「スサノヲ神話でよむ日本人」 老松克博著 講談社選書メチエ 1999年
前回に続いて、ユング派の本を取り上げたい。著者はスイスでユング派分析家の資格を取ったが、西洋の文脈で発展してきている分析心理学を、日本人としてどう受けとめるかという問題意識を持ち、神話から日本人の集合的意識を読み取ろうと試みている。
前回の鈴木氏の本では、「永遠の少年」と浦島物語が取り上げられていたが、今回は、アマテラスとスサノヲを「元型的」日本人とみたてて、その両者の葛藤に注目している。以下、著者の要点を見てみよう。
まずアマテラスに象徴されているのは、自己愛的人格障害という傾向とされる。なぜなら、アマテラスが高天原の最高統治者である内的根拠がない。したがって、どうしてもアイデンティティの根拠を外部に求めてしまう。その結果、自信のなさを隠そうとナルシズムに陥り、他人からの賞賛を常に必要としてしまうか、逆に、それを諦めて引っ込んでしまうというのが自己愛的人格障害だからだ。その原因はしばしば、幼少期に親から見捨てられていると感じることにあるが、アマテラスの場合も母なくして生れており、しかも、その悲しみを隠し、ひたすら「良い子」として高天原を統治している。
一方スサノヲはというと、対照的にに母を求めて慟哭していて子供っぽい。しかも、その慟哭たるや半端でなく、天地が動揺するほどの発作的衝動的なものである。この症状を著者は、「てんかん的」と診断している。もちろんこれは単に否定的な意味だけではない。「てんかん」の発作によって、蓄積されていたエネルギーがすべて開放され、天地は一新されるという側面を持つ。
さらに、スサノヲはアマテラスに対して、「良い子」であることに疑義を投げかける。「見捨てられ」という事実を付きつけ、誇大妄想から現実に引き戻す。そして白日のもとにさらされた「見捨てられ感」は、スサノヲが自身の罪業として背負い、よみにまで持っていくのだ。著者はここにスサノヲの宗教性を見る。
このことは、アマテラスの観点からいえば、自分の安定を脅かす存在を、「お祓い」して済ませたということになるが、反面スサノヲによって持ち去られた罪業は、あの世で存在し続けており、これが「たたり」となって帰ってくる可能性がある。ここに今もスサノヲを無視できない理由がある。
以上のような神話の解釈からさらに、著者は「てんかん」そのものの考察へとすすみ、その宗教性が示唆される。またスサノヲ的な象徴のひとつとして、地震について論じられているが、前回の鈴木氏の本で、地震は太母的なもののひとつとして取り上げられているので、比較すると興味深い。
続いて著者は宮沢賢治など数名の人物を取り上げ、修羅の怒り、万人の願いを一身に引き受ける無媒介な受見の外向性、などという観点からてんかん的特徴を描写する。
そして最後に今日の、誇大感が限界に達し先の見えない日本人に、スサノヲ的なものを見なおす必要があるのではないかと著者は訴えている。
以上のような内容だが、さて、日本神話の分析心理学的解釈となると、非常に奥が深く難しい問題である。「象徴」が多義的なものである以上、様々な読み方があるのは当然だが、単なる感想文ではなく、ユングの「拡充法、増幅法」の観点からどうかということになると、専門外の私には何とも言えない。林道義氏の「ユング心理学と日本神話」には、そのあたりの学問的方法論について詳しく書かれてあるので、興味のある方は一読されたい。
いずれにしても、自己愛的なものとてんかん的なものとの関りという観点自体は面白い。太母との不健全な関係に留まっている「「永遠の少年」と、太母から見捨てられたと感じている、「自己愛者」と「てんかん者」、つくづく人の心というのは複雑なものだと思う。結局、子供は、親の豊かな愛情を受けた上で、そこから自立していかなければならないという、ある意味では単純な結論になるのかもしれない。
しかし、そのように理想どおりにいかないのが現実であろう。むしろ、上記のような「障害」を抱えているのが普通なのであって、問題はそれをいかに創造的に活かしていくかということである。著者は、その一側面としてスサノヲ的なものを取り上げているわけだが、それもユングのいわゆる個性化のひとつの形と言えるだろう。もちろん、個性化はあくまで個人のことではあるが、しばしば日本人の「欠点」とされる側面を、スサノヲ的という観点から肯定的に評価し、その上でひとりひとりの個人化の課題として捉えなおしていくというアプローチには興味深いものがある。
なおこの著者による、「漂泊する自我」という日本人の意識を論じた本もある。併読すると面白い。