「NO NAME」
著作者:Mars.



 誰か私を拾い上げて。
 ここから取り上げて。
 まるで捨て猫のように、震えて小さな声で泣いている。
 ただそれだけの私。
 逃げ出しもせず、諦めもせず、何も変えようともしない。
 そうして、ただ悲しくて、仕方がない。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

「この間、ライヴ行ったんだ。」
「そうだったんだ。気がつかなかった。」
「一番後ろで観てたから。」
「じゃあ無理だ。」
「そうね。」
 たとえ一番前にいたとしても、気がつくはずがない。
 一番近くにいても、気づかない。
 彼は、そういう人だった。
「偶然、学生時代の友達に会ったの。カノジョ連れでね、そのカノジョ、綺麗なの。」
「…おまえの方が、綺麗だろ。」
「見てもいないのに。」
「それでもきっとそうだ。」
「…ありがと。」
 彼はあまり嘘が得意ではなかったから。
 だから、彼女は彼が困ってしまうようなことは聞かない。
 たとえば、あのヒトのことだとか。
「今回DM出したのね。私のところにもきてたわ。」
「ああ、らしいね。かなり昔の資料引っ張り出して、手広く出しまくってたらしい、けど。」
「そのわりにはお客さんの入りは…だったけど?」
「うるさいな。おまえが来たからいいよ。」
「いいの?」
 彼と彼女の関係には、適当な肩書きがなかった。
 彼女にはわかっている。
 彼が、あのヒトを忘れられずに眉を寄せること。
 わかっていることは、わかっている。
 彼の傷、あのヒトへの想いと、彼女に対する態度、ある程度までの気持ち。
 彼女が彼にとって、どういう存在であれば彼が安心できるのか。
 ちゃんと、わかってる。
 でも、わかってる、の次に、それをどうしていいのかがわからない。
 その辺のバランスが、うまく取れなくて。
 彼女は彼の負担にはなりたくなかった。
 だから、とりあえず何も聞かない。
 何も確かめない。
 何も非難はしない。
 ただそれだけで、彼女は演じる。
「あの赤いワンピースを着ていったの。」
「あの、って…どの?見たかった。」
 いつもこんな風に、何の意味もない会話を重ねてゆく。
 彼は彼女の身体を求め、彼女は何も求めない。
 求めない代わりに、少しだけ悪い女になってみる。
 そうしないと、彼を罪悪感でいっぱいにしてしまうから。
 彼は優しいから、彼女を突き放せない。
 彼女は彼の傷を癒しているわけじゃない。
 一緒にいても、彼女は一緒にいる以上の存在にはなれなかった。
 彼はただ彼女と一緒にいたいだけで、それ以上には何もなかった。
「ラストの曲、素敵だったわ。」
「うん。あの曲、オレも気に入ってる。」
 だから、彼女は一人になると涙を流す。
 私は、いったい何なのだろう。
 彼にとって、何なのだろう。
 切なくて、仕方がない。
 胸が痛くて、仕方がない。
 悔しさは混じりもしないで、ただ悲しい。
 もういい、と思う。
 もうやめようと、何度も思う。
 こんなつらい想いはもういらないと。
 もういい、もうどうでもいい、どうしよう、どうしたらいい?
 そうしてけっきょく堂々巡り。
 彼が好きで、どうしても好きで、会いたい。
 会えばつらくなると知っているのに。
 彼を傷つけたくなくて、彼を包んであげたくて、彼を苦しめない程度に愛してあげたくて、見返りなんて求める余裕さえもないことを知っているのに。
 なのに、会いたいと震える。
 お願い。
「そろそろ、帰るね。」
「もう?」
「うん。もう。」

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

「そんな男、もうやめなよ。オレなら、君にそんな思いはさせない。」
「本当?」
 彼女は縋るような眼差しでその男を見つめた。
 だけど、縋ることなんてできはしない。
 彼は誰にも代われないから。
 彼女の恋はまるで夢。
 夢を見て、傷ついて、癒えて、そこには何もない、実体がない。
 久しぶりに煙草を吸う。
 煙草にも、もう何の意味もない。


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