「九十九里浜」
著作者:吉国瑞穂

 夏の午後、波打ち際で遊ぶ息子と妻の姿を眺めながら、俺は一人九十九里の浜辺に座っていた。ふと見上げると、10年前のあの日の様に雲一つない青空が広がっている。
 九十九里の海は俺にとって決して忘れられない場所だった。

「雄二さん?」

 聞き覚えのある声がした。
 由美子が立っていた。10年ぶりの思いがけない再会。

「……久しぶりね」

 そこには10年前と変わらない笑顔があった。

 由美子に初めて会ったのは大学1年の夏。サークル仲間と遊びにきたこの海で、俺は旅館のアルバイトをしていた由美子に一目惚れした。笑顔が可愛い由美子は、若い男たちの注目の的。
 俺は積極的に由美子に近づき、口説き落とした。2人とも海が好きで、九十九里は俺達の定番のデートコース。あの頃の俺は一流の建築家になることが夢で、由美子は旅行プランナーに憧れていた。すべてがバラ色に輝いていたあの頃、よくこの海で夜空の星を見上げながら、互いの夢を語り合ったものだ。
 やがて2人とも働き始め、希望の世界に入ったものの互いに夢と現実との違いを思い知らされた。仕事に追われ会う機会が減っていき、たまにあっても倦怠感が重く漂い、2人で会うことに新鮮さを感じなくなってた。
 そんな時、酒に酔った勢いで俺は会社の同僚である保子と一夜を共にしてしまった。それがきっかけで保子とも付き合い始めた俺。由美子には悪いと思ったが、彼女との何気ない会話が仕事に疲れた俺の心を和ませてくれた。
 でも、俺は由美子と別れるつもりはなかった。一番大事だったのは由美子だったが、俺は2人の女と付き合っているというスリルを楽しみたかった。

「久しぶりに九十九里浜に行きたい」

 あの日、仕事で疲れているという俺に由美子が珍しくわがままを言った。
 海水浴シーズン直前の海は、気の早いカップルたちで賑わっていた。
 彼らを見ながら由美子がぽつりと言った。

「私、ニューヨークに行くことにしたの」

 俺を捨てていくのか、俺は思わず言った。

「あなたには保子さんがいるじゃない」

 由美子は知っていたのだ。
 懸命に謝る俺に、由美子は言った。

「思い出の海で、あなたにお別れを言いたかったの」

 由美子は俺を捨てた。
 由美子を失って初めて、自分にとって彼女がどんなに大事な存在だったかを思い知った。
 その後何人かの女と付き合ったが、九十九里には連れて行かなかった。
 九十九里は俺にとって大切な場所だったから。

 あれから10年、子供にせがまれてこの海にきた。思い出の海は何事も無かったように俺を迎えてくれた。
 そして今、あの時と同じように由美子が隣に座っている。
 今どうしてるの?と聞く俺に、由美子は笑って言った。

「2人の子持ちのおばさんやってるわ」

 海辺で彼女を呼ぶ声がした。
 見ると、2人の幼子が俺達に手を振っている。

「……私ね、ここに来るの10年ぶりなんだ」

 そう言うと浜辺に向かってゆっくりと歩き出して行った。
 気が付くと、浜辺から妻と息子たちが上がってきていた。

「パパ、今の女の人知ってる人?」

 俺は、波打ち際で親子で戯れる由美子を見つめながら、妻の問いに答えた。

「ああ。遠い夏の思い出さ」


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