「ある冬の情景――桜華編」
著作者:SEIA
《オペラハウスで抱きしめて》
シャラン。
香水のボトルを取った拍子に、プラチナのブレスレットが微かな音を立てる。
耳元と手首、それに胸元にもちょっとだけ付けると、甘くむせ返るような香りが部屋中に広がった。
「……」
耳元に付けた香水を指の先ですーっと首筋にのばし、ウェットティッシュで指を拭く。
手首に付けた香水をこすり合わせるようになじませると、甘やかな香りはまるで彼女自身から発せられているかのように自然と体に絡んだ。
「これで……よし」
鏡台の前にかがみ込むようにして髪と化粧をチェックする。
その後、姿見の方へ歩み寄った桜華は、真っ黒いベルベットのロングドレスを身にまとった自分に、思わず頬を染めた。
その耳で煌めくのは一粒のエメラルド。
胸元を飾る、まるで朝露に輝くクモの巣のような、細いプラチナ細工の首飾りにも、所々に散らしたようなエメラルドが輝いている。
「なんだか……私じゃないみたいね」
その戸惑いを現すかのように、爪と唇は赤ではなく薄いピンク色。
黒のドレスと赤いルージュ。
いくら大人っぽいと賞されてもふだんの生活では滅多に――いや、殆ど――ドレスなど着る機会のない桜華にとって、流石にそこまでベタな格好は気恥ずかしいものがあった。
……もっとも、ユリウスが部屋を訪れ、ちょっと意外そうな顔をした瞬間、やっぱり赤にすれば良かったかと後悔したのだけれど。
「用意は出来ましたか?」
外の夜空に輝く月よりもなお美しい金色の髪をした青年は、その華奢な長身にタキシードを着て、髪の先をゆるく束ねている。
「え、ええ」
エメラルド・グリーンの瞳が満足げに微笑むと、桜華は照れくさげに自分の体を見下ろした。
「あ、あの……お、おかしくない?私、こういう格好ってあんまりしないから、その――な、何だか落ち着かないわ」
「……綺麗ですよ、とても……ええ、そう……素晴らしい」
最後は嘆息するように言い切られて、桜華は更に頬を染める。
「あ、あのね。このドレスありがとう。サイズ、ぴったりだったわ。でも、その……あ、あの、上着とかないかしら?オペラハウス、寒いと困るし……」
桜華がいま着ているのはベアトップのロングドレス。
光沢のあるしっとりとしたベルベット生地は桜華の体に沿い、膝上まである正面のスリットからは白くなめらかな足がのぞいている。
背中は肩胛骨の下まで露わになり、かなり露出度が高い。
上品さを失わない程度にセクシーなドレス。
見立ててくれたユリウスには悪いけれど、この姿のまま大勢の人が集まるオペラハウスへ出かけるのにはかなりの勇気を必要とした。
と、そんな桜華の羞恥を察してか、ユリウスはうなずく。
「そうですね。その姿を隠してしまうのは惜しい気もしますが――確かに、誰かに見せるのはもったいない」
そう言ってユリウスは部屋を出ていく。
そして数分も経たないうちに戻ってきた彼の手には、触っただけでうっとりしてしまいそうなほど柔らかな毛皮のコートがあった。
「ユリウス、これ……」
「心配はいりません。これは偽物……いわゆるフェイク・ファーのコートです。貴女が本物の毛皮を嫌っていることは知っていますから」
「これが……フェイク?信じられないわ――」
そっと毛を撫でてみると本物と錯覚するほど柔らかでなめらかな感触が指の間を滑っていく。
ユリウスは桜華のそんな仕草に微笑み、そっとその体を反転させた。
「ユリウス?」
「そろそろ出かけましょう。時間に遅れます」
「あ、ええ、そうね」
ユリウスの手からコートを着せて貰うと、桜華は彼の腕に手を絡ませる。
「ねぇユリウス。私一人だけ浮いたりしないかしら?私、オペラなんて一度も見たことないし……それに、この世界の常識も知らない。変なことして、あなたが恥をかいたりしたら……」
上目遣いにおずおずと桜華がそう尋ねると、ユリウスはほんの少し目を見張り、驚いたように言った。
「そんなことを心配していたのですか?」
「だって……」
自分が恥をかく分には全然平気なのだ。
何しろ、自分はこの世界に来たばかりの異世界人なのだし、例えこの世界の常識を知らなかったとしても、少しずつその都度覚えていけばいい。
知らないことを知らないと言い切ることより、知らないことを隠して取り繕おうとすることの方がよほど人間として恥ずかしいことなのだと言うこともわかっている。
だから、自分のしたことで自分が恥をかくだけなら、桜華だって全然気にはしていないし、不安もないのだ。
ただ……。
「私のせいで、あなたに恥をかかせるんじゃないかって、それが心配で……私だけなら良いけど、あなたまで笑われたりしたら、私……」
いたたまれなくなる。
いや、きっとそれだけでは済まないだろう。
もしかしたら……泣き出してしまうかもしれない。
自分がそんなに弱い人間だとは思いたくなかったけれど、もしそうなったらと考えるだけで、膝が震えるほど不安になるのだ。
絶対にないとは言い切れない。
桜華が僅かに目を伏せ、腕に絡ませた手で袖口をきゅっと握りしめると、ユリウスはそれを包み込むように自分の手を重ね合わせ、優しく微笑んだ。
「……そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。別に礼儀作法を習いに行くわけではないのですから」
「でも……」
「それに、例え貴女が心配するようなことが起きたとしても、私はそれを恥ずかしいとは思いません。私は貴女のすべてを丸ごと愛しているのですよ?それなのに、貴女のすることを私が恥ずかしいと思うわけがないでしょう?」
「……子供を丸め込むような言い方しないで。私、本当に不安なのに」
ちょっと口を尖らせて、頬を膨らませる桜華。
それこそ、子供じみた八つ当たりなのはわかっている。
はたから見たらずいぶんと滑稽に見えるだろうことも。
いつもなら――いや、ユリウスといる時以外の彼女なら絶対にあり得ないだろう子供っぽい態度。
それでも、そんな態度をとるとユリウスが逆に喜ぶものだから、最近はつい、甘えてしまう。
果たして、今回もユリウスは怒るどころか、むしろ愛しくて仕方がない、という感じで桜華を見つめ、笑った。
「……困りましたね。私の言葉が信じられませんか?」
立ち止まり、小首を傾げて尋ねる恋人の姿に思わずドキッとする。
「そ、そういうわけじゃないけど……」
そのまま目が離せなくなってしまいそうで、慌てて目をそらした桜華に、ユリウスは再びくすっと笑った。
「ユリウス?」
「……それでは、少しだけ緊張をほぐしてさしあげましょう」
「え?」
驚いて桜華が顔を上げると、目の前に差し出されている二枚のカード。
真っ白な上質紙に綺麗なカリグラフィー文字で書かれた内容は……。
「――ホテルのオープン記念パーティ?」
最近やっと幻地球の標準言語をカタコトながら読めるようになった桜華は、驚いて目を丸くする。
「パーティって……オペラを見に行くんじゃ」
「もちろん、そちらも行きますよ。ただ、今日のオペラは深夜に始まるんです。ホテルの方もせっかくのご招待ですし、時間はありますから、行っても差し支えないだろうと思いまして。……まず食事をしましょう、桜華。パーティと言っても、ほんの少しスピーチがあるだけで、あとは落ち着いて席で食事が出来ますから」
「……」
「いや、ですか?」
ほんの少し躊躇ってみせると、ユリウスが途端に寂しそうな顔をする。
本当に、自分がどう動けば桜華が断れなくなるか、よくわかっているのだ、この金色の髪の恋人は。
それがわかっていながら、それでも逆らうことが出来ない自分にいささかあきれつつ、桜華は小さく肩を落とす。
「桜華?」
「……ずるいわね。そんな顔したら断れなくなるって、ちゃんとわかってるくせに」
それでも少しぐらいお返しがしたくて、わざとスネるようにつんと横を向くと、ユリウスは大げさにショックを受けたような顔をしてみせる。
「そんな、私はただ本心を顔に出しただけです。……何を考えているのかわからないのは嫌いだと、前にそう言ったでしょう?」
「調子良いこと言って。こういう時だけ、そういう顔するんだから――ま、いいわよ。どちらにせよ、美味しい料理がいただけるのに嫌がる理由なんてないもの。行くわ、そのパーティ」
そう言った途端、ユリウスの顔がこれでもかと言うほど輝くのを見て、桜華は『やっぱりこの人にはかなわない』と内心ため息を付いたのだった――。
★
「やはり、こういう場は落ち着きませんか?」
短いスピーチを終え、拍手の中テーブルに戻ってきたユリウスは、開口一番そう言った。
「……え?」
彼にそう言わしめた張本人――さっきからひっきりなしにワインを口に運んでいた桜華は、微かにとろんとした目でユリウスを見上げる。
「どうして?」
子猫のように小首を傾げ、無防備そのものの表情で見つめる桜華。
途端にわき起こる衝動を慌てて静めると、ユリウスは何とか微笑んだ。
「ユリウス?」
「いえ、ただ……いつもよりペースが早いようなので、そう思っただけです」
言いながら席に座ると、ユリウスは片方の手を伸ばし、テーブルの上に置かれた桜華の手をぎゅっと握りしめる。
この会場に入ってテーブルについた時からずっと、こうして手を握り合っていたのだ。
普段、ユリウスと二人っきりの時間を過ごすことも多い桜華だが、こうして二人だけで食事をすることは案外珍しい。
必然的に、手を握り合いながらテーブルに座り、ワインを飲むなんてことも珍しい桜華は、さっきからすっかり舞い上がってしまっている。
確かに、大勢の人がいる場所が落ち着かないのは本当だが、彼女が飲んだワインの半分は、この手が原因と言っても過言ではない。
おかげで今やすっかり酔いが体に回り、ふわふわと雲の上を歩くような極上の気分に満たされることになった桜華は、わけもなくクスクスと笑い声を立てた。
「……桜華?」
「ごめんなさい、何だか……変な気分なの。くすぐったくて、でも楽しくて……いい気持ち」
クスクス笑いながら、桜華が答える。
無邪気に、何の屈託もなく笑う桜華の仕草に、ユリウスもつられるように微笑んだ。
「どうやら、緊張はほぐれたようですね?」
「ええ……そうね。もう大丈夫みたい。でも、こんな状態でオペラを見たら、私、あなたの隣でぐっすり寝込んじゃいそうだわ」
今も実は結構危険な状態なのだ。
パーティとは言いながら、主催者側も最初から普通のディナーを提供するつもりでいたらしく、会場は照明が落とされ、テーブルの上に置かれたフローティングキャンドルの柔らかな光が、銀のカトラリーの上で揺らめくように踊っている。
グラスの中のワインはまるでガーネットのような深い色味を見せ、会場内にはスピーチの時以外は静かなクラシック音楽が流れていた。
「ねえ、気づいてた?ユリウス」
「はい?」
潤んだ瞳を悪戯っぽく煌めかせて尋ねる桜華に、ユリウスは首を傾げる。
桜華は再びくすくすと笑うと、突然声を潜めた。
「……さっきから、この会場中の女の人があなたの方を見てるわよ。――私、何だか敵地のまっただ中にいるみたい」
そう言って笑う桜華に、ユリウスは苦笑する。
さっきから視線を釘付けにしているのは、きっと桜華の方だ。
何しろユリウスは、この会場に入った瞬間から、彼女の方を振り向く男達を睨み付けてしまわないように必死になっていたのだから。
しかし目の前にいる恋人は、どうも自分を過小評価するきらいがあるようで、自分に対する周囲の目に無頓着すぎる。
潤んで輝く瞳も、ワインに濡れた艶やかな唇も、どこか気だるげな仕草も、その一つ一つが周囲の目を引きつけてやまないというのに、彼女は一切気づいた様子がない。
まあ、それはそれで、彼女が他の男性にはまるで興味がない、という証のようなものだから半分は嬉しいのだけれど……。
「時と場合によりますよね、やはり」
「え?」
つい無意識に呟いた言葉を聞きつけ、桜華がキョトンとする。
「あ、い、いえ、あの……」
今のは完全に無意識だったためか、いつも冷静なユリウスが珍しくあたふたと口ごもる。
「?」
桜華が更に首を傾げたとき、ユリウスに助け船を出すようなタイミングで、会場にダンスミュージックが流れ始めた。
「あ……」
甘く切ないスローテンポのバラード。
薄暗い照明と雰囲気に誘われてか、会場の中程に作られたダンスフロアに、パラパラと人影が集まり始める。
と、ユリウスもすっと手を差し出した。
「?」
「……私と踊っていただけませんか?プリンセス」
いつだったか、同じような台詞を吐いた彼と踊ったことがあった。
そう、あれは同じように寒い雪の夜。
あの時もパーティをしていたっけ。もっとも、あの頃と今とじゃ、私たちの関係は全然違う物になったけれど……。
そんなことをふと思いだし、桜華はくすっと笑った。
そして、黙って立ち上がり、ユリウスに軽く礼をする。
「喜んでお受けしますわ、王子様。いえ……私の騎士様かしらね?」
くすくすと笑う桜華を腕に引き寄せ、ユリウスもゆっくりと微笑んだ。
「どちらでも、貴女のお好きなように。ずっとそばにいることに変わりはありませんから」
「あら、いいの?騎士様なら、王子様に奪われる日が来るかもしれないわよ?」
ユリウスに身を預け、甘くゆったりとした音楽に乗って静かに揺れ始めた桜華が悪戯っぽく囁く。
と、ユリウスは桜華の身体に回した腕に力を込め、耳元で言った。
「その時は、王子の前に私が貴女を奪います」
熱い吐息と強い言葉。
背筋に震えが走った。
「そうね。あなたなら、例え私が高い塔に閉じこめられていても、きっと奪っていってくれるわよね」
その時は塔の高い壁をよじ登って……もしかしたら、それだけの為に一国の全兵士を敵に回してでも。
「……貴女のお望みのままに」
囁きと共に少しだけ体を離し、ユリウスが微笑む。
「貴女と共にいられるのなら、地の果てだろうと闇の中であろうと、そこが私の楽園です」
「ええ。……信じてる」
そう言って、桜華は再びユリウスの首に腕を回し、頬を肩に埋めた。
ぴったりと寄り添う体から、強く規則正しい鼓動が伝わってくる。
背中にあてがわれた大きな手のぬくもり。
自分をすっぽりと包み込んでしまう広い胸。
時折耳元をかすめる穏やかな吐息。
そのすべてを一つ残らず全身で意識している今この時のなんとゆっくり流れることだろう。
こうしていると、『時』という感覚さえ無意味に思えてくる。
このままでいたい、なんて、思わない。
時は、流れるものだから。
人は、変わって行くものだから。
流れる時の中に身を置き、そこに生きている以上、変化の流れから逃れることは出来ない。
でも、それでも。
信じることが出来るから。
たとえ、どんなに時が流れても。
変わらない物もある。
時を変え、場所を変え、形を変えても。
それでも、根底に流れる想い、それだけは変わらないと、そう信じることが出来るから。
だから思わない。
変化のない未来なんて望まない。
変わっていきたい。
そう、この人と一緒に。
「……桜華?」
ふと、ユリウスが囁いた。
その声は何故か低く、かすれている。
「部屋で飲み直しませんか?」
言われて、桜華はくすっと笑った。
いつ言い出すだろう、と、半ばゲームのように待っていたのだ。
いつか言い出すだろうと思っていた。
なぜなら、踊っている内――いや、こうして体を寄せて揺れている内に、ユリウスの腕に次第に力がこもっていくのを感じていたから。
「リザーブしてあったの?」
とすれば、結構、計画的である。
まあ、ダルスのリーダーとしてはこれくらい用意周到でも不思議はないけれど。
しかしユリウスは首を振る。
「まさか。けれど、私たちは招待客なわけですから、すぐに用意して貰えるのではないかと思いまして」
「……ほんとに?」
ちょっと疑わしげな目でユリウスを見ると、彼はどこかとぼけるように微笑んで見せた。
「ユリウス」
めっ、という感じに睨むと、ユリウスが笑い出す。
「さあ、桜華はテーブルに戻っていてください。……ワインで良いですか?」
「ええ。……あ、いいえ、ちょっと待って。そうね……ねぇ、シャンパンはどう?せっかく、綺麗な夜だもの。乾杯しましょうよ」
「美しい夜に?」
「素敵な策略家に」
取り澄ましたような顔でそう言う桜華にユリウスは苦笑する。
「……わかりました。少し待っていてください」
そう言って歩き出しかけたユリウスは、ふと思いついて振り返る。
「桜華」
「え?」
テーブルに戻ろうとしていた桜華が振り向くと、ユリウスは謎めいた微笑を浮かべ、言った。
「王子様が現れたら、逃げ出すんですよ」
★
部屋へ入ると、頼んでおいたシャンパンのボトルがクーラーに入って置かれていた。
さすがスイートルームというだけあって、寝室の他にリビングルームや小さなカウンターバーのついている広い室内には、あちこちにアレンジメントフラワーが置かれ、最小限に落とされた照明が夜の空間をしっとりと演出している。
「……さすが、ね」
桜華が室内を見回しながら呟いている間に、ユリウスがテーブルに用意された二つのグラスを取り、黄金色の液体をグラスに注ぐ。
「どうぞ、桜華」
「ええ、ありがとう」
きめの細かい泡のような炭酸がグラスに踊ると、二人は微かにグラスを重ね合わせた。
涼やかな音が部屋に響く。
喉を通るシャンパンの香りを楽しみながら、桜華はふと部屋から見える夜景に目をやった。
「綺麗……」
元の世界にある高級ホテルのように超高層、とはいかないが、その代わり、星の光を遮るネオンライトの少ない外の風景は、漆黒の闇に塗り尽くされ、その中に瞬く家々の灯りが星と混じり合って、まるで宇宙に浮かんでいるような錯覚を覚える。
「何だか……空に落ちていきそうな気がするわね。自分でも、ちょっとキザに聞こえるけど――ぁんっ」
いつの間にか窓に近づき、じっと外を眺めていた桜華のうなじに、突然柔らかいぬくもりが押し当てられた。
「ユリウス?どうしたの?」
「……」
桜華の問いに答えず、ユリウスはそっと細い腰に両腕を回し、桜華をその腕の中に閉じこめる。
柔らかな拘束。
うなじから肩へ、そして次は耳元へと悪戯に肌を滑る唇に、桜華はくすぐったそうに身をよじった。
「いやよユリウス。まだシャンパンが残っているのに」
桜華がそう言ってグラスを掲げると、ユリウスがふと顔を上げる。
その瞳が煌めいた。
「ユリウス?」
「では、私がお手伝いしましょう」
「え……?――あっ」
突然ユリウスの手が桜華の持つシャンパングラスに伸び、彼にしては珍しく強引に桜華の手からグラスを奪い取る。
「ユリ……んっ!」
抗議しようと、抱きすくめられたまま上半身だけよじった桜華の顎をしっかりとつかまえ、ユリウスはグラスのシャンパンを一口含み、しっかりと唇を重ね合わせた。
「んっ――」
こくん、と桜華の喉が小さく動き、ユリウスの口から伝わるシャンパンが流れ込んでいく。
シャンパングラスを持ったまま腰に回していた腕をゆるめ、顎を押さえていた手で体をくるりと回して抱きすくめると、ユリウスは再びシャンパンを口に含んだ。
「ユリウス……」
咄嗟に体を押しのけようと肩に手を置いてはみたものの、唇から送り込まれるシャンパンの、普通よりもずっと強く感じる酔いに力が抜けていく。
最後の一口をキスで流し込むと、ユリウスはゆっくりとシャンパングラスを床に投げ捨てた。
ふかふかの絨毯の上に投げられたグラスは割れることもなく、鈍く微かな音を立てて転がり、グラスに残ったほんの僅かな水滴がダイヤモンドのように絨毯に散らばる。
「……いいの?今日のオペラ、楽しみにしていたのに」
ユリウスの吐息を首筋に感じ、その腕が引き寄せるままに身を寄せながら、桜華は低くかすれた声で呟く。
すると、ユリウスは桜華の首筋に顔を埋めたまま、くぐもった声で笑った。
「構いません。どんなに素晴らしい歌姫の美声よりも私には――」
そう言ってユリウスは桜華の体を軽々と抱え上げる。
桜華の体から発せられる、むせ返るような甘い香りが、ユリウスを膜のように包み込んだ。
「……こちらの方が、ずっといい」
パタ…ン。
そして扉は閉じられる。
――後に残った暗闇には、冷たく輝く一筋の月光だけが、静かに差し込んでいた……。
〈FIN〉
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