| 次郎長の話しとゆかりの地 |
てなわけで、もともと富士山の風景や次郎長の話を交えながら地元をご案内するつもりでホームページに書き込みましたが、せっかく清水を訪ねたのだからちょっとでも次郎長を知っていただこうと思っているうちにだんだん(いや結構)熱が入って来てしまいました(笑)。一言掲示板も連動させておきますので御感想や御質問の場としても気軽にお使いくださいませ。

まず上の写真は僕のお店がある通り、通称「次郎長通り」です。昨日撮影した清水次郎長の菩提寺の梅蔭寺から東の海側にまっすぐ歩いてゆくとこの筋とぶつかります。南に右折すると左側角から二軒目に清水次郎長の生家がございます。(写真:逆光でわかりずらいですが、ヤマ長の屋号の家がそうです)次郎長生家から80mくらい奥左側に「魚初」はございます。 (1/27更新)
昨日ちょっぴり写っていた次郎長生家です。文政3年(1820年)にここ美濃輪で産声をあげました。次郎長の親は高木三右衛門という蒔船の船頭で4人兄弟の末っ子だった次郎長はものごころがつかないうちに同じ通りに面する甲田屋という三右衛門の妻の弟夫婦の経営する米屋に養子に出されました。高木家は長男の佐十郎が後を継ぎ、その子孫がこの『次郎長生家』を守っています。拝観料無料。次郎長関係の土産物がたくさんございます。朝10時から夕方5時まで。休刊日は毎水曜日(魚初といっしょだ!)。
(1/28更新)
右角のブルーの建物が魚初です。店頭と脇に何やら干物を干しているようですね。次郎長生家はこの通りを左に向かって80mほど行ったところに同じ向きで在ります。そして写真のやや左手の白壁の民家と茶色の壁の店の間あたりが次郎長が養子に出された米屋、甲田屋があったといわれる場所です。

次郎長の出生時の名前は高木長五郎だった。養子先の甲田屋の姓が山本。以後山本長五郎と名乗るわけだが、養父の名が次郎八(正確には治郎八)なので、次郎八さんところの長五郎ということで「次郎長」と呼ばれるようになった。実の父譲りの荒い気性で幼少の頃から手の付けられない暴れん坊だった次郎長は15才になると改心し店に精を出す。しかし、ある日旅の僧から「25才までの余命」と告げられてからは「ならば太く短く生きよう」と昔の悪癖が顔をだし、姉夫婦に店を譲って侠客の世界に身を投じて行くのでした。 (1/30更新)

魚初商店へ行く目印になっている筋向かいに立つ大きな赤鳥居をくぐり、参道を進むと右手に「美濃輪稲荷神社」がございます。幼少の頃の次郎長はここでよく相撲をとって遊んだそうです。(写真に桜が写ってますが、去年の春の写真です。あとちょっとするとこんな感じにまりますね)
1707年に稲荷信仰の厚かった松平美濃守柳沢吉保が清水湊に甲州廻米置場を設置した際にその土地に御勧請したのが始まり、約50年後、吉保の息子吉里が大和郡山に国替えとなった時に現住所に移されて来た。私の住む美濃輪町の氏神様です。元旦の初詣客も市内では一番。3月14、15、16日に年に一度の大祭が行われます。 (2/4更新)

遊侠の道に身を投じ三河や遠州で剣術と賽の目の旅を続けながらいつしか次郎長は駿府に舞い戻っていた。弘化2年(1845年)次郎長26才の時、甲州『津向(紬=つむぎ)の文吉』親分が駿州『和田島の田右衛門』親分に言い掛かりをつけ清水に迫っていた。和田島親分には世話になっていた次郎長は庵原川の北岸に陣取る津向一家に単身乗り込みことの真相を文吉に伝えると一戦交えること無くみごと喧嘩仲裁をはたした。侠客の世界で喧嘩の仲裁を成立させることができるのは貫禄のある親分が常識であった。いっぱしの侠客が立派に仲裁をはたしたことで次郎長はいちやく侠名人の仲間入りを果たし、その侠名を聞き各地から次郎長を慕って子分が集まり始めた。
写真は東名清水インター付近を流れる庵原川です。今日はちょっと足をのばし、東海道(現国道一号線)は江尻宿(清水)と興津宿の間くらいの所の庵原川橋までやってきました。おそらく次郎長が立ったであろうこの橋の上に立ち河川敷を望むが、この小さな川で「大げんか」というにはちょっと寂しい気もします(爆)。 (2/8更新)
左写真は江尻にある清水銀座から紺屋町を写したもの。この80mほどの通りの中心に庄屋があり、和田島の田右衛門は養子としてそこに住んでいたらしい。田右衛門は和田島の名主の息子で武芸に長じ、侠客の精神を鍛えてもらった次郎長は「和田島の親父さん」と慕っていたと云われています(江尻史)。
紺屋町に程遠く無いこの江尻宿内に問屋場があってそこに一代目おてふの兄「大熊親分」がいた。次郎長は大熊とはうまがあい、若い頃は江尻に頻繁に顔をだしていたようだ。
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和田島と津向の対立を謀ったのは和田島太左衛門の子分の三馬政だと見破っていた次郎長は江尻に戻り捕えようとするが逃げられ、おまけに町奉行所の役人に庵原川の出入りを密告される。これによって和田島一家は匹散され次郎長は箱根路を抜けて武州高萩の萬次郎をたよった。半年ばかり萬次郎のもとで厄介になっていると次郎長も知らぬ内に侠名は日増しに高まっていた。以前、剣術を学んだ吉良の武一の誘いで再び三河の地を転々としながらも翌年の弘化4年(1847)、清水に戻った次郎長は28歳の時、江尻問屋場の大熊の妹おてふ(おちょう)を娶り、清水の妙慶寺の門前に所帯を持ってついに一家を構えた。
一家には常に子分ら10人あまりが逗留、毎食一斗の米を炊き家計は苦しかった。また、蚊の出る時期には寺の境内にある杉の枝を切り「蚊いぶし」を代わり番にやったため、一夏で杉の木が丸坊主になったというエピソードも東海遊侠伝にかかれています。のちにこの木は「次郎長杉」と呼ばれたらしいですが、空襲で焼かれて現在はありません。
さて、「おてふ」との夫婦生活の間にも次郎長は幾度とない旅をくりかえすが、安政5年(1858)おてふの兄大熊が甲州の祐天一家との出入りで関東取締役人に追われる身になると、その手は妹おてふにもおよび、次郎長はおてふ、そして大政らの子分らを連れて三河そして尾張へと逃げのびた。そしてその旅先で最愛の妻おてふを病気で亡くすことになる。わずか12年の夫婦生活であった。このことを悲しみ悔やんだ次郎長は以後、生涯で2度再婚する相手の名を両者とも「おてふ」と名乗らせている。その後15年にわたり勢力を拡大しながら東海一の大親分にのし上がって行く次郎長の旅は始まった。 (2/10更新)

逃走の道中病に倒れた女房おてふと次郎長一行は名古屋の巾下の長兵衛親分をたよる。そのころ名古屋には、以前次郎長が世話をした保下太の久六が勢力を拡大しつつあった。しかし久六は、恩ある次郎長が身近で苦しい旅生活をしているのを知りながら見舞いに参じないどころか、「次郎長は巷で横行している押し込み強盗の張本人」と町奉行所に偽の密告をし窮地に追い込んだ。この件がもとで次郎長は恩人長兵衛を失い、「おてふ」を亡くした悲しみとあわせ久六への憎しみを胸に押さえ込み讃岐の金比羅に必殺祈願の旅にでる。そして安政6年(1859)知多半島亀崎(現半田市)にて久六を斬る。翌年清水に戻った次郎長は子分の石松に祈願達成の太刀の奉納の金比羅参りを命じる。金比羅代参をすませた帰路の大阪〜京都の船旅は「食いねぇ食いねぇ寿司食いねぇ...」の浪曲でも有名な場面。その後石松は、近江身受山の鎌太郎親分から預った見舞い銭を都田吉兵衛(都鳥)にだまし取られ無念の死を遂げる、、、とまぁそのへんの話ははしょることにしまして、、、。文久元年(1861)次郎長一家が河豚毒で倒れ弱っているという噂を聞き付けた都田一家が清水一家を潰すチャンスとばかりに乗り込んで来た。しかし既に正気だった次郎長は、清水湊まであと数里という追分の籠屋で前杯をあげている吉兵衛らを先回りして取り囲み仇敵を斬って石松の弔いを果たす。吉兵衛の亡骸は巴川向こうの砂浜に埋め、肩からした両腕を遠州に持ち運び石松の墓にそえたという。
保下太の久六や都田一家を始末したところで次郎長の勢力は遠州から三河えと拡大してゆく。同時にこのころから黒駒一家が甲州から出て来て幕末維新をむかえるまでの間、両者の血みどろの抗争は続くのだった。
※ 旧東海道江尻宿から西に3kmほど歩くと清水名物『追分羊羹』の本店があります。そこから70mくらい進んだ左側に都田吉兵衛を討った籠屋の跡として吉兵衛の供養塔が建ってます。供養塔を建てたのは追分羊かんの府川松太郎会長さんなのだそうです。
以上、天田愚庵の東海遊侠伝にもとずいて次郎長の博徒としての半生を急ぎ足でおってみました。次回からは第二部として、博徒をあらため一転地元清水湊に尽力した次郎長の残り半生をご案内いたします。 (2/13更新)

今回はちょっと補足の寄り道 次郎長伝記『東海遊侠伝』 について
左の表紙絵は、東海遊侠伝といいまして、天田五郎(天田愚庵)が書いた波乱にとんだ次郎長の半生の物語りです。漢文調で5万字にわたって書かれていて、皆さんが御存知の講談や浪曲はこの本が基になって創作されていったものです。
明治11年山岡鉄舟が、戊辰戦争で不明となった父母妹の行方を尋ね遍歴する天田五郎を次郎長に引き合わせます。五郎は次郎長の家に逗留し次郎長が諸国の親分に送った捜索願いからの吉報を待つかたわら、次郎長の任侠的性格ににほれこんでその年の秋から『東海遊侠伝』を執筆を開始し翌年12年春に完成させました。
サブタイトルは「一名次郎長物語り」。次郎長本人の回想録と子分達からの聞き取りを主におよそ4ヶ月の短期間でまとめあげたというもの。身内が語る性格上たぶん都合の悪いことは言ったり書いたりはしないだろうから(笑)全てが正しい記録とは言えにくいのであろうが、次郎長の前半生を語る唯一の伝記であるとともに、歴史の裏街道を歩く侠客の生活ぶりの一部を覗かせる資料としては稀で面白い作品といえるようだ。そして旅また旅の連続とその登場人物の多さが講釈にはうってつけの素材となり神田伯山の講談やつづく広沢虎造の浪花節などの創作をうみ「強きを挫き、弱きを助ける」度胸と腕っぷしでどんどん出世してゆく義理と人情の侠客の大親分のイメージが出来上がっていったのでした。それに続いた200本近い映画によってさらに装飾化された次郎長を増幅しまたたく間に日本中の人々に広がってゆきます。(2/22更新)
補足の寄り道 その2
民衆のヒーロー次郎長
その人気の浮き沈み
ここまで全国的に次郎長が有名になったのは、次郎長がすごかったというよりも伯山や虎造がすごかったというべきかもしれません。「清水」の名を全国的に有名にしたのは両氏の功績といってもけっして過言ではないと思います。
私も最近、虎造の次郎長ものを聞いてみたりするのですが、『遊侠伝』と比較するとこれがまた面白く、その創作の巧みさに感心いたします。そして話しを面白くしているのは次郎長本人ではなく実は子分衆なのだということにも気がつきます。
次郎長は天皇様社長様で一番偉い絶対的な人物。しかし手柄をたてたりドジをふんだり語りや映画のなかで活躍しているのは本当はその子分であり、民衆はそんな子分衆の中に(主役の)自分をダブらせて熱狂していたのかもしれませんね。虎造の浪曲でも、あの有名な森の石松の三十石船の話の中で「一番強いのは〜っ?」と江戸っ子の旅人にしつこく問いかける名場面などはまさにその真骨頂といえると思います。
しかし、講談や映画など劇場を沸せた時代からお茶の間のテレビに時代が変わったころから民衆のヒーロー次郎長は衰退しはじめます。同じ頃から暴力団抗争の問題が表面化してきたため、世論は次郎長を「やくざ」の地位に追い下げ正義の味方次郎長をかたることはタブーな時代がやって来ます。これも渡世の浮き沈み、時代に翻弄される次郎長像でしたが、清水の人たちは次郎長を決して捨ませんでした。次郎長の器は、物語りが語る渡世人の時代に築いた東海一の親分の地位でも、映画200本のかっこいい親分でもない。50才から74才の生涯を閉じるまで、清水にどっかり座り清水に尽力した姿こそまぎれも無い生身の次郎長の姿だということを知っていたからです。
講談、浪花節や映画の次郎長もかっこいい、しかし本当に素晴らしかったのは博徒から脱皮した次郎長のそのあとの生きざまだったという両面を知っているからこそ、清水の人たちは「次郎長さん」と親しみをこめて愛すのです。
※ 写真は毎年夏に行われる「清水みなと祭り」で披露される『次郎長道中踊り』の一コマ。お祭りの主役を演じるのはやっぱり次郎長一家です。
今回は「補足」といいながらついつい長くなってしまいましたが、次回から次郎長の後半生をつづりながらゆかりの地をご案内してゆきます。(2/27更新)
後編 次郎長の後半生(その1) 逆転人生の明治維新
荒神山(高神山:三重県)の縄張りをめぐり、黒駒勝蔵を後ろ楯にした安濃徳(あのうとく)と神戸の長吉との争いで長吉側について勝利をえた次郎長一家はその後の手打ちを含め伊勢を制圧し、伊豆の親分で勢力を持つ金平とも和解の盃を交わしたことで黒駒一家を完全にけちらした。もはや東海で次郎長をしのぐ親分はいない。しかし時代の節目とは面白いもので丁度その年に王政復古の大号令がとどろき、世の中の身分や価値が一転する歴史的大事変がやってきた。徳川幕府が倒れ駿府には新しい差配役がやって来る。浜松藩からやってきた新差配役の伏谷如水(ふせやじょすい)は、混乱や暴動する市中の治安を毒を持って毒を制す手法にて東海道を仕切る大親分次郎長を抜てきし、その人間性を理解した上でそれまでの次郎長の諸罪帳消しにし帯刀の所持をゆるした。国を売り、抗争に明け暮れ寝ぐらさえも定まらぬそれまでの「裏の人生」から次郎長は50を前にしてようやく「表の人生」をどうどうと歩くことを許された瞬間だったのです。この処遇に喜びを感じた次郎長は博徒をあらため市中の治安に全力を注いでゆきます。そしてその後更に彼の運命を決定付ける大事件「咸臨丸事件」に遭遇するのです。(2/27更新)
※ 写真は美濃輪町の南側の隣町内の松井町にある「松徳館」。そして右すみの石碑が「萬霊碑」という石碑。この道のど真ん中から美濃輪の方向へ150mほどの敷地(現清水小学校を含む土地)には江戸時代後期、幕府の大きな米蔵が六棟建っていたそうです。次郎長の役目は街道の治安ということもありましたが、おもにはホームグランドの清水湊の警固役。とりわけこの米蔵の警備が重要であったと伝えられています。
「萬霊碑」詳しい由縁はこちら。
後編 次郎長の後半生(その2) 咸臨丸事件
幕府の時代がおわり明治元年7月には徳川家が駿府藩70万石として存続することになり徳川家達につづいて将軍家に仕えた幕臣らも江戸より難民となって清水に移ってきていました。伏谷如水から湊の警固をあずかり正業の道を歩み始めていた次郎長は難民同様の移住者のために炊き出しや宿の世話などに奔走します。ちょうどそのころ徳川海軍奉公榎本武揚をはじめ徳川に恩顧ある家臣達は主家の滅亡を最後までうけいれず函館への脱走を企てて品川沖にありました。しかしいざ沖合いに出るやいなや激しい暴風雨に見舞われ船隊はちりじりに、そのうちの春山弁蔵が乗る咸臨丸もマストを破損し命かながら9月初旬に清水湊に入港いたしました。脱走者の処置について新政府は討伐を決定し官軍の軍艦が清水湊に入って来きました。悲劇はここから起こるのでした。戦闘能力をとうに失った咸臨丸の乗組員は白旗を掲げて戦意が無いことを表示しました。にもかかわらず官軍は咸臨丸を攻撃し春山以下7名を斬殺して海中に放置するという無益な事件が起ったのです。これが「咸臨丸事件」と呼ばれるものです。だ捕された咸臨丸は品川に引き戻され、やがて異臭が漂い始めても海中にただよう死骸はそのままでした。死体に触れれば賊軍の仲間とみなされるおふれが出ていたため、漁師も漁ができずほとほと困り果てていました。その姿を気の毒におもったのかあるいは徳川の戦死者を哀れに思ったか次郎長は子分や浜の住民を集め密かに遺体を回収し、向島(現築地町)に立つ松の根元に葬ったのでした。次郎長のこの行為に新政府に恭順する立場の駿府藩は困惑し、次郎長を喚問したが「賊軍の脱兵として敵とみなされ悪者だとするのも時の運、しかしそれは生きている時の話。死ねば皆仏(ほとけ)。仏に賊軍も官軍もなかろう。」と、反対に勝って威勢を張り死体を放置して村民に迷惑をかける官軍の行為を批難したという。次郎長の筋の通った答弁についに駿府藩からのおとがめはなかった。そして次郎長は盛大に非運の戦死者の供養をした。その後、次郎長のあっぱれな言動はとくに当時徳川慶喜の親衛隊であった新番組のあいだで話題となり隊長格の松岡萬(つもる)からこの話を聞かされた駿河藩幹事役だった山岡鉄舟は深く感銘し、この埋葬場に自ら揮毫し「壮士墓」を建てたのでした。以降、次郎長は山岡鉄舟と交友を深め多くの要人の知遇を得るに至り、地元に尽くす事業家としての人生に転化してゆくのでした。(3/5更新)
つづく
※ 写真は美濃輪(次郎長生家の真裏)と巴川を挟んで対岸にある向島(現築地町)に立つ「壮士墓」。墓碑および門に書かれた「生無一日歓(生きて一日の歓び無く)」と死有万世名(死して万世に名有り)」は山岡鉄舟の揮毫によるもの。毎年9月18日には地元町内の方々が中心となって盛大な供養がいとなまれる。