デフレと聖書 その2
前回「デフレと聖書」というタイトルで雑談を載せてから、サボりにさぼってしまい、8ヶ月近くも経ってしまった。しかも、「つづく」などと書いておきながら。
関係無い話だが、8ヶ月たった今もデフレは進行しており、いっこうに改善される気配がない。聖書についての関心の方はどうだかわからないが、例のアメリカでのテロ事件以来、イスラムや中東への関心が高まってきているのは事実であろう。
それはさておき、簡単に「つづき」を書いておこう。
「有形」から「無形」が聖書のパターンであるなら、メシアの「有形」な再臨は、このパターンに逆行するのではないか、という疑問についてであった。
実は、キリストの再臨は、もちろん「有形」(すなわち肉体を持ったメシアの地上再臨)であるが、その時点で、今の「有形」−「無形」というパターンが変わってしまうのだ。すなわち、メシアの再臨は、死者の復活、いわゆる「栄化」の時でもあるということだ。「栄化」というのは、キリストにつながっている者が、キリストの復活体と同じかたちに変えられるということである。いうまでもなく、これは人が神になるということではない。復活した最初の「人」イェシュア(イエス)を頭とする、新しい「復活体」の人類が誕生するということである。
したがって、その時には、メシアはわれわれの主であるとともに長兄であり、「有形」の人間が、同じく「有形」の現人神を拝むというのとは異なるのである。あくまで神は「無形」であり、最後には「万物を従わせられた方」すなわちキリストも父なる神にご自身を従わせられると聖書にある通りである。これはけしてキリストが単なる人であり、神より劣るということを言っているのではない。そうではなく、「無形」である神がすべてであり、あくまで「有形」から「無形」へという方向を表しているのである。
ちなみに、この「無形」を端的に「無」と表現し、日本的で味わい深い神学を展開している本として、小池辰雄著作の「無の神学」(小池辰雄著作刊行会)という本がある。手に入りやすい本とは言えないかもしれないが、機会があればご一読をお勧めする。「無」の問題が、単なる神学や理屈ではなく人生のことだと感じられると思う。