「さくら」


 穏やかな春の陽気の中で、まだ芽を出しはじめたばかりの若草の香りが、風に乗って運ばれてくる。
 僕たちは公園の中の、暖かな日の当たるベンチに並んで腰掛けて、特に何をするでもなく、ただぼんやりと空を眺めていた。
 空はどこまでも青く澄んでいるようで、手を伸ばせば、遙か空の彼方まで届くような気がして、僕は何となく空に向かって手を伸ばしてみる。
 横に座っている僕の恋人----藤崎渚紗は、そんな僕の行動をおかしそうに眺めていた。
「こうするとさ。なんだか、空に手が届きそうだと思わない?」
 渚紗は、僕のそんな問いに対して小首を傾げる。
「子供の頃って、そう言うことを当たり前のように感じていたんだよね。常識とかそういう事なんて関係なくてさ、ただ、感覚的に」
「じゃあ、芳彰って、今でも子供?」
 渚紗は笑いながら空に手を伸ばし、僕の手に掌を重ねてくる。
 そして、僕たちは暫く無言のままに手をつないでいた。
 僕たちの間に言葉はそれほど必要ではなく、ただ静かに流れる時間に身をゆだねて居るだけで心から安らぐ事ができるのだ。
「風がきもちいい」
「うん。もう、春なんだね」
 握りしめた渚紗の小さな掌は少しだけ冷たくて、軽く力を込めると握り返してくれる安堵感だけが心の中の乾きを潤してゆく。
 人影もまばらな公園の中は物音もなくて、いつもなら慌ただしく流れて行ってしまう時間はゆったりと流れてゆくような気がする。
 渚紗は、まだつぼみを付け始めたばかりの桜の木を、ぼんやりと眺めていた。
「ね、もうすぐ桜の季節だね」
「うん」
 そして、僕はただ軽くうなづいた。
「一面に咲いた桜、今年も綺麗かな」
「きっと、綺麗だろうね」
「うん」
 そして、何となく無言になってしまう。
「渚紗?」
「ん?」
「桜が咲いたら、見に来ようね」
「うん」
 柔らかな春の風が、彼女の香りを僕に運んでくれる。
 短く切りそろえた渚紗の前髪が少し風になびいていた。
 僕の心臓の鼓動が、ほんの少しだけ早くなったような気がした----。

     ★

 僕たちがつき合うようになったきっかけというものは、恋愛映画のようにドラマチックだったなんてことはなくて、ただ、同じクラスの同じ委員----それも、図書委員なんていう、いたって地味な役職----だったと言うこともあり、気が付くとなんとなくいつも一緒で、そして、一緒にいる事が凄く自然な事のように感じられた。
 それから僕たちは、特に用事が無いときでも、なんとなく一緒にいる時間が少しずつ増えていき、やがて、一緒にいるということそのものが日常になってしまったような感じなのかもしれない。
 だからと言って、彼女が僕にとって特別な存在……という感じではなくて----もちろん付き合いはじめてからは、一緒にいると胸のトキメキを全く感じない訳ではないのだけど----ただ一緒にいるという事だけで心からの安らぎを感じられるのだ。
 お互いに『愛してる』なんていう言葉は言わない関係だけど、相手の事を好きだという気持ちは確かにあるし、そんな静かな愛情があっても良いと思っていた。
 そんな、僕たちの静かな恋の始まりからも、もう少しで一年。
 あれは、ちょうど桜の花びらの舞う季節だった----。

「ね、人間の心って、どこにあるのかな?」
 渚紗は、時々突飛な発言をして、僕を驚かせる。
「人間の心?」
「うん。科学的な説で言えば、脳の中を電気が走るから心が出来るとからしいけど」
 頭の中を駆けめぐる電気のイメージ。
 それは、どことなくSF的で、まるで良くできたコンピュータのようだと思った。
「んー。そう言われると、なんかロボットみたいなイメージだなあ」
「だよね。好きとか、嫌いとか、楽しいとか、悲しいとか、色々な感情や想いがあるのに、頭の中を電気が走るから心が出来るって言われても、いまいちピンとこないしね」
「少なくともさ、人間の心ってそんなにデジタルっぽくはないよね」
「うん。どちらかというと、アナログっぽいイメージかな」
「心って、凄くあやふやなものだし。手に取って見られるものじゃないから」
「そう考えると、凄く不思議なもののような気がする」
「僕のイメージだと、頭の中で思考して、胸の中に心があるような感じかな」
 僕がそういうと、渚紗はほんの少しだけ微笑んだ。
「確かに胸が痛かったり、ドキドキしたりするしね。考えれば考える程不思議な感じ」
「だね」
「……心はどこにあるのか……か。確かに自分の心っていうものは存在するものだと思うけど、本当はそんなものは幻で、心なんてどこにも無いのかもしれないね」
 そう言ってから、渚紗は少しずつ沈んで行く夕日の方へと視線を投げかける。
 そんな渚紗を見て、僕は、何故か激しい既視感にとらわれていた。
----心がどこにあるのか。
 僕は、今までに、そんなことは考えたことも無かったかもしれない。
 自分は確かに自分である----それが確かなものであるという事すら、証明する術を僕は知らない。
 でも、本当に大切な事は、自分は自分であると意識できる事なのかもしれない。
 たとえ、それが虚構的な幻想だとしても。
 ふと、視線を上げると、夕日に照らされて頬が少し朱に染まったようにも見える、物憂げな渚紗の横顔はどことなく儚げで、とても美しいと思った。

     ★

 僕は、不思議な夢を見ていた。
 淡いフォーカスに包まれた世界の中で、僕は見たことの無い----だけど、何故か僕には渚紗だと感じた----女性と一緒にいた。
 僕たちは、何かを確かめあうようにお互いの掌を強く握りしめながら、深い森の中を歩いているのだ。
 何度も躓きそうになりながら、それでも歩く速度を落とさないままに、森の中を進みつづけていて、やがて気が付くと大きな桜の木の下にたどり着いた。
 風に乗って舞う桜の花びらが、薄い月明かりに照らされていて、とても綺麗だと思った。 僕たちは、ただ無言のままに木の下に座り込み、ただ、舞い散る花びらを眺めていた。
 吹き抜ける風はまだ少し冷たく感じたけど、つないだ手の温かさを強く感じながら軽く目を閉じる。
 緩やかに流れる時間がとても心地いい。
 僕は甘い桜の香りを胸一杯に吸い込み、ゆるやかな眠りに落ちていくのを感じる。
 このまま、時が止まれば良いと思っていた----。

 僕は、いつの間にか眠っていたようだった。
 太陽は既に地平の彼方に沈みきっていて、辺りは既に薄い闇に覆われており、ところどころに設置された街灯の明かりだけが辺りを少しだけ照らしている。
 零月なのか、空に月の姿は無くて、いくつかの星たちだけが弱い光を放っていた。
 そんな、寝ぼけた僕の顔を、面白そうに覗き込んでいる渚紗と視線が合う。
「起きた?」
「……少し、変な夢を見てた」
「変な夢?」
「うん。見知らぬ場所で見知らぬ女性の姿をした渚紗と、大きな桜を見る夢」
「……確かに変な夢かも」
 渚紗は、そんな僕の言葉を聞いて、面白そうに笑う。
「何か意味があるのかな?」
「夢はいつも何らかの意味を持つものなのかもしれないね。ね、輪廻って信じる?」
「輪廻?」
「そう、輪廻転生----リ・インカーネーション。言葉はなんでもいいけれど」
「あるのかもしれないし、ないのかもしれないね。僕には分からないよ」
「私も霊というものが存在するのか、そして、死後の世界というものが存在するのかは分からないけど、本当は全てはどこかで何かに繋がっているのかもしれないって思うの」
「どこかって?」
「例えばユング派の心理学者の言うところの集合的無意識とか。もし、意識がどこかで繋がっているものならば、無理に魂というものを仮定しなくても、種としての意識からメッセージを受け取る事もあるのかもしれないよね。そして、心は後からついてくるものかもしれないし。前世の意識も、現世の意識も、全て種としての意識の産物なのかもしれないね」
「心は後からついてくるもの……か」
「自我は連続した一つのものであるとしても、他者に対する立場的な振る舞い----例えば、ペルソナやシャドウと呼ばれている部分----は自分が意識する事がないままに、まるで、それが本来の自分の姿のように感じてしまう事もある訳でしょう。どれが本当の自分なのか……そんな、単純な事でもなかなかわかり得ないものなのかもしれないね。もっとも、考えて何か答えが出ることじゃないと思うけど」
 渚紗は一気にそれだけ言いきると、大きく息を吸い込む。
「うーん。難しいね」
「そんなに難しく考える必要も無いと思うけど」
 涼しげな夜風が、渚紗の長い髪をほんの少しだけ揺らしている。
 街明かりに照らされた薄暗い夜空には、小さな星たちが微かに瞬いていた。
 それは、少しだけ儚いイメージで、僕の心の中に忍び込む。
 何気ない日常。代わり映えしない繰り返しの日々。
 だけど、あたりまえのように繰り返される毎日を、僕はとても幸せだと思う。
 早咲きの桜の花びらがどこからともなく風に乗って運ばれてきていて、微かに春の香りを感じたような気がした。
 そして、僕は隣に座っている渚紗の手を少しだけ強く握りしめる。
 何も言わないままに、軽く手を握り返してくれる渚紗の少し冷たい掌を感じながら、僕たちは無言のままに星の少ない夜空を見上げていた----。

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