読書ノート

「永遠の少年」はどう生きるか(鈴木龍/人文書院)


著者はユング派の医学博士で臨床家。テーマの永遠の少年とは、平たく言えば、いつまでも自立した大人になれず、そのため、しばしば社会にも適応できず、そのまま老いてしまう人のこと。少年というだけあって、男性に多いが、女性でも最近は増えているのではないだろうか。

ただし、ユングの流れの中で、必ずしも永遠の少年が否定的ばかりに捉えられているわけではなく、確かに一般常識からはずれていても、豊かな感性を持っていて、幸いそれを表現する才能に恵まれれば、芸術の花を咲かせることもある、ある種の人間を指している。とはいえ、そのような天分に恵まれるのは比較的稀であるし、実際に社会への不適応で悩んでいる人や、さらに深刻な問題へ進んでしまう場合もあるから、やはり、真剣に取り組むべき課題ではある。

そのような「永遠の少年」の姿を、著者は臨床家として実例をあげつつ、また「浦島物語」をその象徴として解釈しながら解き明かしていく。この浦島の話は日本人であればだれでも知っている話なので、なかなか興味深く読むことができた。

竜宮での滞在を太母的世界に安住している状態と解し、ふとそこから離れ現実世界に戻ってはみたものの、禁断の玉手箱をほとんど衝動的に開けてしまい、いわばイニシエーションを通過できず、大人になることなく老いて死んでしまう少年と見る。なかなか面白い。

問題はイニシエーション、つまり「見るなの禁」の内容と、それにどのように応じるべきかということだが、著者はここで、見てはならないものとされていたのは、母なるものの両義的性格、すなわちやさしく包み込んでくれる母なるものは同時に自分を食いつくしてしまう存在でもあるという事実であるとする。この根源的現実に目をつぶり、太母の肯定面だけに浸っているのが永遠の少年である。(これは同時に、自分自身も両義的存在、すなわち良い子であると同時に悪い子でもあるという事実に目をつむっていることも意味している。)

そうであるとするならば、「見るなの禁」はむしろ破られなければならない。ただ、浦島はその準備が出来ておらず、事実を直視してなお生き続けることができなかった。ちょうど、ガンの告知を受けて完全に絶望してしまう人のように。しかしそれは必然ではない、と著者は言う。人は玉手箱を開けてもなお老いず生き続けることが可能なのである。それがユング的に言えば個性化ということであろう。このハードルは高いが、「母なるもの」の不完全性が自覚されつつある現代にあって、避けて通ることのできないものであるという著者の主張には同感である。

ちなみに、この「母なるもの」との臨床的関りのなかで、私の前回の読書ノートでとりあげた長山氏の依存と自立の精神構造の主張が批判的に取り上げられている。すなわち、長山氏が、場所としての母の中にひとりでいることによって、対象としての母へのしがみつきから開放されていくと主張されている点について、鈴木氏は、それでは太母像の投影先が実際の母から場所に変わるだけで根本的な解決にならないと批判する。問題は、だれが母かではなく、母とはだれか、すなわちいかなる存在かということだからであろう。このあたり、元型の投影というユング心理学的な特徴があらわれていて興味深い。

いずれにしても、私にとって臨床の現場からの発言は大変示唆に富んでいて貴重である。今後の展開に期待したい。