「和美」


 和美についての思い出というと、幼い頃からとても体が弱く、何かと言うと寝込んでいたという記憶しか残っていない。
 普通の子供が持っているものを、何一つもっていなくて、ただいつも冷めた目をしていて、大人しく、何に対しても億劫そうなのだ。
 幼馴染のよしみで何かと構おうとする私に対しても、ついに心を開いてくれず、いつの頃からか話をすることも無くなっていた。
 ただ、いつも気にはなっていたのだ。
 学校を卒業してからは、どこで何をしているのかさえ分からなかったのだけど、元気でいてくれれば良いと思っていた矢先だった。
 どこで調べたのか、下宿先のアパートの留守番電話に和美からのメッセージが入っていたのだ。
『芳子、ひさしぶり。和美だけど、覚えてる?』
 和美の声は昔からは、想像も出来ないほどに元気だった。
 私の知っている和美----病弱で、気弱で、覇気が無く、自閉症気味----とは、電話の声を聞くだけでは、とても同一人物のものとは信じられなかった。
 それくらいに電話の声は、元気で力強さを感じさせる。
 時間と言うものは、それ程までに人を変えてゆけるものなのだろうか?
 実際に、十余年と言う年月を振り替えってみると、私は、私の根本的なものは、変わってきたのだろうか?
 もちろん、表面的にはいくらでも自分を変えてゆける自信はあった。
 ただ、根本的な----生命力や、考え方----を変えてゆける自信は無い。
 それが、和美の声を聞いただけでは、根本的な生き方が変わっているような気がしてならないのだ。
 だけど、私には出来ない。変えてゆける勇気もない。変えてゆける力もない。ただ、何もないのだ----。
 よく、人は年月とともに変わって行くものだと言うのだけど、それでは十年前の私と、今の私と、十年先の私では違う個として存在しているのだろうか?
 実際、十余年と言う月日を経て和美は変わる事が出来たのだろう。
 違う個として、存在しているのだろう。
 では、私は----?

     ★

 留守番電話に和美からのメッセージが入っていてから、一ヶ月程の時間が経っていたが、和美とはまだ顔を合わせてはいない。
 電話での連絡は一度だけ入れたのだけど、留守番電話から聞こえてくる無機質な機械の音声を聞いていると、メッセージを入れる気力すら沸かなかった。
 それにしても、何故和美は私に連絡を入れたのだろうか?
 親しい友人だったのならば話しは分かるのだけど、和美は私----ううん、自分以外の人間----に対して心を閉ざしていたのだ。
 和美の変化は時間をたどれば緩やかなものなのかもしれないが、私はその間の彼女に対する変化を何一つとして知らない。
 だから、それらの事柄について、私は色々と考えてまとめ上げて行く。
 そう、最近の私の趣味と言えば、殴り書きをしたような散文----詩や小説なんて言うのはとてもはばかれるような出来映えの物だけど----をノートに書き連ねて行く作業だった。
 ただ、私なりの解釈としての和美像の変化を書き綴ることが日課になっていた。
 それは、もちろん想像の域を超えるものでもないが、想像故のリアリティーさを伴い、次第にそれ自体がすべて真実の出来事であるかのような錯覚にさえ陥るようになってしまった。
 それは、私がまるで絶対神にでもなれたかのような、一種独特の甘美なる時なのである。私の知っている和美は、私が創る和美。それが全てなのだ----。

     ★

 ぱたんとノートを閉じる。
 ふう。
 小さくため息----。
 私は一体何をやっているのだろうか。
 和美が何を考えて、私に電話をかけて来たのかは分からないが、私は和美のことを何一つ知らずにノートに書き続けている。
 私は和美について何も知らない。
 そう、私は本当の和美の事について、何一つとして知らないのだ。
 しかし、私の頭の中の和美は生き生きとして、私に語りかけてくる。
 それは、日を追うにつれ存在感を増し、私を、私の心をかき回して行く。
 私が何も知らない和美----私が何でも知っている和美。
 両者は私の中でどろどろとした塊になり、融合し、分裂を繰り返す。

----私はここよ。私はここにいるの。でも私は私としての自我を持たずに、全ては
  虚構で、でもそれは真実で、私は存在しているの。私は和美。私は和美なの。
  そう、私はここにいるの。
 頭の中を駆けずり回る和美。
 それは和美の自我ではなく、私の自我でも無いとするならば、一体何なのだろうか。
 軽い貧血のようなフラフラした頭の中は空っぽになり、やがて、和美はそんな私の自我よりも強くなる。

----私は何を考えているの。何をすればいいの。何が真実で、何が虚構だなんて
  誰が分かるの? 私は和美よ。私は存在しているの。私は私、そう、芳子じゃ
  無いの。芳子は私を創ったつもりなのかもしれないけど、私は私として自我
  を持っているの。私は芳子では無く、和美なの。ねぇ、私は和美なの。
 頭の中で繰り返される和美の言葉、虚構、嘘----全て嘘なのよ!

----現実、虚構、本当、嘘。何が真実なんて誰にもわからないの。私は私として、
  芳子としてではなく存在しているの。私は私として存在しているの。私を虚
  構とするならば、芳子も虚構。全ては夢の中、全ては幻にしか過ぎず、現実
  として認識できるすべての事柄に対して、誰もそれが真実だと言う根本的な
  証明をする事すらできないの。芳子が感じる感覚の全てを現実とするなら、
  私は私が感じる全ても現実なのよ。私はここにいて、芳子ではなく、全ては
  現実----裏返せばあなたの感じている全ては虚構に過ぎないの。ねえ、分か
  らないの? 私はここにいるの。私は和美なのよ
 何が真実で何が真実で無いのかは分からない。
 ただ、私は和美では無くて、芳子なの。和美じゃないの。芳子なのよ----!

     ★

 やがて、どろどろとした固まりになり、融合と増殖を繰り返す意識。
 私は誰なのだろうか?
 西村芳子----だった筈だ。
 そう、私は芳子----和美なのだ。
 違う!
 私は芳子なのよ。虚構では無く、ここにいるの。

----私は和美なのよ。虚構では無く、ここにいるの。
 私は芳子としての自我を持つのよ。私は芳子なの。ねえ、私は芳子なのよ。

----でも、私は芳子ではなく和美としての自我を持つの。ねえ、私は和美。私は
  和美なのよ。
 私は力の入らない体で洗面所の方へと行き、胃の中の物全て----何も食べていないので、胃液を----吐いた。きつい酸味。
 ふと鏡を見上げる。これが私? 芳子なの?

----これは私、和美なのよ。
 鏡に映る、頬のこけた青白い、見た事も無い顔。私は本当に芳子なのだろうか?
 私が私であると言う自信が段々と薄らいで行く。

----私はここにいるの。だって、私は和美であり、私は芳子では無いんだもの。
  ねぇ、あなたが本当に芳子だなんて証拠は何一つとしてないのよ。だって、
  私は和美なんだもの。私が真実。あなたは虚構なの。全ては嘘、でたらめ。
  何もないの。だってあなたが私を創ったのでは無く、私があなた----芳子と
  言うキャラクターを創ったのかも知れないでしょう?
 そのまま私は崩れるようにして座り込んでしまった。
 私が私だと信じて来た全てを覆され、私が今まで感じて来た全てが虚構だったというのだろうか?
 何が真実で、何が虚構なのか。

----私が真実、あなたが虚構。私は和美なの。私は和美なの。
 繰り返される言葉。
 動かせない体。
 和美の言う事全てが真実で、私が虚構とするならば、私は、私は現実の中に存在しているのか。
 それとも和美という人物が創り出した、虚構の中にのみ存在しているのか。
 全ては幻。
 全ては虚構。
 全ては虚無----。

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