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「ミリア」


 皮膚が切り裂かれるような冷たい風が、時折頬をすりぬけた。
 季節はまだ秋だと言うのに、もう冬を思わせる程に空気は冷えている。
 僕は歩道橋の階段をゆっくりと上がって行くと、眼下に広がる道路に目を向けた。
 ビル風に煽られるようにして、枯れ葉が舞い上がり、カサカサと言う小さな乾いた音を立てて、小さな渦をまいている。
 深夜の街並みは驚く程静かで、まるで全ての人々が滅び去った廃墟に、独りでたたずんでいるような錯覚さえ覚えてしまう。
 昼間は無数に走り回っている車も、時折走り去って行くタクシーを除いては、今ではほとんど見かけることもなかった。
 ゆっくりと、歩道橋の真ん中まで歩いて行くと、ビルの谷間に大きな月が見えた。
 今日は満月だった。
 月の光は人の心を狂わす。
 月の光は人の心をいやす。
 どちらが本当なのだろうか?
 何気なく月を見上げていると、心の中に獣のような狂気と、母に抱かれる子供のような、大いなる安堵感を感じたような気がした。
 気のせいだろう----。

 歩道橋の柵にもたれるようにして、煙草に火をつけると、胸一杯に煙を吸い込み、大きく息を吐きだす。
 白い煙りが目の前に大きく広がり、空中へとゆっくりと拡散して行く。
 両切り煙草特有の甘ったるい香りが口の中に広がり、肺を通して細胞の隅々まで染み渡るような感じがする。
 しばらくの間、煙草を吸いながら、ぼんやりと空を見上げていた。
 そして、煙草を足でもみ消すと、口から大きく息を吐きだす。
 すると、ヒュルルルルと言う音と共に、目の前に人の背丈程ある、綿のようなふわふわとした物が現われた。
 ゆっくりと、ゆっくりと綿のようなものは人型に整えられて行き、数瞬後にはエキゾチックな顔立ちをした少女になっていた。
 デスマスクのような無表情な青白い顔は、少しずつ赤みを増して行き、やがて大きな瞳をゆっくりと開けた。
「こんばんわ」
 紅も引いていない愛らしい唇から、鈴のような声が響く。

 この娘は僕の中に存在する、もう一つの魂----平行魂とでも言えばいいのだろうか?
 要するに僕は僕である「中西龍一」の魂と彼女「ミリア」の魂が重なりあうように存在しているのだ。
 ただ、僕の中にいるかぎり、ミリアは眠っているような状態なので、多重人格とはまた、少し意味合いが違うのだが。
 僕がミリアの存在を知ったのは、いくつかの偶然が重なった、ある事故によってなのだが、もちろんそれまでは彼女が僕の内に眠っていることも知らなかったし、知るよしもなかったのだ。
 それを考えると、案外ミリアのような存在は、誰の中にでもいるのかもしれない。
 例えば、アニマやアニムスと言われる者たちと、同じようなものかもしれない。
 彼女には不思議な力があった。
 本来人間が持っていたであろう、超感覚器官が発達しているのだ。
 僕も昔から、些細な力----例えば、おぼろげながら人の考えていることが分かったり、危険を察知する能力があったのだが、ミリアが体現した頃から、そのような力が飛躍的に大きくなっていった。
 また、その頃から不思議な者たちに狙われるようにもなったのだが----。


「今日は満月なのね」
 ミリアは大きな瞳を少し細めるようにして、月を見上げる。
 僕も同じように月を見上げると、冷たい光が心を刺すように自分の中に忍び込んで来る。
 呼吸を落ち着けて軽い瞑想状態に入ると、風達が騒いでいるのが分かった。
 ミリアも既に気がついているのか、軽く身構えるようにして宙を睨んでいる。
「来るわよ」
 ミリアがそう言った瞬間に、空間に一筋の歪みが現われると、暗黒の空間から小さな虫のようなものが、わらわらと飛び出してくる。
 虫のようなものとは言っても、丸い体に足と羽を持つだけで、目も足も、何も無い、例えるならば、ボールに羽を生やした様なものだ。
 こんな形の虫はいる筈は無い。
 そして、僕達の体を覆うようにして、間隔を狭めてきた。
 まるで、全体で一つの意思を持っているかのように、一斉に体を覆いつくしてきた。
 体から力が奪われるような感覚に襲われる。
 僕は抗うのをやめて、体の力を完全に抜き去ると同時に、体から発散される気の質を変えた。
 ピシピシと言う音と共に、体を覆いつくしていた、虫のようなものたちは、影のように姿を変えて体を離れて行く。
 ミリアも同じように、黄金に輝く気を発散させていた。
 やがて、影だけの存在に成り果てたものたちは、一つの固まりになり、まるで最初からそんな生命体であるかのようにうごめいていた。
 それは、まるで巨大な影で出来た、アメーバーのようだ。
 少しずつ質感を増して行き、やがてゆっくりと僕たちの方へ向かって来た。
 もやもやとした、影は小さな粒子の集まりのようにも見える。
 密度が、場所によって違うのか、濃い影の部分と、薄い影の部分があった。
 薄い部分では、向こう側が透けてみえる。
 アメーバーは、影の一部を、触手のように伸ばし、まるで、鞭のように振り回して攻撃してくる。 皮膚に触れると、まるで火傷でもしたかのように赤くただれ、鋭い痛みを感じる。
 じりじりと後退するが、歩道橋の上なので思うようには動けない。
 伸び縮みする体全体を武器にして、僕の方へと詰め寄って来る。
 歩道橋の端まで追い詰められた時に、ミリアが反対の方向へ回り込み、気で触手を包み、断ち切ってくれた。
 千切れ飛んだ触手は、それ自体が生きているかのように、うねり、跳ね、一つの体へと戻ろうとする。
「ミリア、後ろへ」
 僕とミリアは、少し距離を取る為に後ろの方へと飛び去ると、お互いに性質の違う気を口から吐きだし、巨大アメーバーを包み込むように覆うと、ゆっくりと収縮させていった。
 プチプチと、何かが潰れる様な音が聞こえてくる。
 それでも、影はうねり、何とか気の包囲から逃れようとしていた。
 少しずつ、少しずつ気を収縮させて行き、拳大程の大きさになった。
 やがて軽い光りの残像と、何かが弾けるような小さな音を残して、何事もなかったかのような静寂が辺りを包み込んだ。


「ふう」
 軽くため息をつく。
「しかし、毎回、毎回、こいつら一体何なんだ?」
「時空間の歪に巣食う、虫みたいなものだと思うけど」
 ミリアは少し息を弾ませながら答えてくれた。
 高揚した頬は、少し桜色に染まり、とても美しく見える。
 月の光が辺りを冷たく照らし、その中でミリアは輝いていた。
「殆どの人には、あの虫達は見えないわ。もし、見えたとしたなら、その人は可哀想だけど、力の無い人は、殆どの場合は飲み込まれちゃうわ」
「見えない人には、害はないのかい?」
「そうね、見えないって事は、次元がほんの少しだけずれてるって事なの。例えるなら、TVのチューナーを少しずらせばノイズと番組の両方が写るわよね? だから見えない人って言うのは、虫達からも見えないし、干渉も出来ないの。見える人は、両方の次元に属する訳だから、虫達からも見えるし、干渉されてしまうの」
「と、言う事は、僕は普通の次元から、少しずれた所にいるって事なんだ」
 僕は、軽く笑うとミリアを軽く抱きしめた。
「アウトサイダーな人間には、少しずれた次元がお似合いなのかもね」
 僕はゴーストライターとして、ある作家の文章を書いていた。
 名前が出る事はないが、文章は本になる。
 それだけで満足だった。
 そうして、今の僕にはミリアがいる。
 ミリアは、僕のアニマなのだから、僕にとっての理想の姿だった。
 抱きしめたミリアの体は、少し力を入れると折れてしまうのでは無いのだろうかと思えるほど華奢だった。
 抱きしめているだけで、ミリアの暖かさを感じられる。
 少しも寒さなんて感じなかった。
 ただ、吐き出す息は白く広がり、拡散して消えて行く。
 ミリアを抱きしめていると、安心できた。
 ただ、抱きしめているだけで、僕の心の奥底まで、ミリアの感情は伝わり、また、ミリアの心の奥底まで、僕の感情は伝わるのだ。
 同じ霊的波長だからこそ、得られる安堵間だった。
 もっとも、基本的な魂は同一のものなのかも知れないが----。


 ミリアは疲れたのか、車の助手席で軽い寝息を立てていた。
 僕は、風邪をひかないように、ミリアにコートの上着を掛けてから、エンジンをかけて、車をスタートさせた。
 路面が凍結しているからなのか、リアタイヤが軽くホイルスピンを起こす。
 リアの挙動が少し乱れたので、軽くアクセルを戻してやると、滑り出すように車は進み出した。
 月の冷たい光は、薄闇を作り出す。
 街灯の薄暗い明かりと、車のヘッドライトだけが辺りを照らしている。
 闇の中の、小さな光。
 そして、その光の中に出来る影。
 車は、その闇と、光と、影の中を走りぬける。
 不思議な気分だった。
 夜の明けていない街並みは、何処か無気味さを漂わせている。
 目が覚めたのか、ミリアは助手席で軽く伸びをしていた。

 ミリアが最初に体現した時は、凄く不安定な状態だった。
 向こう側の景色が、ミリアの体を通して見えたりするのだ。
 そして、消えてしまう。
 そんな事を幾度と無く繰り返しているうちに、少しずつ安定してきたようだった。
 出来ることならば、ずっとミリアと一緒にいたかった。
 ミリアが体現する時は、あの虫達も空間の歪みから出て来るのだが、そんな事はどうでも良い事だった。
 ただ、ミリアと一緒にいたかった。
 一度消えてしまうと、しばらく霊的エネルギーを集める為か、一定期間を置いてしかミリアをこちら側へ呼ぶ事が出来ないのだ。
 今回は、どれくらいの間、一緒にいられるのだろうか?
 出来るだけ、長い間一緒に居たいと思った。


 マンションの駐車場へと車を滑り込ませると、自分の部屋へと向かう。
 空は既に白んでいて、朝という訪問者の訪れを知らせていた。
 部屋に入り、まず、ヒーターのスイッチを入れると、冷えきっていた部屋に暖かみが戻ってきた。
 そして、まだ眠そうにしているミリアに、マグカップになみなみと注いだミルクを、電子レンジで暖めてやる。
「ありがとう」
 ミリアはにっこりと笑って、マグカップを受け取ると、少しずつミルクを舐めるようにして飲み始めた。
 ローボードの上に置いている、デジタル式の時計は既に七時近くを表示していた。
 一睡もしていないので、さすがに眠気が込み上げてくる。
 ただ、今は、ミリアと一緒にいれると言うだけで、とても幸せだった。
「やっと、少し目が覚めたって感じだね」
「うん、少しぼんやりとしてるけどね」
 ミリアは眠そうな顔でミルクを飲み干す。
 生あくびを噛み殺しては、眠そうに目を擦っていた。
「眠いんだったら、無理しないで寝ててもいいんだよ」
「でも、寝ちゃったら、きっと夜まで寝ちゃうから」
 そう言いながらも、ミリアは僕の膝を枕にして、ソファーに横になる。
 ミリアの髪を撫ぜると、少し栗色がかった長い髪の、さらさらとした心地好い感触が手に伝わって来る。
 ミリアが軽い寝息を立て始めた頃、僕もソファーにもたれたまま、ゆっくりと眠りの中へと落ちて行くのを感じていた。

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