus et atria longa patescunt;

apparent Priami et veterum penetralia regum,   (483-484)

宮殿の内が現れ,長い大広間も開かれて,プリアムス王や古の王たちの奥部屋も現れた.

 

 この叙述で強調されているのは宮殿の最も「内なる」部分が敵によって露出されたという点である.アエネーアースは「われみずから殺戮で猛り狂うネオプトレムス(=ピュルルス)とアトレウスの二人の息子を(宮殿の)敷居の上に見た」(vidi ipse furentem/ caede Neoptolemum geminosque in limine Atridas) (500) と語っているが,この文が表しているのは,木馬の中の「異質なもの」であった敵が,実際宮殿の中の敵となったことの驚きである.ピュルルスが蛇に喩えられており(471-475),また ‘geminos Atrides’ がラーオコオーンを襲った二匹の蛇 ‘gemini...angues’ (203-204) を思わせることから,これは蛇の破壊力が宮殿に達したことをも暗示している.宮殿の中になだれ込んだギリシャ軍は,

 

      ...late loca milite complent.   (495)

広くその場を兵士たちで満たした

 

と叙述されているが,これは木馬の中のギリシャ兵たちの叙述

 

      ...armato milite complent.   (20)

武装した兵士たちで満たした

 

に酷似している.これはすなわち,木馬の空洞の中に閉じ込められていた「破壊的要素」が,トロイという「聖なる空間」の中でもさらに「聖なる空間」である宮殿の中にまで充満したことを表している.そして,「空ろな宮殿は女たちの号泣で鳴り響く」(cavae plangoribus aedes/ femineis ululant) (487-488) と述べられている.これは,ラーオコオーンが木馬に槍を投げつけたとき,槍が突き刺さって震え,「空ろな空洞が反響して,うめき声を発した」(insonuere cavae gemitumque dedere cavernae) (53) という箇所を想起させる.女たちの号泣が響くこの「空ろな」宮殿は木馬の「空ろさ」がこの宮殿内にまで入り込んだことを暗示する.木馬が解き放った破壊力を体現しているかのようなピュルルスは,プリアムスの面前で息子ポリーテース(Polites) を殺害することによって父親の顔を「冒涜し(=汚し)」(foedasti) (539),さらにはプリアムス自身をわざわざ「祭壇」(aras, 501, 663; altaria, 550) で殺すことによって,「プリアムスが聖別していた神聖な火を彼の血で冒涜させる」(sanguine foedantem quos ipse sacraverat ignis) (502)

 Palladium が奪われたとき「処女神の額紐」(virgineas...divae...vittas) (168) を血で汚れた手で触れることによって冒涜されたミネルウァの「怒り」は,大蛇を送って,雄牛の犠牲(いけにえ)を捧げていた神官ラーオコオーンを襲わせ,彼に「聖なる額紐を血と黒い毒液で浸して」(perfusus sanie vittas atroque veneno) (221) 神聖冒涜を犯させた.さらにミネルウァは木馬によってピュルルスを送り込み,プリアムスに神聖冒涜を犯させる.大蛇の眼には「血と火」(sanguine et igni) (210) が共に存在していた.蛇に喩えられているピュルルスは,プリアムスにこの「血」と「火」を冒涜という形で結合させる.これはミネルウァによる復讐と見なすこともできるであろう.このようにして,また「神殿も焼かれて」(incensis...adytis) (764) ,トロイの「聖なる空間」は「冒涜」されて滅んでいく.

 トロイの「聖なる空間」は,宮殿の最も奥の間に至るまで露わにされて冒されていったわけであるが,それは多くは「開く」という言葉で表現されている.もう一度まとめておきたい.ギリシャ軍が去ったと思ったトロイ人たちは「城門を開き」(panduntur portae) (27),木馬という罠を見つける.木馬をどうするか議論している所へ,「トロイをギリシャ人に開く」(Troiamque aperiret Achivis) (60) 目的を持ったシノーンが現れる.木馬を町に入れることにしたトロイ人たちは,「城壁を裂いて,町を開く」(dividimus muros et moenia pandimus urbis) (234).夜になって「開かれた」(patefactus) (259) 木馬はギリシャの武将たちを出す.ギリシャ人たちは「開かれた城門」(portisque patentibus, 266; portis bipatentibus, 330) から仲間たちを迎え入れる.今やトロイ人たちに「ギリシャ人たちの陰謀が開かれる(=明らかになる)」(Danaumque patescunt/ insidiae) (309-310).ついには宮殿の大広間も「開かれて」(patescunt) (483) 内部が「露わになる」(apparet, 483; apparent, 484).このように第2巻はトロイの町の重要な「境界」がすべて「開かれて」しまう物語りでもある.アエネーアースは,一緒に逃げることを拒む父アンキーセースに,「そのような死への扉は開かれている」(patet isti ianua leto) (661) とさえ言う.

 

10. 空しさ

 第2巻は神々に見捨てられて滅ぼされていくトロイの物語であるが,アエネーアースもまた妻に見捨てられることになる.アエネーアースは,プリアムス王が殺害されるのを目撃したとき恐怖に打たれ,自分の父親のことを思い出す.そして家や息子や妻の「見捨てられたクレウーサのことが心に浮かぶ」(subiit desertae Creusa) (562).しかし,「見捨てられたケレース女神」(desertae Cereris) (714) の社(やしろ)に逃れ行くとき,クレウーサを見失い,結局アエネーアース自身が「見捨てられる」ことになる.クレウーサは彼の前に亡霊として現れて予言を語ったあと,「多くを言わんと欲する彼を見捨てて」(multa volentem/ dicere deseruit) (790-791) 去る.

 このクレウーサを失う箇所に現れているのは「悲しみ」と「空(むな)しさ」で,この「悲しみ」と「空しさ」という二つの感情が第2巻全体に充満している.「悲しみ」は第2巻の前置きとなる冒頭の13行の中に,‘infandum’ (3),‘dolorem’ (3),‘lamentabile’ (4),‘miserrima’ (5),‘lacrimis’ (8),‘laborem’ (11),‘luctu’ (12) などによって表されていることからも明らかである.ここでは「空しさ」について見てみたい.

 「空しさ」はひとつには語り手アエネーアースのトロイの滅亡が不可避であった−−つまり fatum であった−−という気持ちから来るのであろう.第2巻において,「ギリシャ軍がトロイを滅亡させた」と見るのは恐らく正しくないであろう.これまで見たように,トロイを滅亡させるのは神々であって,ギリシャ軍はその神々の道具なのである.語り手のアエネーアースは,トロイ側がたとえいかなる抵抗をしたとしても,結局は「空しい」ものであったことを知っている.しかし,それは現在の彼に真相が「見える」ということで,トロイに居たときは勿論そうではなく,彼はただその時の感情や衝動に流されて右往左往していた.その意味で ‘caecus’ (盲目)の状態にあった.

 ラーオコオーンの忠告も「空しく」終わり,カッサンドラの予言も人から信じられない点で「空しかった」というように,第2巻前半にも「空しさ」は見られるが,「空しさ」や「無益」を表す語句が多く用いられているのは第2巻の後半である.シノーンの言葉は「空虚」であり,木馬の腹も「空虚」であったが,木馬の腹が開かれてからは,負け戦を強いられるトロイ人たちの試みは,木馬の「空虚さ」を反映するかのように「空しい」ものにならざるをえない.アエネーアースは若者たちに「若者たちよ,空しく猛き心のものたちよ」(iuvenes, fortissima frustra/ pectora) (348-349) と呼びかけて,戦いに出向く.彼らはギリシャ人の武具を身に着けて変装し,ギリシャ人さながらの「奸計」(insidiis) (421) を用いてはみるが,一時優勢のあとは劣勢となり,変装故に仲間に刺されて死ぬ者も出て(429),空しい戦いとなる.宮殿の屋根からはトロイ人たちが「無益な投げ槍」(tela...inrita) (459) を投げている.プリアムス王は老いのため震える両肩に鎧を「空しく」(nequiquam) (510) ひっかけ,「無益な」(inutile) (510) 剣を腰にまとって「死ぬつもりで」(moriturus) (511) 多勢の敵に向かって行こうとする.彼の妻ヘクバと娘たちは祭壇の回りに「空しく」(nequiquam) (515) 身をすり寄せている.プリアムスはピュルルスめがけて「勢いなく弱々しい槍」(telumque imbelle sine ictu) (544) を投げるが,盾に打ち返されて,盾のつまみの頂より「空しく」(nequiquam) (546) ぶら下がる.アエネーアースはクレウーサを見つけることができず,「悲しみのあまりクレウーサの名を何度も繰り返し繰り返し空しく呼ぶ」(maestusque Creusam/ nequiquam ingeminans iterumque iterumque vocavi) (769-770).彼はクレウーサの亡霊を三たび「空しく抱こうとする」(frustra comprensa) (793) が,その姿は彼の手から逃れてしまう.このようにアエネーアースの語りは「空しさ」に満ちている.これは,シノーンの言葉の「空しさ」や木馬の「空洞」それに「空ろな宮殿」(487)や扉に「空いた穴」(481)などと相まって,第2巻全体に「空しさ」を響かせているように思われる.

 

11. ミネルウァの「怒りの火」

 第2巻に見られる蛇と火のイメージについては,すでに Bernard Knox ‘The Serpent and the Flame’[26]  という秀れた論文があるので,ここで火について詳しく述べることは控えたいが,ただ簡単に触れておきたい.トロイの町の崩壊は,ヘクトルの亡霊がアエネーアースに「この炎より逃れよ」(teque his eripe flammis) (289) と命ずるときから,「トロイの町全体が火に沈む」(omne mihi visum considere in ignis) (624) ときに至るまで,すなわち最初から最後まで,徹頭徹尾「火」によるものとして描かれている.伝統的には,ギリシャ人たちが去って行くときにはじめて火を放ったとされていたことを考えれば,[27]  これは注目に値する.つまり火によるトロイの崩壊はウェルギリウスによる意図的なものであった.ミネルウァ像 Palladium は,「上にあげたその閃く眼から炎を燃え上がらせる」(arsere coruscae/ luminibus flammae arrectis) (172-173) が,この炎は「怒りの火」「破壊の火」を表している.ミネルウァが遣わした二匹の大蛇も「燃える眼に血と火を湛えて」(ardendisque oculos suffecti sanguine et igni) (210) いる. Palladium も大蛇も共に「眼」に「火」を持っている点で共通している.また Palladium が「眼を上にあげる」(luminibus...arrectis) ように,大蛇は「胸を上にあげる」(pectora...arrecta) (206) この大蛇の「火」,つまりはミネルウァの「怒りの火」が,トロイの町を襲うことになる.[28]

 「火」がトロイの町を破壊していく様は ‘Volcano superante’ (火(の神)が勝ち誇ってそびえ)(311) とか ‘exsuperant flammae’ (炎が燃え上がる)(759)などと表現されている.この ‘superare’ という動詞は大蛇の描写において2度までも用いられていたものであった.

 

                    iubaeque

sanguinea superant undas,              (206-207)

血のような頭は波の上に現れる.

 

superant capite et cervicibus altis.   (219)

頭とそびえ立つ首を高く上げる.

 

 この「火」と「大蛇」との表現の類似によって,トロイの町を破壊する「火」は「大蛇」がもたらしたものであり,「大蛇」はミネルウァが遣わしたものであることからその火は結局ミネルウァの「怒りの火」であることが分かる.

 

12. ユッピテルの意志

 トロイを滅亡させるというのが神々の決定であり,特にユッピテルの意志であったが,滅亡後に新しい土地に第2のトロイを建国させようというのもまた同時にユッピテルの意志であった.しかし戦いの最中のアエネーアースは,夢の中でヘクトルの忠告を聞いたにもかかわらず,そのようなことの自覚はなく,いわば「盲目」(caecus)であった.また,第2巻に関する限り,アエネーアースについて ‘pius’(敬虔な)という語は当てはまらない.[29]  ‘pius’ を「神々,祖国,家族などに対する義務に忠実な」という意味に取るなら,第2巻においてアエネーアースは特に ‘pius’ であるとは言えない.もっとも第2巻の最後では成り行きでそう見える姿を取ることになるのであるが.ヘクトルの亡霊の忠告も忘れ,また家族のことも忘れて,アエネーアースは動転,絶望,悲しみ,怒り,復讐心といった衝動や感情−−つまり furor dolor [30]−−に動かされて,死ぬつもりで盲目的に戦いに行く.彼には自分の責任についての自覚が希薄である.

 ウェヌスはアエネーアースの蒙を啓 (ひら) き,トロイを滅ぼしているのは「神々の無慈悲」(divum inclementia(602) であることを教えるが,未来については一言も語っていない.未来についての予言をアエネーアースに語るのは,ヘクトルとクレウーサの二人の亡霊の役目である.ヘクトルの亡霊の忠告を,アエネーアースは夢の中ということもあって,十分には理解していない.彼は,第2巻の終わりで,妻クレウーサの亡霊に告げられて,ようやく自分の使命について悟る.彼女は自分が一緒に行くことを許されていないこと,またアエネーアースがテュブリス川(Thybris) (782) のほとりに国を建国すべきこと,そして新しい妻を迎えるであろうことを語る.このクレウーサの予言について重要なことは,この予言がユッピテルの意志に基づいたものであることが示唆されている点である.クレウーサは,自分を連れて行くことは「神意ではなく,高いオリュンポスのかの支配者が許さない」(nec...fas aut ille sinit superi regnator Olympi) (779) と言う.「オリュンポスの支配者」とは言うまでもなくユッピテルのことであり,ヘクトルの亡霊の言葉も,クレウーサの亡霊が語る内容に沿ったものであることから,やはりユッピテルの意志であることが理解される.また,クレウーサの亡霊は「これらのこと(=トロイの滅亡)は神意なくして起こったことではない」(non haec sine numine divum/ eveniunt) (777-778) と語っている.つまり,トロイを滅ぼすこと,そしてアエネーアースに第2のトロイ(=ローマ)を建国させること,これらすべてがユッピテルの意志であることが判明する.すべては「神の意志」(numen divum) であった.「無慈悲」(inclemens) であった神は,一面では「慈悲深く」もあったのである.

 アエネーアースが,ウェヌスに諭されたあと,宮殿の屋根から下りて自分の家に向かう所はこう叙述されている.

 

 ducente deo flammam inter et hostis

expedior                                      (632-633)

私は神に導かれて炎と敵の中を抜けて行く.

 

 この箇所は Austin (pp.241-242) が記しているように,‘deo’ ‘dea’ であるべきではないかと,古来議論されてきた所である.多くの学者は男性形 ‘deo’ の方を支持している.Austin はこれまでの色々な説を紹介しているが,皆ここの「神」をウェヌスを指すものと考えながらも,男性形である点に無理を感じているようである.しかし,私はこの ‘deo’ はユッピテルを指していると考える.この考え方はこれまで出されたことがないようだが,今まで見てきたことを考えれば容易に理解できる.すべてがユッピテルの意志であったことを,すなわち自分を救い出すこともまたユッピテルの意志であったことを知っている語り手のアエネーアースにとって,自分は当時そうとは知らずユッピテルに導かれていたのだと考えることはごく自然である.この時点でアエネーアースにはすでにユッピテルの救済の手が及んでいたのである.

 しかしユッピテルによる救済がより明確になるのは,アエネーアースの息子イウールス(Iulus, 別名アスカニウス)の頭に炎(火)の前兆が現れる場面においてである.この炎はイウールスの髪を蛇のように舐めるが,実際には危害を加えない.アエネーアースと妻はあわててこの「聖なる火」(sanctos ignis) (686) を水で消そうとするが,アンキーセースは「全能の神ユッピテル」(689) に祈って,この前兆の確証を求める.すると雷鳴がとどろき,流星が屋根の上の空を滑って,イーダ山の森に消える.アンキーセースはこの二つの前兆に喜び,アエネーアースらと一緒に逃れることに同意する.

 この場面の中心的人物はアンキーセースである.かつてユッピテルは雷電でアンキーセースを打ち,「火で触れて」(contigit igni) (649) 彼を罰した.それ以来彼は自分が「神々に憎まれながら」(invisus divis) (648) 無益に年月を永らえて来たと考えていた.「火が触れる」ことによって罰せられた記憶があるアンキーセース一人だけが,「触れても害を加えない」(tactuque innoxia) (683) 頭の火を見たとき,それがユッピテルによる吉の前兆であると直観する.このことは彼がすぐに「喜びの表情で」(laetus) ユッピテルに確証を求めていることから分かる.神が自分たちに好意を示したのであって,もはや自分は神々に憎まれているのではないと彼は感じたのである.

 

at pater Anchises oculos ad sidera laetus

extulit et caelo palmas cum voce tetendit:      (687-688)

しかし父アンキーセースは喜びの表情で眼を星に上げ,声と共に両手を天に差し伸ばした.

 

この二行の表現は次のカッサンドラの描写と類似点がある.

 

ad caelum tendens ardentia lumina frustra,

lumina, nam teneras arcebant vincula palmas.      (405-406)

燃える両眼を無益に天に向けて,両眼を,というのは縄が柔らかい両手を縛っていたので.

 

 両手を縛られていたカッサンドラの場合,両眼を天に向けて祈ろうとしたが,その祈りは「空しく」(frustra) ,何の役にも立たなかった.ところが,アンキーセースの祈りに対して,ユッピテルはすぐに確証の「前兆」(augurium) (691) を与え,「聖なる流星」(sanctum sidus) (700) によって逃げるべき道筋をも示す.「破壊」をもたらした同じ神が,「救済」をもたらそうとしていることをアンキーセースに示したのである.[31]

 このエピソードではイウールスの頭の「火」だけが「蛇」のイメージで描かれているのではなく,「流星」もまた ‘lapsa’ (693),‘labentem’ (695),‘facem ducens’ (694) などと蛇のイメージで描かれている.これまで「蛇」は破壊的要素を表してきた.しかしこの場面においては,「蛇」は「再生」,すなわち滅んだトロイの再生を暗示する.また,これらの前兆の「火」が表す意味もこれまでの火とは違っている.ミネルウァ像の眼の火,二匹の大蛇の火,アンキーセースを罰したユッピテルの火,トロイを滅ぼす火などが「凶の火」すなわち「破壊の火」であったのに対して,このユッピテルによる頭の火と流星の火は「吉の火」「救済の火」であり,「未来を示す希望の火」でもある.トロイの滅亡が確実となった今,ユッピテルが「救済」の方に目を向け始めた結果,「蛇」や「火」が持つ意味も異なってきたのであろう.この変化はこの場面の最初で用いられている ‘monstrum’ (680) というキーワードにも表れている.

 

cum subitum dictuque oritur mirabile monstrum.   (680)

そのとき突然言うも不思議な前兆が現れた.

 

 この ‘monstrum’ という語,および ‘mirabile dictu’ という語句が第2巻で最初に用いられるのはシノーンの話の中で,盗み出された Palladium が眼から火を出し,汗が流れ出したという所である.ミネルウァアは確かな「前兆」(monstris) (171) を示したとシノーンは語っている.そして,像は「言うも不思議なことに」(mirabile dictu) (174) 盾と槍を持って地面から三度躍び上がった.[32]  このミネルウァア像の示した前兆は,実はギリシャ人たちにではなく,トロイに対して向けられたものであり,この「凶の前兆」がトロイの滅亡を予示するものであった.これに対して,イウールスの頭の火,さらにそれを確証する雷鳴と流星は,「吉の前兆」であり,トロイの再生,復活を予示している.‘monstrum’ というキーワードは「凶」から「吉」へとその意味を変化させたのである.怒れるミネルウァの「前兆」(monstrum) で始まったトロイの滅亡は,「破滅をもたらす怪物=不吉な前兆」(monstrum infelix) である木馬によって現実化し,トロイの再生を予示するユッピテルの「前兆」(monstrum) で終わる.闇夜を「夥しい光の尾を引いて」(facem ducens multa cum luce) (694) 明るく輝きながら流れるこの前兆の流星は,夜明けにイーダ山から昇る「暁の明星」(Lucifer) (801) と共に,トロイ滅亡の,この暗く,悲しく,空しい物語に幾分の明るさと希望を与えている.

 

13. まとめ

 以上,第2巻の宗教的要素を中心に見てきた.宗教性は第2巻の物語の骨格にかかわっており,宗教的側面を度外視すれば,第2巻の全体像が見えてこないであろう.第2巻は「ギリシャ軍がトロイを滅ぼす物語」ではなく,「神々がトロイを滅ぼす物語」だからである.ここではギリシャ軍でさえも神々の道具なのである.第2巻でウェルギリウスの関心はトロイ戦争自体にあるわけではない.ギリシャ軍とトロイとが戦争をして,たまたまギリシャ側が勝ってトロイが敗れたというようなことが描かれているのではない.彼の目はトロイ戦争全体にではなく,ただトロイの滅亡,その滅亡の空しさに向けられている.トロイを滅ぼすことは「神々が決定したこと」(numen divum) であったが,そんなことをトロイ人たちは知る由もなかった.彼らが理不尽に滅ぼされていった空しさに,作者の目は向けられている.その理不尽さは木馬の入城を阻止しようとしたラーオコオーンを襲う二匹の大蛇にも見られる.この大蛇はミネルウァが遣わしたものであった.木馬でさえミネルウァの技術で作られたものであった.また神々自身−−ユッピテル,ユーノー,ミネルウァ,ネプトゥーヌスなどの神々−−がトロイの町を破壊しようとし,また最高神ユッピテルはギリシャ軍に力と勇気を与え,トロイ軍に向かえとけしかけている.このように,神々に滅ぼされているのとは知らずに滅ぼされていくトロイの人々の空しさをウェルギリウスは描いている.

 トロイの滅亡は「聖なる空間」の崩壊として描かれている.シノーンの嘘の空しさや木馬の腹の空洞がトロイの町に広がり,トロイを空洞化していく.「神々の家」であったトロイからは神々も去る.祭壇は人を守る力を失い,犠牲(いけにえ)の儀式はうまく行えず,カッサンドラの祈りも通じない.プリアムス王自身自分の血で聖なる火を冒涜することを強いられる.このように,トロイの「聖なる空間」は侵されて冒涜され崩壊していく.

 しかし一方でトロイの滅亡は,その後第2のトロイを建国させようとするユッピテルの計画の一部分であった.破壊をもたらす神々は同時に若干の救いも用意していた.トロイの再生はイウールスの頭の火と流星という前兆によって暗示されている.このユッピテルの与えた前兆は「吉の前兆」である.Palladium を盗み出されて冒涜されたミネルウァの怒りを示す「眼から出る火」という「凶の前兆」で始まったトロイの滅亡は,ユッピテルのこの「吉の前兆」で終わる.「凶の前兆」が木馬という「怪物」によって現実化し,さらに「吉の前兆」によってトロイの復活が予示される.ミネルウァの前兆,木馬,ユッピテルの前兆,これら三者はすべて ‘monstrum’ という同じキーワードの使用によってそのつながりが暗示されている.トロイの滅亡およびその再生は,すべてが神々の意志であったのである.トロイ再生の前兆がトロイ滅亡のこの空しい物語にいくらかの希望を与えている.

 

 

 

 

 

主要参考文献

 

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Austin, R.G. (ed.), Aeneidos Liber Secundus. Oxford: OUP, 1964.

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Glare, P.G.W. (ed.), Oxford Latin Dictionary. Oxford: OUP, 1982. (OLD)

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Heinze, Richard, Virgil’s Epic Technique (Translated by Hazel and David Harvey and Fred Robertson). Bristol Classical Press, 1993.

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Johnson, W.R., Darkness Visible: A Study of Vergil’s Aeneid. University of California Press, 1976.

Lee, M. Owen, Fathers and Sons in Virgil’s Aeneid. State University of New York Press, 1979.

Lewis, C.T. (ed.), Elementary Latin Dictionary. Oxford: OUP, 1891. (Lewis)

Lewis, C.T. and Charles Short, A Latin Dictionary. Oxford: OUP, 1879. (LD)

Mynors, R.A.B (ed.), P. Vergili Maronis Opera. Oxford: OUP, 1969. (Oxford Classical Text)

Ogilvie, R.M., The Romans and Their Gods. Chatto & Windus, 1969. London: Pimlico, 2000.

Otis, Brooks, Virgil: A Study in Civilized Poetry. Oxford: OUP, 1964. University of Oklahoma Press, 1995.

Putnam, Michael C.J., The Poetry of the Aeneid. Cornell University Press, 1988.

Thilo, Georg & Herman Hagen (eds.), Servii Grammatici qui feruntur in Vergilii carmina commentarii in 3 vols. Hildesheim: Olms, 1986. (Servius)

Wacht, Manfred (ed.), Concordantia Vergiliana in 2 vols. Hildesheim: Olms-Weidmann, 1996.

Williams, R.D. (ed.), The Aeneid of Virgil in 2 vols. London: Macmillan, 1972.

泉井久之助訳『アエネーイス』上,下.岩波書店,1976.

田中秀央,木村満三訳『アェネーイス』上,下.岩波書店,1940.  

ミルチャ・エリアーデ著(風間敏夫訳)『聖と俗』.法政大学出版局,1969.

 

 

 

 

 

Summary

 

The Religious Elements in the Second Book of the Aeneid

 

Toshifumi Noro

 

   In the Second Book of the Aeneid the religious elements play so essential a role that without paying attention to them it would be almost impossible to grasp the whole story of the book.  For the Second Book is not a story about Troy being destroyed by the Greeks, but about Troy being destroyed by the gods, with even the Greeks used as the tools of the gods. 

   Virgil’s attention is directed not to the Trojan War as a whole, but to the fall of Troy, to the sense of futility in its fall.  The destruction of Troy is what the gods have decreed (numen divum), while the Tojans are kept in the dark about it.

   The unreasonable way in which they are being destroyed by the gods is indicated by the Laocoon episode, where Laocoon and his two sons are assaulted and destroyed by two huge serpents sent by Minerva because he has tried to prevent the wooden horse from being brought into the city of Troy.  Even the wooden horse, the greatest weapon of the Greeks, has been made with the art of Minerva.  The gods---Jupiter, Juno, Minerva and Neptune---are trying to demolish the city, and Jupiter himself gives the Greeks strength and valour, urging them to attack the Trojans.

   The fall of Troy is depicted as the destruction of the ‘sacred space’.  Troy, once an abode of gods, is deserted by them and becomes hollow.  The hollowness of the wooden horse and Sinon’s lies is reflected in the hollow darkness that surrounds Troy and the hollow halls of Priam’s palace resounding with women’s wails.  This hollowness is, furthermore, shown by the failure of the altars to protect people, Laocoon’s failure to offer a sacrifice, himself ending up as a sacrifice, and Cassandra’s failure to pray.  The sacred space of Troy is invaded by the Greeks and is violated to destruction.  Priam is made to pollute with his own blood the holy fire he himself has consecrated, resulting in the destruction of the sacred space.

   The destruction of Troy is, on the other hand, only one part of Jupiter’s scheme, for he plans to let Aeneas found a second Troy.  The same gods who have been merciless turn out to be a little merciful in that they bring salvation to Aeneas.  The rebirth of Troy is indicated by the omens of flame which appears on Ascanius’ head and of the shooting star.  These omens, which are given by Jupiter, are omens of good luck, while the flame blazing forth from Palladium’s eyes indicates an omen of ill luck.  The destruction of Troy, which starts with this omen of ill luck showing Minerva’s anger, ends with Jupiter’s omens of good luck.  Minerva’s omen materializes by the monster of the wooden horse, and Troy’s rebirth is implied by Jupiter’s omens.  All three---Minerva’s omen, the wooden horse, and Jupiter’s omens---are linked by the same key word ‘monstrum’, showing all these have been the will of the gods.  The indication of Troy’s rebirth by Jupiter’s omens gives a little hope to this story of hollowness about the fall of Troy.

 

 

 

 

 

 

 『アエネーイス』のテキストは Mynors 編の Oxford Classical Text (1969) を使用したが,[w] 音の ‘u’ 文字についてはすべて ‘v’ に変更して引用した.なお,引用文中のイタリックは特に断らない限り筆者によるものである.

 



[1] (1)   Lee, p.25.

 

[2] (2)   Gottlieb, p.22.

 

[3] (3)   Gottlieb, p.21.

 

[4] (4)   Gottlieb, p.21.

 

[5] (5)   Harvey, p.275.

 

[6] (6)   Harvey, p.306.

 

[7] (7)   Harvey, p.303.  しかし一説によれば,Palladium   Priamus の祖先 Dardanus がアルカディアの王女 Chryse と結婚したときに受け取った像であるという(Henry, p.95)

 

[8] (8)  Austin, p.167.

 

[9] (9)   このように「手」は第2巻では「聖なるもの」あるいは「神聖冒涜」と関係している場合がある.ヘクトルの亡霊はアエネーアースの夢に現れ,神殿の奥より「手でもって」(manibus) (296) ウェスタ女神の像と聖なる額紐,それに永遠の聖火を持ち出して渡す.アポローの神官パントゥス(Panthus) は「手に」(manu) (320) 敗れた神々を持ち,孫の手をひきながらアエネーアースの家にやって来る.トロイを脱出する際,アエネーアースは「自分は激しい戦いと近々の殺戮より離れて来たばかりで,流れる水で身を清めるまでは,手で触れることは罪業なので」と言いながら,父アンキーセースに聖物と祖国の神々を「手に」(manu) (717) 持たせる.コロエブスはミネルウァ女神の祭壇で「ペーネレウスの右手によって」(Penelei dextra) (425) 殺される.アンキーセースは前兆による確証を得たとき,声と共に「両手を」(palmas) (688) 天に挙げる.シノーンは「後ろで縛られていた手」(manus...post terga revinctum) (57) が解かれたとき,「両手を」(palmas) (153) 天に挙げ,天体や祭壇や神々の聖なる額紐に誓ってから,トロイ人たちをまんまと欺く嘘をつく.また,プリアムス王を祭壇へと引きずって行き,「左手に」(leava) 髪を巻き付け,「右手で」(dextra) (552) 剣を打ち下ろして殺すピュルルスの残忍な行為にも神聖冒涜を見ることができよう.ここでは,わざわざ左手と右手との両方について述べていることも注意を引く.

 

[10] (10)  Palladium もミネルウァ像であるが,この引用文中のミネルウァ女神の像は Palladium とは別のものである.Palladium はすでにディオメーデースとウリクセースによって奪い去られてしまっている.

 

[11] (11)  ラーオコオーンが大蛇に殺される理由については,ウェルギリウスのテキストから推論できるのはこれだけだが,作品外ではいろいろ説があったようで,たとえば Servius (I, p.253) ‘ante simulacrum numinis cum Antiopa sua uxore coendo’ という不敬を挙げている.

  また一般にはラーオコオーンは Apollo の神官であったと言われているが,ウェルギリウスは彼が Neptunus の神官であるという説を作品で採用している(Austin, p.95)

  201行目で,ラーオコオーンは「くじによりネプトゥーヌスの神官に選ばれた」(ductus Neptuno sorte sacerdos) と述べられているが,これは当時のローマの習慣を踏襲したものと思われる.すなわちローマでは一般に専門的神官職というものは存在せず,政治的有力者が重要な宗教上の職に選出されていた.

  Ogilvie (pp.106-107) は次のように述べている:

‘...the Romans are almost unique in not having a separate priestly profession.  With the exception of the rex sacrorum and the flamen Dialis the major offices of religion were usually held by prominent figures of political life...  Cicero was proud to be elected an augur, despite his scepticism on augury as a science ...  Anyone who aimed at a public career had also to take account of religion.

...All the priesthoods, unlike a political magistracy, could be held for life...  Julius Caesar was pontifex maximus and augur.’ (イタリックは原文)

 

[12] (12)  LD, ‘arx’ II= ‘a height, summit, top, peak. A.2.e. Of temples erected on an eminence.’

 

[13] (13)  ‘saeva’ は奪格(sarva) とも主格(saeva) とも取れるが,ここでは ‘Tritonia...Pallas’ にかかる主格と解釈した.これは先に引用した226行目の ‘saevae...Tritonidis’ と平行した表現と考えられるからである.

 

[14] (14)  ‘ferre’ の受動態は「急ぐ」という意味であるが,「感情や衝動に突き動かされて進む」という意味で用いられることが多い(337511588655725)

 

[15] (15)  Ogilvie, p.43.

 

[16] (16)  Ogilvie, p.44.

 

[17] (17)  Ogilvie, pp.47-49.

 

[18] (18)  エリアーデ,pp.12-13.

 

[19] (19)  エリアーデ, p.35.

 

[20] (20)  エリアーデ,p.44.

 

[21] (21)  エリアーデ,p.22.

 

[22] (22)  エリアーデ, p.17.

 

[23] (23)  エリアーデ, p.40.

 

[24] (24)  エリアーデ, p.57.

 

[25] (25)  エリアーデ, pp.25-27.

 

[26] (26)  Commager, pp.124-142.

 

[27] (27)  Austin, p.135.

 

[28] (28)  この「怒りの火」「復讐の火」は Vesta の社(やしろ)に隠れているヘレンを見つけたときのアエネーアースにおいても燃え上がる(exarsere ignes animo) (575).このときのアエネーアースは「くまなくあたりを見回していた」(passimque oculos per cuncta ferenti) (570) と叙述されているが,これは,「眼をキョロキョロさせて見回していた」(oculis...circumspexit) (68) シノーンの場合と類似の表現である.このことからも,この時の彼が嘘つきシノーンのレベルにまで落ちていて,ただ「狂気に運ばれている」(furiata mente ferebar) (588) ことが分かる.

 

[29] (29)  第2巻では,‘pietas’ という語は Panthus (430),天(536) ,アンキーセース(690) に関して用いられている.

 

[30] (30)  ウェヌスとクレウーサの亡霊とは共に「狂気」を表す語と ‘dolor’ という語とを用いてアエネーアースに話しかけている.

(ウェヌス)   ‘nate, quis indomitas tantus dolor excitat iras?/ quid furis?’ (594-595)

(クレウーサ) ‘quid tantum insano iuvat indulgere dolori,/ o dulcis coniunx?’ (776-777)

 

[31] (31)  神の意志に従って滅びもし,また生きもしようとしている点で,第2巻で ‘pius’ な人物はアンキーセースであると言える.もっともウェルギリウスがこの場面で彼を全面的に ‘pius’ であるとして描いているかどうかは疑問であるが.アンキーセースが祈るとき,‘si pietate meremur’ (690) というように ‘pietas’ という語を用いている点にも注目すべきであろう.

 

[32] (32)  このミネルウァ像が示した前兆は真実ではなくシノーンがでっち上げた嘘である,という解釈もあるであろう.しかしたとえ嘘である場合でも,これほど明瞭に作品で述べられている以上,作品中での意義を持つことになる.

 木馬は最初「贈り物」(donum, dona) と呼ばれていて,トロイの城内に入ったときに初めて ‘monstrum infelix’ (245) と呼ばれる.‘monstrum’ という語が第2巻で用いられるのはこれら3か所 (171, 245, 680) だけである.mirabile dictu’ という表現が第2巻で用いられているのは,今挙げたイウールスの頭の火の前兆と,ミネルウァ像が示した前兆の2か所 (174, 680) のみである.

 

 

 

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