「とあるバーにて」
著作者:古川 浩樹



 ある秋の夕暮れ、都内の行きつけのバーで、見知らぬ二人の奇妙な会話が僕の耳に入ってきた。このバーは街中のとある雑居ビルの四階にある。車の排気ガスでビル全体の外装が黒くすすけたこの建物には、幾つかのいかがわしい店舗が入ってはいるものの、三階には司法業界では名の知れた親子二代に渡って経営されている弁護士の事務所が、道路に面している窓に案内されているため、一見しただけではそのようないかがわしい店が入っているとはわからない。このバーもまた、全くいかがわしい類いの飲み屋ではないのだが、第一店の看板が出ていないし、入り口のドアは公団住宅でよく見られるような縁が錆びれたクリーム色で、この部屋がバーであることを示すプレートどころか、店なのか会社なのか或いは個人住宅なのかを示す何物もついていないのは、また別の意味でのいかがわしさを端的に示しているように僕には思われた。僕は当時、大学の法学部の四年生で、就職活動でこの弁護士事務所の面接に訪れたのだが、階を一階間違えて四階のこのバーのドアをノックして中に入ったところ、薄ら暗いバーが目の前に現れたことに驚いたことがあったために、ここがバーであることを偶然にも知ることができたのであった。おそらくここに来る他の客も何かの間違いで迷い込んでしまったのだろう。ここの客層はというと、至ってバラエティーに富んでいる。仕事帰りの会社員、OL、金をかけて全身を派手に着飾った風俗嬢、しかめっ面をして考え事にふけっている初老の学者、ぼんやりと窓の外の往来を一杯のバーボンで何時間も眺めつづけている老人、といったところだ。そしてほとんどの客がこのバーには一人で酒を飲みに来る。店内に音楽は全く流れておらず、酔って騒ぐ客もいなく、女性客をナンパする男性客もいない。ただぼんやりしたり考え事をしながら黙々と酒を飲むか、本や雑誌、新聞を読みながら酒を飲むかのいずれかなのだ。バー全体の雰囲気を例えるとするならば、読書喫茶のような静けさに包まれているといったところだ。一人で静かに酒を飲むには最適の場所と言えるであろう。入り口のドアを開けて中に入ると、左手には黒の漆喰で塗られた木目調のカウンターが窓際から十メートル程続いていて、右手にはカウンターと同じ素材でできた3人掛けの丸テーブルが十個置かれている。客はカウンターが空いている時には窓際から順にカウンターに座り、カウンターが一杯の時には一人で座るという具合だ。酒類はウィスキー、ウォッカ、ブランデー、スコッチといった比較的アルコール濃度の高いものしか置いておらず、カクテル、ビールは一切無い。また全席が喫煙席のため、いつもこのバーの中には白い煙がもうもうと立ち込めている始末だ。バーテンダーは二人いて、一人は無表情で身の丈百八十を超える、浅黒く日焼けした、スポーツマン体型のがっちりした白髪の六十前後の老紳士と、もう一人はこちらも無表情で肩までの長髪、色白で身長百六十五前後、二十代後半から三十代前半の青年であった。

 その日の昼間は夏の終わりから秋への移り変わりを示すような多少湿気の多い秋晴れだったのだが、五時過ぎからこの時期の気候の不安定を物語るかのように、幾分長い通り雨が雷を伴って小一時間ほど激しく路面を叩きつけていた。僕は講義の後、この雨が止むのを喫煙所でしばらく煙草を吸いながら待っている間に、ここに来ようとふと思い立って七時頃に到着したのだった。僕がここに着いた時には、丸テーブルの方に一人の老人が静かに酒を飲んでいるばかりで、週末にしては珍しく客の入りが少ないように思えた。僕はカウンターの一番窓際の席に陣取り、外の往来をぼんやりと眺めながら特に何を考えることもなく、ウィスキーを飲みつづけていた。
 その奇妙な二人連れの客は、僕が二杯目のウィスキーを注文してほどなくやって来た。二人共に、この時期にはまだ早すぎる黒の重たそうなフロックコートで全身をすっぽりと包んでいた。一人は素っ気なく痩せた身長百八十くらいの長身の男で、年齢は二十代の半ば頃、上を黒のカットソーのニット、下も黒のリネンのパンツで全身黒ずくめにしているためなのかもしれないが、表情にはどことなく影のようなもの垣間見えた。だが、時折考え込む時の口の右端を歪める仕草には、知性を感じさせることもないでもなかった。一方もう一人の男は年齢は二十代前半、身長は百七十と、先の男に比べると小柄な印象を受けるが、オレンジ色のハイネックのセーターにベージュの麻パンツで、よく日焼けした顔は人なつっこい笑顔を常に浮かべていた。陸上の長距離やトライアスロンを趣味にしていそうな壮健な男で、かんざくような笑い声がしばしば店内に響き渡った。僕は二人の会話から前者が「頑なな頭」、後者が「軽やかな足」という、奇妙なあだ名で互いに呼び合っているのを聞いた。二人は店に来て最初はごく普通に一通りの冗談や世間話を楽しんでいたのだが、段々と話の内容が変化するにつれて、僕は二人に注目せざるをえなくなっていった。そして軽やかな足が最初の口火を切ると、二人の周りの空気だけでなく、店内の雰囲気そのものががらりと変わってしまったかのように僕には思われた。
「頭で考えるな!」と軽やかな足が怒鳴った。「何故お前はそんなに頑ななんだ?」すると頑なな頭が静かにこう答えた。
「それは僕のせいじゃない。考えても見たまえ。君がそのように軽やかでいられるのは僕の神経のおかげなのだ。僕がいなければ君は軽やかどころか、歩くことさえ不可能に違いない。そんな僕に向かってそう頭ごなしに怒鳴りつけるのは一体どういう了見なんだい?それに僕は好きで―君の言い方に従っていうならば―頑なな訳ではないのだ。それは不健康な心臓のせいだ。彼はあまり僕の方に酸素を送ってよこすことができないから、僕としても実に不本意ではあるが、このように君に非難される羽目になってしまうのだ」軽やかな足は頑なな頭の、先程とはうって変わった静かではあるが強い意志が込められた語気に、最初は少し驚いた様子を見せたものの、彼が話し終わるや否や、目の前のジンを一気にあおってからこう反論した。
「神経のことなど俺にはわからない。じゃあお前は自分のことを棚に上げて、全てを不健康な心臓のせいにするとでも言うのか?誓って言うが俺はお前なしでも歩いてみせるさ。俺は風のように思いのままに跳ね回り、舞い落ちる木の葉のように優雅なステップを踏み続け、尽きることなく燃え続ける炎のような情熱をもって踊り続ける!そうすればお前も疲れて少しは眠れるだろう。そして目が覚めた時には頭の頑なさも幾分かは軽くなれるんじゃないのか?」頑なな頭は軽やかな足の一言一言を吟味するかのように、彼の方には一切目もくれず慎重に相鎚を打ちながら耳を傾けているのだった。頑なな頭は出されたグラスには口もつけず、ただ目の前のグラスの縁を二回ばかり人指し指で撫ぜて、軽く頷きながらこう言った。
「確かに君の言う通りだ。君が無邪気に、そして軽やかにあちこち歩き回ってくれれば、夜には快い眠りが僕をその深淵に導いてくれるだろう。そして柔らかな朝日に気持ちよく目を覚まし、一日の始まりを心から喜んで迎え入れることができるだろう。しかし、僕の朝の安らぎはそう長くは続くまい。昼にはその快さもすっかり消え失せ、夕方にはまたあの暗がりと共に、憂鬱が音を立てて僕に忍び寄ってくるのだ。君だってそう毎日歩き回る訳にはいくまい?いつの日かはたと、痛めた足を休ませねばなるまい?そんな時に僕はどうすればいい?君が再び歩き出すまでこの不安を押さえ込みながら、僕はただじっと君の歩みを待たなければならない!」頑なな頭はつもりつもった自分の不安を一挙にこの場で酒の力を借りずにそう吐露するなり、下を向いて黙りこくってしまった。
 僕は二人の会話を聞くともなしに聞き、見るともなしにさりげなくちらちら横目で見るのだった。二人の会話は僕にとって奇妙に、いやかなり気味悪くすら思ったのだが、ほぼ満席になった店内の客はというと、僕の見た限りでは何の関心も払っていないように見えた。それとも、他の客も関心はあるのだが、僕などの想像もつかないほどに人の会話を盗み聞きし、二人を垣間見る能力に長けているのだろうか?そんな僕の動揺を読み取ったのだろう、老バーテンダーがグラスを丹念に磨きながら、軽く僕に向かってウィンクをしてきた。まあ少し落ち着けよという意味の、まるで小学校の先生が生徒をいさめる時のような、愛情み溢れるウィンクだった。僕は恥ずかしさのあまり顔が赤くなるのを感じながら、ウォッカを注文した。これで幾分かは平静さを取り戻すと同時に、強い酒を飲むことによって顔の赤みをごまかせるかもしれない、と考えた。
 軽やかな足は頑なな頭の話を最初のうちこそ聞いていたが、途中で彼の話にうんざりしたように天井を見上げて、煙草の煙を吹き上げたりするのだった。
「おれにはさっぱりわからん。何故そう深刻にならなきゃいけないんだ?何故そう悲観的なことばかり思いつくんだ?」
 そこまで軽やかな足が喋ったところで、彼はドアを開けて入ってきた客の方を向き、手を上げた。彼の動作に気づいた頑なな頭も顔を上げ、その客が二人のテーブルの前まで来たときに、ニコリともせずにただ「やあ、遅かったね」と力なく言った。
 新たな客も又、他の二人とおそろいの重たそうなフロックコートを着ていた。だが彼は三人の中で一番顔色が悪く、青白い肌の首筋には血管がありありと浮き出ているのだった。あごひげを生やしたこの男は三十代前後といったところで、この三人の中では一番年輩のように見うけられた。そして彼だけが黒に微かな白のストライプが入ったスーツを着ていた。ドアからテーブルに歩いてくる時も彼は微かに息を乱し、額にはうっすらと汗すら滲み出ていて、彼はコートを脱ぐより先に、ポケットからハンカチを取り出して一滴も拭き残さんばかりに几帳面に顔を拭った。彼が先程この二人の間の話に上がった、不健康な心臓なんだろうと僕は思った。
「遅くなってすまない」と新たな客は心ゆくまで汗を拭き取った後に、コートを脱いでハンガーに吊るしてから、詫びを言った。
「今日も検査だったのか?」と軽やかな足は聞いた。「ちょうどおまえの話も出てたところだ。で、検査の結果はどうだった?」
「なに、大した事はないさ。良くも悪くもなっていない。多分、生涯このままの症状で定期的な検査のみということになるだろう。出来ればそうあって欲しいものだね。日常生活には何ら支障がある訳でもないのだから。それはそうと、僕の話題ってどんな話だい?」と彼は隙間無くびっしりと生え揃った硬そうなあごひげをしゃくりながら尋ねた。
「なに、この頑なな頭がね、自分の頭の鈍重さを不健康な心臓のせいだと言うんだよ。あまり酸素が自分の方に回ってこないからだってさ。ちょっとひどい話だと思わないかい?」
「なあ、」と不健康な心臓は同情とも自責ともとれる眼差しでもって、頑なな頭の方に体ごと向き直って聞いた。「本当に君は僕のことをそう思っているのかい?」
 その問いに頑なな頭は答えようとせず、未だ口のつけていない自分のグラスをただじっと見つめるだけだった。それを見ていた軽やかな足はさらにたしなめるように口を開きかけたのが、不健康な心臓は手で静止し、頑なな頭に優しく諭すようにこう話した。
「君がそう思い込み僕を責め立てるのも無理はない。僕は確かに他の正常な心臓よりも心拍数が早いし、心電図にも大きな乱れがあるからね。君も僕の症状について詳しいことは知らないまでも、僕と君とは一心同体だから、自ずと僕の異変を感じ取ることができると思う。だけどね、さっきも話したように、僕の病状は日常生活をごく普通に送る上では何ら問題のないものなんだ。手術をする必要もなければ、毎日薬を飲む必要すらない。言ってみれば病気ですらないんだよ。確かに僕も若い頃は色々と無茶をした。酒、女、煙草、クスリ、夜更かしなんて毎日だったしね。君に多大な迷惑をかけたことは僕も十分に反省している。だけど今はそれら一切を止めているし、肉を食べずに無農薬の菜食生活も送っている。どうだろう?君にはぜひわかって欲しい。僕は何よりも君の事を第一に考えて自分を改め、正しい生活をしているということを。どうかな?」そう言った後に不健康な心臓は老バーテンダーの方を振り返ってちらと見た。老バーテンダーは彼に向かって軽く頷き、ミルクを一杯持ってやって来た。どうやらそのミルクが、不健康な心臓がいつも注文する飲み物なのだろう。とすると彼は強いアルコール度数の酒しか出さないこのバーでは特別中の特別の客であるに違いない、と僕は思った。彼はミルクのボトルをキープ出来るのだろうか?出来るとすれば、どのような関係性がこのバーとの間には必要なのだろうか?恐らく金ではないだろう。バーテンダーの酒を作る時の真剣で緊張に満ちた眼差し、アイスピックで氷を砕く時の無駄のない滑らかな動作、入念にグラスを磨く時のグラスそのものへの思い入れなどを見ていると、バーテンダーとしての格式やプライド、絶対に譲れない何らかの基準があって、各々それらを厳格に遂行し、自ら満足いくものでないと客には絶対に出さないといった雰囲気をこの二人から感じていたからだ。このような店では、客がバーを選ぶというのではなく、逆にバーが客を選ぶといった現象が強く現れてくることになる。このバーの持つ雰囲気を壊さない客のみが、このバーで酒を飲み煙草をふかす許しを得ることが出来るのだ。だから雰囲気の合わない、例えばナンパを目当てにバーにたむろするような人々はまずドアを開けて中を覗き込み、話し声一つしない静まり返った空間を目の当たりにするや否や、そそくさと後ろ手にそうっとドアを閉めて、一目散に退散してしまうことだろう。ここの常連となるにはまず、自分自身をこの空間に溶け込ませる努力が苦にならない性格の持ち主でなければならないのだ。僕はというと、このバーでは最も若い客の一人ではあるのだが、別段なんの気苦労もなくこの雰囲気に溶け込むことが出来たようには思うが、不健康な心臓のように、ミルクを注文することが出来ないということは自分でもよくわかっていた。別に僕はアルコールが飲めない訳でもないし、飲まないと決めている訳でもないからだ。面白がって彼の真似をしてみることは明らかにこのバーの雰囲気を壊してしまうことになり、そんな事をすれば僕はこのバーには二度とくることが出来ないのではないかという予感すらあった。
 頑なな頭は不健康な心臓の話を熱心に聞き入っていた。軽やかな足は話の間に、さらに強いウォッカ一杯と煙草二本を費やし、彼の話には全くといってもいい程、なんの関心も払っていなかった。頑なな頭はそんな軽やかな足の態度をちらと一瞥してから、目の前のウィスキーをこのバーに来てから初めて、舐める程度に口をつけてこう話し出した。
「僕はね、最近同じ夢を何度も見るんだよ」
 そう言うと軽やかな足は頭を上げ、怪訝そう目で頑なな頭の方を見た。不健康な心臓はミルクを飲もうとグラスを口に持っていくのを止め、静かにグラスをテーブルの上に戻した。そんな二人の仕草を頑なな頭は眺め、一人ずつ目を合わせて無言の内にこのまま話を続ける強い意志を示しているかのようだった。彼の強い眼差しに促されるかのように、他の二人はじっと彼の次の言葉を待たざるをえなかった。
「それがね、実に奇妙な夢なんだ。気が付くと、いや、気が付くとっていう言い方は妥当じゃないかもしれないね。つまり夢の中で僕は見知らぬ森の中をただひたすらに歩いている所から始まるんだ。だから気が付くとって言い方をしたんだけどね。この森ってのが実に不思議な雰囲気のある森なんだ。僕はハイキングなんか行ったことないけど、テレビなんかでよく見るような感じの森じゃないんだ。虫の鳴き声や鳥の鳴き声、動物の気配、いや生命そのものが全く存在しないかのような森なんだ。それどころか辺りに生えている樹々ですらもう何十年何百年も前にその生命としての活動を停止してしまって、大昔からこの高さでただ立っているような感じなんだ。そして僕の周りには五メートル先すら見通せない濃い霧がどこからともなく漂っていて、僕の視界を妨げている。まるでおとぎ話か神話にでも出てきそうな深い森の中を僕はただひたすらに歩いているんだけど、何故か、自分の歩いている方向が正しいという確信があるんだ。辺りは日中で、太陽が暑くもなく寒くもない温度を提供してくれている。霧が濃いにも関わらず、湿度は全くじめじめしていなくて髪が濡れてしまうようなこともない。そんな濃い霧に包まれた深い森の中を、僕は迷いもせずに延々と歩き続けていくんだ」そこまで話すと、頑なな頭はウィスキーを先程よりはいくらか豪快に、喉を鳴らして飲むのだった。彼の様子を他の二人は真剣に注視し、次の彼の言葉を聞き漏らすまいと、自分達のグラスには手も触れずに、ただじっと彼が一息つき終わるのを待つばかりだった。ほどなく、頑なな頭は先を続けた。
「そんなふうにして三十分くらい歩くと突然、目の前に泉が現れるんだ。森の樹々が段々と少なくなっていって、前方に泉が見えてくるというんじゃなくて、まるでネス湖から突然ネッシーが現れるかのように、気がついたら泉が目の前に広がっているんだ。まるで、森を歩いている夢が、他の夢に切り替わったみたいにさ。泉の上にもさっきの森の中程の濃さじゃないんだけど、薄く霧がかかっているんだ。何とか対岸までは見渡せて大体向こう岸まで百メートルってとこかな?そして森と同様に泉もしんと静まり返っている。泉は僕が知っている限りのどんな川や湖や海よりも透き通っていてはいるんだけど、底が見えないくらいに深くて、水面を飛び跳ねる魚もいなければ、水中にもそれらしい生物は見あたらない。森の端から五メートルくらいが土になっていて、その部分には雑草一つなければ、小石一つ転がっていないんだ。それで僕は逆に、森とは違ってこの泉には何かしら人工的なものを感じたんだ。だって考えてもみなよ。全く人が立ち入ったことがない自然なら、森の樹々は泉の水際まで生い茂っているのが普通じゃない?それなのに、草や石が全くない露出した土だけの部分があるのは明らかに、誰かがそこの部分を手入れしたことになるよ。僕はそのほぼ円形の泉の周りを丁寧に歩いて確かめたんだ。土は湿っていたから足跡でも見つけられるんじゃないかと思ったんだけど、不思議なことに足跡はおろか足跡を消した後も、ここに誰かが立ち入った形跡すら見つけることは出来なかったよ。全く神秘的な泉だったな。泉に何か放り込めば妖精が出てきて、『今あなたが落としたのは金の斧ですか?銀の斧ですか?』とでも尋ねるんじゃないかってぐらいに。でも辺りには投げ込めるような物は落ちていなかったし、僕自身も何も持ち合わせていなかったからね。でも、何か持っていたとしても多分そうしなかった思う。この泉が出来て以来、何百年何千年と水面に波紋一つ起きたことがないんじゃないかっていう、どこかしら張り詰めた静けさがあって、それを壊すことが怖かったんだと思う。そこで僕は腰を下ろしてしばらくの間水面をぼんやりと眺めていたんだ。どのくらいかな?夢の中だからね。あまり時間の感覚がなかったんだけど、三十分は経っていなかったと思う。ちょっと泉から目を離してまた視線を泉の方に戻したら、泉の上に人が立っていたんだ。いや、正確に言うと、水面から三十センチくらいのところで空中に浮いていたんだ。身長は百九十センチぐらいの長身で、エメラルドグリーンの長い髪と目をした白人、顔立ちは整いすぎるくらい整っていて年は二十代頃、中性的な顔立ちだから、男か女かはわからなかったよ。格好は中世の騎士のような銀色の鎧を身にまとまっていて、右手には剣を持っていた。そしてそのきれいな顔の右頬と鎧一面、そしれ剣先からは血が滴っていたんで、僕は少し怖くなったんだ。いや、僕も殺されるんじゃないかと思ったからさ。でもそうじゃなかった。その人はこの泉のように透き通るような澄んだ目を優しげにちょっと細めて、僕に笑いかけながら口を開いたんだ。でも何を言っているのかはわからなかった。聞き取れないほど声が小さかったっていうんじゃないと思う。辺りは本当に物音一つしない静寂に満ちていらからね。多分この夢の中では音そのものが存在しなかったんだと思うよ。そういえば、森の中の草むらを掻き分けながら歩いている時も、葉ずれの音が全く聞こえないんだけど、その人の目を見ているうちに心の中に言葉がこだましてくるような気がしてきて、今じゃもう確信しているんだ。何て言っているのかをね。たった一言なんだけど、『まだこんな所に居たのか?』って言ってるんだ。他には何も言わないからどういう意味で言っているのかはわからない。ただ、子供が親に『何で雲は白いの?』って聞いて、親が『それはね・・』って優しく教えてあげる時のような口調だから、叱っている訳ではないんだ。『ほら、早く帰りなさい』っていう意味にもとれるし、『ぐずぐずしないで、早いところ行ったらどうだい?』っていう意味にもとれるんだけど、どこか具体的な土地を指している訳じゃない。でも、その泉に僕が居るのが間違っていることなんだというのはわかる。何故ここに居ては駄目なのかっていう理由はわからないけどね。だからといって、ここにいつまでも腰を下ろして泉をぼんやりと眺めていたってどこに行ける訳でもないからね。とにかく僕はどこかに向かわなければならないんだよ。その人は一言言った後、すーっと足元から、まるで泉の上を漂っている霧の一部に溶け込んでしまうように消えてしまうんだけど、僕は尚もその場にしゃがみこんでいる。そしてすくっととりあえず立ち上がって尻の土を、決心をこめて勢いよく叩き落しては見るんだけど、どこかに向かうかは全く空白のままなんだ。そして手についた土をこすり合わせて落としながら辺りを見回してはみるんだけど、映画のように今まで気がつかなかった光に包まれた一本の道がそう都合よく僕に与えられている訳でもなく、泉と今まで通り僕を取り囲んでいる森の樹々があるばかりさ。そして僕は途方に暮れる。僕はどこに向かえばいいのだろう?どこかに向かったとして、その辿り着いた場所は果たして、僕にとって良い所なのか、悪いところなのか、どうでもいい所なのか?そこに至る道筋は険しい道なのか、平穏な道なのか?時間はどのくらいかかるのだろう?森の木の実は安全なのだろうか、毒なのだろうか?いや、果たしてあの人の言っていた通り、そもそも僕はどこかに向かうべき人間なのだろうか?どこかに向かうべきだとして、僕は向かうことを許された人間なのだろうか?本当はここに留まっていなければならないのではないだろうか?どこかに向かうことを薦めるあの人は善意の人なのだろうか?悪意の人なのだろうか?それともただ単にいたずらな人なのだろうか?・・・そんな考えがあの人が消えてしまった後に一気に頭の中にこだまして、どの問いにも結局答えを見出せずに目が覚めるんだ。そしてベッドの中で頭を抱えながら、今夜もどこにも行くことが出来なかったと後悔のうちに一日が始まってしまう。君達はどう思う?僕はこの夢の中でどこに向かえばいいのだろう?」と頑なな頭は一息に喋ってから二人の顔を、順にゆっくりと見つめた。彼の濡れた強い眼差しに軽やかな足はすぐに視線をコップの方にそらし、不健康な心臓は考え込むふりを装って、あごひげをしゃくりながら天井の方を眺めたりするのだった。そして、まず軽やかな足がこう答えた。
「悪いがおれにはさっぱりわからん。お前の夢の話がなんでいきなり出てくるんだ?確かにこれといって何かについて話していた訳じゃないが、だからといって何でそんな訳の分からない夢について答えを知りたがるんだ?たとえ、その答えを知ったところでお前自身の体調が良くなるとはおれには思えない。第一お前自身が自分の夢についてはっきりとしたことがわからないことが多すぎるのに、どうやっておれ達が答えることが出来る?それに夢はあくまで夢でしかない。現実の出来事じゃないんだ。そんなことで夜もおちおち眠れないってなら、そんな夢のことなぞ忘れてもっと現実に目を向けろとおれは言いたいね」
「基本的には」と不健康な心臓が軽やかな足の言葉の後に続けざまに喋り始めた。「軽やかな足と同じ考えだ。どうやら君の体調不良や頭の不鮮明さといった諸々の事は、君が毎晩見るという夢にあれこれ思いを巡らせ過ぎているからのように思われる。確かに世間一般の人だって、夜見た夢についての意味を考えることだってそう稀なことではない。誰かに追いかけられたり、あるいは殺されるような夢だったら目覚めは悪いものだし、何であんな夢を見なくちゃいけないのかと人に話して見たり、夢について書かれた本を読んでみたりもするだろう。だけどそれはせいぜい一時のことなんだ。世間の人々は皆、社会人だったり学生だったり主婦だったりして、それぞれの日常生活というものがあるんだ。いずれは各々の日常生活に戻って夢の事なんか跡形もなく忘れるか、ただの夢としてその意味を追求するのを止めてしまう。失礼だが君はこれといって決まった職を持っている訳でも、学生である訳でもない。それどころか軽やかな足のように何かに熱中できる趣味を持っている訳でもない。だから夢についてあれこれと思いを巡らす余裕ができて、四六時中夢が頭から離れない状況に陥ってしまうんだよ。まず君はそこのところを理解して欲しい。厳しい言い方になってしまったのは謝るけどね」
 二人の意見を聞いていた頑なな頭は、最初のうちこそ熱心に答えを期待して耳を傾けていたものの、次第にしきりに首を横に振り、不健康な心臓が話し終わるや否や、全てを否定するかのように大きなため息をつきながら、頭を抱えて大きく二度、首を横に振った。
「そうじゃないんだ。僕が聞きたいのはそんな現実論でもましてや説教でもない。君達は僕の質問には何一つ答えてはいない。それどころか答えようとする意思すらないみたいだ。僕が聞きたいのはただ、夢についての解釈だけなんだ。例えば何故、僕は同じ夢を何度も見なければならないのか?この疑問については、夢について大した知識がない僕でも、こう答えることができると思う。さっき不健康な心臓が言った通り、僕が夢についてあれこれ考えて常に頭から離れないからその考えの断片が夜、具体的に夢となって現れ出てくるんだ。でもだからといって同じ夢であるとは限らない。同じ夢を見るというのはそう頻繁に起こることじゃないからね。それも一度や二度じゃないし。別の夢であってのいいのに同じ夢ばかり見るのは何故か?この疑問にはこう答えることができると思う。僕がこの夢をもう一度見たいという願望が無意識のうちに頭のどこかにあるために、毎晩同じ夢を見る羽目になる訳だ。では何故、僕は毎晩同じ夢を見たいと思っているのだろうか?この疑問にはこう答えることができると思う。この夢で僕はこれからの道しるべを得ることができると確信しているからだ。では何故、僕はこの夢において何らかの道しるべを得ることができると考えているのだろうか?この疑問にはこう答えることができると思う。まず最初の場面で僕は見たことのない森をさまよっている。これは現在の僕の心の迷いを示しているように思えるんだ。それが具体的に夢の中でしばらくの間、森の中をさまようという場面を作り出しているんだ。しかしながら、僕はこの夢の中ではある確信のようなものをもってずんずん歩いて行く。今進んでいる方向が間違っていないってね。この場面は現在の状態ではない。何故なら現実において、僕は何ら確信のようなものを持って、具体的な行動を行っている訳ではないからね。多分ここからが僕の未来の状態ということになるんだと思う。でもこの確信は一体どこから現れるのだろうか?この疑問についてはこう答えることができると思う。一つは僕が今までの人生から得てきた知識から、最適と思われる道を自動的に選び出し、それが確信となって一本の道なき道を進ませている、いわば習性のようなもの。もう一つはそれらの知識と、今後僕がどこに向かいたいのかという欲求とリンクして、それが確信となり僕に歩かせているといういわば願望のようなもの。だって、別にこの夢の中で僕は必ずしもどこかに向かって森の中を歩き出さなければならないということはないんだから。それは別の人が僕と同じ夢を見たとしたら、その人が歩んできた人生も欲求も違うわけだから、僕と同じ行動をとるとは限らない。僕は泉に辿り着くんだけど、人家や国道や海に辿り着く人だっているかもしれないし、そのまま歩き出すことなくその場でしゃがみこんでぼんやりしている人だっているかもしれない。では何故僕は人家や国道や海じゃなくて、いつも泉に辿り着くのだろうか?この疑問にはこう答えることができると思う。一つはさっきの答えと同じになるんだけど、僕が今まで辿ってきた人生において、「泉」という風景が強く印象づけられているために、いつも背景は泉になってしまうから。もし印象づけられた風景が人家や国道や海であったならば、何も泉でなくても構わないんだ。もう一つは背景に原因があるのではなくて、人に原因があること。泉に出てくる長身の人が僕の人生の中で強く印象づけられていれば、自ずとその人が毎晩僕の夢に現れることになる。もし印象づけられた人がバーテンダーだったり、学校の先生だったり、犬だったなら、長身の人でなくても構わないということになるだろう。まあ、色々な可能性は他にはあるわけだけれど、結果的には森と泉と長身の人の三つがキーワードになっていることには間違いない。それが僕の夢の全てさ。奇妙な組み合わせではあるけれどね。では最後の大きな疑問。長身の人が毎回必ず言う、『まだこんなところにいたのか?』とはどういう意味なのだろうか?僕はこの疑問を二人に聞きたかったんだけどね。この疑問には幾つもの答えが考えられると思う。まず、あの人が僕にとって味方である場合と敵である場合の二つに分けて考えてみたいと思う。最初にあの人が敵である場合。これは最も考えやすいことさ。何故ならあの人が敵で、僕を陥れようとしてあの世界を作りだし、僕に作り笑いをしながら『どこかに行け』と言っていると決めつけているとしたならば、僕はあの夢そのものを頭から無視すればいいのだから。無視するということは、もうそれ以上あの夢のことをすっかり忘れてしまって考えないっていうことだから、これ以上に楽なことはないね。そうすれば君達も望むように、僕は健康を取り戻すことができるだろう。となると、僕が今まで考えてきたことは全て僕の妄想か、あの人が僕がそのような考え方をするように仕向けたか、或いは僕があの夢ならこんな考え方をするだろという予測のもとに、あの世界を作りあげたということになる。つまり、例えば森の中でさまようという現象は、僕の心の迷いを気づかせるためにわざと森の中をさまよわせているということになるね。それも一度じゃ気づかないだろうから、ご丁寧に何度も同じ夢を見せて同じように森の中をさまよわせよう、と考えてのことなのかもしれない。そして泉に誘い込んでおいて、どこか具体的な場所は僕自身に考えるように仕向ける。ひょっとしたら森の中や泉の辺りに何かしらのヒントが隠されているのかもしれないけどね。或いは現実の世界で、デ・ジャ・ヴュを見せようといているのかもしれない。ここはいつか来たことがあるんじゃないだろうか?と僕はふと足を止めて風景を見つめ、しばしの間考える。そうだ、ここはあの夢と同じ風景ではないだろうか?とすると、ここに僕が何処かへ向かうヒントが隠されているに違いないってね。で、僕は何かしらの手段を見つけてそこに行って破滅する手筈になっているんだ。逆にあの人が味方だった場合にも同じ考え方ができる。僕がどこに向かうかをデ・ジャ・ヴュによって示して、僕がそこに辿り着いた時には破滅じゃなくて、素晴らしいことが待ち受けているという話だけどね。となると、あの森も泉も長身の人も、全て何かのヒントになっていると言えるかもしれない。そこで今度はあの人が味方の場合について考えてみると、これは本当に様々な考え方ができると思うんだ。まず、僕が夢の冒頭で森の中にいる場面はさっきも言ったように、僕が現実の世界であれこれと悩んでいるために森の中で行き先もわからずに登場するとも言えるし、あるいは長身の人が僕が現実の世界で迷っていることを再認識させようという良心がそこに働いているとも言える。僕はまず現状を把握しなければならないとね。でもさっきも話したけど、森の中を歩いている時はある確信のようなものがあったから、本質的には森の中を迷っていたという訳じゃないことになる。確信を持って歩いている場面は現在の状態ではなくて、未来を暗示しているかもしれないともさっき言ったように、まとめると森の中の出来事は二つの状態を示している。森の中でさまよう現在の状態と、さまよいつつも何かしらの道を見出して進んでいく未来の状態。現実において、この未来の状態はさほど遠い未来ではないと思うんだ。いや、ひょっとすると今の僕は既に未来の状態にあると言うことができるかもしれない。だって夢の中でもそうじゃないか。迷いつつも確実に、しかもいつのまにか突然、目的地に辿り着いている訳だからね。僕も今は迷っているかもしれないけど、どこかに向かっているのかもしれないからね。そして泉に辿り着く。しかし、ここが僕の最終目的地ではないんだ。何故ならあの人を味方と考えるなら、あの人の言葉も好意であり、進言となるわけだから、『まだこんな所に居たのか?』という言葉は泉が単なる通過点に過ぎないことを教えてくれていることになるからね。でもあの人は一言言っただけで、僕をせっかちに追い立てる訳ではないから、一時の休息の場でもあるんだ。僕が腰を上げて再び歩き出すのを静かに見守ってくれている。あの人が一言教えてくれなかったら、僕は多分あの泉のほとりに腰掛けたままぼんやりとしていただろうからね。・・・とまあ、話は長くなったけど、僕がこの夢について考えているのはこんな所なんだ」と頑なな頭は長い話を喋り終えた後に、喉の渇きを一気に癒すかのように自分のグラスの残りの酒を、スルリと滑らかに飲み干した。軽やかな足と不健康な心臓のグラスにはまだ半分以上の残りがあったが、二人ともそもそもの初めからテーブルの上に何かが存在しているのを忘れているかのように、頑なな頭の話に聞き入っていた。二人のグラスの中の全く微動だにしない液体は、二人が集中して頑なな頭の話に聞き入る心の状態を示しているかのようでもあり、また頑なな頭の話す泉の鮮烈なイメージが想像の範囲から漏れ出て、静かな現実となったかのようでもあった。二人は頑なな頭の話すイメージにすっかり包まれて明らかに自分を見失っていたために、ただ黙って彼の話を聞いているのが精一杯だったが、不健康な心臓がやっとの思いで何かを語ろうとした。しかし、自分の声に違和感を感じて言葉に詰まってしまった。彼は軽く咳払いをするふりをしながら自分の声を取り戻し、ようやく喋ることができた。
「・・・うん・・・。君がそこまで考えているのなら、それらの中のどれかが真実ということになると思うんだけど・・」
「でもね、」と頑なな頭は答えながら自分のコートを取り、立ち上がった。頑なな頭の動作に我に返ったように、軽やかな足と不健康な心臓も残っていたグラスを一息に飲み干してから、各々のコートを着て立ち上がった。どうやら、これで三人とも帰るようだった。
「僕が今まで言ったのは、あくまで何の根拠もない想像に過ぎないんだ。色々な答えの可能性ではあるけれど、決定的な結論は何一つない。そもそもあの夢の始まりだってそうさ。森だろうと川の土手だろうと、並木道だろうとなんだってよかったのかもしれない。あの人にとっては自分が現れる泉が重要なのであって、森については何の関心もないのかもしれない。森の樹々が何百年何千年も成長していないように見えたり、生物らしきものが存在していないのは、森がこの夢の中でさして取るに足らないものだから、それらを省略してしまったとも言えるからね。突然気がついたら、泉の前に僕が現れても構わないんだ。でもこれは泉も同じで、何もあの人が泉に現れる必要もないんだ。駅のホームでも喫茶店でも、銭湯でも構わないんだ。もっと言うと、あの人が他の誰かの使いで来ているとしたら、別にあの人が現れる必要もないんだ。他の人や犬や、テープレコーダーでも構わないんだ。そして何も僕が登場する必要もないとも言える。僕自身、この夢についての納得できる説明を捜し求めてはいるけど、何一つ答えは見つかってはいない。ただ単に、考え方の種類を増やしているに過ぎないんだ」
 そして三人はバーを後にした。三人は誰一人として勘定を払わず、カウンターに向かって不健康な心臓が軽く会釈をして、老バーテンダーがグラスを磨く手を休めずに、その会釈に頷いて見せただけだった。
 僕は三人が消えていったドアをしばらく見ていたが首を振り、ポケットから煙草を出して火をつけようとした。しかし、考えてみれば僕は今日ここに来てからは一本も吸わずにいたので、思い直して煙草を吸うのを止めた。
 改めて店内を見回してみると、僕の他に客は一人も見当たらなかった。僕は時間をあまり気にしない性格なので、普段から腕時計を身につけていないのだが、今日はやけに時間が気になって辺りを見回してみたが、このバーには時計はなく、バーテンダーの手首にも腕時計は見当たらなかった。全くもって時間の感覚が失われていたが、幸いにも僕の住むアパートはここから三十分程歩いた隣町なので、終電の時間を気にする必要はなかった。でも僕は一刻も早く外の風に当たりたかったので、のろのろとスツールから身をずらしながら、カウンターに飲み代を置いて外に出た。外の街並みは既に雨も止んでおり、週末ということもあってか、人混みでごったがえしていたが、あのバーの非現実的な空間から僕の慣れ親しんでいる現実の世界に無事に戻ってきたような気がして、なんだかほっとした気分になった。僕は目を閉じて大きく深呼吸をしてから、自分のアパートへと向かった。向かっている途中ふと、あのバーは何時から営業しているのか、また何時まで開いてるのだろうか、と思った。

 この日を最後に私は一年近くもの間、このバーに来ることがなかった。特に来ない理由があった訳ではない。ただ単に足が遠のいてしまったのだ。それでもあの日のことはまるで昨日のことのように、鮮明に私は記憶していて時折、足を運ぼうと思うこともあったのだが、そんな日に限っていつも急用が入ってしまい、一年も経ってしまったのである。私は都内の司法書士事務所に就職し、毎日を多忙な業務に追い回されていた。まだ司法書士の免許は取得していないため、見習いとしてあちこちの法律事務所から依頼を受けた裁判所への提出書類を法律事務所や、時には直接裁判所へと提出する雑務が主な仕事で、夜帰宅すると試験勉強をする忙しい毎日を送っていた。ある日私は上司から家族裁判所に提出する書類を、ある法律事務所に届けるように言われて身震いした。その法律事務所はあのバーのビルディングの三階にある法律事務所だったからだ。私は書類を抱えて飛んで行き、担当者に早々書類を渡して受領書を受け取るや否や、階段を駆け上がってバーの扉を押し開けた。しかし、目の前に広がった光景は何もない空室だった。私はしばらく呆然としたが、すぐにドアの外に出て階段が四階であることを確かめた。この階には他に部屋がないので間違えようもないし、一年前の私は週末になると足しげくこのバーへの階段を上がって、「4F」と書かれた標示板を確かめながらこのドアを押し開けていたので、階段を間違えるはずもなかった。私は今一度自分の目で確かめるように、ドアをゆっくりと押し開けて中に入ったが、結果は同じであった。クリーム色の壁紙がところどころ剥がれ落ちて垂れ下がり、ドアからニ、三歩入った左手の壁からは剥き出しになった電話線が一本、どこからかようやく這い出て来て息耐えたムカデのように無造作に置かれていた。窓からは西日が差し込んでいて、部屋全体と私の影を寂しげに照らし出していた。私は窓に近づき外の往来を眺めてみたが、それはまぎれもなく一年前にカウンターで酒を飲みながら見た覚えのある風景でもあるようだし、全く見たことのない違和感のある眺めでもあるように思われた。私はやり切れない思いを抱えながらのろのろと部屋を後にし、先程の法律事務所に戻って、確か四階にはバーがあったはずなのですが、と尋ねてみた。
「この上の階にですか?」と戸口付近に座っている若者は、首をかしげながら奥に座っている年輩の者たちに聞いた。「四階に飲み屋があるんですか?」
 一同はしきりに首をかしげて顔を見合わせ、そんなバーがあることを知らないふうだった。その中の一人が答えた。
「いえ、四階はもう四、五年前からずっと空き部屋ですよ。以前は商事会社が入ってましたが倒産しましてね。一度取引があったので覚えてるんですが。その後は何もはいってないはずです」
 私は礼を言って通りに出た。しかし、依然としてどうにもしがたいやり切れなさばかりが、私の頭に去来していた。私はまたここに来る度に、四階のあのドアを開けて中を確認することだろう。それは今のこのやり切れない思いが、安堵のため息に変わるまで繰り返し行われるに違いない、と私は思いながら帰路に着いた。


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