読書ノート

2002年6月17日

「パウロの言語哲学」清水哲郎著 岩波書店

パウロの思想を、キリスト教教理の視点から解説するのではなく、あくまで言語哲学の方法で解釈していこうという、興味深い本である。

まず、通常キリストを信じる信仰という意味に解されている「キリストの信」を、キリストが持つ神に対する信と読むべきだという議論から始まり、言語ゲームによる「義」の解釈や、ソクラテスの話まで登場して、真面目な本なのであるが、なかなか読んでいて楽しい。

ここは、書評や本の解説ではないので、ただ一点だけ感想を述べたい。それは、前述の「キリストの信」についてである。私は言語哲学者ではないし、ギリシャ語文法の解釈に通じているわけでもないので、あくまで、一キリスト者の観点からの感想である。

「キリストの信」は、素直に読めば著者の言うとおり、「人がイエスを(神として)あるいは(メシアとして)信じる」ということではなく、「キリストの(所有する)信」のことであろう。「信」を神に対する信という意味に限定するなら当然のことだ。

屁理屈を言えば、人はイエスをメシアとして「告白」するには、まずイエスがメシアであると信じなければならないのだから、そういう意味では、人はイエスを信じるとも言えるが、ローマ書などの当該個所の意味はそういうことではないだろう。

贖罪の根拠は「イエスの信」、否「人間イエスの信行」である十字架である。しかもそれは、御父のみこころであるという意味で神の信行の現れでもある。(御父が十字架にかかったという意味ではない。)
そこに神への信の告白として自らの身を投じる人は義とされる。そのようにパウロの言説を私は理解するのだが、その意味ではこの本の著者の主張は頷ける。

むしろキリスト者にとって重要なのは、「キリストの信に拠る者」という、キリスト者のあリ方である。これはいったいどういう状態のことなのであろうか。キリストの信と同類の信を持つ人ということであろうか? あるいは、霊的にキリストと一体となるという意味なのだろうか? しかし、そのような問は、この「言語哲学」の本の守備範囲からやや外れているようなので、ここまでにしておこう。