「蝕色」
僕にとっての深夜のコンビニエンスストアのアルバイトと言うのは、とても魅力的な仕事だった。
始めたばかりの頃は、夜中の二時をすぎるあたりからとても眠たくて、単調な作業もつらく思ったものだが、それも慣れてさえしまえば----特に昼間のコンビニエンスストアと比較すると、客足が非常に少ないこともあり----とても楽なものだった。
そう、深夜のコンビニエンスストアというのは、皆が思う以上に客は少ない。
時折タクシーの運転手や、若いカップルが夜食や雑誌を買いに来る以外は、ほとんど店内には人がいなかった。
確かにそれは単調な繰り返しで、昼夜が逆転してしまうと言う欠点が無い訳ではないけど、それも衝動買いなどで余分なお金を使ってしまわないと言うことを考えれば、利点の一つと言い切ってしまっても間違いでは無いのかもしれない。
僕には、身内と呼べる人間がいなかった。
兄弟もなく、両親共にすでに他界しているのだ。
だからなのだろうか。
僕は生きると言うことに、執着心がほとんどなかった。
そう、例えば自分が死んでしまったとしても誰にも迷惑がかからいし、悲しんでくれる人がいるのかさえ僕にはわからない。
確かに、僕には付き合っている彼女----東沢美樹と言う----はいるのだけど、結婚を考えている訳でもなく、ただ、なんとなく付き合っていると言う間柄なので、悲しんだとしても一過性のもので、そのうちに僕の思い出すことも無くなるだろうと思う。
だけど、別に死にたいと思っている訳でもなかった。
ただ、生きていると言う実感や喜びを感じなくなってしまっただけなのだ。
だから、生きると言う事に対して貪欲になれないのだろうか。
★
皮膚の異変に気が付いたのは、美樹が遊びに来ている時だった。
その時はあまりにも部屋の中が蒸し暑いので、開襟シャツの袖の部分を肘の上あたりまで織り上げていた。
「あれ? どうしたの、その肘」
美樹が、怪訝そうな顔つきで、僕の左肘を指差した。
その、細い指先が指し示している皮膚の色は茶色のまだらに変色していたのだ。
「日焼けした跡が、染みになっているのかな」
「肘のこの部分だけ?」
美樹の指先が、僕の肘に触れる。
でも、触れられた感触は一切感じられなかったのだ。
まるで、その部分だけ感覚が、無いようだった。
実際、美樹の指先をなぞるようにして滑らせて、変色していない皮膚の部分では、触れられているという感覚がちゃんとあるのだ。
「感覚が、無い」
自分の指で、その変色した皮膚の部分を触ってみる。
指先は、確かに皮膚に触れているという感触を感じることができるのだけど、触れている筈の肘の部分は、感覚がまったくなかった。
軽く皮膚を押さえたり、少し爪で引っかいてみたりするのだが、どの刺激すらも僕の皮膚は感じることができなかった。
「なんだか、気持ちわるいね。病院に行った方がいいんじゃない?」
「でも、特に痛みを感じてる訳でもないしさ、そのうち直りそうな気もするけど」
そう、その時はまだ、そんなに深刻に考えていた訳ではなかったのだ----。
★
コンビニエンスストアの、深夜アルバイトの一人が突然店を辞めてしまった。
求人広告は出しているものの、すぐに人が入る訳でもなく、当面のしわ寄せは僕たちの残りのアルバイトにくるのだ。
今まで、週に4日ペースだったアルバイトだったのだけど、店長に頼み込まれて週に5日になってしまった。
今まですら、外に出かけることがほとんどなかったのに、いよいよ家と店との往復だけで一週間がすぐに過ぎ去っていってしまう。
それは、負担ではなかった。
ただ、美樹と過ごしていた時間がアルバイトに奪われる形になり、美樹との距離が少しずつ離れていった。
それでも、別にかまわないと思った。
美樹とは自然に付合うようになり、一緒にいる時間も長くなっていったのだけど、愛情を感じている訳でもなかったし、依存していた訳でもなかったのだ。
ある日、ふと肘の染みが気になったので、風呂場で体を洗っている時にゆっくりと観察をしてみた。
それは、染みというよりも、痣のようにどす黒く変色していて、範囲もかなり広がっているように見えた。
触ってみると、少し皮膚が硬化しているのか、ざらざらとした手触りだ。
だけども、やっぱり変色した部分の感覚は戻っていなかった。
少し薄気味悪くもあるのだけど、それでも医者に行こうという気はおこらなかった。
アルバイトが、あまりにも忙しくて、それどころでは無かったのだ。
★
季節も変わり、昼間ではかなり暑くなってきていたのだけど、僕は半袖の服を着ることができなかった。
最初、ちいさな染みだったものが、既にかなりの大きさになっていたのだ。
それでも医者にいかなかったのは、ある意味で恐れを感じていたのかもしれない。
僕の貧弱な知識の中では、そのような症状を見せるのは皮膚癌なのかもしれないと、漠然と思うこともあったのだけど、僕は皮膚癌の症状を何もしらない。
少なくとも、皮膚癌で皮膚の感覚が消えると言うことは、聞いたことはなかった。
だとすると、これは一体何なのだろうか?
昼間は寝ている僕は、本屋にもいけず医者にも行かず、ただ、ただ、漠然と不安を抱えていた。
こんな時は、誰かに横にいてほしい。
もう、何ヶ月も顔をあわせていない美樹の家に電話をかけても、呼び出し音だけが繰り返され、留守のようだった。
受話器を置き、ため息をつくと、煙草に火をつけようとする。
そして、左の手首から掌にかけての皮膚が、変色をしているのに気がついた。
慌てて服を脱ぎ捨てると、左腕のほとんど----掌から指先にかけてを除いて----変色していたのだ----。
★
あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか?
僕は、家に篭り、アルバイトにも行かず、電話の線すらも引き抜いている。
誰にも会いたくなかった。こんな姿を一体誰に見せられるというのだろう。
かきむしった腕の皮膚からは、血も流れずに、痛みを感じることもなかった。
このまま、体全体の皮膚が変色をしてしまうのも時間の問題だろう。
始めはゆっくりと広がっていた変色だが、次第にそのスピードを上げて、じわりじわりと蝕んでいるのだ。
不思議と、恐怖は感じなくなりつつあった。
いや、もしかしたら、思考力が低下しつつあるのだろうか。
どうでも良いと思った。
僕は、ベッドに横になり、天井を見上げる。
感覚の無くなった体を横たえると、まるで宙に浮かんでいるみたいだった----。