「しあわせ」
著作者:エム・ケイ
六畳一間のぼろアパート。開けるときにがたがたと鳴る窓の横に鏡台がある。その鏡台の後ろ、光が差し込まない暗がりに、忘れさられた水槽があった。ここ二年間換えられたことのない水は、ぬるりとした真緑色をしていた。
ある日、金魚のぽちは、密林のように生息している藻の辺りを回遊していた。藻には、ご飯のミジンコが鈴なりに連なっている。一本の藻をぐるりと一周し、次の藻へ移ろうとしたとき、その藻から黒い出目金がニュッと額を突き出してきた。
「うわっ、なんですか」
「あなたの幸せを祈らせてください」
驚くぽちを無視して、彼はさっと黒い胸鰭をぽちの頭へ乗っけた。
「なにすんですか」
「あなたの幸せのために祈らせてください」
「どーして」
「あなたが幸せに成れるんですよ、いいじゃないですか。あなた、この現状に満足なさってますか」
「うっ」
確かにぽちは、この小汚く、酸素の薄い住処には閉口していた。ミジンコなどの微生物以外のご飯も、絶えて久しい。仲間が次々と死んで、ぶよぶよとした膜に覆われていくのを見ながら、明るい蛍光灯の下で、光が乱反射する水を、悠々と泳いでいた昔の頃を思い出すのだ。
「ほんとーに、幸せに成れるんですか」
ぽちが疑い深く聞くと、出目は思い入れたっぷりに頷いた。
「さよう、あなたも幸せになりたいと願い、わたしもあなたの幸せを願う。これで十分」
「じゃあ、お願いします」
ぽちは半ば疑心暗鬼で頭を下げた。出目の鰭がおでこに乗っかり、二匹は祈った。
★
そして、水槽の水は二年ぶりに換えられ、新しい酸素注入器が取り付けられた。水面からは、定期的にご飯がぱらぱらと降ってきた。鏡台の後ろから、窓辺のラベンダーの隣へと位置が移り、蛍光灯の光だけでなく、朝日や夕日、また月の光のなかで、水はきらきらと光っていた。
うっとりと、夢見心地で漂っていたぽちは、あの出目と再会した。
「ぽちさん、久しぶりです。どうです、幸せですか」
「ええ、恐ろしいくらい」
ぽちはゆったりとした口調で答え、くるりと一回転し、その肥った腹を出目に披露した。
「ほら、幸せがこぼれていきそうです。ああ、もったいない。もう、わたしはそのことだけで一日を過ごすのです。なにか、幸せがこぼれていかない方法はありませんかね」
ぽちが熱心に考えているので、出目も一緒になって考えた。二匹は鰭を組んでしばらく黙りあった。
「ああ、そうだ」
はじめに考えついたのは出目だった。
「なんです」
ぽちは目を輝かせて聞いた。
「こぼれそうだからいけないのです。こぼしてしまえばいいじゃないですか」
「それは、妙案だ。で、どうするんです」
「こうするんですよ」
がぷり、出目はぽちの腹の辺りにかみついた。溢れていた幸せがどんどん溶けだし、ぽちはうれしさに目を細めた。
「ああ、これはいい。どれ、出目さんにもやってあげましょう」
がぷり。
「ほんとうだ。これはよい」
がぷり。
がぷり。
がぷり、ぷり。
がっぷり、ぷり。
二匹の幸せはどんどん水槽のなかに満ちていき、とうとう、水槽自体が幸せになり、二匹はその中へ溶け込んだ。
ぽちはもう何の不幸もなかった。
ガプリ。
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