金谷武洋著 講談社選書メチエ
著者はカナダのケベックでフランス語を母国語とする学生に日本語を教えている。その実地経験から、いわゆる学校文法を主流とする日本語の文法の問題点がどこにあるかを、一般の読者にわかりやすく語っている。
表題の、主語不用についての話の他にも、自動詞・他動詞への誤解など、興味深い内容が盛り込まれているが、特に主語をめぐる問題は大変わかりやすくおもしろかった。
日本語に主語はいらない、というより、文法上の主語なるものはない、という主張は、著者が言い出したことではなく、すでに他の言語学者によってなされていた。しかし、そのような歴史的な経緯は置いていくとして、その主張自体についての感想を述べたい。
一般に学校で教えられているところによれば、英語など他の言語と同様、日本語も主語と述語からなっており、仮に主語がしばしば省略されることはあっても、あくまで、文は主語を述語が限定(説明)するという構造をもっているということである。
しかし、ヨーロッパ語文法の先入観抜きに日本語を観察すれば、それは本当だろうかという当然の疑問がわく。「わたしはあなたを愛しています。」式の英語直訳日本語ならいざしらず、普通の文は述語が必要に応じて補語を伴ってできているというのは明らかであろう。
そのあたりの事情を著者は、ヨーロッパ語のクリスマスツリー型と日本語の盆栽型の比較という図式でわかりやすく解説する。図は実際に本で見ていただくしかないが、要するに、クリスマスツリー型では、主語を頂点として、その下に幹のように動詞、目的語などがぶらさがり、補語が末広がり型にくっついているのに対し、日本語では、述語という本体が下に置いてあり、その上に枝のように補語が広がっているという図式である。
この述語本位の形を土台にして、様々な助詞、すなわち「は」係助詞とその他の格助詞が補語を作っていく。動作や状態の主体をあらわすものも、主語ではなく、主格やその他の格助詞による補語として述語を限定する。このような説明は確かに実情に即しており説得力を持つ。
思えば、昔英会話の学習をしていたとき、何を言うにしても必ず主語から始めなければならないという点に、一番違和感とストレスを覚えていた。それは、単に言語構造そのものに対する違和感に留まらず、すべてのことにおいて主語を立て、その主語が一切を支配していく、その強引ともいえるやりかたに対して、反発すら感じていたと思う。
もちろん、そのような言語は、一旦習得してしまうと、ものごとを、バッサリ割り切って説明するには実に都合のいいものであることも分かってきた。そして、英語と日本語との間にある、あまりにも大きな溝のゆえに、日英両語の翻訳の難しさをイヤと言うほど痛感してきた。
いうまでもなく、これはどちらの言語がよりすぐれているという問題ではない。単なる違いに過ぎない。著者によると、主語を立てないという前提で日本語を教えれば、カナダ人も自然な日本語を話せるようになるという。日本語は別に神秘的な言語ではなく、論理構造がヨーロッパ語と異なるだけなのだから、その違いさえ明確にすれば教えることができるのは当然であろう。
ただ、主語のある言語を話す人に主語不用の言語を教えるのは、その逆よりはやさしいと思うのは、外国語音痴と呼ばれる日本人のひがみだろうか。
ところで、哲学では、主語論理と述語論理の対比ということが言われるが、これも、そもそも主語なるものがない日本語の立場から考えてみる必要もあろう。というのも、西田等日本の思想家が述語論理に関心が深いのは当然として、その時の術語というのが主語との対比で言われているところがどうもひっかかるのだ。主語に対する術語というのと、主語などない述語というのとでは自ずと違いがあるだろうからである。
いずれにしても、いろいろと考えさせられる興味深い本である。