年末の第9

年末になるとあちらこちらでベートーベンの第9が演奏される。実に奇妙な風習だが、今ではすっかり日本に定着してしまったらしい。

この「第9」、確かにハイドン、モーツアルトと続いてきた交響曲の歴史の中で、規模といい、合唱付きの終楽章といい、ひとつの特異な頂点を作っているものであることに間違いはない。後世に与えた影響も確かに大きい。

ただ、これがベートーベンの最高傑作かと言われると、やはり異論も多い。筆者としても、同じ大規模作品としては、ミサ・ソレムニスの方が完成度が高いように思われるし、晩年の弦楽四重奏曲のほうが、より独創的に感じられる。

それに対して第9は、第1楽章のソナタはすぐれているものの、展開部は彼にしてはやや単調な気もするし、終楽章も、あのオラトリオ風の導入も違和感を感じてしまう。シラーの詩も、単純に共感を呼べるものか疑問だし、行進曲冒頭のトライアングルも興ざめする。ただわけもわからず歓喜を叫ぶにしては複雑な曲だし、複雑な曲にしては粗野に感じる部分が多いのである。

しかし、そういったイメージを一旦わきに置いて、改めて交響曲として見なおしてみると、やはりベートーベンならではの高度な曲であることが分かる。

良く知られていることだが、この長大な曲は基本的には、たった2つの主題で構成されている。すなわち、第1楽章の第1主題は第2楽章の主題になっているし、そのなかの一部のモチーフからできた経過句(第1副主題)は、第2楽章のトリオの主題としても現われる。そしてこれが前後の倒置型で、終楽章の第1主題、すなわち例の歌の主題となるのである。

さらに第1楽章の第2主題は、反転型となって第3楽章の第1主題として登場する。(因みに第3楽章の第2主題は、同じ半音モチーフの変形である。) そして、これが少し形を変えて終楽章の第2主題として再現される。

したがって、終楽章の2つの主題が2重フーガとして同時に歌われるところは、単に終楽章のクライマックスというだけでなく、実に全4楽章を形作ってきた2つの主題が合体する、まさに全曲の頂点となっている。そして、言うまでもなく、この2つの主題は第1楽章のソナタのふたつの主題なのだから、この曲全体でソナタを拡大し、その中に他の要素をとりこみつつ、より高い次元で統合してしているとも言えるのである。

ソナタの2つの主題は伝統的に男性的要素と女性的要素(あくまでも象徴的な意味で)を表すことが多い。第9もその例にもれない。しかし通常ソナタ形式のなかでは、第1主題が優性で第2主題はオマケ程度が、2つの要素が単に並列されているか、あるいは若干ごちゃ混ぜになって展開されるすぎない。

しかし「第9」においては、この2つの主題は、第1楽章で終わらず、第1主題は第2楽章でさらに展開され、第2主題は第3楽章でされに展開され、第4楽章で両方とも再現し、ついに統合にいたるのである。これこそ、男性原理と女性原理の統合というきわめて高度な精神的次元の純音楽的表出であり、その精神的な統合の頂点が歓喜であるのは当然のことと言えるだろう。この喜びにあって、シラーの詩は単に花を添えるものに過ぎないと言ったら、シラーに失礼だろうか。

このような第9の高度な音楽技法を見ると、後に展開されるロマン派の交響曲によく見られる、単に冒頭の主題が何度も再現される循環技法なるものがいかにも単純に見えてしまう。やはり「第9」は、いろいろな欠点を持ちつつも、交響曲の代表に選ばれるにふさわしいものなのかもしれない。