「トキノトビラ」
著作者:佐々木綾乃



「…それじゃあ、よろしくお願いします」
 胸に黒猫のワッペンを貼った作業着の男達を見送り、再びドアを閉めると、わたしは鍵をかけずにリビングへ歩いてゆく。
 もし、この部屋に強盗が入ったとしても、ここには盗るものなんかなにもない。価値があるものといえば…わたしかなぁ…
 空っぽになったリビングをあらためて見回し、わたしはひとりそっと呟いた。
「こんなに広かったんだ」
 いままでは沢山の物達に囲まれて、いつしかこの部屋の広さを忘れてしまっていた。数日前のこの部屋と比べれば、まるでダンスフロアにいるような錯覚がする、大袈裟だけど。
 ピカピカに磨かれたフローリング…これをキレイにするのにどれだけの時間を費やしたことか。でも、頑張っただけあってその出来は満足以上。引っ越すのが惜しいくらい輝いている。
 わたしはこの部屋の全てを目に焼き付けようと、全ての部屋や台所、はてはバスルームやトイレまで見回して歩いてみた。
 不思議だった。今までは意識の片隅にさえ触れることの無かったこの空間が何故か愛しく思えて涙が零れた。その場所を構成する粒子のひとつひとつに思い出が込められているような気がして、胸が苦しくなるほど切なくなった。
 ここには、彼との大切な思い出がある。ありすぎるから…わたしはこの部屋を出て行かなければならない。 あなたから旅立つ為に…



 わたしを抱きしめる彼の腕は、不器用さを感じるくらい強すぎたけど、それでも不思議と悪い気はしなかった。ほんの少しだけど、ずっとこのままでもいいかな…なんて思えたけど、それだと彼の方が疲れちゃうだろうな、なんて思ったりもして…とにかく複雑な気持ちだったことには違いなかった。



 この日、わたしは3年振りくらいに煩った風邪のおかげで朝からずっと寝込んでいた。久しぶりの風邪だった分症状も酷く、汗でびしょぬれになったパジャマさえ着替えられずにいた、そんな時だった。
「…寝てたの?」
 命を懸ける思いで玄関まで移動したのに、そこで待っていた彼はわたしの有り様を見てそれだけを言ってキョトンとしていた。
少し腹が立ったけど、それを表面に出すほどの力も出なかった。ヒョロヒョロと膝を崩してその場にへたり込むと、彼はとっさにわたしのもとに駆け寄り、手を額に当てた。
「熱、あるじゃん」
「…見りゃ…分かるでしょ…」
 彼の肩を借りながらベッドに戻り再び横になると、さっきまで激しい運動をしてきたかのような疲れと脱力感が一斉に訪れる。目を開けていられず、彼が目の前にいるのにも構わず目を閉じた。
 もしわたしが風邪を煩わずに元気だったとしたら、きっと彼をこの部屋に上げなかっただろう。それは、彼のことを男として見ての警戒ではなく、至極シンプルな理由。
 部屋が汚かったから… ベッドの周りには服が脱ぎ散らかしてあったし、テーブルの上は片づけないままにした食器が残っていた。キッチンなんかは3日くらいほったらかしにしていたから、そこはもう世紀末の廃虚状態。絶対に見せなれない、と思っていた矢先…
「おいおい、散らかってんなぁ…」
「…」
 わたしが彼のことを"好き"じゃなければ、たとえ風邪でダウンしていたとしても死ぬ気で起き上がって殴っていただろう。そして一刻も早くこの部屋から追放していた筈。
 薄れそうな意識をなんとか保持しながら、キッチンから聞こえる皿洗いの音を聞いていた。「ずぼらな女だと思ってるだろうな、きっと…」
 食器を洗う音が完全に無くなると、キッチンの方から彼の声が聞こえた。
「他になにかしてほしい事あるか?」
「…なにも…しないで…」
「なんか食べたいものとかは?」
 こういう状況だからこそ、彼の優しい言葉が身に染みた。まるで乾ききった大地に水を撒くように、彼の言葉をもっともっと求めてしまう。だから、もっと言葉が欲しくて意地悪してしまう。
「何も食べたくない」
「そんな訳ないだろ、それに何か食べなきゃ治るものも治らないよ」
 すると、相変わらずキッチンの方からゴソゴソと忙しそうな音が聞こえた。今度は一体何をしてるの?
「このお米、使っていいんだよな?」
「…!?」
 お米…ということは、彼はご飯でも炊こうとしているのか? そう判断すると同時に、わたしは重い体を必死に起こしてキッチンへと向かった。
 ご飯を炊くのだけは何としてでも阻止したい…炊飯器の中には…4日前のご飯が入っている。おりしも梅雨時。きっと中身は程よい日本酒になってる…かもしれない。
 そんなものを彼にだけは見せられない。関節の痛みを必死で堪えながらキッチンへ向かい、今にも炊飯器に伸ばそうとしている彼の手を阻止しようとした。
「…あっ!?」
 意識ばかりが先に行っていたせいで、わたしはうっかりテーブルの足に躓いて彼の正面めがけて倒れこんでしまった。
 彼はそんなわたしを全身で受け止めて、わたしが床に倒れ込まないようにしっかりと支えてくれた。 支えてくれた、というより…抱きしめられた形になっている。
 わたしは少しの間だけ、彼の胸の温かさに浸っていたが、一瞬感じたパジャマの冷たさがわたしを現実に戻してくれた。
「もう、大丈夫…パジャマ、汚いから…放して…いいよ…」
 それでも、彼はわたしを放してくれなかった。それどころか、彼はポツリとわたしに呟いた。「嫌か?」
「…嫌じゃないけど…わたし、汗でびっしょりだし…」
「大丈夫、臭いしないから…」
「そういう問題じゃ…」
 色々言いながらも、わたし自身、彼の胸から離れようとはしなかった。力が出なくて抜け出せないというのもあったけど、もう少し"ここ"にいたいという気持ちもあった。
「…うん…」
 自然とわたしの口から出たのは、何の脈絡のない間抜けな返事だった。いったい何に対して返事をしたのだろう。 案の定、彼はその返事に反応して口を開いた。
「どうした…なんか言ったか?」
「ううん、ちょっと…」
 わたしは恥ずかしくて、無意識に彼の胸に顔を埋めた。そんなわたしの頭を、彼はその大きい手で優しく撫でてくれた。その愛撫が、彼に抱きしめられて硬くなった気持ちや身体を次第に柔らかくしていった。
 すこしリラックスできた時、彼はわたしの頭を撫でながら、すこし遠慮しながらわたしに話し掛けた。
「抱きしめられるの…迷惑か?」
 わたしは3回だけ首を横に振った。
「迷惑なんかじゃないよ…でも…」
「…?」
「できれば…キレイな身体の時に抱きしめてほしいなぁ…なんて…」
「…俺に?」
「うん、あなたに…」
 すると、彼の腕がさっきより強くわたしの身体を抱きしめた。
「俺…ずっと千穂のこと…」
「待って…」
「…?」
「その続きも…キレイな身体の時に聞きたいなぁ…抱きしめてもらいながら…」
「…うん…」
 彼の両腕に強く抱きしめられながら、わたしは何ともいえない幸福感みたいなものに浸っていた。
 両想いだったんだ。
 たまには風邪もひいてみるものだ。


「ごめん、どうしても今日は仕事で…」
 彼が言い訳を言い終わらないうちに、わたしは電話機のコンセントを引抜いた。
 わたしの22回目の誕生日。ずっと前からこの部屋で二人っきりのパーティをしようと決めていたのに、彼は当日になって仕事で来れないと言ってきた。
 彼の気持ちはちゃんと分かってるのに、どうしても素直になれない。そういう自分の子供臭さがすごく嫌で、ますます機嫌が悪くなってしまう。
 まだ封も開けていないワインもそのまま燃えないゴミ用のゴミ箱に投げ、予約していたピザも約束の時間の10分前に無理矢理キャンセルした。
 それでも気分が晴れなくて、結局何も口にすることなく、服を着たままベッドに潜り込んで訳が分からなくなるくらいに泣いてしまった。
 これじゃあ、本当にダダっこ。
 でも、それだけわたしはこの日を楽しみにしていた。どうしても彼と一緒にいたかった。
 わたしの誕生日。
 そして…初めて彼に抱きしめられた日。

 カチャン
 扉が閉まるような音でわたしは目を覚ました。
 昨夜、子供のように号泣したおかげで目が腫れぼったい。目が悪いわけじゃないけど、目を開けた瞬間、周りがあまりにもぼんやりしていて寝ぼけ意識ながらも混乱していた。
 すこし冷静になれた時、ふと左手の指に違和感を感じた。手で探ってみると、薬指に何かが填めてあった。
「…えっ…?」
 薬指を目の前にかざして、初めてそれがなんなのかが分かった。
「…指輪だぁ…」
 素材は分からなかったけど、その指輪は窓から入り込んだ朝日の光によって眩しいくらいにキラキラと光っていた。 そして、枕元には丁寧な字で書かれた置き手紙があった。
「誕生日おめでとう。昨日できなかったパーティは今夜にでも…」
 素っ気ない手紙だった。指輪のことを触れないあたりが彼らしくて、ただの紙切れなのに指輪と同じくらい愛らしく感じた。
「早く…夜になれ!!」
 わたしはその置き手紙を抱きしめながら、ずっとそわそわした一日を過ごしていた。

 でも…彼はこの日の夜、部屋になんて帰ってきてはくれなかった。


 突然の電話は彼の実家からのものだった。
 彼のお母さんの声は、悲しいくらい途切れ途切れで言葉にはなっていなかったけど、それでも何があったのかはわたしにも理解することができた。
 彼は、仕事帰りの道で事故に遇い…死んだのだという。
 わたしは無言でその電話を切り、混乱したまま彼の収容された病院までタクシーを走らせた。
 そして、彼と再会した。
 とても冷たい部屋。お線香の香りと消毒薬の臭いが交じり合う不思議な空間に彼は横たわっていた。
 顔にかけられた布は取られなくても、そこに横たわった息のない男が彼であることはすぐに分かった。髪の長さや顔の形…雰囲気すべてが彼のもの…。
 わたしはその場から後ずさって部屋の壁にぶつかると、そのまま座り込んでしまった。彼の死体を目の前にして、わたしの頭の中に沢山の彼との思い出が流れて止まらなかった。そう、まるで彼自身の思い出がわたしの心の中に乗り移ったかのように。そして、順番をたどるように注ぎ込まれていく。
 そして、寝ているわたしにそっと指輪をはめてくれた彼の姿を想像した時、わたしの目からは止めど無い涙が零れ始めた。
「…帰ってくるって…約束…したのに…」
 彼がわたしについた初めての嘘だった。

「誕生日おめでとう。昨日できなかったパーティは今夜にでも…」

「今夜、パーティするって約束したのに…」
 どんなに叫んでも、その言葉が彼に届くことはなかった。だから、わたしの涙さえどんなことをしても止めることができなかった。
 薬指の指輪が悲しい程に…重かった。


 部屋のひとつひとつの扉を開けるたびに、その向こうから彼の存在が見えるような気がしたけど、やっぱりそこには彼の姿はなかった。
 すこし前までなら、彼のことを考えただけで一晩は軽く泣きつづけることができたけど、今では少し落ち着いてきている。未亡人は人間的に強くなれるって本当なんだな、ってすごく実感した。
 彼との思い出も今は大事な宝物。思い出すことで元気になれるし励みにもなる。
 でも、いつまでも彼にすがって生きているわけにはいかない。 最後の部屋の扉を閉めると、その後がまるで何かを断ち切るかのようにわたしの心に響いてきた。
 そして、一枚一枚扉を閉めていく度に、いままでわたしの心に居座っていたなにかが一つ一つ消えていき、心の中で真新しい時の刻みを意識的に感じるようになっていた。
 彼に初めて抱きしめられたあの日から今日まで…ずっとわたしの心の時は止まっていた。彼をずっと愛していくために…この愛がずっと薄れてしまわないように、ずっと時をとめたままにしていた。

 でも、そろそろいいよね。

 リビングの床に置かれたバッグを抱えて、わたしは玄関へと向かった。
 最後の扉…これを閉めたら全てが終わる。
 でも、わたしに迷いはなかった。
 ドアノブに手をかけてゆっくりと扉をあけると、初夏特有の涼しげな風がわたしの髪を揺らした。
「…」
 ふと、わたしは無意識に部屋の方へと目を向けた。特になにかがあるわけじゃなかったけど、その時、わたしは改めて確認できた。
「…側に…いてくれたんだね…」
 きっと彼の為に泣くのはこれが最後だろう。わたしは涙を拭うことなく、ずっと部屋の中を見詰めながら泣いていた。
「…ずっと…わすれないからね…さようなら…」
 涙は止まらなかったけど、わたしなりの精一杯の笑顔を浮かべて手を振った。すると、この部屋のすべてのものが、まるでわたしのことを祝福してくれているような錯覚を感じて涙が止まらなかった。
「…ありがとう…でも…もう…行くね…」
 わたしは最後まで部屋の中の風景を見届けながら、玄関の重い扉を閉じた。


 わたしを抱きしめる彼の腕は、不器用さを感じるくらい強すぎたけど、それでも不思議と悪い気はしなかった。ほんの少しだけど、ずっとこのままでもいいかな…なんて思えたけど、それだと彼の方が疲れちゃうだろうな、なんて思ったりもして…とにかく複雑な気持ちだったことには違いなかった。


あの時から…ずっと…時計の針は止まったままだったんだね。


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