「異端―吸血鬼事件― Chapter1 朝の後/一日目」
著作者:依夢


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 目が覚めてここがどこだかわからない、なんてことは、ぼくに限って言えばよくある話で。
 だから見知らぬ天井が飛び込んでこようと、腹の上に誰かの頭と腕が乗っていようと、頭が二日酔いで鈍くても、昨晩の記憶が判然としていなくとも、特に慌てることはなかった。
 体を起して周りを見る。
 八畳ほどの部屋の真ん中に小さな炬燵。
 ぼくは、炬燵に両足を突っ込んで眠っていたようだ。体に掛かっていた毛布がずれ落ちていく。
 炬燵やそこらの絨毯の上に散乱する、ビールやチューハイの空き缶。ウィスキーらしき液体の入ったコップ。パックの焼酎。ワインの瓶。チップス。チーズ。イカ。マメ。ソーセージ。溶けきった元氷であるところの水。――こんなに飲んだっけ?
 室内に人は、ぼくを含めて五人。
「えっと……」
 つぶやいて、ぼくはゆっくりと昨晩の記憶を思い出そうとする。
 記憶は濃霧に覆われたように、曖昧に霞んだままだった。思い出せない。だが、その代わりにゆっくりと思考力が戻ってくる。
 入り口のドアに背中を預けて眠る黒服の巨体は、シュンだろう。ぼくの相棒。寡黙な幼馴染。シュンは起きている時でも黙ってじっと動かないので、その姿は背景に溶け込んだかのように自然だ。
 向かい側で眼鏡をかけたまま仰向けに倒れ、眠っているのはハクだ。ハクの寝姿なんて、初めて見た。何か、すごく違和感がある。普段は常にどこか超然としていて、機械のような印象を抱かせるハク。無防備に寝ている姿は似合わない――けど、どこか可愛らしく感じられた。
 ぼくと同じく、眠るハクを可愛らしく感じたのだろうか? ハクの右側に、抱きつくようにして眠っている少女がいる。うつ伏せに。よくうつ伏せで眠れる。苦しくないのだろうか? 見た感じ、普通に息をしているようだし、起きる気配もないし、きっと平気なのだろう。誰だろう? 斑のほとんどない、綺麗な茶髪。褐色の肌。たぶん、チコだ。ハクに好意を寄せている女の子は多いけれども、抱きつくことを許されている女性は、ぼくはチコと、あと一人しか知らない。
 ユウナ。一度も脱色したことがないという、綺麗な漆黒の黒髪。白すぎる透明な肌。なぜか彼女は、ぼくと同じ炬燵の辺に腰まで入れていて、同じ毛布を頭まで被っていたりする。ハクに抱きつく、チコと同じように、ぼくに抱きついて眠っている。小さな寝息。長い黒髪と、細い二つの腕が、ぼくの腹に掛かっている。
「あ……えっと?」
 なぜ、こうなっているのか、状況がわからず、戸惑いの声を漏らす。
「ん……う、ん……」
 ぼくが動いたためか、妙に色っぽい声を漏らし、ユウナが身動ぎする。
 しかし、反応はそれだけで、すぐに規則的な寝息を立て始める。
 なぜかほっとして、胸を撫で下ろす。
 なんだか、変な状況になっているぞ、と。ぼくはハクとチコに視線を向ける。
 線対称。炬燵を境にして、ほとんど同じような態勢。ぼくとハク。ユウナとチコ。鏡の向こうの、光景。
 いや、なんだこれは。
 ハクとチコならばともかく、ぼくとユウナはそんな関係じゃない。決して、ない。ありえないと言い換えてもいい。ならばどんな関係かと問われると、友人、友達、親友、その言葉の範囲内の関係であると、断言できる、はず。ひどく焦った気分でぼくは着衣を確かめて、乱れてはいるものの、昨晩のままのジーンズとシャツであることを確認して、ほっとする。ほっと、息を吐くと、何やってんだ、自分は、と、ひどくバカバカしい気分に襲われ、脱力する。
 脱力して、ふと目をやった部屋の隅のミニコンポのデジタル時刻表示はAM06:00。
「うわ、早っ」
 思わず漏らして、果たして昨日は何時に寝たのかと考えていると、次第に昨日の記憶が蘇ってきた。
 いつものように新天地町・湾岸第三公園に集まったぼくらは、満開になった桜の木の下で宴会を始めたのだった。
 始まりはぼくを除いたいつものメンバー四人、ハクとシュンとユウナとチコ。剣術の道場へ行ってて、ぼくが少し遅れてきた時には、まだそれほど公園に人気はなかった。だが、次第に湾岸第三公園を拠点としている他のチームも参加してきて、どこで噂を聞いてきたのか、近所のチームも集まってきて、結果、一〇〇人近い大宴会へと発展していったのだった。
 ……一〇〇人は少し大げさかもしれない。酔いも手伝って、数量感覚が麻痺していたのかも。けど、少なくとも、さして大きくもない公園に、普段の十倍近くもの人数が集まって騒いでいたことは確かだった。何だって、そんなに人が集まってしまったのか、今思えば少々不自然に思える。花見とはいっても、園内に桜の木は三本しかなかったし、それも大して見事なものでもなかった。少し歩けば隣町の京橋川沿いの土手に、それはそれは見事な桜並木があって、例年通りならば皆、そこに集まって宴会をするのだ。
 何とか理由らしいものを考えてみると、思い当たる節はある。ぼくらのチームのメンバーは、前述の五人だが、その中でもハクは、ここら一帯、素土夢の町中にあるロドレンのチームからかなり頻繁に相談ごとを持ちかけられている有名人だった。普段でもハクにご機嫌伺いの挨拶に来る者は多い。年に一度の花見ともなるとなおさらで、そもそもそれが鬱陶しいという理由で、わざわざ定例の宴会からは外れて、いつもの公園でささやかに楽しんでいた、はずだったのだ。それがどういうわけか、聞きつけてきた人が集まって、小さくもないが大きくもない公園。一気に膨れ上がった人口密度に圧されるはめになったのだった。
 誰も桜なんて見ていない。見る者はいない。
 滑り台をステージにして、歌ったり踊ったり、時には狭い空間でアクロバットなダンスを競い合ったりもしていて、見ていてなんだかひどく危なっかしい。飽きることだけはしないが。てんでばらばらに飲んだり食べたり騒いでいる間にも、ハクに挨拶に来る人間は途切れることもなく、それがまた、大変な混乱を生んでいた。
 さすがにうるさくなりすぎたってことで、ぼくらは避難することにして、コンビニで酒やつまみを補充しつつ、隣町の港湾町にあるユウナのマンションに転がり込んだのだ。
「……そっか、ユウナのマンションだ」
 思い出すと、ちゃんと記憶にある部屋だと気付く。
 学生の身分にしては破格な2Kの部屋。八畳の和室と、八畳半相当の洋室。風呂・トイレ別。エアコン、CATV、光通信インターネット完備。オートロック。駅から五分。徒歩十分の範囲に、コンビニ、銀行、郵便局、バス停、弁当屋、スーパーマーケット、リサイクルショップのすべてが揃っている。家賃は実際いくらなのか詳しくは知らないけれども、やはりそれなりに払ってはいるだろう、ユウナは、実はお嬢様。それも、ただのお嬢様ではなかったりする。実はフランス人。
 黒髪黒瞳、モンゴロイドの彼女は、一見したところ日本人にしか見えない。
 それもそのはず。彼女の両親は共に元日本人で、フランスに帰化して、今現在、向こうで暮らしている。
 そんなわけで、純粋な日本人の血を引きながら、ユウナは完全なるフランス人で、今、留学生として、日本の大学に経営学を学びに来ている。
 ……わざわざ日本に来てまで経営学を学ぶくらいなら、もっと他に良い所がいくらでもあるだろう、とは思うけれども、両親にとっての故郷である日本は、やはり何かしら思い入れがあるらしい。日本へ留学することは、ユウナの幼い頃からの両親の願いだったそうだ。ユウナ自身はずっと向こうで育ったこともあって、日本に対しての思い入れはほとんど皆無に近かった。しかし、両親の願いを受けて、ユウナは日本の片隅、光花市の大学へやってきて、それを両親も喜んだ。その結果がこのマンションと、日本円にして月額二〇万円に近い仕送りと、自動車一台。
「うちの親の日本に対する愛情の賜物ね」
 とユウナは淀みのない日本語で皮肉げに語った。
 愛する日本を捨て、フランスに帰化してまで彼女の両親が何をしているのかといえば、自家用車を作っているらしい。
 メーカーとか、工場で流れ作業によって作られる大量生産の車ではなくて、完全オーダーメイドで、個人向けの、世界に一つしかない車をデザイン、制作する、創造的な仕事なのだそうだ。何代か前の大統領の自家用車を作ったとかで、あっちではちょっとした有名人になっているらしい。よくわからない。確かにすごいことのように聞こえるが、それだけならば帰化までする必要はないように思える。だからなおのこと、表には出ない複雑な事情があるのだろうと思えた。
 ユウナの乗っている軽乗用車も、両親の手による作品。確かに淡いピンクの、流線型でシンプルなデザインの自動車は洋の東西を問わず、どのメーカーのカタログでも見たことのないものだった。
「……そうだ、思い出してきた」
 洋室は寝室兼勉強部屋だから、入ってはダメだといわれ、和室の炬燵にぼくとハク、ユウナとチコがそれぞれ向かう合うように座り、シュンはいつものように出入り口付近の壁に陣取って、小宴会を始めた。それぞれの学校のことやら、最近の街の情勢などを適当に話して、ネタが尽きた頃にユウナが自室から、両親が作っている車の「見本」カタログを持ってきて、広げた。確か、その時の時計は、〇時前。オーダーメイドって言うから、どんな変な車が出てくるのかと思えば、意外とまともな形をしていたこと。ぼくとチコの感想に、ハクが「そもそも車とは〜」と語り始めたり。その頃になるとさすがに皆、酔ってきて、支離滅裂になってくる。ぼくの記憶も非常に怪しい。何回かトイレに行った記憶もあるし、なぜか行かなかった記憶もあるような記憶もある。どっちなんだ? 何を飲んだのかもよく覚えていない。ビールを飲んだのは公園で、ユウナのマンションに来てからは焼酎ばかり飲んでたような気がする。ワインの空瓶があるけれども、ワインなんてあったっけ? ああ、そうだ。途中で酒が切れて「買いに行く〜♪」とやけに陽気にユウナが出て行って、無言でシュンが追って――たぶんワインはその時に補充されたのだろう。あれは何時のことだったか。あれ? 二人とも、いつ帰って来たっけ?
 ぼくは首をかしげて、腹の上で眠るユウナに視線を落とす。
 人の気も知らずに、何が可笑しいのか、実に幸せそうに表情をにやけさせて眠っている。
「……っつたく。こっちは朝から頭痛が抜けないってのに」
 ぼくがユウナ以上に飲んだということも、記憶が確かなら、ないはずである。それでもぼくが二日酔い気味に頭が痛く、ユウナが平和な表情をしているのは、ユウナの方がぼくより遥かにお酒に強いということなのだろう。
 ――少し、悔しかったり。
 よく考えてみればユウナが買い出しに出かけた時にはすでに、ぼくの記憶は怪しかったのだ。一方でユウナはちゃんと買い出しに行って、帰ってきている。その一件だけを見ても、ユウナのアルコールに対する耐性の高さは比較が可能だ。
 ともあれ、ユウナとシュンが出て行って、直後ぐらいにぼくの記憶は消滅している。寝たのだろう。三人で話している間中、ずっとチコがハクにしな垂れかかっていたような記憶はかすかに残っている。その後にユウナは寝ているぼくの脇に忍び込んできて、眠ったのだろう。買出しから帰ってきて……って。
 よく観察したら、中身の入っている空き缶が一つもないことに気づく。
 ってことは、ユウナたちが戻ってきてからも飲んでいたのだろうか?
 うわ、こいつら、一体何時に寝たんだ?
 少なくとも一時より前ってことはないだろう。毛布は誰がかけてくれたのだろうか?
 こんな殊勝なことをハクやチコ、ユウナがするようなこととは思えない。たぶん、シュンだ。感謝しよう。ぼくはシュンに対して、軽く頭を下げた。
 シュンは小さくうなずいて、言った。
「……気にするな。いつものことだ」
 めずらしい。シュンの声って久しぶりに聞いた。って、おぃ。
「起きてたのかよ」
 呆れて言うと、シュンはうなずいて、腕を組み直して、目を閉じた。
 それだけ。
 起きてるんなら、もうちょっとまともなコミュニケーション取ろうよ、とか思ったり思わなかったり、やっぱり思ったり。
 もっとも、シュンは昔からこんな調子なので、今さら指摘するのも詮無きことではあるのだけれども。
 しかし、この状況はどうにかしたい。胸の上のユウナを見て思う。
 起きたいのだが、ユウナを起してしまう恐れがあるので、あまり派手には動けない。実際、ユウナの存在を意識しすぎて、変に体に力を入れ、節々が微妙に痛くなってきていることだし。
 ……もう一度寝ようか?
 二度寝。
 と、思った瞬間に、トイレに行きたくなってしまった。
 やはり昨日は少し飲みすぎた。
 シュンに助けを求めるように視線を向けるが、目を閉じ、顔を伏せている。起きているのか、寝ているのか判別不能。
 ハクのことを「無防備が似合わない」とか、隙がないみたいに表現したけれども、本当に意味で隙がないのはシュンの方だ。
 寝ているのかと思っていたら起きていて、起きているのかと思ったら寝てるも同然で、隙がありそうでない。――いや、なさそうであるのか? とにかく、二日酔いに苦しんでいる様子はない。しかしシュンは、それほどアルコールに強い方ではないことを思い出す。超然としているように見せているのはただのポーズで、やせ我慢で、目を閉じてうつむいているのは二日酔いに苦しんでいることを悟られないようにしているのかもしれない。
 とにかく、シュンには頼れない。トイレに行きたい。
 意識すると、喩えようもない焦燥感が込み上げてきた。
 やばい。これは非常にやばい傾向だ。まさか、もらしたりはしないだろうが、一刻も早く、トイレに行かなければ。
 慎重に、まずユウナの右腕をつかむ。細く、柔らかい手。そーっと、ぼくの上から降ろす。床に置かれる右腕。よし、次は左腕だ。ゆっくりと上げようとした左腕は、だが、途中で何かに引っ掛かったようで動かなくなった。見てみるとユウナの右手はしっかりとぼくのシャツの裾を握り締めていた。
 しまった。この事態は予測していなかった。ただ単純に、刺激を与えないようにユウナの体を、接触しているぼくの上から除けば済む問題だとばかり思っていたのだ。だが、現実はより厳しく、複雑だった。接触なんて二次元の問題じゃない。接続という、三次元の、立体的な問題だ。次元の違う問題だった。ぼくは拳を作るユウナの手を半ば憎しみを込めて睨んだ。
 どうする? 指を一本一本ゆっくりとはがして行くか? しばし逡巡。
 とりあえず、先に頭を除けることにして、ぼくは慎重に体を起していく。左手でユウナの頭を支え、出来るだけ刺激を与えないように床に下ろす。同時に自分の姿勢も変え、腰を浮かせて、両足を炬燵から抜き、毛布がずり下がるのを自然に任せる。
 体から圧迫感が消えた。
 思わず息を吐く。しかしまだ油断は出来ない。最大の難関が残っている。ユウナの右手はまだしっかりとシャツを握り締めている。そっと離れれば自然に解けるんじゃないかと思って、ゆっくりと炬燵から離れていくが、シャツが伸びるだけ。どうしたらいいんだろう、まったく。
 嘆息。
 ぼくの思いつく限り、手段は二つ。
 ユウナの指を一本一本確実に、力ずくで剥がして行くか、シャツを脱ぐかだ。
 前者の力ずくの手段ならば、ユウナが目を覚ます可能性は高くなる。後者は寒いので出来ることならば遠慮したい。
 春先。意識すると、冷気が急に身にしみてきた。トイレに行きたい。
 しかし、力ずくはたぶん起きちゃうよなぁ。宝物か何かのように、異様なほどしっかりと握っちゃってるし。面倒だなぁ。だったら、シャツ脱ぐしかないかぁ。やだな。他に手段はないものか。ハクだったらいくつか他に手段を思いつくのかもしれないけれど。
 炬燵の向かいに視線をやると、二種類の視線と目がぶつかった。
 相変わらず知的な、知的を絵に描いたような、知的な存在感を示すハクの視線。
 好奇心に溢れた、楽しそうな、悪戯めいた、小悪魔的なチコの視線。
 チコは寝ていたときと同じように当然とハクに抱きついている。
 ぼくは一瞬困って、困惑して、状況に流されるように、とりあえず、朝起きて知人と出逢った時に行う常識的な言葉を、発した。
「……おはよう」
 ユウナを起さないように、声を抑えて言った言葉は、自分でも思った以上にかすかなものにしかならなかった。
「んー? 何してんの〜?」
 だからというわけでもないだろうが、呆気からんとしたチコの声はやけに大きく響いて聞こえ、ユウナに対するぼくの努力をぶち壊しにしてくれた。
「……うう……うんん……」
 可愛らしい声でうめき、ユウナは寝返りを打つ。ごろりと、半回転し、つられてぼくのシャツも伸びる。
 しかし、寝返りだけで起きる気配はなく、すぐさま安らかな寝息を立て始めた。
 しばらく様子を観察し、起きないと確信してからぼくは、ほっと息を吐き、ハクとチコを睨む。
「し……」
 小声で「静かにしてくれ」と言おうとすると、言葉を重ねるようにハクが、呆れたように言った。もちろん小声で。
「難儀してるな」
 いや、『難儀』って、今の若い子には通じませんよ、ハク様。
 しかしまあ、ぼくらはハクの時代めいた物言いにも慣れているわけでして。
「んー? あ、あぁ、ほんと、キョウ、大変そうね、相変わらず」
 ハクの言葉で状況に気付いたチコが、やや声を抑えて同情の眼差しを向けてくる。何が「相変わらず」なんだか、よく判らなかったりするのだけれども、とりあえず声量を抑えてくれたことには感謝しとく。感謝のついでに迷惑をかけようと、握り締められたユウナの手を指して、ぼくは問い掛けた。
「これ、どうにかならないかな?」
 主にハクに対しての質問。
 チコは軽く首を傾げただけだったが、ハクは小さく、だがしっかりとうなずいた。
「キョウの目的がユウナの手から開放されて自由に動けるようになることだと仮定すると……そうだな、方法はたくさんあるが、とりあえず今のところは実現可能と推定される手段として四つに絞れるな。どの手段も条件は高いがな」
 さすがはハクだ。ぼくは二つしか思い付かなかった。
 しかも、消去法で選択したらしい。カオスの中を手当たり次第に検索して、無理やりアイデアを探し出し、拾い上げるのがぼくの思考法だとしたら、カオスの中からノイズを消去していってアイデアを自然に浮かび上がらせるのがハクの思考法だ。誰にもできる方法じゃない。ぼくの観察では、世の中の人々は圧倒的に前者の思考で生きている。ハクは特別なのだ。異端と言っても良い。異端の能力の中で、平均的他者よりも有為に働く能力の持ち主を天才と呼ぶのだろう。本人に面と向かって言うことはないが、ぼくはハクのことを天才だと思っている。羨ましくも、何ともないが、ちょっとだけ、尊敬して良いとは思っていた。
「へぇ……どんな?」
 促すぼくの声から、感心の感情は隠しきれていなかったように思う。かすかな響きに気付いたのか気付いていないのか、ハクは表情も変えずに淡々と語った。
「シャツを脱ぐか、指を一本一本刺激しないように剥がしていくことだな」
 それこまではぼくの考えた事と同じだった。
「あとは、時間経過による自然の剥離を待つか……」
 ぼくの思い付かなかった一つ。けれども、急いでトイレに行きたい為、無意識に選択外へ置いた可能性だった。――いつの間にか、トイレに行くことを忘れている自分に気付く――が、すぐにハクの言葉が続いたために深く考えることは出来なかった。
「他には、そうだな、ユウナの腕を斬り落とすか、だな」
「なるほど、さすがはハク。その方法は思い付かなかったよ――っておいっ!」
 とんでもないことを言いやがった。
「斬り落としてどうするのよ?」
 文句が口から転がり落ちる寸前、呆れたようにチコが息を吐いた。おかげでぼくの文句は行き場を無くしてしまった。胸に溜まり込む、対ハク戦文句の山。呆れられてもハクは変わらぬポーカーフェイスで、真面目に言った。
「キョウの業なら、斬り落としてまたつなげることぐらい、出来るんじゃないのか?」
 ――それは、ぼくが剣術を学んでいることから来る言葉なんだろうけれども。斜めに向けられたハクの視線に妙に真剣なモノを感じて、
「できねーよ。まったく、これっぽっちも、そんな達人のような、伝説のような、超人のような真似は、断じてできない」
 力いっぱい、全力で否定してしまった。
 第一、刀もないし。包丁で斬れってか?
「そーよ、ハク、斬り落とすのはともかく、くっつけるなんて出来るわけないじゃん」
 チコもびっくりしたように言った。
「なんだ、できないのか。つまらん」
 おいおい。
 面白いかそうでないかで行動を決めるのか、この男は。
「……本当にできないのか?」
「できないってば。切り落とすのは、ともかくね。痛みなく気付かれないように斬り落とすことは、ひょっとすると出来るかもしれないけど、くっつけるには外科手術が必要」
 それでユウナの手がシャツから離れるって保証もないし。
「まあ、冗談はいいとして」
 冗談だったらしい。いや、本気で言われても困るけど。それにしたって、笑えない。
「キョウ、お前、どこまで出来るんだ?」
「は? 何が?」
「剣術」
 今一つ、要領を得ないハクの言葉。曖昧に対象をぼやかしているのは、何のためにそうしているのかは不明だけれども、たぶん、わざとだろうが。
「あ、あたしも聞きたかった!」
 チコが手を上げる。
「キョウちゃん、剣術やってるって言うけど、どれくらいの腕なの? 強いの? 瓦割れる?」
 瓦割りは空手だ。
「藁を斬る程度だよ。それ以上はまだ、試したことがない。瓦は、たぶん割れない」
 見栄を張る理由もなく、正直に答える。師匠が吊らされた牛を斬るところは何度か見たことはあるが、ぼくにはまだ、危険だと許されていない。刀ですら今のぼくには持て余し気味だというのに、包丁で斬り落とすなんて、考えることも出来なかった。
「なーんだ。たいしたことないのね」
 一刀両断。
 ……いや、別にいいけどさ。どうせ。本気で剣士になろうとか、思ってるわけじゃないし。
 自慢されようと思って、剣術やってるわけじゃないし。強くなりたいって思ってるわけじゃないし。
 ちょっとした、力制御の一手段としてしか学んでないし。
 どうせ暇つぶしレベルを出てないもん。
 いじいじ。
「あ、いじけたいじけた」
 実に楽しそうに笑われてしまった。いぢめっこだ。
「ふむ。では、ユウナの腕を斬り落とすことはできないか」
 ハク。まだ言うか。
「あーよかった」
 ユウナ。安堵のため息を吐く。そのキモチは判る、ような気がする。寝ている間に腕を切り落とされるなんて、冗談じゃない。
 ……って。
「……ユウナ。いつから起きてたの?」
 ぼくのシャツのそでを握ったまま、少し考える仕草をしてユウナは答えた。
「んーとね『朝から頭痛も抜けてないのに』……だったかな? その辺りから」
 いつだ、それは。記憶にない。
 眉間に皺を寄せた、ぼくの表情に気付いたのだろう。ユウナはにぱっと太陽のような笑みを見せて答えた。
「えっとね。シュンくんとキョウちゃんの会話の直前」
 ……おい。
「最初からじゃないかっ!」
 声を上げて文句を言うが、ユウナは一瞬きょとんとした表情になり、しかしすぐに満面に笑みを浮かべる。
「えへへ。キョウちゃ〜ん」
 ぎゅっと抱きついてくる。ぼくの胸に顔を埋めて。勝手に抱きついておきながら、ふと、不思議そうな表情になる。
「キョウちゃんって、着やせするタイプなのね」
 ……失礼な。
「起きてんなら、手を放してくれない?」
「ヤだ」
「トイレに行きたいんだけど?」
「仕方ないなぁ。わがままなんだから」
 しぶしぶといった感じでユウナは手を離す。「ありがとう」と投げやりに答えておいて、ぼくはトイレに向かう。
 向かおうとして、また障害ひとつ。ドアを背に、目を閉じているシュン。
「シュン。どいてくれない?」
 訊くが、反応しない。
 あれ?
 変だ。おかしい。ユウナならともかく、シュンがぼくの言うことを聞かないなんてありえない。
「……シュン?」
 不審に思って、耳を顔の傍に近づける。小さな、規則的なイビキが聞こえてくる。
「……二度寝かよ」
 ぼくはひどく疲れた気分になって、ため息をついてその場に座り込んだ。

 こんちくしょう。


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