「春 宵 桜」

著作者:SEIA

 夢魔の一件が解決した、次の日の夜。
 ユリウスと桜華は再び桜の森を訪れていた。
 昼間のロマンティックな光景と違い、蒼白銀の月光に浮かび上がる桜は濃紺の夜空とのコントラストで、見る者をぞくっとさせる妖艶さを醸し出している。
 桜華は、匂い立つ強い香水のような桜の香を目を閉じて楽しみながら、ほぅっとため息をついた。
「綺麗……。なんだか怖いくらいに……」
 自分の体を両腕で抱きしめ、そう呟く彼女の背後から、ユリウスが近づいてくる。
 腰に腕を回し、彼女を胸に深く抱き寄せると、ユリウスも呟いた。
「私も怖く思います。あまりに美しすぎて、これが現実とは思えない……。まるで、不安定な泡の上に乗っているような……」
 言いながら、ユリウスは桜華の首筋に唇を寄せる。
「桜華……」
 低く囁きながら甘い愛撫を繰り返すユリウスにわずかに体を預け、応えるように首を傾げて彼の好きなようにさせながら、桜華は再びため息をついた。
 見上げる夜空に浮かぶ、神々しいまでの月。
 人工的な照明のない、ただ降り注ぐ月の光にのみ照らされ、宵に浮かび上がる仄淡い薄桜。
 夜桜を見るのはこれが初めてではなかったけれど、今夜の桜は何故か普段と違う強い魔力のようなものを感じさせた。
「……毒、ね…」
「え?」
 ふと漏らした桜華の言葉を聞きつけ、ユリウスが顔を上げる。
 桜華は微笑み、桜を振り仰いだ。
「この桜よ。……強く、激しく、人の心を引きつけて――心のどこかが狂っていくような危うい感覚……まるで、死ぬとわかっていて毒の入った媚薬を飲まずにはいられないような……」
「――人は誰も、心に闇を持っています。この夜空に浮かびあがる幻のような桜の神秘さが、人のそんな闇の部分を刺激するのかも知れません」
 ユリウスの言葉に、桜華は頷いて彼を見上げる。
「ルナティック・フェノミナン――月の力で狂い出す理性、暴れ出す衝動……確か、月には人の理性を蝕む不思議な力があるって、何かの本で読んだわ。この世界の人も、魔物も、月に惑わされたりするのかしら……」
 その瞳は、夜の闇の中でユリウスの姿と桜だけを映し、とろけるような甘さを含んで潤んでいる。
 ユリウスは、彼女の頬を包み込み、その顎を高く持ち上げながら低く囁いた。
「だとするなら、私も惑わされた一人かも知れませんね……」
 繰り返し落とされる暖かな温もり。
 その温もりはやがて唇を離れ首筋へ、そして手が次第に滑り降りて――
「!…ユリウ……」
 はっと我に返り、抗議しかけた桜華の抵抗を難なく奪う。
 華奢な体。
 いくら激しく抵抗しても彼の体はびくともしない。
 その弱さと言葉の強さがひどくアンバランスで、ユリウスは今にも襲いかかってしまいそうな衝動を必死で押さえつけた。
 それでも抑えきれない激しい想いが、噛みつくようなキスとなって桜華を求める。
 桜華は、次第に霞んでいく意識を必死で持ちこたえ、弱々しい抵抗を繰り返した。
「ユリウス……」
 しかし、鼻にかかるかすれた甘い声は、今のユリウスにとって炎を煽る風にこそなれ、水とはなり得ない。
 自分のものとは思えないほど狂ったように脈打つ鼓動。
 それはまるで重低音で響くビートのように体を震わせ、頭の中を真っ赤に染め上げていく。
 手に負えない怪物が体の中を暴れ回っているようで、自分でもどうなってしまうかわからない。
 ……怖い。
 ユリウスは、久しく感じたことのなかった『恐怖』をいま、桜華を求める激しい『情熱』とともに感じていた。
 それはまるで『天国』と『地獄』を行ったり来たりしているかのような苛烈な感覚。
 と、その時。
「ユリウス……どう、したの……」
 激しく続くキスの合間に、桜華が何とか言葉をこぼした。
「なにを、そんなに――おびえて、いるの……?」
 ふと気づくと、桜華の手がユリウスの背に回っていた。
 ぽん。
 ぽん。
 ぽん。
 優しく、ゆっくりと、なだめるように繰り返されるリズム。
 昔――遠い昔、生まれてくる前に聞いていたような懐かしい感覚。
 ユリウスの背を優しく叩く桜華の手が、彼の中の怪物を眠らせてゆく。
「あ…私、は――」
 正気に戻りはじめて、やっと、自分がしがみつくように桜華をぎゅっと抱きしめ、すがりつくように背中の布地を握りしめていたことを知った。
「すみません、私は……どうして、一体なにを――」
 動揺し、上手く言葉が継げない。
 桜華を求める気持ちは確かにあった。
 しかし、ここまで苛烈に求めるつもりはなかったのに。
 まるで想いが突然なにか別の力で無理矢理増幅させられ、彼を飲み込んだような感じだった。
 今までは風もない穏やかな湖にいたのに、いきなり荒れ狂う嵐の海へ投げ出されたような――あまりに突然すぎる、不可思議な衝動。
「……」
 ふと、ユリウスは気づく。
 すぐ脇に立つ桜の木。
 不思議な力で魔力に干渉し、封じる結界の森。
 その結界によって封じられてきた魔物が眠っていた場所――。
「…この、桜のせいですか……」
「え?」
 ユリウスが呟いた言葉に、衣服の乱れを直していた桜華が顔を上げた。
「桜がどうかした?」
「いえ……桜華、ここを離れましょう。今すぐに」
「……え?」
「この森は危険です。いえ――この『時』と『場所』が危険なのかも知れない。とにかく、ここには何か結界とは別の力が作用しているようです。人の思いを感じ取り、増幅させてしまうような何かが……」
 元々、この森に封印されていたのは夢の魔物――人の心に巣くい、その魂を糧とする実体のない生命体。
 長い時をかけ、封じられていた魔物の力をこの桜の木々が吸収し、同じ力を宿したとしても不思議ではなかった。
「マスターやウィンたちも探し出さなくては。この結界は危険すぎる。危険であることにさえ気づけないほど――桜華、貴女も一緒に来て下さい。一人で残していきたくありません」
「わかってる。最初からそのつもりよ」
 彼女にはユリウスの言う『危険』の意味があまり理解できていなかった。
 しかし、彼が意味もなく何かを怖れたり疑ったりするような人間でないことは良く知っている。
 第一、いくら結界の中とは言え、昨日の今日でこの森に一人きりになれるほど、桜華は鈍感ではなかった。
「……桜華」
 ふと、ユリウスが言う。
 その隣を歩きながら、桜華が顔を見上げると、ユリウスは真剣な口調で言った。
「今度、私が貴女に迫ったら、その時はひっぱたいて下さい」
「……はっ?」
 突拍子もないその言葉に、思わず唖然とする。
 と、ユリウスが困ったような、はにかむような、普段はまず見せることのない子供っぽい表情をして笑った。
「どうやらこの森には、人の感情を強める要因があるようです。ここにいる間はなるべく気持ちを抑えるようにしますが――愛する人のそばにいて、求めるなというのも無理な話でしょう?」
 ユリウスは言いながら肩を竦める。
「そういうわけですから、もう二度とさっきのような真似はしない――と、断言できないのです。そして、今度こそ誰の制止も受け付けなくなってしまうかもしれない。貴女を……傷つけてしまうかも知れません。ですから……お願いします、桜華」
「……わかったわ」
 桜華は、そう言って悪戯っぽく笑った。
「今度、貴方が私に何かしようとしたら、ひっぱたいてあげる。……でも、信じてるから」
「ありがとうございます、桜華」
 そう言って微笑み、ユリウスは心の中で付け加えた。
 神よ、どうか彼女の信頼に応えることが出来ますように、と――。

     ★

「……やっぱ、なんか変だ」
 これで何度目かのキッドのセリフに、聖はまたか、と振り返った。
「キッド?これで何度目だと思ってる?」
「だっ……仕方ね〜だろ、ほんとに何か変なんだからよ」
「何かって……一体この森のどこがどう変なんだい?静かだし、桜は綺麗だし、どこもおかしいとこなんかないじゃないか」
「そっ、それは……そうなんだけどよー」
 聖が首を傾げて訪ねると、途端にキッドの口調が弱くなる。
 はっきり言って、自分でも何故こんなに気になるのか、よくわからないのだ。
 聖の言うように、何処もおかしいところなんてないようにも思う。
 けれど、しばらく歩くと再び彼の体を違和感がむずむずと走り抜け、そうして彼は言うのだ。
「……変だって、絶対」
「キッド……」
 もういい加減、数えるのにも飽きてしまった聖が呆れて振り返る。
「この森の夢魔は昨日封印されたんだよ?これ以上、何が変だって言うのさ」
「そ、それは……」
 少しだけ苛ついた声色の聖に、キッドはうっとたじろぐ。
 そんな彼を、肩を竦めて見やり、聖はすいっと空を見上げた。
「――それより、もう少しこの桜を楽しもうよ。僕、夜桜ってあんまり好きじゃなかったんだけど……」
「?そうなのか?なんで?」
「……怖かったから、さ。前に、誰かに言われたんだ。満開の桜の下には、死体が埋まっているんだって。だから桜は、薄桃色に染まって咲き乱れるんだって」
「ハッ、ばかみてー。んなの迷信に決まってんだろーが」
「わかってるよ、そんなこと。わかってるけど……でも、本当なんじゃないかなって……そういう迷信を言い出した人の気持ちも分かる気がしないか?」
 そう言いながら、聖はすぐ横にある桜を振り仰いだ。
「月の光に浮かび上がって、まるで現実じゃないみたいで……綺麗だよ。綺麗なんだけど、何だかこう……強い畏怖みたいな気持ちを覚えるっていうか……怖いんだ。綺麗で……綺麗すぎて――」
「ああ……そう言えば、そうだな――」
 キッドもつられるように桜を振り仰ぐ。
「確かに、夜桜ってのはどっか現実感に欠けてて、別の世界にあるように見えることもあるな。……でも、そのお前が何でこの夜桜は平気なんだよ?」
 怖いなら、好きじゃないなら、無理にみんなにつき合って来る必要はなかったはずである。
 大体、キッドは桜を愛でて風流を楽しむような、そんな高尚な趣味は持ち合わせていない。
 ここへ来たのも聖が来ると言ったからで、彼が楽しんでいないのならここにいる意味なんてないのだ。
「別に、無理してつき合う必要はないんだぜ?どうせ、みんなそれぞれ自分の世界に浸ってンだから」
「ううん」
 キッドの言葉に首を振り、聖は桜を見上げる。
 ……心なしか、その焦点がボウッと霞んで、潤んでいた。
「いいよ……この桜は平気みたいだから。なんか……すごく安心するんだ、この森は――桜が、なんだか……懐かしい…」
「……聖?」
 今にも桜に頬ずりせんばかりの聖の異変に、キッドは遅ればせながら気が付いた。
「おい……お前、なんか変だぞ。大丈夫か?」
 まさか桜に酔っぱらうなんてこたねーよな。
 思わず真剣にそんなことを考え、キッドは聖の肩に手をかける。
 と。
「……うるさいな」
 聖がキッドにそんな態度をとったのは、初めてだった。
 肩にかけた手を振り払われ、驚きのあまり口をぱくぱくさせたまま言葉のないキッドを一瞥して、聖は桜の根本に座り込む。
「聖?」
「興味がないんなら、一人で帰っていいよ。……僕は、もう少しここでこうしてるから」
「ひ、聖……」
 木の根本に片膝を立てて座り、うっとりとした表情を浮かべながら目を閉じた聖に、キッドは慌てた。
「おい!どーしちまったんだよ聖っ」
 がしっと強く両肩をつかみ、キッドは怒鳴る。
「しっかりしろよ、何やってんだよっ」
 しかし、いくらキッドが呼びかけても聖は目を開こうとしない。
 それはまるで、桜の木に抱かれて眠りにつこうとしている様子にさえ見えて……。
 そこで、キッドはハッとした。
「そうか、さっきから感じてたのはこの気配か……!」
 見上げれば視界一杯に広がる桜色の花弁。
 強く人を酔わせるような芳香。
 それに混じって、すべてを眠りに誘おうとする何か抗いがたい『意志』のようなものが、この周囲を包み込んでいた。
「チッ、まったく厄介な結界を作ってくれたもんだぜ、この国のヤツらも……」
 普段ならそれは、全ての自然物に干渉し、操ることの出来るキッドに察知できない気配ではなかった。
 しかし、この森全体に張り巡らされた強固な封印の力が、彼の人外の力に干渉し、この森に漂うこの気配をオブラートに包んでしまっていた。
「封印の力を宿した森と、それを守る結界……。二重になった力が月の光で増幅されたのか?いや……違うな。きっと増幅されたのは、この森を作った誰かの意志――」
「キッド!聖君!」
「聖!?」
 と、その時。
「ユリウス?」
 キッドは、向こうから駆けてくる二人の姿に、一瞬きょとんとした表情を浮かべた。
 そして、次の瞬間やっぱり、と頷く。
「無事ですかキッド?」
「ああ……オレは、な。けど聖がやられた」
 キッドがふいっと目を向けた先、桜の根本には、幸せそうな顔をしてぐっすり寝込む聖の姿がある。
「聖?……聖っ」
「心配いらねーよ、眠ってるだけだ。この森から連れ出しゃ、朝には目ぇ覚ますさ」
「あなたも気づいたのですね?この森の力に」
 ユリウスの言葉に、キッドは肩を竦める。
「ああ。ま、ちょっと遅かったけどな。……人の感情や意志を増幅させる、ルナティックアシスト……まさか、そんなモンまでかかってるとは流石にオレも思わなかったぜ」
「ルナティックアシスト?」
 完璧に爆睡モード突入中の聖を抱きかかえ、桜華が見上げる。
 ユリウスは頷いて、軽く肩を落とした。
「ルナティック・アシストとは、月の女神ルナーの加護を受け、その御力を借りる聖魔法の一種――ほら、私の使う聖護結界は空間を司る4聖神の御力を借りているでしょう?あれと似たようなもので、月の光に照らされている間、人の感情や意志などを増幅させることが出来るんです。しかし――」
「確かにまぁ、人の意志を増幅させる力があるから、魔力の効果を高めるのに使ったりもするけど……こんな使い方もあったのか、てのが正直なとこだろ?」
 ユリウスを見やり、キッドが肩を竦める。
「本来、ルナティックアシストは短期的に、特定の人間を対象にかける補助魔法として伝えられてるからな。……こんな風に空間に、それも半永久的に持続する形でかけて、夢魔を封印した術者の意志と結界の力を高めるように使うなんて、聞いたことないぜ」
「ええ……。おそらく聖君は、ルナティックアシストによって高められた術者の『封印』の意志に引き込まれたんでしょう。彼のペンダントにはこの森に封じられていた夢魔が封印され、かつて夢魔だった守護妖精が眠りに付いているわけですから、封印の力が彼に向いても不思議はありませんし」
「ああ。おかげでオレの方には何の影響もなかったみてーだな。……全部、聖の方へいったんだろ」
 そう言ってため息を付いたキッドは、ふと何事かを思い出したようにユリウスを振り返る。
「そういや、お前らは何でそれに気づいたんだ?……結界の力も強まってるこの森じゃ、気配なんて微々たるもんだぜ?」
「あ……」
「い、いえ、それはその……」
 そろって口ごもる二人。
 まさかルナティックアシストのせいで桜華に襲いかかって――なんて言えるわけがないユリウスは、慌てて話題を変えた。
「?」
「それよりキッド、マスター達を探してここを出ましょう。これだけ力の強まっている森です、特にマスターにどんな影響を及ぼすか想像も付きません」
「???……ああ、そうだな。つっても、聖をこのままにはしておけねーし……オレはこいつ負ぶって先に外へ出る。桜華も来いよ、その方が安心だろ?」
 と、最後の言葉はユリウスに向かって投げかけると、キッドは聖の腕を取り、抱え起こした。
「そうですね。では二人をお願いします。桜華、よろしいですね?」
「ええ。……ユリウス!」
 桜華はキッドを手伝って――彼はそれを嫌がったので、結局は無理矢理に、だが――反対側から聖の腕を取って支えると、月夜達を探しに行こうとしたユリウスに声をかける。
「はい?」
 数歩行ったところでユリウスが振り返ると、桜華は彼にだけわかる程度の微かな不安をその瞳に浮かべ、言った。
「……気を付けて」
「――はい」

     ★

「……どうした?」
 シオンは横を歩く、普段は太陽に負けないほど生き生きとした、しかし今は不安そうに目を潤ませている少女に声をかけた。
「……え?」
 シオンの声に、彼の腕にぶら下がるようにしながら、ぴったりとくっついていた陽南海が顔を上げる。
「なに?」
「いや……随分と、大人しいからな。どうしたのかと思っただけだ」
 シオンは片腕にだけかかる、しかしこの上もなく愛おしい重みに目を細めて言った。
「怖いか?夜の桜は」
「う……うん。少し」
 曲がりなりにも日本人に生まれて、しかもお祭り騒ぎが大好きな陽南海にとって、当然のことながら夜桜見物もこれが初めて、というわけではない。
 しかしなぜだか、この森の桜は妙に胸がざわざわした。
 特別、風が吹いているわけでもないのに、夜の静まり返った森で風音に怯える小動物のような、緊張と不安が彼女の胸を締め付ける。
「あのね、綺麗なんだよ。お月様も、それに照らされた桜も、空も、綺麗なの。綺麗なんだけど……」
 そう言って、陽南海は更にぴったりとシオンに体を密着させる。
「……なんだか、私が別の私になっちゃいそうな感じがする。――くすぐったい」
 一方、幼く見えてこれで結構しっかり育っている陽南海にぴったりと密着されて、ある意味、彼女よりも別人に変貌しそうになっているシオンは、密かにもう片方の手をグッと痛いほど握りしめて、冷静さを装う。
「……?」
「あ、いや……なんでもない」
 陽南海の物問いたげな表情から逃げるように、シオンは慌てて周囲に目を向けた。
「……確かに…夜の桜は昼間の桜とは全く別の表情を見せるな……」
 月光に照らされて浮かび上がる桜は、薄桃色――というより白く透けているようにさえ見えて、本当にそこに存在するのかも怪しく思えてくるほどだ。
 他の森と違い、ここには彼らの歩く足音と風の音以外、他の生物の息づかいすら聞こえない。
 しん、と静まり返った夜の森。
 その圧倒的な静寂は、彼らの聴覚を逆にひどく刺激し、押しつぶされそうな圧迫感が二人を包み込んでいた。
「なんかね……黙ってたら、おかしくなっちゃいそうなの。でも……でも、声を出すのが、凄くどきどきして……静まり返った図書館にいるみたいに……」
 足音を立てることも躊躇われてしまうような静けさ。
 なんだか、体の回りに見えない膜が張られたようで、ねっとりとした何かに取り込まれてしまいそうで、自然、体の動きも不自然になる。
「……あっ」
 降り積もる桜の花弁に足を取られ、陽南海の体勢が突然くずれた。
 前につんのめった陽南海をシオンが咄嗟に支えると、反動で陽南海はくるん、と回転し、図らずもシオンに抱きしめられる格好になる。
「大丈夫か?」
 優しく尋ねてくるシオンに、若干照れくさげな顔をして、陽南海は頷いた。
「う、うん。……ありがと」
 もしかすると、それがきっかけになったのかもしれない。
 陽南海はシオンからそのまま離れようとせず、逆に体から力を抜いて、ぐったりと彼にもたれかかった。
「……陽南海?」
「シオンは、いつも一緒にいてくれるんだね」
「……?」
 何を当たり前のことを?とでも言いたげなシオンの、片眉を僅かに上げた表情に、陽南海は薄く笑う。
「ううん、何となくそう思っただけ。あっちにいた頃は、お友達とかたくさんいたけど、でも、どうしても一人ぼっちになる瞬間ていうのは、どうしようもなく存在して――お姉ちゃん達や、聖や、お父さんやお母さんもいるのに、なんだか凄く寂しくなったりして……そんな時、いつも思ってた。――いつか、どこかの誰かが私の前に現れて、こんな風に寂しいって思ったりする時間を、埋めてくれるのかな、って……」
 ひくん、と。
 彼の体が強ばるのを感じた。
 陽南海は再びその顔に笑みを浮かべ、更に彼に身を寄せる。
 シオンは、そのまま動こうとしない陽南海に、固い声で尋ねた。
「……いたのか?そういうヤツがお前に――」
「ん〜。……もし、いたとしたらどうする?」
 その問いは、最後まで口にすることはできなかった。
 それまでは優しく背に置かれているだけだったシオンの手が、突然、陽南海の後頭部をつかみ、普段の彼からは想像も付かないほど強引に、彼女の頭をぐいっと上げさせる。
「……ん…」
 陽南海は、それを見越していたかのように体を反らし、背を伸ばしてかかとを上げた。
 シオンがより早く、唇を奪えるように。
「……」
「……」
 桜の森に、完全な静寂が訪れる。
 陽南海の髪をつかんでいたシオンの手は、いつの間にか背中へと戻って彼女の体を強く自分に押しつけ、唇は、魂までもそうなるようにと祈りを込めたキスで一つにとけあった。
 ――そして。
 ユリウスが感じた『恐怖』が、同じようにシオンの精神を襲った。
 自分の中に息づく、知り得なかった激しい衝動。怪物のような――手に負えない激情。
 このまま腕に抱く少女を傷つけても、それでも満たされることはないだろう激しい渇望。
 シオンは目の奥がじんじんと痛み、頭で鼓動が鳴り響くのを霞んだ意識で辛うじて感じ取りながら、薄目を開けて陽南海を見つめた。
 もしかして、そこにいたのが陽南海ではなく、桜華だったら。
 そうしたらシオンを止めたかも知れない。
 彼の衝動が不自然で、何かに突き動かされているような物だということに、気づけたかも知れない。
 けれど、そこにいるのは桜華ではなく、ただうっとりと目を閉じて身を寄せている陽南海で、今の彼女にシオンを止める素振りはまるで見られなかった。
「……っ…」
 ただ純粋に、素直に、彼の全てを信頼し、黙って受け入れようとしている少女の犯罪とも言えるその従順さが、更にシオンの中の炎をあおり立てる。
 桜華が鎮めた、ユリウスの中の衝動と同じものが、シオンの中で誰に止められることもなく叫びを上げていた。
 もしかして、そこにいたのがシオンではなく、ユリウスだったら。
 そうしたら、そのまま身を委ねていたかも知れない。
 目の前の少女を求める強い衝動に屈して、自分の不自然な感情の高ぶりに気づかぬまま、望むままに陽南海を求めていたかも知れない。
 けれど、そこにいるのはユリウスではなく、失うことを怖れるあまり求めることを自らに禁じた、不器用で、悲しいほどに強い心を持ったシオンだった。
 理性が悲鳴のように鳴らし続ける警鐘を、シオンはうるさいほどの鼓動の中で辛うじて聞き取る。
 陽南海を求める気持ちは、確かにあった。
 激しく、強く、彼女を傷つけてさえ良いと思えるほどの、暗くドロリとした激情。
 しかし、だからと言って、それを解き放つ赦しを自分に与えたつもりはなかったのに。
「……っ!!」
 シオンは叫びを上げる心を無理矢理押さえ込み、引き裂かれそうな痛みにきつく封をして、陽南海から何とか体を引き剥がす。
「……シオン…?」
 陽南海の甘い、今まで聞いたことのない甘い、鼻にかかったような声がシオンを呼んだ。
「どうして……?お願い、やめないで……」
 そのまま、陽南海はもう一度彼に体を寄せようとする。
 その仕草で、シオンはやっと、おかしかったのは自分だけでないことを知った。
「陽南海!?」
 両肩を強くつかみ、その瞳をのぞき込むと、陽南海はどこかうつろな表情で彼をぼんやり見つめている。
 ……焦点が、合っていなかった。
「陽南海……陽南海っ。しっかりしろ」
 ペチペチッと、陽南海の頬を軽く叩く。
 しかし彼女はぼんやりとするだけで、何の反応も返さない。
 既にその瞳はシオンを見てはおらず、ぐったりとした体は心の消えた抜け殻のようだ。
 そして、シオンはその様子に見覚えがあった。
「これは……夢魔の力か…?」
 桜華を襲い、ユリウスを一度は死に追いやり、そして聖とリュッセという名の守護妖精が確かに昨日、封印したはずの魔物――この桜の森に封じられていた、人の精神を食らう夢の魔物。
 その魔物が作り出した世界と似たようなニオイが、陽南海の体から立ち上っていた。
「いや、そんな筈はない。あの魔物は確かに昨日……しかし、これは――」
「シオン!」
 と、その時。
 彼にしては珍しく慌てた様子で、ユリウスがこちらへ向かって走ってきた。
「ユリウス!?」
 彼の緊張した表情に、シオンはすぐさま事態を察知する。
 ユリウスの方でも、シオンの察しの良さは十分知っているから、彼は詳しい説明を一切省き、いきなり切り出した。
「……陽南海さんの様子は?」
「どうやら魅了(チャーム)にかかったらしい。見たところ、かかりは浅いようだから外へ出れば正気に戻るはずだ」
「そうですか……良かった」
 ユリウスがほっと胸をなで下ろすと、シオンは言った。
「ユリウス。この気配のことだが……」
「ええ、わかっています。私もここへ来るまでの間に感じましたから」
 そう言って、ユリウスはその目をきゅっと細める。
「しかし、あれは昨日、聖くん達の手で封印されたのではなかったのですか?私は、そう聞きましたが」
「ああ。確かに、聖と守護妖精の力がペンダントに封印した筈だ。オレもそれをハッキリ見ていた。しかし……」
「この気配、それにチャームの魔法……ただごとではありませんね」
 ユリウスの言葉に重々しく頷き、シオンは深いため息と共に呟く。
「他にも夢魔がいると言うことか……」
「おそらくは」
 ユリウスも肩を落とし、暗い表情で周囲を見回した。
「ここに今現在、ルナティックアシストがかけられているという事が、果たして幸いだったのか、不幸だったのか――」
「ルナティックアシスト?そんなものがこの森にかけられているのか?」
「ええ。その影響で、この森の他者を封印しようとする意志が強く増幅されているんです。私と桜華とキッドは幸い無事だったんですが、聖君が睡眠(スリープ)にかかって眠り込んでいます。おそらく、陽南海さんにかけられたチャームが浅かったのも、増幅された封印の力のおかげでしょう」
「そういうことか……」
 シオンは納得したように頷き、そしてふと、片眉を上げる。
「どうかしましたか?シオン」
「いや……封印の力が強まっているのなら、なぜ陽南海はチャームなどにかかったのかと思ってな。元々、この森は結界になっていて、外部から魔物が侵入することはないはずだ。ルナティックアシストによってその力が強まっているなら尚更な。しかし……」
「確かに、陽南海さんがチャームにかかっていると言うことは、それをかけた何者か――まず間違いなく夢魔でしょうが――が、ここにいるということですね」
「ああ。しかし、夢魔のヤツは一体どこから現れたんだ……?」
 シオンの言葉に、ユリウスも考え込む。
 しかし彼はすぐに頭を振ってその疑問を振り払い、シオンに言った。
「とにかく、ここでこうしていても始まりません。夢魔がどこかにいるというのが確かなら、なおのこと、この森から一刻も早くでなければ」
「あ、ああ。そうだな」
 シオンも我に返ると、すぐさま陽南海を抱きかかえる。
「オレはひとまず陽南海を連れて外へ出る。聖もかかったと言っていたな。では、キッドと桜華も外にいるんだな?」
「ええ、その筈です。では、私はマスターとウィンを探しに行きます」
「わかった。オレもすぐ戻る」
「お願いします」
 ユリウスが頷くと、シオンは陽南海を抱え、走り出す。
 彼の姿がある程度遠くなるまで見送ると、ユリウスはぽつりと呟いた。
「……また、面倒なことにならなければよいのですが……」

     ★

「……あの、重くないかい?月夜」
 ウィンが、心配そうな表情で月夜を見つめている。
 月夜は彼の前髪をもてあそんでいた手を止め、ゆっくりとかぶりを振った。
「ううん、大丈夫」
「……ほんとに?」
 疑わしげにそう尋ねると、もぞもぞっと、ウィンが身じろぎする。
 途端、月夜の体がぴくんと跳ねた。
「きゃん!」
「月夜?」
 身を強ばらせ、小さく悲鳴を上げた月夜に、ウィンは首を傾げる。
 月夜は軽くにらむ振りをして言った。
「……くすぐったい」
「あ、ごめ……」
 慌てて、ウィンは起きあがろうとする。
 その肩に手を置いてやんわり彼を押しとどめると、月夜は柔らかな笑みを浮かべた。
「大丈夫。ほんとに平気だから、このままでいいよ」
「月夜……」
「……久しぶり、だね。膝枕するの」
 月夜がそう言って笑う。
「え、そうだっけ?」
「そうだよ」
「そっか……」
 ウィンは、頭の後ろに感じる月夜の柔らかな脚の感触を楽しみ、前髪に触れる月夜の手にうっとりとしながら、目の前に広がる桜の花に目をやった。
「……最初の時は、桜じゃなくて、紅葉だったんだよね」
「覚えてたの?」
「もちろん。……オレがガーディアンになった本当の理由を話したのは、あれが初めてだったし。それに、こんな風に――」
 そう言って、ウィンは肩に置かれた月夜の手に自分の指を絡ませる。
「こんな風に、誰かに膝枕してもらったのも、初めてだった」
 幼い頃の母に甘えた記憶を持たないウィンにとって、それは普通の何倍も衝撃的な出来事だった。
 おかげで、実はあの日は明け方まで眠れずにいたことを、ウィンは今でもはっきりと覚えている。
 もちろん、それを知っているのは当のウィン本人だけだったけれど。
「……月夜といると、すごく安心するんだ。守ってるのは、オレの方の筈なのに……本当は、オレは君に、守られてるのかも知れない」
「ウィン……」
 月夜は恥ずかしそうにはにかんで、きゅっとウィンの手を握り返す。
「そんなことないよ。私、いつまでたってもドジだし、とろいし……みんなに迷惑かけてるし。でも……嬉しい。ウィンに、そう言って貰えると」
 にっこりと微笑んでそう言う月夜に微笑みを返し、ウィンは目を閉じる。
 月夜は、再びゆっくりと彼の頭をなで始めた。
 とん、とん、と、絡めた指が優しくリズムを取りながらウィンの手の甲を叩く。
 それはまるで子守歌のように、ウィンを安らかでゆったりとした眠りへ誘った。
「……」
 スゥ――と。
 いつしか、ウィンが穏やかな寝息を立て始める。
 ガーディアンとして厳しい訓練を受けてきた彼だから、きっとそんな中でも、小さな物音でもすれば飛び起きることだろう。
 張りつめた緊張の糸は常人の何倍も太く、決して切れることも、ゆるむこともない。
 そして、それこそがガーディアンとしての彼に課せられた役目。
 でもだからこそ、月夜はほんの少しでも彼の緊張を癒すことが出来る『何か』を、いつも探し求めていた。
 どんなことでもいい。
 ほんの一瞬でもいい。
 せめて、安らかな眠りを。
 出来るなら、幼子のように無防備でいられる時間を。
 そんな、彼を思う月夜の想いがウィンを柔らかに包み込み、ウィンは、まるで母親に抱かれているような安堵感の中で、ゆっくりと過ぎる時間の流れを噛みしめていた。
「きれい……」
 月夜が夜空を見上げ、そっと囁く。
 深く柔らかな濃紺の夜空に、青みがかった白銀の月が浮かび、時折そよぐ風に仄淡い桜の花弁がひとひら、ふたひらと舞って過ぎていく。
 元の世界にいた頃とは違い、宴会で騒ぐ人の声も車の音も音楽もなく、聞こえるのは二人の息づかいぐらいな物だ。
 森はどこまでも続き、見上げれば空、こんなに広い中にいるのに、まるで世界はこの空間だけのようにも感じられる。
 背中に当たる、ごつごつとした桜の幹。
 ひんやりとした大地。
 そして――膝の上に感じる、心地よい重みと温もり。
 月夜は、ほんの少し痺れてきた脚の感覚にさえ喜びを感じながら、ふわっと微笑んだ。
 ずっと、このままでもいい。
 今この瞬間、世界が凍りついてしまっても――。
 そう、思った瞬間だった。
『ミツケタ……』
 それはほんの少し前にも聞いたあの声。
 邪悪で、心臓が凍りつくような冷たい声。
 月夜がその声の正体に気づいたときには既に、それは彼女の目の前にはっきりと姿を現していた。
 歪んだ空間の切れ目から立ち上る、暗黒色の煙。
 まるで周囲の景色を蝕んでいくかのように八方に広がり、人の背丈ほどにまで成長する実体のない生命体。
 人の心を糧にする魔物――昨日、確かに聖とリュッセが封印したはずの『夢魔』が、じっと月夜を凝視していた。
「あっ……」
「月夜、離れないで!」
 彼女の体が強ばる直前、いち早く気配を察知したウィンが飛び起き、月夜を庇うように立ちはだかる。
 後ろ手に庇った月夜がウィンの背にしがみつき、カタカタと震えだした。
「ウィン……」
「大丈夫。君はオレが絶対に守る。――オレは、その為にここにいるんだから」
 ウィンはそう言って安心させるように微笑み、ギッと夢魔を睨み付ける。
 それはどこからが体でどこからが頭なのかさえ曖昧だったけれど、その目だけはぎょろりと気味悪く浮かび上がり、ウィンを通り越して真っ直ぐ後ろ――月夜だけを凝視していた。
「実体のない魔物――闇雲に切っても埒は開かないか……」
 ウィンは誰に言うともなしに呟いて、腰に下げた短剣を手に取る。
 普段使っている両刃のブロード・ソードはユリウスが持っている上に、ここは魔法が使えない結界の中。
 戒めの魔力によって宝珠に封じられている長剣を手にする確率はゼロに等しかった。
「長剣が使えないのは少しキツいけど……でも、剣圧を少し強めて長さを補えば……」
 そう言いながら、ウィンはほんの少し剣に気合いを込める。
 と、次の瞬間、塚から激しい光が吹き出し、あっという間に短剣は輝く長剣へと変化した。
「これでよしと」
 元々、ウィンはその並はずれた剣の腕と強い気の力でダルス隊に選抜された『剣士』である。
 その彼が普段好んで長剣を使っているのは、単に刃が長い分、短剣より攻撃に便利で、軽い分、大剣より扱いやすいからという理由だけで、彼にとって得物の差は大した障害にはなり得ないのだ。
「月夜、よく聞いて」
 ウィンは、じりじりと不気味なほどスローペースでにじり寄ってくる夢魔から視線をはなさず、後ろにいる月夜に言い聞かせる。
「こいつの攻撃は、オレが防ぐ。でも、君も知ってるとおり夢魔は実体のない生命体だ。オレたちの攻撃で消滅させることは、不可能に近い。わかるよね?」
「う、うん」
「だから、ここで戦っても多分、あいつを倒すことは出来ない。負けることは絶対にないけど、勝ち目も殆どないんだ。となると、方法は一つ。――いいかい、月夜。逃げるよ」
 そう言って、ウィンは少しずつ後退していく。
「オレが合図したら、月夜はとにかくオレにつかまって。剣を手放すわけにいかないから、オレは片方の手でしか君を支えてあげられない。もう片方の分は、君が自分で支えるんだ。……いいね?」
「……わ、わかった」
「よし。それじゃ行くよ。いち、にぃの……」
 ウィンの言葉に、月夜は背にしがみついていた手を離し、足を踏ん張って身構える。
 彼のスピードについていけるかどうか、不安はあったけれど、恐怖はなかった。
 何があっても、彼は絶対につかまえてくれる。
 そのことにだけは自信があった。
「さん!」
 ウィンが叫んで振り返る。
 と同時に、月夜は思いっきり飛び上がって、彼の首にしがみついた。
 ウィンの腕が即座に伸び、月夜の太股をぎゅっと押さえる。
「しっかりつかまってて!行くよ!」
 ウィンが、半ば月夜を横抱きにした形で、脱兎の如く走りはじめた。
「きゃああっ!」
 その瞬間、彼らの動きを読んでいたかのように夢魔が触手を放った。
 凄まじいスピードで襲いかかる何本もの触手を、手に持った短剣で何とか切り払い、ウィンは走る。
 トップスピードで走る彼の足は殆ど地についておらず、振動や衝撃は思ったほどではなかったが、それでも彼の足が地に着くたび、がくん、がくんという衝撃が月夜の胸を打った。
 そのたびに息が詰まり、意識が一瞬遠くなる。
 と思う間もなく次の衝撃が彼女の意識を強引に引き戻し、そしてまた更なる衝撃が呼吸を奪う。
 悪魔のような悪循環の中、月夜の腕が次第にゆるみ、体から力が抜けていく。
 ウィンは最悪の事態が近づいてきていることを予感し、体中の血の気が音を立てて引いていくのを、成す術もなく感じていた。
「くっ……」
 桜の森は、まだ果てしなく続いている。
 迂闊だった、といえばそれまでなのだが、まさか昨日の今日で再び夢魔が現れるとは思ってもいなかった二人は、夜桜を楽しみながら結構奥深くまで歩いてきていた。
 あともう少し。
 もう少し行けば、キッドと聖のいる辺りに辿り着ける筈だった。
 聖の元にさえ行き着ければ。
 そこには、昨日夢魔を封印した守護妖精の眠るペンダントがある筈だった。
「もう少し……もう少しだよ月夜。だから、だから頑張って……!」
「……」
 ウィンのその切羽詰まった声に応えるように、月夜は何とか、苦しい息の下で彼の首に必死にしがみついていた。
 あと少し。
 もうあと少し。
 ウィンの言葉を、おまじないのように心の中で繰り返しながら。
 しかしそれと同時に、月夜は自分の意識を保っていられるのも、あとほんの少しであることを、何となく人ごとのように感じていた……。

     ★

「くっ……」
「ウィン!」
 ユリウスとキッドが駆けつけたとき、月夜は既に意識を失っていた。
 膝をついて座り込み、胸に深く月夜を抱きかかえて短剣を振り回すウィンの前に、キッドが立ちはだかる。
 ぴしっ、ぴしっという音がして、キッドの持つ鞭が短剣の代わりに触手をはじき始めた。
「ウィン、マスターは?」
 二人の前に座り込み、ユリウスが尋ねる。
 ウィンは滝のように流れ落ちる汗を拭おうともせず、強く抱きしめていた月夜をそっとユリウスに預け渡した。
「大丈夫、気絶してるだけだよ。それよりユリウス、これは……」
「えぇ、どうやらこの森に封印されていたのは、一体だけではなかったようですね。――ウィン、剣を」
「使えたのか?」
 手になじんだブロード・ソードを手渡され、ウィンは驚いたように目を見開く。
 ユリウスは小さく頷いて、夢魔の方へと視線を向けた。
「試してみましたが、使えないのは攻撃魔法のみのようです。自分にかける回復魔法や補助魔法は問題なく使うことが出来ました。と言っても、この結界内にある自然物は全て封印されているので、キッドの力は拒絶されるようですが」
「そうか。……それで、みんなは?」
「桜華と聖君と陽南海さんはシオンが森の外で見てくれています。彼の力はこの森では全く使えませんから、残ってもらいました」
「ここに来たってことは、みんなにも何かあったんだな?」
「ええ、それが……」
「おい!」
 と、今までのいきさつを説明しようとしていたユリウスの言葉を遮り、キッドが怒鳴る。
「説明なんか後にしろよ!今はこいつを何とかしなきゃだろーが!」
 これで本当に1パーセントの力も使っていないのかと驚くほど、キッドは凄まじいスピードで鞭を操り、次々と飛びかかる夢魔の触手をはじき返している。
 しかし、さすがに一人で夢魔一体を相手にするのは辛いらしく、彼の顔にもあっという間に汗が吹き出していた。
「ウィン!」
「わかった!」
 キッドの求めに応じ、ウィンも短剣を長剣に持ち替えて立ち上がる。
「とにかく話は後だ。ユリウスは月夜を頼む。オレたちはあいつを……っと、そう言えば、倒せるのか?あいつを」
 剣による通常攻撃では、相手の攻撃を防ぐことは出来ても、ダメージは与えられない。
 それは逃げ回っている間に証明されていた。
 ユリウスは頷く。
「どうやら、昨日の夢魔は特別力の強い一体だったようです。ここに来るまでの間に2〜3体の夢魔に襲われましたが、どれも皆どこかに幻妖石を持っていました」
「幻妖石?意志を投影して幻を作り出す、あの石のことか?」
「ええ。昨日の夢魔以外は封印の力に影響されて、自力であの体を保っていることが出来ないようなのです。ですから……」
「だから!石を!見つけだして……壊っ……せば!……っの、ちょこまかす……倒せる……っ……んだよ!」
 キッドの息があがっている。
「いい加減にしろ!」
 その怒鳴り声に、別の意味でも危機を感じたウィンは慌ててキッドのところまで走った。
「はあっ……!」
 ウィンが力を込めると、剣の刃がヴン、と震え、さっき短剣がそうであったように塚から勢い良く光がほとばしる。
 月夜をユリウスに預け、両手が自由になったウィンは身の丈二メートルほどになった光の剣を高く振り上げ、斜め上から一気に振り下ろした。
 ザシュッという音がして、夢魔の体が一瞬分断される。
 しかしそれは致命傷にはならなかったらしく、夢魔の体はあっという間に復元した。
「ダメか……」
「アホかてめーわっ!!」
 キッドが怒鳴る。
「人の話聞いてたのかよ!幻妖石は体のどこかに埋め込まれてんだ、んな大ざっぱな攻撃で見つかるわけねーだろ!」
「うっ……」
 ひどい言われようだが、キッドの言うことももっともなので、何も言い返せない。
 と、ユリウスが叫んだ。
「ウィン!ここにはルナティックアシストがかけられています。今なら多少の無理はききますよ!」
「ルナティックアシスト?……そうか、それなら……」
 ウィンは腰に戻した短剣を再び取り出し、三たび力を込める。
 長剣の方は剣圧を弱め、短剣は強めて長剣ほどの長さにすると、ウィンはキッドに言った。
「オレが滅多斬りにするから、お前は石を探してくれ!」
「わかった!」
 キッドが頷くと、ウィンは勢い良く夢魔に斬りかかっていく。
「てぇい……やあぁぁっ!!」
 ザシュ、ザシュッと、それはもう小気味良いほどのスピードで、ウィンが夢魔を切り裂く。
「っていうか、あれじゃ千切りだよな……」
 キッドが呆れたように呟いた。
「キッド!ぼけっとしてないで探せよ!疲れんだぞ!」
「あ?あ、ああ、わーってるよ!」
 そう言って、キッドはぶるぶるっと頭を振った。
「しっかし、よくまぁ、あんなに剣が振り回せるもんだぜ。あれじゃオレが探さなくても、そのうち斬っちまうんじゃねぇのかあ?」
 キッドの言うとおり、ウィンのそのスピードは圧倒的で、夢魔も体を復元するので精一杯のようだ。
 触手の攻撃が完全に途絶えてしまうと、キッドはウィンの背後に悠然と立ちながら、目を凝らし、じっと夢魔の体にある筈の石を探し始めた。
 ウィンの剣に切り裂かれ、千々に乱れる夢魔の体。
 必死に復元しようとするその切れ端の合間に、ほんの一瞬ちらりと何かが光った。
「あった!」
 それまで夢魔を凝視し続けていたキッドが突然そう叫び、鞭を振り上げる。
 ヒュンッと空気を切り裂くような鋭い音を立て、鞭の先端が夢魔の体を襲った。
「ウィン、避けろ!」
 キッドの端的な言葉に、それまでひたすら剣を振り上げていたウィンは振り返りもせず、ただ鞭のしなる音だけで状況を聞き分けると体を半分傾ぐ。
 その顔の、ほんの数ミリ横を鞭がかすめた。
「っしゃ、ビンゴ!」
 キッドがそう叫ぶのと、鞭が何か固いものに当たったような音を立てたのとは、殆ど同時だった。
 夢魔の体の一部が鞭の勢いで再び吹き飛び、さっきはちらりとしか見えなかった幻妖石が、今度はくっきりとその姿を現す。
 透明な水晶の中に七色の虹を封じ込めたようなゆらめく光を放つその石は、夢魔の体に取り込まれて幾本もの触手に巻き付かれていた。
「ウィン!」
 キッドが叫ぶ。
「よしっ」
 頷いて、ウィンは再び剣を振り上げた。
「……はぁぁっ!」
 一度でも見えた目標なら、外すことはあり得ない。
 ウィンは一分のズレもなく石に向かって剣を振り下ろした。
 キンッ、と金属にはじかれたような硬質な音が響く。
「つっ……」
 じんじんと痺れて痛む腕に顔をしかめるウィン。
 キッドは我が目を疑った。
「ウィンの剣が……はじかれ…た……?」
「封印が一瞬解かれたとはいえ、昨日の今日で……この夢魔、たった一日でずいぶん力を取り戻しているようですね…」
 ユリウスが重々しくそう言った。
「自身の体を具現化するまでの力はなくても、それを幻妖石にまとわせることで硬質化し、砕かれることを防いでいる……先ほどのように簡単には行きませんか」
「……ユリウス」
 ウィンが剣を構えたまま、言った。
「オレにルナティックアシストをかけられるか」
「な……?」
 キッドは思わず絶句した。
「ルナティックアシストって……この空間にかかってるそれを、更にてめぇにかけようってのかよ?」
「ああ。今のオレの力じゃ、あの石に傷一つ付けられないみたいだからな。あれを砕くためには、あの夢魔の精神力よりも何倍も強い気の力がいる。今のままでも、出来ないことはないけど……」
 ユリウスはウィンの言いたいことを察して頷いた。
「夢魔はこの一体だけとは限りませんし、ここから外に出るまで、まだかなりの距離があります。その為に力は出来るだけ温存しなければなりません」
 ルナティックアシストは、被術者の意志や感情、精神力を一時的に高め、増幅させる効力を持つ。
 それをかけておけば、少なくともこの森を出るまでの間――月が沈むまでは、ウィンは普段と同じ力で何倍もの剣圧を出せる筈だった。
「……わかりました」
 ユリウスはそう言い、すっと目を閉じる。
「月の光よ……死と再生を司りし月の化身たる女神の衣よ……その柔らかな光もて彼の者を照らし、今宵一夜の奇跡を示したまえ……」
 呟くユリウスの全身から、淡い金色の光が立ち上り始める。
 そしてそれは次第に彼の右手へと収束し、彼はゆっくり目を開くと言った。
「……ルナティック・アシスト」
 ふわっと、彼の右手が差し出される。
 その動きに沿うように、右手に収束していた光は柔らかな軌跡を描いてウィンへと放たれた。
「……」
 ウィンの体に、金色の光がまとわりつく。
 まるで水の中に入ったような、圧迫感と解放感が入り交じった不思議な感触が体中を包み込み、やがてそれがすうっと消えてしまうと、ウィンの体内から普段の何倍もの波動がわき上がってきた。
 すーっ。はーっ。すーっ……。
 ウィンは数回深い呼吸を繰り返す。
 そして精神を集中させると、彼は体内に感じるその波動に意識をあわせ、一気にそれを放出させた。
「はぁ――っ!!」
 光が、剣の塚から吹き出した光が、そのあまりの勢いに形を成さず、彼の全身を包み込んだ。
「うわっ……」
 目映く輝くその光に、ユリウスもキッドも一瞬目を背ける。
 しかし次の瞬間、光は逆回転フィルムを見るようにぐんぐんと剣の塚に吸い込まれ始め、やがて周囲が再び元の静けさを取り戻すと、キッドは目を開いた。
「お……」
 そこには、先ほどまでと何ら変わりなく剣を構えたウィンがいた。
 しかし、その剣は数メートル先の桜の枝をも揺らすほど強烈な圧を放ち、その余波でウィンの足下に降り積もっていた桜の花弁はすべて吹き飛んでいる。
「光よ、切り裂け!」
 叫んで、ウィンがその体勢のまま剣を振り下ろした。
 と、剣から放たれた凄まじい気が、一直線に夢魔めがけて襲いかかる。
「……ん…」
「!……マスター、気がつかれましたか?」
 ウィンの剣圧が夢魔を切り裂いたのと、ほぼ時を同じくして月夜が目を覚ました。
 ぼんやり霞む意識の中でまず目に入ったのは、心配そうに自分をのぞき込むエメラルド・グリーンの瞳だった。
「あ……ユリウス…さん……?」
「はい。大丈夫ですか?ご気分は?」
「え?あ……はい、えと……」
 月夜はゆっくりと体を起こす。
 背中に手を当て助け起こしてくれるユリウスに、ほんの僅かよりかかって、月夜は周囲を見回した。
「ウィン……」
 そっと囁くと、剣を振り下ろした状態のままじっと前を凝視していたウィンが、ゆっくりと振り返る。
 そして、にこっと笑った。
「おはよう、月夜」
「あ、え、と……?」
 意識を失う前の記憶が曖昧で、何が何だかわからない。
 きょとんと首を傾げ、ぼんやりしたままの月夜に歩み寄り、ウィンはその額にかかる髪を優しくかきあげた。
「全部終わったよ、月夜。さあ……帰ろう」
 そう言った、瞬間。
 空中にそれだけ浮かんでいた、七色の光を包んだ水晶に一筋きれいなひびが走った。
「う……うん」
 そして、ウィンに抱きかかえられた月夜と、ユリウス達がその場を去ってから暫くして。
 幻妖石は空間の切れ目もろとも爆発し、既にちりぢりになっていた夢魔の体と共に、あとかたもなく消し飛んだのだった……。

     ★

「あっ……お姉ちゃん!」
 桜の森を出ると、真っ先に陽南海が駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、大丈夫?ケガなかった?」
 心配そうに走りより、腕を取る陽南海に微笑みかけ、月夜は頷く。
「うん、大丈夫。陽南ちゃんも、どこもケガしてない?」
「うん、私は平気だよ。聖も、桜華お姉ちゃんも大丈夫。……ねぇ、夢魔はやっつけたの?」
「んと……半分くらいは。あとの半分は逃げてきたけど」
「ったく、冗談じゃねーぜ、この森にゃ一体どんだけ夢魔が封印されてンだよ?ここへ来るまでの間に、2〜30体は倒したぜ?なあ」
「ああ。……聖君、ペンダントには何か変わったことないかい?」
「あ、はい。少なくとも、この前みたいなことは一度もありません」
「そうか……どう思う、ユリウス、シオン?」
 ウィンの問いかけに、ユリウスとシオンは顔を見合わせる。
「ああ……」
「そうですね……原因は分かりませんが、何らかのきっかけで再び封印の力が弱まり、その隙をついて夢魔が目覚めたのは間違いないでしょう。幸い、ルナティックアシストのおかげで封印の力は通常より強まっていましたから、完全な覚醒は防げたようですが……」
「しかし、何故今頃になって封印が弱まったのか……わからんな。昨日は確かに何の気配もしなかった」
「ええ」
 ユリウスとシオンの言葉に、ウィンも考え込む。
 と、その視界の端に、ヒュンヒュンと何かの影が映った。
「……ん?」
「あれ、キッド?その棒なんだい?」
 ウィンがそれに気づくと同時に、聖が声を上げる。
 サッカーの要領でその棒きれを蹴り上げていたキッドが、それをぱしっと手にとって言った。
「ああ、これか?いや、良く知らねーんだけど、森の入り口に刺さっててさぁ。何となく入るときに引き抜い……て……?」
 そこまで言ったキッドは、全員の顔が強ばっているのに気づいた。
 ――この森の封印は、丘の下に建てられた祠と、この森を囲む数本の寄り代によって支えられている。
 その祠の寄り代である棒を引っこ抜いたのが、前回、ユリウスと桜華を襲った夢魔の覚醒原因であった。
「あ……あれ?」
「キッドぉ〜〜……」
 ゆらぁっと。
 キッドを覗く全員の――あの月夜でさえも――影が揺らめいた。
「あ、あはは、あはははは……」
「笑ってごまかすな、ばかものーっっ!」
 ウィンの声がこだまする。
「わ〜〜っ!!」
 それに呼応するようにキッドの声が響き渡る桜の森で。
 ざわざわと、数十――いや、数百体の影が揺らめき、立ち上っていた。

『ミツケタ……ミツケタ……』

 たとえ半分でも、一度封印から目覚めてしまった夢魔は倒すか、再び封印し直すかしか対処法が無く、その責を追求されたダルス隊の面々が再び桜の森に入ることになるのは、この翌日の話である。
 それにしても、この見渡す限り一面に続く桜の森に、一体どれだけの夢魔が眠っているのだろう……。
 この国では、森に封印された夢魔に関して、こんな伝説が残されていた。

『桜の森には鬼が棲む。一つに一つ、夢の魔物が――』

 さて、この後キッドを待ち受ける運命とは?
 それはまた、別のお話である……。

〈FIN〉


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