人魚のミイラの由来
郷土史研究家 桑山省吾先生により解読 ここに人魚所有の来歴について記す
過ぎ去った明治十六年(1,883年)頃より、書画や骨董を互いに好むことから仲のよい友達となり、年を経、月を重ねる毎に親しみの情が深まり、大変親しくなった。 明治三十二年六月一日から気候変化のため、体の弱い老翁は、病気となり、常に医者にかかり治療を施したけれど、効果はない。明治三十二年六月十日、遂に床について私と対話中、老弱の老翁が言うには鈴木氏に今回の病気はどうしても全快するとおもわれない、長生きできないことは、残念で唯の夢にしか思われないが、君とこの世の寂しい別れを惜しむだけである。 また言うには君は越後に生まれ愚老の祖先は越後の領主輝虎、仏門に入った謙信公の家臣で姓を長尾という。理由が あって落ちぶれ、当村の平野村に住居を定めた。愚老はつまり謙信公の祖先から血筋をひいている。君との厚い交反を想いにずっと昔は血縁の者であるかも知れない。
日が過ぎる六月十二日対話をする。老翁が言うには鈴木氏に愚老も息を引き取ることも間近いと思う。ここに私が永年秘蔵していた人魚がこれである。今の世において長生きの動物はこの人魚が一番すぐれている。この世に生きているお前に死んだ後に残された品物として差し上げる。私が帰宅した後、老翁は早速妻の手により寄贈せられたものである。 |