「桜世界」
著作者:BIRTH
私の死は津波のように怒涛のごとく迫っている。病室は皮肉に静まり返っている。つい先程、持って一週間と医師に宣告されたばかりなのだ。原因は老衰。逃れられるものではないし逃れるべきでもない事だ。頭では分かっている。分かっているのだが、やはり恐ろしい。そんな私の不安を察してか、妻が私の右の手を強く握ってくれた。
私は空いてる左の手でベッドの側の窓の取っ手に手を掛けた。歳老いた体には手を上げるだけでも仲々酷だったが、やれやれ、なんとか開ける事ができた。
窓の外から華々しい陽の輝きが私の肌を照らす。光彩を宿した私の肌を見て受けた感想は、若返ったかなという愉快な気持ちと、皺が目立つという冷めた気持ちの二つ。
私は妻の方を向く。
「若返ったみたいだろ?」
「そうですね」
妻の表情は哀れみを多量に含み、やけに私は寂しくなった。そしてつい、母を想った。寂しい時、辛い時、私はいつも母の姿がごく自然に脳裏に浮かぶ。この時もいつものように母を想い、日差しに眼を細ませながら窓の外の、遠くの遠く場所を見て、
「母さん・・・」
つい、母を想った。
そこには過去があった。
戦前の頃、私がまだ十歳の時に両親は世を去った。
(お父さんもお母さんも僕を置いてった・・・)
棺桶の残酷さ、白黒の笑顔の写真の虚しさ、忘れない。
私は葬式をすませると叔父に引き取られた。
叔父は子供好きで私を放って置けなかったと言っていた。
叔父の町は山奥の、今でも思い出すと欠伸が出て眠くなるような町に住んでいた。この町は東に葉神山、西に栃毬山、南に仙然山といった三つの山に囲まれている。私が最初に感じた印象。
(田舎町・・・)
東京者の私には少々合わないのんびりした所だった。
叔父の家に移って初日にして私はホ―ムシックにかかった。知らない町、知らない人、外人に誘拐されたような気分だった。だが叔父に心配は掛けられない。涙を飲み込み瞳の裏に隠すような毎日が、一週間程過ぎた。
夏らしい熱い日だった。その日の夜、限界は来た。私は布団から跳ね起き、叔父の家を飛び出し、米英達の町を駆けた。理性の吹き飛んだ私は頭が濃白になっていた。
「おかあさぁぁぁん!!!」
いるはずのない人を呼んだ。その人は帰らない。狂人のように駆けた。
ふと気が付くと、私は木々に囲まれた場所にいた。膝を崩しその場に座り込む。荒い息を何度も吐いてから涙を手の甲で拭った。改めて辺りを見回す。そこが山だという事は理解できたのだが、帰り道など覚えているはずも無く恐怖のあまりその場に泣き崩れた。
弱い子供だった。山で遊んだ事のない坊ちゃん育ちには、山は化け物の巣窟だったのである。左右に茂る木々の奥に何があるのか?考えるだけで背筋は冷え足が震えた。先程までの興奮は恐怖にすりかわっていく。少しづつ、少しづつ、少しづつ、少しづつ、少しづつ、少しづつそのとき左の方からがさっと物音がした。
「ひいいっ!!」
私は自然にあとずさっていた。そして地面に落ちていた木の枝に踵を引っかけて、山林を転がり落ちていった。どうやら傾斜だったようで勢いは強まる一方。子供だったので経験の無い危険に思わず、死んじゃうんだ、と思った。それなら僕は母さんの所に行ける、とも思った。
父の事を思わなかったのは仕方が無い。子供の性もあるがそれだけでなく時代の風習も影響していたと思う。私の時代の頃は、母親はいつも側にいて父は常に子供から距離があるような、母親は子供に優しく父親は頑なに我を通すようなかたちがあった。自然と子供は父に畏怖尊敬の念を抱き、母の慈愛に救いを求めた。必ずしも全ての家庭がそうだった訳ではないが、少なくとも私の家庭はそうだった。私は両親を尊敬していた。だが両親は逝った。尊敬する父も、そしていつ何時も側にいた母でさえも。子供の私としてはいつも側に、いて欲しかったのに彼らは逝った。
どれだけ回転した頃か、私は何かに強く背中をぶつけた。激痛が走り、思わず背中を押さえて海老反る。涙を流し、か細く呻く。苦しみに悶える私は理性を消失しており周りの異変を感ずるのに少しの時間を要した。
痛みがやっとの事で和らぎ意識と呼吸が落ち着いてくる。周りがみえてくる。理性が帰ってきた。
そして・・・突き付けられた異変にだらしなく口を開いた。
(桜の世界・・・)
地も空も、目に見えるもの全てが、ありとあらゆるものが、ただ花びらだった。そうそこは桜の花びらで構成される、正に異世界そのものだった。もう、なんといったらいいか、花びらが枝から舞うように落ちるとかそんなものじゃない。もうとっくに真夜中であるはずなのに微塵も暗くも無く、花びらの壁で光は遮断されているはずなのに電燈よりも明るく、ああとにかく、桜色の世界は凄かった!!
「凄い」
私は真上を見た。杉の木の五倍はありそうな巨大な桜は、その枝から桜を地面に流していた。花びらの滝を創っていた。
「こんな桜があるんだ・・・」
もう立ちすくんでそれを眺める事しかできなかった。
何分したか、桜世界は姿を消した。花びらの流れが止まったの壁がなくなったのであるある。そして闇が視界に現れた。私は何度か大きく息を吐き心を落ち着け、改めてその桜を見つめた。そしてその巨大さに驚くとともに幹に刻まれた無数の深い皺を見てこの木がいかに古きよりここに存在していて、しかも誰にも今まで気づかれ無かった事を奇妙に思った。それだけでなく闇に咲き乱れるこの桜は、闇という負と、桜という美がずれた空間を生み出しして柳のような異様でさめざめしい雰囲気を纏っていた。一時は感動こそしたものの、次第にその異常性にぞくっと恐怖を覚えた私はその花に背を向けた。
その時だ。甲高い音程で泣き声のような音が私を留めた。
(どこから聞こえるんだろう?)
それは桜の裏側から聞こえた。おそるおそる私は声の側に寄っていく。桜の幹を避けるように回り込んで見たものは、崖だった。岸壁と風が擦れ合う時に生じる音を私は聞いたのだ。下には川がありそこには相当の落差がある。水でも速度と高さがあれば衝撃で骨を折るし、ショック死という事もありうる。そして川に流されれば当然溺れ死ぬ。その頃の私にはそこまでは分からなかったが、感覚で死が身近にあった事を知り、へなへなと私は膝を崩した。
「あのまま転がってたら・・死んじゃってた・・・」
腰が抜けた。そのままはっと私は桜を振り返った。桜は黙って闇夜に花を散らす。私は沸き上がる不思議な感動に驚いた。
(心が、安らかだ)
両親の死から一度も安息を感じなかった私の心にぬくもりを感じた。
それと同時に母の死の際の事が脳を駆けた。念仏と、喪服の黒、忘れない。・・・私の私の両親・・私の両親だった・・問うても答えぬモノと化した二つの骸の事が今でもこの胸の中に!!!!張り詰めた静寂の残酷!!永遠に離れる事を夢にも思わなかった自分への慟哭!!人と違う、僕は他の子と違うんだ、他人には親がいる、でもぼくにはいないんだ!!寂しいよ苦しいよ虚空空虚誰か助けてよぉぉぉぉぉ!!!!!・・・・・ほらこんなに苦しくても誰もこない。
私の心はめちゃくちゃだった。思えば今死の床に伏して直私が死を恐がる理由はあの時のトラウマも一部を成しているのだろう。
両親が死んだあの日から一度も安息を感じなかった私の心に、私がその植物から受けた感覚は実に新鮮で懐かしかった。・・・ああよかったと、・・・・・ホッとした・・・・と。
(この桜は僕の命を大切にしてくれた、お母さんみたいに)
「幼心にその事実は響いた。ああこの花は私に優しくしてくれるって。その考えが大げさで常識はずれだとしても、異常な思い込みだとしても、私の傷だらけの心に優しく絆創膏を張ってくれた。あの桜の木は」
「お母さん、ですものね」
「ああ、私にとって養母みたいなものだからね。敬意と母欲を込めて」
いつしか仙然山の桜を母と呼ぶようになる。第二次世界大戦が勃発する。桜が六度咲く。「ゼイタクはテキ」。
私の周りも世界の気運も確実に動いていた。私は十歳の子供から十六の青年へと変っていた。あれから七度目の春、うららかな日々の事。
私は煙草屋の角を曲がり、山に続く道を駆ける。山道は途中から土が荒れ草木が道に割り込み傾斜も急になる。草や葉で切った箇所はすでに六つになった。手の甲の傷口から滲む血をとなめると再び歩を進める。その後少し歩いて、山林入り乱れる道の脇に私はゆっくりと足を踏み入れた。足を滑らし手で枝をかき分ける。がさがさ音を何度聞いた時か、違う音が聞こえてくる。谷風だ。
林を抜けた私は桜を眼に映して、息を吐いた。ふうう。
中学校を卒業した私は町の工場に就職していて、定休日には桜の下で過ごすのが私の日課になっていた。
「あれ?」
私は眼を疑った。桜の前に人がいる。人は幹や桜を交互に見て感嘆の息を漏らしている。(女・・・の子か)
背丈は普通より大きい方で、大体私の胸の位置ぐらいだった。私は当時百六十六だから、ええと、おそらく百五十・・・
「何センチだったっけ?初めて会った時」
「百五十一センチぐらいでしたよ。たしか」
百五十一センチ。顔までは詳しく分からなかった。ただ肩にかかる黒髪は漆のような艶があり、少し見とれた。またこの田舎には非常に珍しい和服に袴姿。きっとお嬢さんなのだろうと思った。桜の側をうろうろしているお嬢さんは一つため息を吐いて桜の根元に腰かけた。そして両肘を両膝に乗せ掌を頬に当てている。
(どうしようって顔だな。それは、僕の方だよ)
桜世界を味わう期間は三月半ばから終わりに駆けて。確実にその期間だけ咲くのがこの桜の不思議な所だ。他の桜の開花時期が遅くても必ずこの桜は期間中に咲く。
ただの桜なら私も一日ぐらい、と思うがこの桜は例外だ。期間が違う事もあるし私の思い入れも又他の桜とは違う。
(僕の母なんだぞ。腰かけないでくれ。ただの桜と一緒にしないでくれ。やめてくれやめてくれ・・・僕の、僕の母さんなんだ!!)
「やめてくれ!!」
ふいに声が出た。思考が私個人の人格を出し抜き口を動かし私に叫ばせた。いきなり人の声が、しかも怒気を含んだ大声で突き付けられたのだから当然彼女は驚き、「きゃああ!!」と甲高い声をあげて逃げた。彼女は混乱したせいか崖の方に走りだし端のほうで止まると崖を背に座り込んでしまった。
とりあえず私は桜の側まで歩き彼女の様子を伺った。
彼女は怯えた目つきで震えている。胸に手を当て必至に呼吸を整えようとしている。
とにかく私は声をかけた。
「驚かしてごめん。色々理由があって・・・」
聞いてるようには見えない。ただ怯えるばかりだ。
得意じゃないのだ。人を落ち着かせる事、人を慰める事、会話する事。それは私の人生のせいではなく単純に性格なのだが。私が彼女にできる事、それは眠てる間にさっさと逃げてもらう事だと思いさっそく私は幹を枕に眼を閉じた。もともとそれが目的だったのだし。
夢は桜。私はこの夢を桜の側で寝る時必ず見る。知らない女性を膝枕に桜を眺めるのだ。
知らない女性の事を私は知らない。私は知らないので勝手に予想をつける、というかつけている。これは母だと。そのまま何をしようともせず桜吹雪をただ眺めるだけ。それでこの夢は終わる。そして必ず顔を見忘れ後悔するのだった。
瞼を擦り欠伸を一つ出して、両手を空に向かって伸びをする。青い空は朱の空、登った太陽はすでに月と交替している。夕暮れの光を浴びだいだい色に濡れた、帰ったはずのお嬢さんが目の前にいた。怯えてる様子もなく正座をしながら私の側にいた。驚いて私は彼女の顔を見つめる。
「お目覚めですか?」
「なぜここにいる。逃げないのか?」
「寝顔が悪い人に見えなかったから」
沈黙が流れる。
「・・・・それだけ?」
「それだけ」
・・・・・・あっけに取られた・・・・
まあ今思えば彼女は良家の人間、しかも箱入りだったのだから、世の中を知らなくてても当然だ。騙された事のない人間は警戒心も微々たる物だ。・・・いままで優しかった親類が、いざ預かるとなったらいかにも「うちはだめ」みたいな汚い汚い汚い肥溜めの糞みたいな顔をする事実を知らない人間だ。皮肉な言い方だが間違ってるとは思わないしそれに、無知がかえってこの娘を美しく珍しくしているとも言える。透き通って底まで見える、海のような純真が白い肌から溢れていた。
それとなく話しをした。知らぬ間に両親の事を語っていた。町の人と肌が合わない事、東京者だったという事を話していた。そして今の母の事を喋ってしまっていた。全部話してしまった。私は母だけでなく他人にも飢えていたのかもしれない。でも彼女は真剣に話しを聞いてくれた。そして彼女も話してくれた。良家の娘だという事、父親が軍人のお偉方だという事、彼女もまた東京者でどうも町の人と馴染めず、そのことで悩んでいるといつのまにかここに来たという事。
彼女は、このまま行けば日本も危険だといち早く察した父親に田舎へ疎開させられたのだ。考察通りの展開だった事を考えれば彼女の父親は優れた人物だったのだろう。私も又彼女の話しを真剣に聞いた。そして私は彼女が自分に似た境遇であるように感じた。彼女となら話しが合う。同じ境遇、同じ歳、私の異質を理解してくれた。話し相手として申し分ない。彼女は再び桜で合う事を約束してくれた。
その日から沢山の日を彼女と過ごした。沢山の話しを語り合った。不満をぶちまける。秘密を喋る。そのうちに知らない事も知られない事も無くなった。互いの募る想いも、語らずとも感じていた。
真珠湾攻撃。日本は世界大戦という大渦に自ら望んで巻き込まれた。日本という国を強大にし、真の帝国に成る為に。国民も日本人が世界標準の民になる事を夢見たはずだ。それは日本の夢だった。当初は気運を日本が手に入れた。勝利に次ぐ勝利に国民は沸き返り、なお国に献身する。そんな世情だった。
十九の春。叔父はすでに出征し、家は独りでもっぱら桜で寝泊まりする日が続いた私。久々に家に帰ってみると、扉には赤紙が張り出されていた。つまり出征要請の通告書だった。私は赤紙を剥がすと、しわくちゃになるまで握り締めた。
(恐い・・・)
桜の季節、母の桜世界の到来。私はこの日を待ち焦がれ、酔い、次を楽しみに来年まで生きているといってもいい。だがこの日ばかりは暗い顔を引っさげて桜と桜の側にいる彼女へ会いに行った。
別れなければならない。
別れなければならない。
足取りが地面にくっついていた。何度も地面から足をはがしては、一歩一歩山に近付いていった。
林を抜けると、桜世界が視界一杯に広がる。その背景はすでに闇夜だった。
桜世界の本性は桜の幹を中心に形成された花びらの結界だ。花びらで外界からの視覚を奪う絶対不可視の桜壁は滝のように枝から怒涛の勢いで舞い下りる。とめどなく流れ落ちる花びらは例年通り今日が今年最後の日。
・・・壁を越えて私は幹へ向かった。
彼女は桜に腰かけ膝を抱えて座っていた。桜壁を見ながらぼおっとしている。私は衣服に付着した花びらを払って彼女の側に近付いていく。桜世界の中で展開する緩慢な空間の流れは不思議に苛立ちを覚えず、心の休息すら与えられる。だから彼女はぼおっとしている。この場所の異質さを感じる部分だ
眼前に手をかざして彼女はやっと私の存在に気付き慌てて振り向いた。
「あ、いたんですか」
「そりゃ酷い。今来たんだから無理もないけど」
私は苦笑を見せた。
「赤紙が来た。明後日にはもう町を立つ」
間を取らずすぐに話した。さすがにこれには顔色を変え、彼女は私を澄んだ黒眼で凝視した。しばらく静が空間を制した後、彼女は毅然な顔で口を開いた。
「私は絶対に日の丸の旗を振ってあなたを送り出したりしません。私はあなたが国の為に戦う事を喜んでないんです」
前々から彼女が言っていた事だ。彼女は父親の権威で「日本万歳教育」を受けていなかった。ゆえに彼女には国民から奪われた「一個の人間としての自分の考え」が残っているのだ。彼女は、人が人を殺す事に憎悪があった。
私自身も「日本万歳教育」を受けた一人だが、根が強制を嫌う性格だったし、それに私はこの町に越して来て自己の信念が強化されていたので、世論に流されず事を見極める感性が残っていた。
「・・・私が言いに来たのはな。・・・(君が好きだ・・・いや)・・・感謝の言葉だ」
「感謝?」
「君だけじゃなく母にも。・・楽しかった。(これも確かな気持ちだ)面白かった。幸せだった。それもこれも皆君と母のおかげだ」
掌を伸ばし指先をこめかみに合わす。背筋を伸ばし踵を合わせ直立姿勢を取った。敬礼。
「さよなら(そうだ、いまは、まだ・・・言えない)」
後ろを振り向き、私はゆっくりと歩き出す。
「私あなたのお母さんと待ってますから!!ずっと、例え何が起きたってここで待ってますから!!・・・迎えに、きて下さいね・・」
「ああ・・・絶対に」
ここで想いを伝えるよりも生還して伝えるのだ。私の眼は激しい決意で充血し真っ赤に染まった。私の出征を見送る皆は鬼々迫る私のこの眼を「戦地で玉砕する覚悟」と取ったのだろう、やけに高揚し、喝采し、国家を合唱する始末だった。
汽車が動き出す。窓を眺める。大勢の人いる。大勢の人が白と赤で構成された旗を腕が折れんばかりに振り回し叫ぶのだ。
「天皇万歳!!」「日本万歳!!」
お国の為に死ねと。狂気じみた顔で。
「私は生きた。君も生きた。母も生きた。私達は仙然山の母の下で再会した。母に見届けられながら私は君に告白した。私達は話し合いこの町に骨を埋める事を決めた。私は酒屋を営んで君と一生懸命働いて、母の部分の土地だけ購入して、それがつい最近」
「地主さんもよく承諾してくれたものですね」
「地主さんも私程ではないにしろ歳を取った人だったから。偉く真剣に話しを聞いてくれたからなあ。ありがたい事だ」
妻が頷く。温和な空気が部屋に漂うが、妻が顔を鬱に染めると一転して悲壮な空気で包まれた。
「・・・・・ねえあなた。あなた自身は・・・あとどれくらいだと思うんですか?」
「そうだな・・・・正直もう体力がもたないよ。後、一週間ぐらいかなあ・・・」
そう思うとなぜだか自然と笑顔が込み上げてきた。
「・・・お母さんのとこ行きましょう?私達が初めて会った場所」
「・・・そうだな」
病院を出てバスで仙然山駅で下車した。昔山の入り口付近にあった煙草屋も今は無く、その場所にはアパ―トが立っている。残ったのは看板ばかりだ。妻の話しではこの町にも空襲は来て、その時沢山の建物が焼けたらしい。町の地図はずいぶんと変わった。住宅が増えずいぶん娯楽施設もできた。始めて来た時はそれがなくて驚いたものだが、そんな田舎が都市化していくのを見ているとなぜだか妙に寂しくなるのだ。青年時代が私の人生の基盤だから、歳を食った今でさえそれは懐かしくなく、今でも眼をつぶるだけで新鮮に鮮烈に脳裏に蘇る。でも、今実際にその光景を眼を通して見る事は無い。
時を強く感じる。本当にこの町は、変わった。
「大丈夫ですか?」
「ああ、こ、これぐらい」
老体に登山は厳しい。棒を巧みに使い息を切らして這い上がる。山道は妻の手を借りながらなんとか登り、林は妻に支えられながら下る。額の汗が嗄れた肌を伝う。それを手拭いで拭く動作を繰り返しながら、駅からだいたい一時間程経過した頃、なんとか母を眼に映す事ができた。
夏は光輝く緑の桜。葉の一枚一枚が日光浴びて飛び跳ねたそうにうずうずしている。
「やあ、母さん」
自然と沸き出す嬉しい気持ちが私を微笑ませる。ここしばらく病院にいて会っていなかったのでこうして眼にするとほっとする。きっと私は安らかな顔をしていると思う。私は妻と一緒に桜の根に腰かけ、肺の底から空気を吐いた。
「疲れたぁ・・・」
「大丈夫ですか?」
「そんな訳はない。登る前から想像は付いていたことだが、もう山からは下りれないだろう」
妻は私に頭を下げた。
「無理に連れてきてしまってごめんなさい。でも」
「何か言いたい事があるんだろう?分かるよそれぐらい。長いんだから」
「察してもらえて助かります。色々と話したかったので」
「ここでだろ。老い先短いじじいに何を話そうというのだい?・・・おまえの容姿が十九から老いてない事についてか?・・・」
「・・・」
「地主さんも病院の看護婦も私の娘と思っていたもんな。
私が戦争から帰還して、想いを伝えるべく向かった仙然山には、出征した時と「変らぬまま」の母と彼女がいた。帰還当時私は二十二歳。同い年のはずの彼女はまだ幼さを含んでいた。その時の彼女はおどおどしながら私を見ていた。本人も自覚しているのだろう。私は意識的にその話題を避けた、というよりそんな事はどうでも良かった。被弾したり仲間を見捨てたりまでして日本に帰ろうとした理由がここにある。二本の指と引き替えに得た、私の大事な「家族」。私だけの「愛」。その時話したい事はそれだった。それの為に生き残ったのだ。
私ははっと意識が妻から飛んでいる事に気付いて、慌てて妻を見た。妻は私が昔の事を思っていた間、黙って待っていてくれた。病院でもそうだった。
私は妻に謝り、妻が「いいんですよ」と言った後、改めて妻は口を開いた。
「確かに私の体の事もあります。これから伝える事はその事も含めて全部です・・・」
彼女の表情が陰る。がそれを振り切るように頭を振って、まなざしを変えて私に言った。
「普通に病院に入させればあなたと七日は会えるのに、私がここに連れてきたのは、真実を知ってもらう為です」
彼女の眼は凛としていた。私は彼女が話す真実を真剣に聞く義務を感じた。だがそれと同時に私は体の急変にも気付いた。
(彼女の話しが終わるまでまでなんとか・・・)
腹にありったけの力を込め呼吸を止めて、少しでも迫るモノを伸ばすようにしむける。
妻は私の口が歪んでいる事に気付いたのか、私を手で包み込んだ。艶艶の髪が私の肩を隠す。聞きやすいように耳許で彼女は話してくれた。
「私はこの桜の花びら・・・なのです」
「!?」
その言葉は体に電気を走らせたがごとく私を震わせた。私はこの奇跡を起こせるのはこの桜しかないとずっと思っていたからである。
「あなたが出征してから私は毎日お母さんの様子見に行ってました。ある日私がお母さんの側に行こうとした時、空襲が突然襲い私は、爆風で飛んで、林の木にぶつかり、頭を打って、そのまま・・・死んだのです」
「・・・・・」
「私はあなたとの約束をどうしても果たしたかった。意識が遠のく中で生きる事を願っていた時、あなたのお母さん・・人の姿をしたこの桜が私の脳裏に映ったのです」
「人の姿をした・・・母と?」
「・・・あの時、」
「私は桜、何千年を生きたこの桜です。・・・時間がないの。率直に言うわ。あなたの体はもうだめなの。でも仮の体なら用意できる。私の花びらで作ったんだけど・・・使いたい?」
「桜というと・・お義母さん、ですか?」
「そ、かわいいあの子の為にもあなたを死なせたくないの。生きて二人で迎えましょう。じゃないとあの子の内側の傷の痛みで狂っちゃうわ。私には分かる」
「私もそう思います。彼は心を痛めてる」
「・・・体使う?不老不死になっちゃうけど」
「構いません。約束を守らなければ」
「迷わないの?・・・ふうん・・・ん、なかなか。うん。私もいい子を選んだねえ」
「・・・?選んだ?」
「覚えてない?まあいいや時間ないから。それは夢の中で又話すよ。さ、いくよ・・・」
私はつい、そんな事があるのか、と思ってしまった。母と呼んだのは自分からなのに。この矛盾は私に今までの自分の心を認めさせた。やはり私は張り裂けそうな弱い心を、植物を母と置き換え甘える事でごまかしていた。必至に己を騙そうとする様を冷たく見ている、もう一人の自分の存在を否定しながら。だが否定しても生き続けていたそれは今、確実に、しゅんと柔らかな音と共に消えていった。
私は妻の体を強く引き寄せるが、ああ、妻の選択に無限の感謝を送りたいのに、無限ゆえに適当な言葉も見つからないのが悔しい。結局私はただ泣きじゃくってばかりでいた。この年寄りには涙も鼻汁も止められやしない。妻は少し嬉しそうに笑って、そっと呟いた。
「お母さんは言いました。「あの子の最後の瞬間だけ体を返して欲しい。あの子の信じた母を、一度でも味わせたいから」って」
桜がざわりと大きく揺れた。
「え、それは・・・」
おまえは?体を返したら、おまえは・・・
「一人では逝かせませんから・・・」
その言葉と同時に彼女の皮膚から桜がぺりぺりとはがれていく。そして桜に吸い込まれていく。
「いつも先に逝かせてごめんな・・・戦時中の時も今も・・・」
「大丈夫ですよ。ちゃんと待ってますから」
私は少しづつ桜に吸い込まれていく妻に詫びた。そして言った。
「・・・人は何かを成す為に生まれてくる。孝博の場合は、時子に会う為だった」
「・・・時子は孝博に会う為に・・・」
時子は涙を一滴垂らした。その涙さえも、全て、全て桜に消えた。
「最後までありがとう」
時子を吸収した桜は緑の葉を落とし満開の桜に変っていた。その桜の幹からゆっくりと、桜色の光を闇夜に、知らぬ間に辺りを包む暗黒に照らしながら下りてきた。一糸まとわぬその女性は、地面にそっと足を着ける。そして歩き、私の眼の前に立った。
「孝博・・・」
「母さん・・?」
空間に少し溶けてる輪郭の線。私の母は優しい眼をしていた。優しい笑顔をくれた。そして私の頭を胸に寄せた。
私は泣きじゃくった。
「母さん、僕、僕・・・」
「いいのよ・・・お母さんはなんでもわかってる・・・。私と時子さんと三人で逝きましょう・・・」
「え?」
「母さんももう年なのよ。何千年も生きてきたから・・・。でも最後の最後に、まさか木が人間の子を持つなんてね」
「めいわくだった?」
「・・・全然。・・・・孝博・・・・そろそろね・・・・恐くない、恐くない」
母さんはぼくの頭を撫でてくれた。
「さあもうおやすみ・・・」
そして・・・ぼくは母の胸に包まれて眼を閉じた。
ああ、・・・歌声が・・聞こえ・る・よ・・・・・・・・・・
「ねんねん・・ころりよ・・・おころりよ・・ぼうやは・・良い子だ・・・ねんねしな・・・・・・・・・・・・・・・」
召された老人と白骨を抱え、幹の折れた巨大な老桜は、弛くなった地盤と共に谷底へ落ちていった。
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