「友達」
ベッドに俯せに体を横たえたまま、まだ余韻に浸っているのか、香織は満足気に軽く目を伏せて、細長いメンソールの煙草の煙りをくゆらせていた。
僕は、そんな香織を横目に、軽く伸びをしてから、シガレットケースから取り出した煙草に火を付け、小さく溜息をついた。
君は僕の事をどう思っているのだろうか?
本気で好きになればなるほど、僕から離れて行くような気がして怖かった。
少なくとも、僕に対して恋愛感情を持っていないのは確かだろう。
セックス自体、コミュニケーションの一つとして割り切っている位なのだから。
そう考えると少し胸が痛んだ。
こんな関係になってから、もう二年以上たっていた。
出会いは高校の時だったね。
僕が友達との卒業旅行の為に、アルバイトをしていた喫茶店の先輩だった。
色々と教えてもらううちに、意気投合して遊びに行くようになったんだ。
そして、しばらく友達としての関係を続ける内に、僕が一方的な好意----そう、いわゆる片思いだ----を持つようになったのだ。
それから、こんな単純で複雑な関係になるまでは早かった。
一緒に飲みに行って、お互い深酒をした時に、香織の方から誘って来たのだ。
あの時は、真意がわからないまま、おろおろとしている僕に香織ははっきりと、友達としてしか思っていないと言い切った。
だけど、僕の気持ちは変わらないどころか、余計に深いものになっていったのだ。
「隆志、どうしたの?」
香織は煙草の煙りを吐き出しながら、潤んだ瞳で僕を見つめている。
近視気味なので、普段でも若干瞳が潤んでいるように見えるのだ。
「ん、なんでもない」
僕は軽く微笑んで、香織の頬にキスをした。
くすぐったそうに身をよじらせて、布団に潜り込む香織をとても愛しいと思った。
たとえ、報われない愛情だっていいさ。僕はこんなに君の事が好きなんたから。
いつか、君のマンションの踊り場で話をしたことがあったよね?
あの頃はまだ、車も無くて、自転車で君を家まで送って行ったっけ。
一緒にいる事が楽しくて、このまま時間が止まってくれれば良いとさえ思った。
少しでも長く君の顔を見ていたかった。
ゆっくりと流れて行く日常の繰り返しの中で、色々と変化はあったけど、君への気持ちだけは変わらなかった。
でも、君は結局僕の方を向いてくれなかったね。
だからこそ、友達としての長続きしているのかも知れないけど。
ふと、隣を見てみると、いつの間にか眠ってしまったのか、香織は軽い寝息を立てていた。僕は布団を掛け直してやけながら、ふと猫みたいだな、と思った。
★
清々しい朝の光がカーテンの隙間から差し込んで来る。
あまりにも眩しくて、思わず手をかざしてしまう。
香織はまだ、僕の腕を枕にして、胎児のように丸くなりながら眠っていた。
こんなに蒸し暑いのに良く寝れるもんだと感心しながら、起こさないようにそっと腕を頭の下から抜いた。
香織と一緒に寝た時には、必ず僕の方が早く目がさめるのだ。
時計の針は既に九時近くを差している。
リモコンでクーラーのスイッチを入れてから、洗面所で顔を洗い、冷蔵庫の中に入っていた清涼飲料水を一気に飲み干す頃には、ぼんやりとしていた頭が少しはスッキリとしたようだ。
コーヒーメーカーをセットして、オーブントースターにパンを押し込んでから、キッチンで目玉焼きを作る。
今は、時計の秒針と共に、ゆっくりと流れて行く時間が心地よかった。
トースターのチンと言う軽い音と共に香織は気怠そうに身を起こした。
「おはよう」
僕はマグカップになみなみとコーヒーを注いで、小さなテーブルの上に二つ並べた。
「ん、おはよ」
香織は煙草に火を付けてから、ベッドの上でもう一度横になり、立ち上って行く煙をぼんやりと眺めていた。
「パン焼けてるよ、食べる?」
僕は焼けたパンにバターを塗りながら、香織の方を伺った。
「あんまり食欲ないけど、食べとかないと、ね」
香織はそう言って、はにかんだように笑うと、ベッドから抜け出して、テーブルの前に座り直した。
僕と香織は少し焼き過ぎたパンを、コーヒーで流し込むようにして朝食を済ました。
僕は手短に食器類を片付けてから、TシャツとGパンに着替える。
外気温が高いせいか、湿度が高いせいか、エアコンを付けていても、送風音だけが大きくて、なかなか涼しくならなかった。
「ねえ、海、見に行きたい」
今まで、気怠そうに煙草を吸っていた香織が、ぽつりと呟くように言った。
「海? 神戸でも行こうか?」
「どうせなら、日本海行かない?」
香織が僕の顔を覗き込むようにして言う。
「日帰りで?」
大阪から日本海の方へは、日帰りでも行けないこともないのだが、北陸自動車道を通っても四時間近くかかってしまうのだ。
「どっかに泊まってもいいしさ」
「今から?」
「うん」
「じゃあ、用意しなきゃ、だね」
「ありがと」
香織は軽く微笑んだ。
★
小さめのボストンバッグに着替えやカセットテープなどを押し込んだ後、僕たちは駐車場の方へと向かった。
空は青く透き通るようなブルーで、風に流されて行く真っ白な雲との微妙なコンストラストが透明水彩で描いた抽象画のようでとても綺麗だ。
青空駐車場に置いている旧型のフェスティバに乗り込むと、サウナにでも入ってるような蒸し暑さで、毛穴という毛穴から、一気に汗が吹き出して来るようだ。
僕は後部座席にバッグを放り投げるようにして置いてからエンジンを掛けて、窓とキャンバストップを全開にした。
「それにしても暑いよね、やっぱり夏なんだ」
僕は、あたりまえのことを言う。
「だって、本当に夏なんだもん」
香織は、軽く微笑むと、駐車場へ来る途中で買って来た清涼飲料水を、氷嚢のように額にあてた。
「それじゃあ、行くよ」
僕は、マニュアルのギアを一速に入れると、颯爽と走り出した。
今どきマニュアルなんてって、香織は言うけど、オートマチック特有のクリープ現象には、どうしても馴染めなかったのだ。
それに、小気味良くギアをシフトアップしていく快感がたまらなかったし、何よりもマニュアルだと自分で操作しているという自覚が湧いて来るのだ。
「何かテープでもかけない?」
僕が言うと、香織はカセットケースの中から、テープを取り出して、カーオーディオの中へと差し込むと、夏らしいアップテンポな曲がスピーカーから飛び出して来る。
途中、香織の住んでいるマンションへと寄り、香織の荷物を取ってきてから、一号線の方へと向かう。
しばらく走っているうちに、香織は軽い寝息を立て始めた。
まだ、眠り足らなかったのだろう。
やっと、車内が涼しくなってきたので、窓とキャンバストップとを閉めてから、エアコンを、最大風量で回した。
冷たい風が頬をすり抜けて行き、やっと汗が引いて来たようだ。
車内が涼しくなるのを待ってから、香織の体が冷えないようにエアコンの風量を少し落とした・・。
★
国道一号線から近畿自動車道に入り、名神高速道路で米原方面へと走っているのだが、盆休みにはまだ遠いせいか、驚くほどに道は空いていた。
発達した入道雲が青空一面に広がっていて、夏らしさを一層と醸し出している。
時折、地熱の関係で見える陽炎が外の暑さを物語っていた。
香織とこんなに長距離のドライブをするのは始めてだ。
何を思ったのだろうと、ふと、心の片隅をよぎった。
突然、海に行きたい。そう思ったのだろう。
香織は、まるで猫のように気紛れなのだから。
僕の気持ちにも、きっと気がついていないのだろうと思い、軽く肩をすくませた。
いつまで、こんな関係が続くのだろうか?
いつまで、このままでいられるのだろうか?
気持ちを知られて、僕の側から香織がいなくなるのだけは嫌だった。
そんなことになるくらいなら、いっそ今のままの方が良かった。
ただ、誰よりも香織の事が好きなことだけは間違いがないのだから----。
いつのまに起きたのか、助手席でもぞもぞと香織が動きだした。
「ん、隆志、喉が乾いた」
香織は、軽く伸びをして、眩しさを避ける為にかけていたサングラスを外した。
「ちょうど、次のサービスエリアで止まろうと思っていたんだ。ガソリンもそろそろ入れておきたいしね」
「わかった」
次のサービスエリアまでは、ちょうどいいことに、五キロくらいの距離だった。
しばらく走っていると、サービスエリアと本線の分岐路が見えて来た。
左のウインカーを忙しく点滅させながら、車をサービスエリアへと滑り込ませると、ゆっくりと減速していった。
行楽シーズン前だからなのか、がらがらの駐車場へ車を止めると、しばらくアイドリングさせてから、エンジンを停止させる。
キーを抜き取り、香織と一緒に車を降りると、大きく伸びをした。
大阪とは違い、すっきりとした暑さが全身を包む。
「うーん。夏なんだな、やっぱり」
「さっきと同じこと言ってる」
香織はくすくすと笑いながら、僕の背中を軽く叩いた。
★
サービスエリアの軽食コーナーで軽い食事を済ませると、落ち着いたからなのか、香織は眠そうになまあくびを噛み殺していた。
「でも、香織って良く寝るよね」
ほっておいたら十五時間は寝ているだろう。
「だって、眠いんだもん」
「それで、良く高校を卒業できたもんだ」
僕がそういうと、香織はおかしそうに笑い出した。
「それがね、毎朝大変だったのよー」
「大変って?」
「だって、毎日目覚まし五つくらいかけてるのに起きれないから、結局はお母さんに毎朝起こしてもらうでしょ。それも起きてから、暫くぼーっとしちゃって何も出来ないから、いつも遅刻ぎりぎりでね」
「その時の香織の顔が見えるような気がするよ」
それにしても、目覚ましが五個も鳴ったらどんな音がするんだろうか?
「それでも学校行くのに、頭ぼさぼさじゃ嫌だから、軽くパーマとかあててね、ムースをつけて行くの」
「先生には何も言われなかったの?」
「生活指導の先生には癖毛ですって言って、三年間通しちゃった」
香織はそう言ってから、はにかんだように笑い、長い前髪をくしゃりとかきあげた。
僕たちは、他愛ない話に三十分程費やしてから、サービスエリアを後にした。
米原から北陸自動車道に入ると、ほとんど辺りに車が見えなくなる。
「道がらがらだねー」
香織が道をぐるりと見渡してから言った。
「うん、阪神高速もこれぐらい空いてたら、乗る気もするんだけどね」
「言えてる」
「まあこの道も、お盆前後には凄い混むんだろうけどね」
「その頃には、阪神高速が空いてるね」
くすくすと香織が笑う。
いつも思うことだが、こんな時の香織は良く笑う。
僕は、香織のそんな笑顔が大好きだった。
ただ、この笑顔が僕だけのものじゃないと思うと、少しせつなかった。
★
海に着いたのは、三時過ぎのことだった。
海水浴場の脇にある駐車場に車を止めると、しばらくアイドリングさせてからエンジンを切った。
「やっとついたんだね」
香織が助手席から降りて、大きな伸びをすると、長時間車に乗っていたからなのか、背中の骨がポキポキと音を立てた。
防風林が多いせいか、蝉の泣き声がにぎやかに響いていた。
乾燥した熱気が頬を撫でつけるのが気持ちいい。
持って来た荷物の中から水着や小物を取り出してから、海の家の更衣室へと向かう。
こんな時間だからなのか、誰もいない更衣室は妙に寂しく感じられた。
手短に水着に着替えてから海の家へ戻ると、香織を待つ間煙草を吸っていた。
「おまたせ」
明るいパステルカラーのワンピースの水着に身を包んだ香織は、少し恥ずかしそうにしている。
「似合ってるよ」
僕が軽く微笑むと、少し安心したような表情を見せた。
「ちょっと太ったからなあ」
「それで太ったなんて言ってたら、そこらへんの女の子に殺されるよ」
実際もう少し太った方がいいと思うのだが。
「でも、気になるじゃない」
「気にすること無いって」
「そうかなあ、でもなあ。まあいいや、せっかく海にきたんだもん。泳ご!」
そう言うと、香織は僕の手を引っ張って海の方へと駆け出していった。
焼けた砂が足に絡みついて、とても走り難かった。
やっと波打ち際までたどり着くと、足先を海水に浸すように踏み出した。
「結構冷たいんだ」
冷たいとは言っても、この暑さの中では心地よい。
「隆志って泳げるの?」
「水泳習ってたからプールだと泳げるんだけど、海じゃ自信ないなあ」
「じゃあ、あのブイの浮かんでるとこまで泳いで見ようよ」
香織は、50メートル位の距離の所に浮かんでいるブイを指さしてから言った。
「あれぐらいだったら大丈夫かな」
ゆっくりと泳げる位の深さの在る所まで来ると、香織は平泳ぎで、僕はクロールでブイに向かって泳ぎ出した。
プールの淡水とは違い、海水は浮力が強いのでかえって泳ぎやすかった。
だけど、海水だと水の中で目を開けていられないので、どの辺りまで来ているのかさえも、いまいちつかみ難かった。
途中から平泳ぎに切り替えて、目を開けると、もうブイは目前だった。
何とかブイまでたどり着くと、驚いたことに香織は既に着いていた。
「おそーい」
香織はくすくすと笑いながら、器用に立ち泳ぎをしていた。
「泳ぐの早いんだね」
「だって、高校の時にインターハイに出たことあるんだもん」
「インターハイって……凄いんだ」
僕が驚いたように言うと、香織は少し照れたような表情を見せた。
「凄くないって、結局勝てなかったんだもん」
「でも、インターハイまで行けたってことだけで、凄いと思うよ」
「結局挫折しちゃったけどね、戻ろうか」
そういうと香織は、ゆっくりと陸の方へと泳ぎ出した。
日が暮れる頃まで海岸で遊び尽くしたあと、海水浴場を後にして、シティホテルへと車を滑り込ませる。
簡単なチェックインの手続きを済ませてから、部屋へと行くとさすがに疲れたのか、香織はベッドに倒れ込むようにして寝そべった。
「さすがに疲れたよね」
「うん、でも楽しかったなあ----。海って、すっごい、ひさびさだったし」
「それにしても泳ぐのうまいよね」
「昔から泳ぐの好きだったから。ただ、自分に限界感じてやめちゃったけど」
昔を思い出したのか、香織は軽く目を細めて天井を眺める。
「昔は良かったよな」
「うん、昔は良かった。自分の気持ちもストレートに出せたもんね。今は傷つくのが怖くて、色々とカモフラージュしたりしてね。素直じゃないの」
香織はベッドから起き上がると、僕の横に腰かけた。
長い髪が頬にかかり、とてもチャーミングに見える。
ふいに、香織が唇を重ねてきた。
背筋に軽い電流が流れたような快感が走り、心臓の鼓動が早くなる。
「香織?」
「ずーっと一緒にいてね、分かったことがあるの。一度は断わったけど。もしかしたら私の事を友達としてしか見てくれてないかもしれないけど。ずるいかもしれないけど、私は隆志が好きなんだっ」
心臓が口から飛び出すのではないかと思える位、鼓動が早くなって来た。
頭の中が真っ白になり、暫く言葉が出ないまま見つめあう。
「僕も……ずっと好きだったんだ」
言葉にしないと通じない気持ちもある。
その時初めて気がついた。
ずっと一緒にいたけど、一番香織の気持ちを理解していたつもりだけど。
嬉しい誤算だった。
そして香織を抱き、体だけでは無く心も一つになれたような気がした。
強く抱き締めると、折れてしまいそうな華奢な体。
何よりも超えられないと思っていた、友達としての枠。
そう、いつまでも忘れたくない一瞬だった----。